守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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温泉を終えた一行は、それぞれの部屋へ戻っていった。

旅館の廊下は、昼間よりずっと静かだった。

遠くから聞こえるのは、湯上がりの客の小さな話し声と、窓の外の潮騒。
灯台で聞いたあの声とは違う。
今の波音は、低く、穏やかで、夜の中にゆっくり沈んでいくようだった。

女子部屋では、弥子が布団の上に座り込んでいた。

「はー……温泉、気持ちよかった……」

泉も髪を乾かしながら頷く。

「本当に。今日はお風呂がありがたかったね」

ラクスは窓際に座り、夜の海を見ていた。

「潮騒も、こうして聞くと落ち着きますわ」

弥子は窓の外をちらりと見た。

「灯台の時は怖かったけどね」

その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。

けれど、重くはならなかった。

夕食を食べた。
卓球をした。
温泉に入った。
風呂上がりの牛乳も一本で止めた。

弥子の中では、怖かった今日に対して、ちゃんと小さな勝ち星が積み上がっていた。

アウクソーは荷物を整理しながら言う。

「弥子様、本日はよく自制されました」

弥子は胸を張った。

「牛乳一本で止めた!」

泉が笑う。

「そこ、かなり偉かった」

ラクスも微笑む。

「明日の朝食も、きっと美味しく召し上がれますわ」

弥子は目を輝かせた。

「朝ごはん……!」

アウクソーがすかさず言った。

「夜食は控えましょう」

「はい」

返事が早かった。

泉が感心する。

「今日の弥子ちゃん、本当に強い」

弥子は少し照れたように笑った。

「いや、怖かったぶん、ちゃんと寝て、明日ちゃんと食べたいだけ」

ラクスは静かに言った。

「それが、とても大切なのですわ」

弥子は布団にごろんと寝転がる。

「明日、カイエンさん釣れるかな?」

泉が髪を拭きながら言う。

「どうだろうね。フォームはすごそうだけど」

アウクソーは静かに答えた。

「マスターは早朝に出られる予定です。ただし、安全確認後です」

弥子が笑った。

「アウクソーさん、明日の朝も大変そう」

「必要なことです」

その返事はいつも通りだったが、少しだけ柔らかかった。


岸辺露伴は潮騒を聞く その10

一方、男子部屋A。

 

キラは会計表を閉じていた。

 

今日一日で何度も開いたそれを、ようやく閉じたのである。

 

カイエンが布団の上であぐらをかきながら言った。

 

「今日はもう会計表はいいだろう、坊や」

 

キラは少し笑った。

 

「そうですね。今日は予備費内に収まってますし」

 

ソープが窓際で潮騒を聞いている。

 

「弥子も頑張ってたしね」

 

キラは頷く。

 

「うん。昼も夕食も、ちゃんと考えてくれた」

 

カイエンが茶を飲みながら言う。

 

「それはそれとして、会計准将はそろそろ休め」

 

キラは苦笑する。

 

「その呼び方、まだ続くんですか」

 

「便利だからな」

 

ソープが振り向く。

 

「明日の釣りも、会計准将の許可制?」

 

キラがすぐに答える。

 

「レンタル料金はカイエンさん個人負担で処理済みです」

 

カイエンが笑った。

 

「風呂上がりでも反応が速いな」

 

そこへ、アウクソーからカイエンの端末に短いメッセージが届いた。

 

マスター、明朝は早起きの予定です。寝酒、チーズ等はお控えください。

 

カイエンは画面を見て、少しだけ固まった。

 

ソープが覗き込む。

 

「釘を刺されたね」

 

「見なくていい」

 

キラも見ないようにしつつ、なんとなく察した。

 

「明日、釣りですもんね」

 

カイエンはため息をつく。

 

「分かってるよ。今日は飲まん」

 

ソープが面白そうに言う。

 

「変な夢を見るチーズも?」

 

「食わん」

 

キラが少しだけ笑った。

 

そして、バッグから例の乳酸菌飲料を一本取り出す。

 

ラクスが持たせてくれたものだった。

 

ソープがそれを見て言う。

 

「今日も飲むの?」

 

キラはラベルを見ながら答える。

 

「一日一本まで、ってラクスに言われてます」

 

カイエンが頷く。

 

「正しいな。飲みすぎは体に悪い」

 

「はい」

 

キラは一本だけ飲んだ。

 

それから、弥子にもらったGABAのチョコを見て、少し迷う。

 

ソープが笑う。

 

「それも食べる?」

 

キラは首を横に振った。

 

「寝る前はやめておきます。虫歯も気になるし」

 

カイエンが満足そうに言った。

 

「会計准将、健康管理もできるじゃないか」

 

「だから、その呼び方……」

 

と言いつつ、キラの表情は少し柔らかかった。

 

今日は、眠れそうだった。

 

灯台の怪異は怖かった。

けれど、皆が無事だった。

弥子も泉も笑っていた。

ソープも大人しく男湯に入った。

会計もまだ崩れていない。

 

それだけで、今日はもう十分だった。

 

______________________________

 

男子部屋Bでは、承太郎が静かに布団を敷いていた。

 

ネウロは窓際に立ち、夜の海を見ている。

 

「ククク……」

 

承太郎が短く言う。

 

「またか」

 

ネウロは振り返らない。

 

「夜の海は、昼よりもよく匂う」

 

「何がだ」

 

