守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
その前で、カイエンはソープをじっと見ていた。
ソープは苦笑する。
「そんなに見なくても大丈夫だよ」
カイエンは腕を組んだ。
「念のためだ」
「今日は普通に入るって」
「前にも聞いた気がするな」
キラが少し困ったように笑う。
「まあ……今日は本当に平和に入りましょう」
承太郎は短く言った。
「余計なことをするな」
ソープは肩をすくめる。
「皆、手厳しいなあ」
ネウロが笑う。
「ククク……信用とは積み上げるに時間がかかり、崩すには一瞬というやつだな」
カイエンがソープを見る。
「聞いたか」
ソープは少し不満そうに言う。
「前回は、たぶん温泉の泉質が相性悪かったんだよ」
カイエンは即答した。
「泉質のせいにするな」
キラも小声で言う。
「それはちょっと無理があるかも……」
露伴はすでにメモ帳を取り出していた。
「ソープ、前回の混乱を泉質のせいにする」
ソープが言う。
「書かなくていいよ」
露伴は当然のように返す。
「もう書いた」
承太郎が暖簾をくぐる。
「入るぞ」
その一言で、全員も続いた。
大浴場は、女子組が言っていた通り広かった。
湯気の向こうに大きな窓があり、その外には夜の海が見える。
黒い水面そのものは暗く沈んでいるが、港の灯りがちらちらと揺れていた。
遠くから、低い潮騒。
灯台で聞いたものとは違う。
今の音は、ただの波音だった。
少なくとも、そう聞こえた。
キラは湯船に入ると、深く息を吐いた。
「……気持ちいいですね」
カイエンも肩まで浸かる。
「ああ。これは悪くない」
ソープは普通に、男性モードのまま湯に入った。
カイエンが横目で確認する。
「そのままだな」
「そのままだよ」
「よし」
「検問みたいだね」
「検問だよ」
キラは思わず笑った。
承太郎は湯船の端で黙っている。
ネウロは湯に入りながら、どこか物珍しそうに湯気を見ていた。
露伴は浴場の造りや窓の外の景色を観察している。
キラが言った。
「露伴さん、ここではメモは……」
露伴は少し不満そうにする。
「持ち込んでいない」
「よかったです」
「頭の中に記録している」
「それは止められないですね……」
ネウロが低く笑う。
「ククク……人間界の湯は、肉体の疲労を薄めるためにあるのか」
カイエンが言う。
「魔界の湯は違うのかい」
ネウロは楽しそうに答えた。
「魔界の湯は、入った者の後悔を煮出す」
キラが真顔になる。
「それ、温泉じゃないですよね」
承太郎が短く言う。
「くだらねぇ」
カイエンは笑った。
「ジョーカー太陽星団の湯は、騎士の筋肉だけを選んで温める」
露伴がすぐ反応する。
「嘘だろう」
ソープが湯をすくいながら笑う。
「今のは九割嘘だね」
カイエンが言う。
「一割は本当だ」
キラが苦笑した。
「その一割が怖いんですよ……」
しばらく、湯の音だけが続いた。
灯台での緊張が、ゆっくりとほどけていく。
キラは承太郎の方を見た。
「承太郎さん」
「何だ」
「今日は、弥子ちゃんを助けてくれてありがとうございました」
承太郎は少しだけ目を伏せた。
「礼を言われることじゃねぇ」
「でも、言わせてください」
承太郎は黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
キラは次にカイエンを見る。
「カイエンさんも、泉さんを」
カイエンは軽く手を振る。
「落ちそうだったから掴んだ。それだけだよ」
ソープが笑う。
「そういうところだよね、カイエン」
「何がだい」
「雑に言うけど、ちゃんと助ける」
カイエンは眉をひそめる。
「風呂でまでその話をするな」
露伴が湯船の縁にもたれながら言った。
「だが、今日のあれは記録すべき場面だった」
「灯台の怪異に対し、承太郎とカイエンが即座に反応した」
「その後、ネウロが謎を喰い、脱出した」
「役割分担として美しい」
ネウロが鼻で笑う。
「吾輩は役割を果たしたのではない」
「食事をしただけだ」
キラが苦笑する。
「それでも、助かりました」
ネウロは答えない。
ただ、湯の中で腕を組んで笑っていた。
カイエンは窓の外を見た。
「しかし、あの灯台だけで終わりじゃないんだろうな」
露伴は頷く。
「食堂の写真と灯台の影。あれはまだ繋がっている」
ソープは海を見た。
「海に出て帰れなかった者たちの音が、まだどこかに残ってるのかもしれないね」
キラの表情が少し引き締まる。
「明日、また何か起きるかもしれないんですね」
承太郎は短く言った。
「起きたら止める」
その一言で、湯船の空気が少しだけ落ち着いた。
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カイエンは、ふと防波堤の方を見た。
「明日の朝、釣りはどうするかね」
ソープがすぐ笑う。
「やっぱり気になるんだ」
「レンタルしたからな」
キラが言う。
「安全確認後、ですね」
「分かってるよ、会計准将」
「その呼び方、風呂場でも続くんですか……」
露伴が言う。
「防波堤は見ておく価値がある」
「灯台が音を巻いていたなら、防波堤は音を受け止める場所だ」
ネウロが笑う。
「波が打ちつける場所には、よく残る」
「帰れぬ者の声も、待つ者の声もな」
キラは少しだけ目を伏せた。
「……重いですね」
ソープは穏やかに言った。
「海は、きれいなだけじゃないからね」
承太郎は窓の外を見たまま黙っている。
カイエンは軽く息を吐いた。
「朝の釣りくらい、普通に済ませたいものだ」
ネウロが言う。
「普通に魚が釣れるとよいな」
カイエンはネウロを見た。
