守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

83 / 176
灯台を出た一行は、しばらく誰も大きな声を出さなかった。

港町の午後は、相変わらず穏やかだった。

防波堤には釣り人がいて、港には漁船が揺れていて、海鳥が空を横切っている。
まるで、さっき灯台の中で起きたことなど、最初からなかったかのようだった。

だが、弥子は自分の腕を少し強く握っていた。
泉も、まだ顔色が戻りきっていない。

キラが二人に声をかける。

「本当に怪我はない?」

弥子は頷いた。

「うん。承太郎さんが引っ張ってくれたから」

承太郎は短く言う。

「間に合っただけだ」

泉も、少し震える声で言った。

「私も……カイエンさんがいなかったら、階段から落ちていたかもしれません」

カイエンは軽く肩をすくめる。

「落ちる前に掴んだ。それだけだよ」

アウクソーは静かに二人の様子を見ていた。

「念のため、旅館で少しお休みください。体に異常がなくとも、精神的な負荷は残ります」

ラクスも柔らかく頷いた。

「温かいお茶をいただいて、少し落ち着きましょう」

弥子は、そこまで聞いてから、ふと顔を上げた。

「……夕食、何時だっけ?」

泉が目を丸くする。

「弥子ちゃん?」

弥子は真剣だった。

「怖かった。めちゃくちゃ怖かった」
「でも、お腹は空く!」

ネウロが笑う。

「ククク……怪異に落とされかけても食欲を失わぬか」
「貴様の胃袋だけは、実に頑丈だな」

弥子は胸を張った。

「そういうのは日常を取り戻すって言うの!」

露伴が少し目を細めた。

「いいな」

泉がすかさず言う。

「先生、今のも記録するんですか?」

「する」

「でしょうね!」

露伴はメモ帳に短く書いた。

怪異に遭っても腹は減る。
それは恐怖への敗北ではなく、生活の再起動である。

弥子は首を傾げた。

「なんか難しいこと書いてる?」

カイエンが笑う。

「つまり、夕飯が楽しみってことだろ」

「そう!」

キラは少しだけ安心したように笑った。

「それなら、戻ろう」


岸辺露伴は潮騒を聞く その6

旅館へ戻ると、仲居が温かいお茶を出してくれた。

 

ロビーの大きな窓からは、夕方へ向かう海が見える。

昼間よりも光が柔らかくなり、波の色も少しだけ深くなっていた。

 

泉は湯呑みを両手で持ち、深く息を吐く。

 

「普通のお茶……ありがたい……」

 

弥子も同じように湯呑みを持つ。

 

「普通の床……普通の階段……最高……」

 

承太郎は黙って座っている。

カイエンは窓の外の防波堤を眺めていたが、アウクソーに一瞥されて視線を戻した。

 

「分かってるよ。今日は釣らない」

 

アウクソーは静かに頷いた。

 

「お願いいたします」

 

ソープは少し楽しそうに言う。

 

「明日の朝に延期だね」

 

カイエンは軽く笑った。

 

「釣れればな」

 

ネウロが言う。

 

「ククク……魚が寄りつかぬ防波堤というのも、また味がある」

 

カイエンはネウロを見る。

 

「今のは聞かなかったことにする」

 

露伴は窓の外を見ていた。

 

「灯台で聞こえた声は、“戻れ”と“帰るな”だった」

「だが、どちらも同じ音から生まれていた」

 

泉がすぐ言う。

 

「先生、夕食前はその話禁止です」

 

「なぜだ」

 

「食欲が変な方向に行くからです!」

 

弥子が力強く頷く。

 

「そう! 今は舟盛りのことだけ考えたい!」

 

ネウロが口元を歪める。

 

「貴様の思考は単純でよいな」

 

「うるさい!」

 

ラクスは静かに微笑んだ。

 

「今は、それでよいのだと思いますわ」

 

キラも頷く。

 

「うん。まずは休もう」

 

______________________________

 

十八時半。

 

一行は、旅館の食事処に案内された。

 

畳の大広間ではなく、人数に合わせた個室の食事処だった。

窓の外には、夕闇に沈み始めた海が見える。

 

そして、テーブルの上には――

 

舟盛り。

 

弥子の目が輝いた。

 

「来た……!」

 

皿の上には、マグロ、鯛、イカ、甘エビ、ホタテ、サザエ。

氷の上で美しく盛られた刺身が、まるで小さな港のように並んでいる。

 

さらに焼き魚。

煮付け。

茶碗蒸し。

小鉢。

味噌汁。

炊き込みご飯。

 

昼にかなり我慢した弥子にとっては、報酬そのものだった。

 

弥子は両手を合わせる。

 

