守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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まだ空が白み始めたばかりだった。

旅館の廊下は静かで、窓の外の港も眠っているように見えた。
遠くで海鳥が一声鳴き、潮騒が低く返す。

その静けさの中、ダグラス・カイエンはすでに起きていた。

寝酒なし。
チーズなし。
変な夢もなし。

完全に、朝釣りに備えた男の顔である。

「……よし」

そう呟いて部屋を出ようとしたところで、廊下にアウクソーが立っていた。

「おはようございます、マスター」

カイエンは少しだけ目を細める。

「……早いな」

「マスターが早朝に釣行される予定でしたので」

「見送りかい?」

「同行いたします」

「まあ、そう言うと思ったよ」

アウクソーは静かに一礼した。

「安全確認と、レンタル釣具の返却時間管理が必要です」

「釣果じゃなくて管理か」

「釣果については、マスター次第かと」

カイエンは笑った。

「言うじゃないか」

そこへ、キラが部屋から顔を出した。

眠そうではあるが、身支度は整っている。

「おはようございます……」

カイエンが少し驚いた。

「坊やも来るのかい?」

「はい。会計というより、昨日の灯台のこともありますし」
「安全確認を兼ねて」

アウクソーが頷いた。

「妥当です」

さらに、ソープも現れた。

「おはよう。朝の港って、少し見ておきたいよね」

カイエンは言う。

「君はただ面白そうだから来るんだろう」

「否定はしないよ」

その背後から、低い声。

「……騒がしいな」

承太郎だった。

カイエンが眉を上げる。

「承太郎まで?」

「昨日の今日だ」

それだけで十分だった。

さらに廊下の角から、露伴がメモ帳を片手に歩いてくる。

泉はいない。おそらくまだ寝ている。
露伴は、そこだけ少し自由だった。

「防波堤へ行くんだろう」

カイエンはため息をついた。

「君は寝てろ」

「断る」

「昨日、泉くんに寝ろと言われてただろう」

「寝た」

「何時間だい?」

露伴は答えなかった。

最後に、どこからともなくネウロが現れた。

「ククク……朝の海か」

キラが少し身構える。

「ネウロも?」

「潮の匂いが変わる時間だ。見ておいて損はない」

カイエンは、廊下に並んだ面々を見て肩をすくめた。

「ただの朝釣りのはずなんだがな」

ソープが笑う。

「この面子だと、ただでは済まないよ」

「やめろ」


岸辺露伴は潮騒を聞く その11

港の角にある釣具屋は、早朝から明かりがついていた。

 

昨日の店主が、眠そうな顔で出てくる。

 

「おう、来たね。朝はこの時間がいいよ」

 

カイエンは予約していた竿とリールを受け取った。

 

仕掛け。

餌。

小さなバケツ。

折りたたみ椅子。

 

アウクソーがすべて確認する。

 

「竿一本、リール一台、仕掛け二組、餌一パック、返却は午前八時半まで」

 

店主が笑った。

 

「しっかりした連れだな」

 

カイエンは言う。

 

「しっかりしすぎているくらいだよ」

 

アウクソーは表情を変えない。

 

「必要なことです」

 

店主は防波堤の方を見た。

 

「今日は潮は悪くない。普通ならキスかアジが来てもいい」

 

カイエンが少し笑う。

 

「普通なら、か」

 

店主は少しだけ声を落とした。

 

「ただ、あっちの古い防波堤はな……釣れる日と、まるで海が空っぽみたいな日がある」

 

露伴の目が光る。

 

「空っぽ?」

 

店主は肩をすくめた。

 

「そう言うしかないんだよ」

「魚がいない、っていうより……寄りつかない日がある」

 

ネウロが口元を歪めた。

 

「ククク……魚の方が賢いこともある」

 

キラは少し不安そうに防波堤を見る。

 

「今日は、その日じゃないといいですね」

 

カイエンは竿を担いだ。

 

「まあ、投げてみれば分かるさ」

 

______________________________

 

 

朝の防波堤は、静かだった。

 

海は灰色から青へ変わる途中で、空はまだ薄い。

港の灯りが少しずつ消え、遠くで漁船のエンジンが低く響いている。

 

カイエンは防波堤の先端近くまで歩き、立ち止まった。

 

足場を確認し、風を読む。

 

アウクソーが少し離れて見守る。

 

キラは安全な場所に荷物を置き、周囲を確認する。

承太郎は無言で壁にもたれ、海を見ている。

ソープは潮騒に耳を澄ませていた。

露伴はすでにスケッチを始めている。

ネウロはただ笑っている。

 

カイエンが仕掛けを整えた。

 