「沈んだものだ」

 

承太郎はしばらく黙った。

 

そして、低く言う。

 

「今日は寝ろ」

 

ネウロは笑う。

 

「貴様に言われるとはな」

 

「明日も何かあるんだろう」

 

「あるかもしれんな」

 

「なら、弥子たちを巻き込むな」

 

ネウロはそこで少しだけ振り返った。

 

「巻き込むのは吾輩ではない」

「謎の方だ」

 

承太郎は帽子を脇に置いた。

 

「なら、来たら止める」

 

「相変わらず単純だ」

 

「分かりやすい方がいい」

 

ネウロはまた窓の外を見た。

 

港の灯りが、黒い海に揺れている。

 

「今日喰った謎は、灯台に巻かれた声だった」

「だが、防波堤には、もっと湿ったものが残っている」

 

承太郎は布団に腰を下ろす。

 

「明日の話だ」

 

ネウロは笑った。

 

「そうだな」

 

珍しく、それ以上は言わなかった。

 

部屋には、潮騒だけが残った。

 

それは、まだただの波音だった。

 

______________________________

 

 

露伴の一人部屋。

 

岸辺露伴は、布団には入っていなかった。

 

机の上には、食堂の古い写真のメモ。

灯台の螺旋階段のスケッチ。

男湯の脱衣所にあった旅館の古い写真の記憶。

そして、顔のぼやけた漁師の姿。

 

露伴はペンを動かしていた。

 

食堂。灯台。旅館。防波堤。

同じ影。年代が合わない。

顔がぼやけるのではない。記録が拒んでいる?

 

そこへ、泉からメッセージが届いた。

 

先生、寝てください。

 

露伴は少しだけ眉をひそめた。

 

返信する。

 

今、重要な整理をしている。

 

すぐ返事が来た。

 

それを寝る前に始めるのをやめてください。

 

露伴は少し笑った。

 

さらに返す。

 

善処する。

 

数秒後。

 

その返事は禁止です。

 

露伴はペンを置いた。

 

窓を開けると、夜の潮騒が入ってくる。

 

灯台で聞いた声とは違う。

 

戻れ。

帰るな。

 

今は、そんな言葉にはならない。

 

だが、音の奥に、まだ何かが沈んでいる気がした。

 

露伴は窓の外を見た。

 

遠くに灯台。

その下に、防波堤。

 

「明日は、あそこか」

 

そう呟いてから、ようやく布団へ向かった。

 

______________________________

 

 

女子部屋では、弥子が布団に入っていた。

 

泉も横になり、ラクスは小さな灯りの下で髪を整えている。

アウクソーは最後に窓の鍵と室内の確認を済ませた。

 

弥子が眠そうな声で言う。

 

「アウクソーさん、もう大丈夫ですよ」

 

アウクソーは少しだけ目を伏せる。

 

「はい」

 

泉が言った。

 

「アウクソーさんも、今日はちゃんと休んでくださいね」

 

「ありがとうございます」

 

ラクスも穏やかに言う。

 

「明日のためにも、皆で休みましょう」

 

弥子は布団の中で小さく笑った。

 

「明日、カイエンさんが魚釣れたらいいね」

 

泉が返す。

 

「そうだね」

 

アウクソーは少しだけ間を置いて言った。

 

「マスターは、釣果がなくともおそらく言い訳をなさいます」

 

弥子が吹き出した。

 

「そこまで予想されてる!」

 

ラクスもくすりと笑う。

 

「どのような言い訳でしょう」

 

アウクソーは真面目に答えた。

 

「魚の警戒心が高かった、潮が合わなかった、竿との相性が悪かった、などが考えられます」

 

泉が笑ってしまった。

 

「竿との相性って、ソープさんの泉質問題みたいですね」

 

弥子が布団の中で笑う。

 

「今日、言い訳多いなあ」

 

その笑い声は、暗い部屋に小さく広がった。

 

怖かった一日が、少しずつ遠くなる。

 

弥子は天井を見上げて、小さく呟いた。

 

「今日は勝ったから、明日も勝つ」

 

ラクスが優しく答える。

 

「ええ」

 

それから、部屋の灯りが少し暗くなった。

 

潮騒が聞こえる。

 

もう誰も、それを怖い声とは思わなかった。

 

今夜だけは。

 

______________________________

 

 

夜は更けていく。

 

キラは久しぶりに、会計表を枕元に置かずに眠った。

 

カイエンは寝酒もチーズも取らず、明日の釣りに備えて目を閉じた。

 

ソープは大人しく眠り、少なくとも今夜は誰の胃も痛めなかった。

 

承太郎は短い眠りへ入り、ネウロは目を閉じているのかいないのか分からないまま、海の音を聞いていた。

 

露伴は最後まで数行だけメモを残し、それでも灯りを消した。

 

泉はようやく深く息を吐き、眠りに落ちた。

 

ラクスは、窓の向こうの潮騒に耳を澄ませていた。

 

アウクソーは、全員が眠った気配を確認してから、自分も横になった。

 

弥子は、明日の朝食と海と、カイエンの釣りを少しだけ夢に見た。

 

旅館の外では、夜の海が静かに鳴っていた。

 

潮騒は、眠る者たちの上に、薄い毛布のように広がっている。

 

今日の怪異は、もう声を出さない。

 

だが、防波堤の先で、黒い海だけがまだ起きていた。

 

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