「いただきます!!」

 

キラは会計表を見ながらも、少し笑っていた。

 

「これは旅館の基本プラン内だから、大丈夫」

 

弥子が振り向く。

 

「本当!?」

 

「うん。追加料理を頼まなければ」

 

弥子は目を逸らした。

 

「……追加料理」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「弥子様」

 

「頼まない! まだ頼まない!」

 

泉が笑う。

 

「まだ、なんだ」

 

カイエンは刺身を一切れ取り、軽く醤油につける。

 

「うまいな」

 

ソープも頷いた。

 

「鮮度がいいね。さっきの市場食堂とも少し違う」

 

露伴は料理を見ながら言う。

 

「港町の食卓は、土地そのものだな」

 

泉が警戒する。

 

「先生、料理は料理として味わってください」

 

「味わっているから記録している」

 

承太郎は黙って刺身を食べた。

 

弥子が聞く。

 

「承太郎さん、どうですか?」

 

承太郎は短く言う。

 

「うまい」

 

露伴がメモする。

 

「空条承太郎、本日二度目の最大級評価」

 

「書くな」

 

「もう書いた」

 

______________________________

 

 

ネウロは舟盛りを見ながら、楽しそうに笑っていた。

 

「ククク……人間界の舟盛りは、舟に死肉を並べるのか」

 

泉が箸を止める。

 

「言い方ァ!!」

 

弥子が怒る。

 

「美味しく食べてる時に死肉って言うな!」

 

ネウロは平然としている。

 

「魔界の舟盛りは、舟の方が食うぞ」

 

キラが真顔で聞く。

 

「舟が?」

 

「そうだ。箸を伸ばした者の指先から味見する」

 

弥子が叫ぶ。

 

「舟盛りが客を食べるな!!」

 

カイエンが乗りかけた。

 

「ジョーカー太陽星団の舟盛りは――」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「マスター」

 

カイエンは箸を止めた。

 

「……何でもない」

 

ソープが笑った。

 

「止められたね」

 

カイエンは不満そうに刺身を食べる。

 

「少しくらい言わせろ」

 

アウクソーは一礼する。

 

「夕食中の不穏な食文化比較は、お控えください」

 

泉が感動した。

 

「アウクソーさん、助かります……!」

 

弥子は刺身を口に運び、満面の笑みを浮かべた。

 

「うん! 普通の舟盛り、最高!!」

 

ラクスも穏やかに言う。

 

「本当に美味しいですわ」

 

キラはその様子を見て、ようやく肩の力を抜いた。

 

「昼に我慢したぶん、弥子ちゃんも嬉しそうだね」

 

弥子は頷く。

 

「報われた!」

 

ネウロが言う。

 

「食欲に報酬制度を導入するな」

 

「いいじゃん!」

 

______________________________

 

食事が進むにつれて、部屋の空気は少しずつ柔らかくなっていった。

 

泉の顔色も戻ってきた。

弥子も、もう震えていない。

 

キラはそれを見て安心したように言う。

 

「よかった。二人とも落ち着いてきたみたいで」

 

泉は苦笑した。

 

「灯台の時は、本当に怖かったですけど……」

「こうして温かいご飯を食べていると、少し戻ってきますね」

 

弥子は力強く言った。

 

「ご飯は偉大!」

 

露伴はメモを取る。

 

「怪異の後、食事が人間を日常へ戻す」

 

泉が言う。

 

「先生、それは記録していいです」

 

露伴は少しだけ目を上げた。

 

「珍しいな」

 

「今回は、ちょっと分かるので」

 

弥子は笑った。

 

「怖かったけど、お腹空いたし、ご飯美味しいし」

「それでいいんだと思う」

 

ラクスは静かに頷いた。

 

「ええ。恐怖だけで一日を終わらせないことは、とても大切ですわ」

 

承太郎は小さく言った。

 

「生きて帰ったなら、飯は食っとけ」

 

その言葉は短かったが、重かった。

 

カイエンも頷く。

 

「その通りだな」

 

ソープは窓の外の海を見た。

 

「海は、いろんなものを持っていくけれど」

「こうして戻ってきた人間は、食べて、眠って、また朝を迎える」

 

ネウロが笑う。

 

「ククク……人間どもは実にしぶとい」

 

弥子はネウロを睨む。

 

「それ、褒めてる?」

 

「吾輩が褒めると思うか?」

 

「思わないけど、今のは褒めてた!」

 

ネウロは答えず、舟盛りの刺身を一切れつまんだ。

 

「味は悪くない」

 

弥子が驚く。

 

「ネウロが普通のご飯を評価した!」

 

「味が悪くないと言っただけだ。吾輩の腹を満たすものではない」

 

