守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
朝。
温泉旅館の朝食会場。
大きな窓から柔らかな朝日が差し込み、
湯気の立つ味噌汁の香り、焼き魚の匂い、食器の触れ合う音が静かに広がっている。
和洋のバイキング形式。
白米、お粥、焼き鮭、鯖の塩焼き、温泉卵、納豆、卵焼き、煮物、漬物、味噌汁。
さらにパン、スクランブルエッグ、ソーセージ、サラダ、ヨーグルト、フルーツまで揃っている。
いかにも「旅館の朝」だった。
――ただし、一人を除いて。
「……おはようございます」
キラ・ヤマトが、やや遠慮がちに言った。
テーブルについたカイエンが、
片手でこめかみを押さえたまま、低く返す。
「……おはよう」
声が少し低い。
いや、いつも低いが、今日は湿度のある低さだった。
キラがじっと見る。
「……大丈夫ですか?」
カイエンはゆっくり顔を上げた。
浴衣ではなく、くつろいだ朝の格好。
だがいつもの余裕が、ほんの少しだけ薄い。
「ぼかぁ厄介事は苦手なんだが……」
そこで一拍。
「朝が、少々うるさいな」
キラは確信した。
「あっ、これ二日酔いだ」
「大声を出すな」
カイエン。
「まだそんな大声じゃないですよ!?」
向かいでは承太郎がすでに焼き魚と味噌汁を静かに食べていた。
一切ぶれない。
朝でも通常運転である。
そしてネウロは、湯気の立つ味噌汁を見ながら愉快そうに言った。
「ククク……
昨夜はずいぶんご機嫌だったではないか、スケベ子爵」
カイエンの眉がぴくりと動く。
「朝からその呼び方をするな」
「女性客の視線を浴びつつ酒を飲み、歌い、満足げに戻っていた男の顔を吾輩は見たぞ」
「見なくていいところをよく見てるな、君は」
キラが小声で言う。
「だから飲みすぎはまずいって……」
「飲みすぎてはいない」
カイエン。
「少々、旅館の空気と酒の相性が良すぎただけだ」
承太郎が味噌汁を飲んでから一言。
「それを飲みすぎって言うんだろ」
キラが目を丸くする。
「承太郎、朝からちゃんと会話するんだ……」
「必要最低限だ」
承太郎。
ネウロが笑う。
「必要十分でもあるな」
取りに行く者たち
キラが立ち上がる。
「とりあえず何か取ってきますね。
カイエンさんはどうします?」
「……今はコーヒーだけでいい」
「朝食会場に来てコーヒーだけって、だいぶ来てますね……」
「うるさい」
「すみません」
キラが慌てて去る。
こういう時、怒っているのではなく、純粋に頭に響いているのだと分かる。
だから余計に気の毒だった。
承太郎も席を立つ。
必要なものを必要なだけ取る動き。
無駄がない。
朝食バイキングでもまったく迷わない。
ネウロは立ち上がる前に、カイエンを見てにたりとした。
「吾輩が特製の一皿を見繕ってやってもよいぞ」
「やめろ」
カイエン。
「朝から魔界基準の善意はいらん」
「心外だな」
ネウロ。
「二日酔いには刺激と塩分と脂をぶつけてこそ、己の愚かさを理解できる」
「理解ではなく悪化だろそれは!」
と、遠くからキラの声が飛んできた。
ネウロがくつくつ笑う。
「相変わらず耳がいいな、キラ・ヤマト」
「おまえが相変わらずろくでもないんだよ!」
朝食の皿
数分後。
キラが戻ってきた。
トレイには、実にバランスのいい朝食が載っている。
焼き鮭
卵焼き
少量の煮物
ごはん
味噌汁
サラダ
ヨーグルト
いかにもキラらしい、真面目で整った構成だ。
「普通に取ってきました」
ネウロがその皿を見て言う。
「つまらんな」
「朝食に何を求めてるの!?」
承太郎も戻る。
こちらはもっと簡潔だ。
焼き魚
白米
味噌汁
漬物
卵
「うわ、承太郎はブレないな……」
キラ。
「飯だ」
承太郎。
「飯だけど!」
そこへネウロも戻る。
その皿を見た瞬間、
キラは顔をしかめた。
「うわっ」
「何だその反応は」
ネウロ。
皿の上には、
カレー
温泉卵
ソーセージ
サラダ
ヨーグルト
オレンジ
クロワッサン
納豆
が、妙に攻撃的な配置で並んでいた。
「組み合わせが怖いんだよ!」
キラ。
「なんでカレーの横にヨーグルトがあって、その横に納豆があるの!?」
「比較だ」
ネウロ。
「朝という時間帯における人間の味覚の許容量を測る」
「自分の胃袋で実験しないで!」
そして最後に、
承太郎がコーヒーだけのカイエンを見た。
無言で立ち上がる。
「え?」
キラ。
