守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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卓球でほどよく汗をかいた一行は、旅館の大浴場へ向かうことになった。

まずは女子組。

弥子、泉、ラクス、アウクソー。

廊下の先には、藍色の暖簾が揺れている。
その向こうから、湯気と、ほんのりした木の香りが漂ってきた。

弥子はタオルを抱えて、うきうきしている。

「海の見える温泉かな!?」

泉は少し疲れた顔で笑った。

「だといいね。今日は本当に……いろいろあったし」

ラクスは穏やかに頷く。

「ゆっくり温まりましょう」

アウクソーは、いつものように周囲を確認していた。

脱衣所までの廊下。
非常口。
浴場の案内。
入浴時間。
足元の段差。

泉がそれに気づいて、少し申し訳なさそうに言う。

「アウクソーさん、旅館だから少し楽できるかと思ったんですけど……やっぱり見てくれてるんですね」

アウクソーは静かに答えた。

「本日は旅館側の管理がございますので、私の負担は軽減されております」
「ですが、皆さまが安全にお過ごしいただけるよう確認することは、必要なことです」

弥子が感心した。

「さすがアウクソーさん……」

その時、弥子がふと思い出したように言った。

「そういえば、またソープさん来るのかな?」

アウクソーの表情が、ほんの少しだけ引き締まった。

「今日は止めます」

泉が思わず言った。

「止めるんだ……」

ラクスが小さく笑う。

「前例がございますものね」

アウクソーは静かに頷く。

「ソープ様には、本日は男湯をご利用いただくよう、すでにお伝えしております」

弥子が目を丸くする。

「もう伝えてる!」

「はい」

泉は少し遠い目をした。

「さすが……段取りが早い……」

その直後、廊下の向こうからソープの声がした。

「やあ。楽しそうだね」

全員が振り向く。

そこには、いつもの男性モードのソープが立っていた。
悪びれた様子はなく、ただ普通に通りかかっただけのような顔をしている。

アウクソーが一歩前に出た。

「ソープ様」

「何かな?」

「本日は男湯です」

「分かっているよ」

「女子浴場へのご入場はお控えください」

「もちろん」

「ソープダッシュへの移行も、本日はお控えください」

ソープは少しだけ笑った。

「そこまで?」

「はい」

弥子が小声で言う。

「徹底してる……」

泉も小声で言う。

「でも安心感がすごい……」

ソープは肩をすくめた。

「信用がないなあ」

アウクソーは静かに言った。

「過去の実績に基づく判断です」

ソープは少し考えたあと、笑った。

「反論できないね」

ちょうどその時、カイエンが廊下の角から顔を出した。

「ソープ、こっちだ」

ソープは振り返る。

「はいはい」

カイエンは女子組を見て言った。

「そいつが変なことをしたら、呼べ」

アウクソーは一礼する。

「承知いたしました」

ソープは軽く手を振った。

「何もしないよ」

カイエンは即答した。

「その言葉が一番信用できん」

そう言って、二人は男湯の方へ向かった。

弥子は笑った。

「カイエンさん、胃を守りに来たんだね」

泉が頷く。

「今日は本当に平和に入りたいです……」

アウクソーは暖簾の方へ向き直った。

「では、参りましょう」


岸辺露伴は潮騒を聞く その8

大浴場は、広かった。

 

内湯の大きな窓の向こうに、夜の海が見える。

正確には、海そのものはほとんど暗闇に溶けていた。

ただ、港の明かりが遠くで揺れ、波の音だけが低く届いている。

 

露天風呂もあるようだった。

岩風呂の縁から、夜風が少し入り込んでくる。

 

弥子は湯気の中で深呼吸した。

 

「温泉……最高……!」

 

泉も、肩の力が少し抜けたようだった。

 

「ほんと……今日はお風呂が沁みますね……」

 

ラクスは静かに湯に入り、目を細めた。

 

「よいお湯ですわ」

 

アウクソーも、いつもより少しだけ柔らかい表情をしていた。

 

弥子はそれに気づく。

 

