守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
岸辺露伴は、いつものように席に座っていた。
テーブルの上には資料。
コーヒー。
メモ帳。
そして、その隣には泉京香がいる。
少なくとも、そう見えた。
「先生」
泉らしき女性が、資料を揃えながら言った。
「今日は取材ではなく、普通の打ち合わせですからね」
露伴はペンを回しながら答える。
「君はいつもそう言う」
「言わないと、先生がすぐ普通じゃない方へ行くからです」
「普通じゃない方にこそ、作品の種がある」
「そういうことを言うからです!」
やり取りは、かなり泉らしかった。
疲れたような声。
露伴を止めようとする言葉。
資料を整理する手つき。
だが、ほんの少しだけ、何かが違った。
泉にしては、焦り方が軽い。
胃の痛みが薄い。
露伴に振り回される切実さが、少し足りない。
もっとも、それをすぐに言語化できる者は、この場にはまだいなかった。
露伴は資料に目を落とす。
「で、六壁坂の件だが」
「先生!」
「何だ」
「だから今日は普通の打ち合わせですって!」
「普通の打ち合わせの中で、六壁坂の話をするだけだ」
「それは普通じゃありません!」
泉らしき女性は、ため息をついた。
そのため息も、かなり似ていた。
そこへ、桂木弥子がやってきた。
「あ、露伴センセ! 泉さん!」
偽泉は、少しほっとしたように微笑んだ。
「こんにちは、弥子ちゃん」
「こんにちは! 今日も打ち合わせですか?」
「ええ。普通の打ち合わせです」
弥子は首を傾げた。
「泉さん、今日ちょっと元気ですね」
偽泉の肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
「そ、そうかな?」
「うん。いつもより顔色いいかも」
露伴が顔を上げる。
「それは確かにそうだな」
偽泉は慌てて言った。
「私だって、調子のいい日くらいあります!」
弥子は納得した。
「それもそっか」
偽泉は胸をなで下ろす。
その瞬間、カフェの入口にレディオス・ソープが現れた。
今日は男性モードである。
ソープはテーブルに近づき、露伴、弥子、そして泉を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
気づいた。
だが、何も言わなかった。
むしろ、にこりと微笑む。
「やあ、泉さん」
偽泉は、少し緊張しながら返す。
「こんにちは、ソープさん」
ソープは席についた。
「今日は少し顔色がいいね」
偽泉が固まる。
弥子が言う。
「やっぱりそうですよね?」
ソープはさらりと言った。
「六壁坂を乗り越えて、少し強くなったんじゃないかな」
偽泉は即座に頷いた。
「そ、そうです! そうかもしれません!」
弥子は感心する。
「あー、なるほど! 六壁坂で鍛えられたんだ!」
露伴は少しだけソープを見る。
「……君、今のフォローは少し早かったな」
ソープは紅茶を注文しながら笑った。
「そう?」
露伴は目を細めた。
「何か知っているな」
「何も?」
「その“何も”は信用できない」
ソープは楽しそうに笑っただけだった。
そこへ、偽泉が小さく呟く。
「でも、私みたいな、何の変哲もない一般人に化けたところで……」
自分で言って、少し止まった。
弥子が首を傾げる。
「泉さん?」
偽泉は慌てて続けた。
「い、いえ! 私みたいな一般人は、先生たちに比べれば本当に普通ですから!」
弥子は力強く頷いた。
「それはそうかも」
露伴が言う。
「泉くんは一般人ではあるが、僕の担当編集としてはそこそこ異常な経験を積んでいる」
偽泉は困ったように笑う。
「褒めてます?」
「事実だ」
ソープは横でくすくす笑っている。
完全に楽しんでいた。
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やがて、カイエンも姿を見せた。
彼は席に近づくなり、泉らしき女性を見る。
「おや、今日は編集嬢もいるのか」
偽泉はぺこりと頭を下げた。
「お疲れ様です、カイエンさん」
カイエンは椅子に座りながら、少しだけ眉を寄せた。
「……今日は少し落ち着いているな」
偽泉の表情が固まる。
弥子がすかさず言う。
「六壁坂で強くなったらしいです!」
カイエンはソープを見る。
ソープはにこにこしている。
カイエンは嫌な予感を覚えた。
「ソープ」
「何?」
「君、何か知ってるな」