数分後、承太郎が持ってきたのは、
小さめの皿に載ったごく控えめな朝食だった。
お粥
梅干し
だし巻き卵ひと切れ
味噌汁
それを、カイエンの前に置く。
カイエンがゆっくり目を向けた。
「……なんだ、これは」
「食えそうなもんだけ選んだ」
承太郎。
キラが目を見開く。
「やさしい!!」
「うるせぇ」
承太郎。
ネウロは不満げだ。
「甘いな。
ここはあえて揚げ物を盛るべきだろう」
「だからおまえは黙ってて!」
キラ。
「承太郎、ありがとうございます」
「礼はそいつに言え」
承太郎はカイエンを顎で示した。
カイエンは少しだけ目を細めた。
「……借りにしておくよ、不良」
「返さなくていい」
承太郎。
この人、朝に強い。
食べられるか問題
カイエンはしばらく、お粥を見ていた。
キラが気遣うように言う。
「無理なら無理しなくていいですけど……」
「いや」
カイエンは匙を取った。
「ここまでされて手をつけんのも、男がすたる」
「その言い回しはちょっと元気出てきた証拠ですね」
キラ。
「そうかい?」
カイエンは少しだけ笑った。
「じゃあ、まだ致命傷じゃないな」
「二日酔いを被弾みたいに言わないでください」
一口。
少し間。
「……悪くない」
承太郎は何も言わず、また魚を食べている。
だがたぶん、ちゃんと様子を見ている。
ネウロが味噌汁をすすりながら言う。
「ククク……
人間とは面白いな。夜は酒で高揚し、朝は粥と梅干しで贖罪する」
キラが即答する。
「贖罪じゃなくて回復だよ」
「似たようなものだ」
ネウロ。
「似てない!」
カイエンはお粥をもう一口食べて、ふっと息をついた。
「……しかし」
キラが身構える。
「なんですか」
「ここにアウクソーがいたら、
たぶんもっと上手くやるんだろうな」
キラが一瞬、言葉を失う。
承太郎は無言。
ネウロだけが目を細めた。
「ほう」
カイエンは、自分でも少し意外そうに続けた。
「いや、別に今のが悪いと言ってるわけじゃない。
ただ……こういう時、あいつは加減がうまい」
キラがやわらかく笑う。
「そういう人なんですね」
「ああ」
カイエン。
「余計なことは言わず、必要なものだけ出してくる」
ネウロがにやりとする。
「つまり、おまえも不在の相方を惜しんでいるわけだ」
「朝から話を広げるな」
カイエン。
「でも、ちょっと分かります」
キラが言った。
「僕も、なんだかんだラクスがいたら違うんだろうなって思いますし」
承太郎が茶を飲みながら言う。
「依存しすぎるのもどうかと思うがな」
「承太郎はそういうの、あんまり変わらなさそうだよね」
キラ。
「変わらねぇ」
承太郎。
「即答だ」
ネウロが笑う。
「ククク……
この不良だけ、単独運用に最適化されているな」
「褒めてねぇだろ」
承太郎。
旅館の朝らしいひととき
少しずつ、
会話も食事も落ち着いてきた。
窓の外には朝の山並み。
会場のあちこちでは、宿泊客が静かに朝食を楽しんでいる。
ようやく、ほんの少しだけ、
この四人にも“穏やかな旅館の朝”が訪れた――
かに見えた。
そのとき、
ネウロがバイキング台のほうを見て言った。
「ほう」
キラの箸が止まる。
「……今度はなに」
「プリンが補充された」
「だから何!?」
「先ほどより三割ほど量が多い。
厨房の者、学習したな」
「学習って何を!?」
ネウロが立ち上がる。
「確認してくる」
「朝食会場で確認って言い方やめて!」
だがその直後、
別のテーブルの子どもが、
プリンを取ろうとしてトングを落とした。
ネウロより先に、
承太郎が立ち上がる。
すっと近づき、無言で拾って渡す。
子どもがぽかんとしたあと、
「ありがとう」と言う。
承太郎は短く頷いて戻ってきた。
キラが目を丸くする。
「……やさしい」
「普通だ」
承太郎。
ネウロがつまらなそうに鼻を鳴らす。
「その程度で株を上げるな」
「おまえはまず下げる行動をやめて!」
キラ。
カイエンはそのやりとりを見て、
少しだけ口元を緩めた。
「やれやれ……
朝からずいぶん賑やかだ」
キラが言う。
「元気になってきました?」
「少しな」
カイエンはコーヒーを飲む。
「粥と梅干し、案外効く」
「よかった」
キラ。
「じゃあ今日は、少しはのんびり――」
ネウロが席に戻りながら、にたりと笑う。
「どうかな」
キラが天を仰ぐ。
「その台詞、もう聞きたくないよ……!」
旅館の朝は、まだ終わらない。