「アウクソーさんも、ちょっと休めてます?」

 

アウクソーは少しだけ考えて、答えた。

 

「はい。皆さまと同じ湯に入り、同じ時間を過ごすことは……悪くありません」

 

泉が微笑んだ。

 

「それはよかったです」

 

弥子は嬉しそうに湯の中で腕を伸ばした。

 

「今日はほんとにいろいろあったもんね。灯台で落ちかけて、階段ぐるぐるして、ネウロが変な音叉出して、夕飯で舟盛り食べて、卓球して」

 

泉が苦笑する。

 

「一日分の密度じゃないね……」

 

ラクスが静かに言った。

 

「けれど、最後にこうして温まることができています」

 

弥子は頷いた。

 

「うん」

 

少しだけ沈黙が流れる。

 

湯の音。

遠くの潮騒。

誰かが桶を置く小さな音。

 

弥子はぽつりと言った。

 

「正直、灯台の時、すごく怖かった」

 

泉も小さく頷く。

 

「私も。足元が急になくなるような感じで……」

 

弥子は自分の手を見る。

 

「でも、承太郎さんが掴んでくれて。泉さんはカイエンさんが助けてくれて」

「そのあと、みんなでご飯食べて、卓球して、今お風呂入ってる」

 

泉は湯面を見つめる。

 

「うん」

 

弥子は少し笑った。

 

「やっぱり、勝ってるよね。怖かった今日に」

 

ラクスが優しく微笑んだ。

 

「ええ。弥子さんは、とても強いですわ」

 

弥子は少し照れた。

 

「いや、そんな立派な感じじゃなくて……ただ、ご飯が美味しくて、卓球が楽しくて、お風呂が気持ちいいだけなんだけど」

 

ラクスは静かに首を横に振る。

 

「それをちゃんと感じられることが、強さなのだと思います」

 

泉は、湯気の向こうで少し目を細めた。

 

「私も……今日は、怖かっただけで終わらなくてよかったです」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「恐怖の後に日常を取り戻すことは、重要です」

「それが次の行動を可能にします」

 

弥子が笑う。

 

「アウクソーさんらしい言い方!」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。でも、分かる」

 

また少し、湯の音だけが響いた。

 

______________________________

 

 

露天風呂へ移ると、潮騒が少し近くなった。

 

夜の海は黒い。

見えないのに、そこにあることだけは分かる。

 

灯台で聞いた声を思い出して、泉が少しだけ肩を縮めた。

 

「……さっきの声、もう聞こえませんよね?」

 

弥子も耳を澄ませる。

 

「うん。波の音だけ」

 

ラクスは海の方を見た。

 

「今は、ただの潮騒ですわ」

 

その声は穏やかだった。

 

けれど、弥子は少しだけ気づいた。

 

ラクスはただ慰めているだけではない。

本当に、音を聞いている。

 

弥子は小さく聞いた。

 

「ラクスさん、もしまた変な音がしたら……分かります?」

 

ラクスは少しだけ考えた。

 

「分かるかどうかは、まだ分かりません」

「けれど、音が乱れているなら、寄り添うことはできるかもしれません」

 

泉が不思議そうに見る。

 

「寄り添う?」

 

ラクスは微笑んだ。

 

「歌は、何かを無理に消すものではありません」

「時には、ほどくものです」

 

弥子はその言葉を聞いて、なぜか少し安心した。

 

「ほどく……」

 

アウクソーは静かにラクスを見る。

 

「ラクス様の歌が、今後必要になる可能性があるということでしょうか」

 

ラクスは海を見たまま答えた。

 

「必要になるかどうかは、分かりません」

「でも、もし誰かの声が迷っているのなら……届くかもしれませんわ」

 

泉は湯の中で、小さく息を吐いた。

 

「できれば、もう怪異は出ないでほしいですけど……」

 

弥子が力強く頷く。

 

「それはそう!」

 

そして、少し間を置いて言った。

 

「でも、もし出たら……みんなで何とかするんだよね」

 

ラクスは頷く。

 

「ええ」

 