「さて」

 

竿を構える。

 

その動きは、明らかに釣り初心者のものではなかった。

 

無駄がない。

軸がぶれない。

手首だけではなく、体全体で投げる。

 

竿がしなり、仕掛けが朝の海へ飛んだ。

 

ひゅ、と風を切る音。

水面に、小さな着水音。

 

キラが思わず言った。

 

「きれいなフォームですね……」

 

ソープが頷く。

 

「剣の延長っていうのも、少し分かる気がする」

 

露伴はメモを取る。

 

「剣聖、投げ釣りにおいても重心制御が異常」

 

カイエンは振り返らずに言った。

 

「書くな」

 

「もう書いた」

 

承太郎が短く言う。

 

「釣れるのか」

 

カイエンは竿先を見つめる。

 

「さあね」

 

______________________________

 

 

五分。

 

十分。

 

十五分。

 

竿先は、ほとんど動かなかった。

 

カイエンは焦らない。

 

糸を少し巻き、仕掛けを動かす。

また待つ。

餌を確認する。

投げ直す。

 

フォームは完璧だった。

 

投げるたびに、軌道は美しい。

 

だが、釣れない。

 

キラが小声で言う。

 

「魚、いないんでしょうか」

 

アウクソーが海面を見る。

 

「少なくとも、通常の魚影は薄いように見受けられます」

 

カイエンが軽く笑う。

 

「腕の問題じゃないと言ってくれるのは助かるな」

 

ソープが言う。

 

「魚が遠慮してるのかもね」

 

「魚にも礼儀があるのかい」

 

ネウロが笑った。

 

「ククク……魚が寄りつかぬ防波堤か」

「よほど潮が不味いと見える」

 

キラは少しだけ身を固くする。

 

「不味い?」

 

ネウロは海を見た。

 

「昨日の灯台は、声を巻き戻す塔だった」

「ここは、声を受け止める壁だ」

 

露伴がペンを止める。

 

「防波堤が?」

 

「波は打ちつける。声も打ちつける」

「帰れなかった者の声。戻ってほしかった者の声」

「長く当たり続ければ、石にも味が染みる」

 

ソープが静かに防波堤の縁を見た。

 

「……ここ、少し重いね」

 

カイエンは竿先を見たまま言う。

 

「朝からそういう話はやめてくれないか」

 

承太郎が短く言った。

 

「気を抜くな」

 

カイエンは少しだけ笑った。

 

「分かってるよ」

 

______________________________

 

 

さらに二十分。

 

餌だけが、きれいに残って戻ってくる。

 

カイエンは首を傾げた。

 

「これは……魚がいないな」

 

露伴が言う。

 

「いや、魚がいないというより、魚がこの場所を避けている」

 

カイエンは露伴を見た。

 

「釣れない理由を取材にするな」

 

「理由があるなら取材対象だ」

 

キラが少し困ったように言う。

 

「釣りとしては残念ですけど、怪我や事故がないだけでも……」

 

カイエンは笑った。

 

「慰めが早いな、坊や」

 

ソープが言う。

 

「でも、カイエンの投げ方は見事だったよ」

 

「釣果がない褒め言葉ほど虚しいものはないな」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「マスター、釣果がなくとも、釣行記録としては問題ございません」

 

カイエンは肩をすくめる。

 

「釣行記録、ボウズ」

 

アウクソーは頷く。

 

「はい」

 

「そこは否定してくれないのか」

 

「事実ですので」

 

ソープが笑いをこらえる。

 

キラも少し笑ってしまった。

 

承太郎は無言だったが、口元がほんの少しだけ緩んだようにも見えた。

 

カイエンはため息をつきながら、もう一度投げた。

 

やはり、何も来なかった。

 

______________________________

 

その時、風が止んだ。

 

ほんの一瞬。

 

波音だけが残る。

 

防波堤の下で、ちゃぷ、と小さな音がした。

 

カイエンの竿先が、わずかに震えた。

 

全員が見る。

 

「来た?」

 

キラが小声で言う。

 

カイエンは竿を握り直した。

 

だが、それは魚の引きではなかった。

 

糸が、海ではなく、防波堤の下へ吸い込まれるように動いていた。

 

まるで、何かが下から引いているのではなく、

石の方が糸を欲しがっているような動きだった。

 

カイエンの目が細くなる。

 

「……おいおい」

 

承太郎が一歩前へ出る。

 

「切れ」

 

カイエンは即座に糸を切った。

 

糸の先が、暗い水面へ消える。

 

その直後、防波堤の下から、低い音がした。

 