「今の言い方、嫌な予感しかしないな」
ソープが笑う。
「釣れなかったら、魚が怪異を避けてるってことにしよう」
「腕の問題にされるよりはマシだ」
キラが小さく笑った。
湯気の中で、少しだけ空気が軽くなった。
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そこで、ソープがぽつりと言った。
「でも、今日は僕も普通にしてるだろう?」
カイエンが即座に言う。
「まだ途中だ」
「厳しいなあ」
承太郎が短く言う。
「最後まで普通にしろ」
キラも真面目に頷く。
「お願いします」
露伴は言った。
「この警戒され方も、実に興味深い」
ソープは肩まで湯に沈む。
「僕、そんなに問題児かな」
カイエン、キラ、承太郎が一斉に黙った。
その沈黙が答えだった。
ソープは少しだけ目を細める。
「今、全員黙ったね」
カイエンは目を逸らす。
「湯が気持ちよかっただけだ」
「嘘が雑だなあ」
ネウロが笑う。
「ククク……沈黙の質で分かるというやつだ」
承太郎が低く言った。
「余計なことを言うな」
露伴がすぐに反応する。
「承太郎、今の沈黙は本物だったな」
「書くな」
「頭に書いた」
「消せ」
「無理だ」
カイエンは額に手を当てた。
「風呂でも騒がしいな」
キラは苦笑した。
「でも、こういう騒がしさは安心します」
その言葉に、少しだけ全員が黙った。
灯台の中の声は、人を閉じ込める音だった。
今の声は違う。
くだらない会話。
軽口。
注意。
ため息。
笑い声。
それは、人を現実に戻す音だった。
ソープは静かに言った。
「そうだね」
カイエンは湯面を見ながら言う。
「まあ、今日は誰も落ちなかったし、誰も増えなかったし、誰も変身しなかった」
キラが頷く。
「それだけで十分ですね」
承太郎が短く言った。
「上出来だ」
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しばらくして、カイエンが立ち上がった。
「のぼせる前に出るか」
ソープも続く。
「一回だけ、守ったよ」
カイエンはソープを見る。
「今のところな」
「最後まで疑うんだね」
「暖簾を出るまでが入浴だ」
キラが思わず笑った。
「遠足みたいですね」
露伴が言う。
「帰るまでが合宿、暖簾を出るまでが入浴」
「書かなくていい」
「覚えた」
ネウロは湯から上がりながら言った。
「人間界の湯も悪くはない」
「恐怖で硬直した肉体を緩めるには、効率的だ」
キラが少し驚く。
「ネウロが普通に評価してる……」
「勘違いするな。食事ではない」
「誰も食事だとは思ってません」
承太郎は黙って脱衣所へ向かった。
その背中を見て、露伴が呟く。
「風呂上がりの承太郎も描きがいが――」
承太郎が振り返る。
「やめろ」
「まだ言い終えていない」
「言うな」
カイエンが笑う。
「漫画家先生、命知らずだな」
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脱衣所に出ると、冷たい水の入ったポットが置かれていた。
キラは一杯飲み、深く息を吐く。
「生き返りますね」
ソープも水を飲む。
「いい湯だった」
カイエンはじっと見る。
「それで終わりだな?」
「終わりだよ」
「ソープダッシュにならないな?」
「ならない」
「女湯に行かないな?」
「行かない」
「よし」
ソープは笑った。
「本当に検問だったね」
承太郎はタオルで髪を拭きながら言った。
「問題なかったならいい」
キラは安心したように頷く。
「平和に終わりましたね」
その時、露伴が脱衣所の壁に貼られた古い写真に気づいた。
旅館の昔の写真だった。
建物の前に並ぶ人々。
少し離れて、海を背にした防波堤。
その端に、顔のぼやけた漁師のような人物が立っている。
露伴の目が細くなる。
「……またいるな」
ネウロが横から覗き込む。
「ククク……湯上がりにも出てくるか」
キラの表情が少し固まる。
「また、あの人ですか?」
カイエンも写真を見る。
「食堂、灯台、旅館……今度は防波堤か」
ソープは静かに言った。
「明日の朝、やっぱり見に行くことになりそうだね」
承太郎は短く言う。
「休める時に休め」
露伴は写真を見つめたまま言った。
「その通りだな」
「明日のためにも」
キラは小さく息を吐いた。
「本当に、普通の朝になりますように……」
カイエンは笑った。
「釣れれば普通の朝だ」
ネウロが口元を歪める。
「釣れなければ?」
カイエンは答えなかった。
その代わり、湯上がりの水をもう一杯飲んだ。
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男湯を出ると、廊下の窓から夜の海が見えた。
遠くに灯台の光。
その下に、黒い防波堤。
波の音は、低く、遠く、静かだった。
ソープはその音を聞いて、少しだけ目を細めた。
「今日の湯は、相性悪くなかったね」
カイエンはすぐ返す。
「最初から泉質の問題じゃない」
「そうかな」
「そうだ」
キラは笑った。
「でも、今日は本当に平和でした」
承太郎が言う。
「それでいい」
露伴は廊下の先を見た。
「明日は防波堤だな」
泉の声が遠くから聞こえた。
「先生! 今日はもう寝てください!」
露伴は少しだけ眉を上げた。
「聞こえていたか」
カイエンが笑う。
「編集嬢の監視も、なかなかだな」
ネウロは低く笑う。
「ククク……人間どもの夜は、まだ終わらぬか」
キラが即座に言った。
「終わります。今日は終わります」
全員が、それに異論を唱えなかった。
ソープも、今回は本当に大人しく部屋へ向かった。
カイエンの胃は、守られた。
少なくとも、今夜は。