露伴が言う。

 

「謎は前菜だったんだろう?」

 

ネウロは笑った。

 

「そうだ」

「灯台の声は前菜だ。潮の底には、まだ主菜が沈んでいる」

 

泉が箸を止める。

 

「先生、今の拾わないでください」

 

露伴はもう書いていた。

 

「遅い」

 

「先生!」

 

______________________________

 

夕食の後半。

 

弥子は、追加料理に手を伸ばしそうになっては、何度も自分を止めた。

 

「夕食、基本プラン内……」

「追加は危険……」

「でも、この煮付け美味しい……」

 

キラがそっと言った。

 

「弥子ちゃん、今日はかなり頑張ってるから」

「デザート一品くらいなら、予備費内でいけるよ」

 

弥子の顔が輝いた。

 

「本当!?」

 

アウクソーが会計表を確認する。

 

「昼食時の抑制が効いております」

「夕食後のデザート一品であれば、予備費内です」

 

弥子は両手を上げた。

 

「やったー!!」

 

泉が笑う。

 

「昼に頑張ったご褒美だね」

 

ラクスも微笑む。

 

「よかったですわね」

 

ネウロが言う。

 

「餌付けだな」

 

「ご褒美!!」

 

ソープはデザート欄を見る。

 

「地元牛乳プリンがあるね」

 

キラが即座に言う。

 

「ソープさんの分は個人負担です」

 

「分かってるよ」

 

カイエンは笑った。

 

「反応が速いな、会計准将」

 

キラは諦めたように言った。

 

「もう否定しきれない気がしてきました……」

 

弥子は地元牛乳プリンを注文した。

 

一口食べた瞬間、目を閉じる。

 

「……勝った」

 

泉が聞く。

 

「何に?」

 

「怖かった今日に!」

 

その言葉に、少しだけ全員が黙った。

 

それから、キラが静かに笑う。

 

「うん。今日は勝ったね」

 

弥子は満足そうにプリンを食べた。

 

怪異に遭った。

落ちかけた。

閉じ込められた。

怖かった。

 

でも、今は旅館の食卓にいる。

海の幸を食べている。

プリンも美味しい。

 

それは、たしかに勝利だった。

 

______________________________

 

夕食を終えた頃、外はすっかり暗くなっていた。

 

窓の向こうの海は黒く、港の明かりがちらちらと揺れている。

 

潮騒は、昼より少しだけ低く聞こえた。

 

泉はお茶を飲みながら言う。

 

「今日はもう、何も起きませんように……」

 

カイエンは苦笑する。

 

「フラグっぽいな」

 

「言わないでください!」

 

アウクソーは予定表を確認する。

 

「この後は、各自部屋で休憩。入浴は混雑状況を見て順番に。明朝、マスターの釣りは安全確認後に実施予定です」

 

カイエンは少しだけ嬉しそうにする。

 

「まだ予定には入ってるんだな」

 

「はい。ただし、状況次第です」

 

「分かってるよ」

 

承太郎は立ち上がる。

 

「今日は早めに休め」

 

弥子が頷く。

 

「そうします!」

 

ネウロが言う。

 

「貴様が夜食を買いに売店へ行かねばな」

 

弥子がぎくっとする。

 

キラが即座に見る。

 

「弥子ちゃん」

 

「行かない! 今日は行かない!」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「売店は二十一時までです」

 

弥子が揺らいだ。

 

「言わないでください!」

 

泉が笑ってしまった。

 

露伴は窓の外の海を見ている。

 

灯台で聞いた声。

食堂の写真のぼやけた漁師。

螺旋階段に巻かれた潮騒。

そして、ネウロが言った「主菜」。

 

露伴はメモ帳を閉じた。

 

「明日の朝、海を見る必要があるな」

 

泉が即座に言う。

 

「先生、まず寝てください」

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

その返事はやはり信用できなかった。

 

だが、今は食後の穏やかな時間だった。

 

弥子がプリンの余韻に浸り、キラが会計表を閉じ、ラクスが静かにお茶を飲み、カイエンが明朝の防波堤を思い、ソープが塩スイーツの予定を考え、承太郎が黙って立ち、アウクソーが全員の状態を確認する。

 

そしてネウロだけが、窓の外の黒い海を見て笑った。

 

「ククク……」

 

弥子が睨む。

 

「今度は何?」

 

ネウロは答えた。

 

「いや」

「よく熟していると思っただけだ」

 

泉が小さく悲鳴を上げた。

 

「何がですか!?」

 

ネウロはもう答えなかった。

 

潮騒が、夜の底で低く鳴っている。

 

今日の食事は終わった。

 

だが、海の腹はまだ満ちていない。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。