声のような。

波のような。

誰かが遠くで泣いているような。

 

キラは息を呑む。

 

「今の……」

 

ソープは目を伏せた。

 

「朝だから、まだ薄い」

 

露伴が静かに言った。

 

「午後には濃くなるかもしれないな」

 

カイエンは竿を畳み始めた。

 

「今日はここまでだ」

 

キラが少し驚く。

 

「いいんですか?」

 

「釣りをしに来たんであって、海に釣られに来たわけじゃない」

 

承太郎が短く言う。

 

「賢明だ」

 

ネウロは笑った。

 

「ククク……剣聖、ボウズで撤退か」

 

カイエンはネウロを見る。

 

「謎を釣り上げる趣味はないよ」

 

「いずれ釣れるかもしれんぞ」

 

「勘弁してくれ」

 

______________________________

 

 

釣具屋へ竿を返す頃には、港町は少しずつ動き始めていた。

 

店主は空のバケツを見て、気の毒そうに笑った。

 

「ダメだったか」

 

カイエンは苦笑する。

 

「魚が慎重だった」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「釣果はございません」

 

「はっきり言うな」

 

店主は防波堤の方を見る。

 

「まあ、そういう日もあるよ」

「……あそこは、昔からそうだ」

 

露伴が聞く。

 

「昔から?」

 

店主は少しだけ口を閉ざした。

 

それから、首を振る。

 

「朝飯、食い損ねないうちに戻った方がいい」

「あの防波堤の話は、飯の前にするもんじゃない」

 

ネウロが愉快そうに笑った。

 

「なるほど。食前には重い味か」

 

キラが少しだけ顔をしかめる。

 

「旅館に戻りましょう」

 

承太郎が頷く。

 

「そうだな」

 

旅館へ戻る坂道で、朝日が港を照らし始めていた。

 

防波堤は、何事もなかったようにそこにある。

 

ただのコンクリートの壁。

海を受け止めるための場所。

 

けれど、カイエンは一度だけ振り返った。

 

「……魚がいないわけじゃないな」

 

ソープが言う。

 

「寄りつけないんだろうね」

 

露伴はメモする。

 

「防波堤。魚影なし。糸が海ではなく石に引かれた」

 

キラは小さく息を吐いた。

 

「朝から、不穏ですね……」

 

カイエンは竿を返した手を軽く振った。

 

「まあ、ボウズだったことだけは確かだ」

 

ソープが笑う。

 

「そこは認めるんだ」

 

「認めるさ」

カイエンは肩をすくめた。

「釣れない時は釣れない」

 

承太郎が短く言う。

 

「飯だ」

 

その一言で、一同は旅館へ向かった。

 

______________________________

 

旅館のロビーへ戻ると、ちょうど女子組も部屋から出てきたところだった。

 

弥子は、朝食への期待で目が輝いている。

 

「あ! 釣れた!?」

 

カイエンは一瞬だけ黙った。

 

それから、堂々と言った。

 

「釣れなかった」

 

弥子は驚いた。

 

「えっ、カイエンさんでも!?」

 

アウクソーが静かに補足する。

 

「釣果はございませんでした」

 

弥子が少し残念そうにする。

 

「朝ごはんに魚追加できるかと思ったのに……」

 

キラが即座に言う。

 

「朝食は旅館のプラン内で十分だよ」

 

泉がカイエンの顔を見る。

 

「何かありました?」

 

カイエンは少しだけ視線を外す。

 

「魚がいなかっただけさ」

 

露伴が言う。

 

「魚がいなかったのではない。魚が寄りつかなかった」

 

泉の顔が引きつる。

 

「先生、朝食前に不穏な話を始めないでください」

 

ネウロが笑う。

 

「ククク……ならば食後にしよう」

 

弥子がすぐ言った。

 

「そう! まず朝ごはん!」

 

ラクスは静かに一同を見た。

 

「皆さま、まずは温かい朝食をいただきましょう」

 

アウクソーも頷く。

 

「本日の予定は、朝食後に再確認いたします」

 

弥子は両手を握った。

 

「よし! 朝ごはん!」

 

カイエンは小さく笑った。

 

「朝から元気だな」

 

弥子は胸を張る。

 

「昨日に勝って、今日が来たからね!」

 

その言葉に、キラが少し笑った。

 

露伴は何も言わず、ただメモを取った。

 

昨日に勝って、今日が来た。

 

潮騒は、朝の光の中では穏やかに聞こえていた。

 

だが、防波堤の下で聞こえたあの低い音だけが、カイエンの耳に残っている。

 

釣れなかった朝。

 

それは、ただのボウズではなかった。

 

 

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