アウクソーも静かに言った。

 

「そのためにも、本日は休息が必要です」

 

弥子は両手でお湯をすくって顔に近づけた。

 

「じゃあ、今はちゃんと温まろう!」

 

泉が笑った。

 

「そうだね」

 

______________________________

 

その頃、脱衣所の外。

 

男湯の方から、カイエンの声がわずかに聞こえた。

 

「ソープ、今日は本当に一回だけだからな」

 

ソープの声が返る。

 

「分かってるって」

 

承太郎の低い声。

 

「普通に入れ」

 

キラの声も聞こえた。

 

「今日は平和にお願いします……」

 

弥子は思わず吹き出した。

 

「向こうも向こうで大変そう」

 

泉も笑う。

 

「カイエンさん、本当に警戒してますね」

 

アウクソーは静かに言った。

 

「妥当な判断です」

 

ラクスは口元に手を添えて笑った。

 

「皆さま、賑やかですわね」

 

弥子は湯船の縁にもたれた。

 

「うん。賑やかでいいよ」

「灯台の中、音が怖かったから。今は、こういう声の方がいい」

 

泉はその言葉に頷いた。

 

「分かる。誰かが普通に話してる音って、安心しますね」

 

ラクスは静かに言った。

 

「人の声は、怖いものにもなります」

「けれど、温かいものにもなります」

 

弥子は大きく息を吐いた。

 

「じゃあ今日は、温かい方で」

 

泉が微笑む。

 

「そうしましょう」

 

湯気の向こうで、夜の海が低く鳴っている。

 

けれど、その音はもう、彼女たちを閉じ込めなかった。

 

______________________________

 

 

風呂から上がった弥子は、脱衣所で牛乳の自販機を見つけた。

 

「風呂上がりの牛乳!」

 

キラがいないので、会計の視線はない。

 

だが、アウクソーはいた。

 

「弥子様」

 

弥子は振り返る。

 

「はい」

 

「夕食後のデザートを召し上がっております」

 

「はい」

 

「売店は二十一時までです」

 

「はい」

 

「追加摂取は、明朝の朝食を楽しむためにも控えめが望ましいかと」

 

弥子はしばらく牛乳とアウクソーを見比べた。

 

そして、一本だけ取った。

 

「一本だけ!」

 

泉が笑う。

 

「えらい」

 

ラクスも微笑む。

 

「よく我慢されましたわ」

 

弥子は牛乳を飲んで、幸せそうに言った。

 

「勝った……風呂上がりにも勝った……」

 

アウクソーが小さく頷く。

 

「本日の弥子様は、非常に健闘されています」

 

弥子は得意げに胸を張った。

 

「やった!」

 

泉は髪を拭きながら、少し笑った。

 

「今日は本当に、勝ちが多いね」

 

弥子は頷く。

 

「うん。怖かった今日に、夕飯で勝って、卓球で勝って、お風呂で勝って、牛乳一本で止めて勝った!」

 

ラクスが優しく言った。

 

「素敵な勝ち方ですわ」

 

その言葉に、弥子は照れたように笑った。

 

「えへへ」

 

アウクソーは脱衣所の時計を見た。

 

「そろそろお部屋へ戻りましょう。夜更かしは控えめに」

 

泉は頷く。

 

「そうですね。今日は早めに休みたいです」

 

弥子も素直に頷いた。

 

「うん。明日もあるしね!」

 

浴場の外へ出ると、廊下の窓から夜の海が見えた。

 

黒い海。

揺れる港の灯り。

遠く、灯台の光。

 

弥子は一瞬だけ、その灯台を見た。

 

怖かった。

 

でも、もう戻ってきた。

 

温まった体で、仲間と一緒に、旅館の廊下を歩いている。

 

それで十分だった。

 

弥子は小さく呟いた。

 

「明日は、もっと楽しい日にしよう」

 

ラクスが隣で微笑んだ。

 

「ええ」

 

潮騒は、遠くで静かに鳴っていた。

 

今夜はまだ、ただの波音だった。

 

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