「知らないよ」
「その顔は、知ってる顔だ」
ソープは紅茶を飲む。
「カイエン、疑いすぎだよ」
「今までの流れで疑わない方が無理だろう」
偽泉は慌てて言った。
「あの、私は本当に泉です!」
その言い方が、少しだけ余計だった。
弥子が目を細める。
「本当にって、自分で言うの怪しいですね」
偽泉はさらに焦る。
「そ、そうかな?」
ソープがすかさずフォローした。
「最近は皆、Xiくんのせいで疑い深くなってるからね。泉さんも大変だ」
偽泉は大きく頷く。
「そうなんです!」
カイエンがソープをじっと見る。
「……おまえ、完全にフォローしてるな」
「気のせいだよ」
露伴はペンを走らせる。
「ソープ、偽物を庇っている可能性あり」
偽泉が悲鳴を上げる。
「偽物って決めつけないでください!」
ソープは笑いをこらえていた。
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露伴は偽泉へ視線を戻した。
「泉くん」
「はい?」
「僕の今日の予定を言ってみろ」
偽泉は一瞬詰まる。
「えっと……打ち合わせです」
「それだけか?」
「ええと……原稿確認と、次回作の相談と……」
露伴は黙っている。
偽泉は続ける。
「それから、できれば先生に無茶な取材をやめてもらうことです!」
弥子が拍手した。
「泉さんっぽい!」
カイエンも少し笑う。
「確かに」
露伴はまだ疑っている。
「では、僕が今から六壁坂へ再取材に行くと言ったら?」
偽泉は即答した。
「止めます!」
露伴は少しだけ頷いた。
「悪くない」
偽泉はほっとする。
しかし、露伴は続けた。
「だが、本物ならここで“絶対に止めます!”と少し声が裏返る」
偽泉が固まる。
弥子が「あー」と言った。
「分かるかも」
カイエンも頷く。
「編集嬢は、もう少し切実に止めるな」
ソープが、そこでまたフォローする。
「でも昨日よく眠れたのかもしれないよ」
偽泉がすぐ乗る。
「そうです! よく眠れたんです!」
カイエンがソープを睨む。
「ソープ」
「何?」
「楽しんでるだろ」
「少しだけ」
「認めたな」
ソープは肩をすくめた。
「だって、泉さんに化けるなんて面白いじゃないか」
その場が静まった。
偽泉が目を見開く。
弥子が叫ぶ。
「やっぱり偽物!?」
ソープはしまった、という顔をした。
「……あ」
カイエンが額に手を当てる。
「自分でバラすな」
偽泉は観念したようにため息をついた。
「もうちょっと遊びたかったんだけどなあ」
姿が揺れる。
泉京香の顔が崩れ、輪郭が変わり、そこに現れたのは怪物強盗Xiだった。
「やあ」
弥子が叫ぶ。
「Xi!!」
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その時、カフェテラスの外から、息を切らした声がした。
「先生! すみません、遅れました!」
本物の泉京香だった。
資料を抱え、小走りでやってくる。
そして、テーブルの前で固まった。
露伴。
弥子。
カイエン。
ソープ。
そして、自分の姿から戻ったばかりのXi。
泉はしばらく黙った。
それから、非常に疲れた声で言った。
「……今度は私ですか」
Xiは手を振る。
「こんにちは、本物の泉さん」
泉は額を押さえる。
「私……何の変哲もない一般人ですよ?!」
Xiは笑った。
「だから面白いんだよ」
「どこがですか!?」
Xiは指を立てた。
「露伴先生の隣に自然にいられる」
「資料に触れる」
「皆に疑われにくい」
「しかも、苦労人だから多少疲れてても不自然じゃない」
泉は言葉に詰まった。
「……分析が嫌に的確!」
露伴はメモを取る。
「編集者に化けることで、情報と人間関係の中心に自然に入り込む」
「非常に合理的だ」
泉が叫ぶ。
「先生、感心しないでください!」
弥子は本物泉を見て、ほっとした。
「やっぱり本物の泉さんは、疲れ方が違う!」
泉は複雑な顔をした。
「それ、喜んでいいの?」
カイエンが言う。
「本物感はあったぞ」
「疲れ方でですか!?」
ソープは笑っている。
本物泉がソープを見た。
「ソープさん」
「はい」
「気づいてましたよね?」
ソープは少しだけ目を逸らす。
「……最初からではないよ」
カイエンが即座に言う。
「嘘だな」
露伴も言う。
「嘘だな」
弥子も言う。
「嘘ですね」
泉が詰め寄る。
「気づいてたなら教えてくださいよ!」
ソープは、悪びれずに笑った。
「だって、どこまで泉さんを演じられるか見たかったんだ」
「私を観察実験に使わないでください!!」
カイエンが頷く。
「まったくだ」
ソープはカイエンを見る。
「カイエンも前にミラーで皆を混乱させてたよね」
カイエンは目を逸らした。
「話を変えるな」
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泉は、Xiをじっと見た。
「それで、私に化けて何か食べたり飲んだりしました?」
弥子がすぐ反応する。
「そこ大事!」
Xiは手を広げる。
「今日はアイスコーヒー一杯だけ」
泉は伝票を確認した。
「……本当ですね」
弥子が言う。
「払って!」
Xiは小銭を置いた。
「今回は払うよ。泉さんに化けて食い逃げしたら、編集部経費とか変なことになりそうだし」
泉は真顔で言った。
「本当にやめてください」
Xiは肩をすくめる。
「はいはい」
露伴は本物の泉を観察していた。
「なるほど」
泉が嫌な顔をする。
「先生、今度は何ですか」
「偽物と本物の違いが分かった」
「何ですか」
露伴は言った。
「本物の泉くんは、僕を止める時に疲労と責任感が混ざる」
「偽物は、止める演技を楽しんでいた」
Xiは笑う。
「さすが」
泉はため息をつく。
「そんな違い、嬉しくありません……」
弥子は言った。
「でも本物の泉さんって分かるの、なんか安心しますよ」
泉は少しだけ表情を緩めた。
「弥子ちゃん……」
「疲れ方が本物!」
「そこ!?」
カイエンが笑う。
「まあ、編集嬢らしいじゃないか」
泉は諦めたように言った。
「もうそれでいいです……」
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Xiは立ち上がった。
「じゃ、今日はこのへんで」
弥子が言う。
「また逃げる!」
「怪盗だからね」
露伴が言う。
「待て。編集者を装う心理について、まだ聞きたい」
「露伴先生に捕まると、取材されるから嫌だなあ」
泉が即座に言う。
「それ、私の普段の気持ちです」
Xiは笑った。
「でしょ? 今日はちょっと泉さんの気持ちが分かったよ」
泉は一瞬だけ止まった。
「……そうですか」
「うん。大変だね、露伴先生の担当って」
泉は少しだけ複雑な顔をした。
「そこだけは、分かってくれたんですね」
Xiは軽く手を振った。
「じゃあね。次はもっと自然に疲れてみせるよ」
「疲れを真似しなくていいです!」
Xiは人混みに紛れて消えた。
その背中を見送りながら、ソープが言った。
「今回は、なかなか良かったね」
泉が即座に返す。
「良くありません!」
ソープは笑った。
「でも、泉さんの大変さが少し伝わった」
露伴は当然のように言う。
「僕の担当編集なのだから、それくらい当然だ」
泉は露伴を見た。
「先生」
「何だ」
「普通は当然じゃないんです」
弥子は笑った。
カイエンも笑った。
ソープも楽しそうに笑っている。
露伴だけは、少し不満そうにコーヒーを飲んだ。
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本物の泉は、改めて席についた。
そして資料を広げる。
「では先生、打ち合わせを始めます」
露伴は言った。
「六壁坂の件だが」
「普通の打ち合わせです」
「普通の打ち合わせの中で――」
「普通の打ち合わせです」
露伴は少しだけ黙った。
カイエンが小声で言う。
「本物だな」
弥子も頷く。
「本物ですね」
ソープも笑う。
「うん。本物だ」
泉は資料をトントンと揃えた。
「皆さん、今の確認はいりません」
露伴はメモ帳を開き、一行書いた。
怪盗Xiは編集者を装った。
しかし、責任感までは装えなかった。
少し考えて、もう一行。
あと、ソープは共犯に近い。
ソープが覗き込む。
「ひどいなあ」
カイエンが即座に言った。
「事実だろう」
泉も言う。
「事実です」
弥子も元気よく言う。
「事実!」
ソープは肩をすくめた。
「分かったよ。次からはすぐ言う」
カイエンが言う。
「その返事が一番信用できない」
泉も頷いた。
「本当にそうです」
カフェテラスに、いつもの午後の風が吹いた。
偽物は去り、本物が残った。
本物の泉京香は、何の変哲もない一般人かもしれない。
だが、岸辺露伴の担当編集を続けている時点で、ただの一般人とは少し言いがたい。
少なくとも、この場の全員がそう思っていた。
本人だけが、それを認めたくなさそうだった。