守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
大きな窓の向こうに、朝の港が見える。
昨夜の黒い海とは違い、今は光を受けた水面が穏やかに揺れていた。
食事処には、焼き魚の香りと味噌汁の湯気が満ちている。
弥子は席に着いた瞬間、目を輝かせた。
「朝ごはん!!」
目の前に並ぶのは、旅館らしい和朝食だった。
焼きたての干物。
小鉢。
しらすおろし。
温泉卵。
海苔。
漬物。
塩辛。
湯豆腐。
味噌汁。
そして、白いご飯。
朝の海の幸は、夕食の舟盛りとはまた違っていた。
派手ではない。けれど、ひとつひとつがご飯を呼ぶ。
弥子は箸を持つ前から、すでに戦闘態勢だった。
キラはその様子を見て、少しだけ身構える。
「弥子ちゃん、朝食は旅館のプラン内だけど……」
弥子は真顔で返した。
「分かってる」
「本当?」
「うん。常識の範囲で食べる」
泉が小声で言う。
「弥子ちゃんの常識って、どの辺なんだろう……」
アウクソーは淡々と答えた。
「本日の朝食においては、ご飯のおかわり三杯までを推奨いたします」
弥子が目を見開いた。
「たった三杯だけ!?」
キラが即座に言う。
「十分多いよ!?」
ネウロが笑った。
「ククク……一ヤコの基本燃料としては、控えめだな」
露伴がメモを取りかける。
「一ヤコ朝食時燃料換算――」
泉が止める。
「先生、朝から記録しないでください」
カイエンは味噌汁を見ながら言う。
「三杯なら可愛いものじゃないか」
キラが振り向く。
「カイエンさん、基準を広げないでください」
ラクスは穏やかに微笑んだ。
「弥子さん、朝市もございますから」
弥子の表情が変わった。
「朝市……」
アウクソーは頷く。
「朝市では、焼き貝、揚げかまぼこ、イカ焼き、干物の試食、地元プリン等への接触が想定されます」
弥子の目が輝く。
「全部おいしそう!!」
キラは静かに言った。
「ほら、もう予測が当たってる……」
そこへ、仲居がご飯のお櫃を置いた。
「ご飯はおかわり自由ですので、遠慮なくお申し付けください」
その一言で、空気が変わった。
弥子の目が、きらりと光る。
「……今、なんて?」
泉が小さく言う。
「弥子ちゃん?」
「おかわり自由……?」
キラの表情が引き締まった。
「弥子ちゃん、常識の範囲でね」
弥子は深く頷いた。
「うん。常識の範囲の三杯」
キラは少し考えた。
「一般的には多いけど……今日はそれで」
アウクソーが補足する。
「朝市での追加摂取を考慮し、三杯までは許容範囲かと」
弥子は箸を構えた。
「よし!」
ネウロが言う。
「白米に戦意を向ける女」
「朝ごはんに敬意を払ってるの!」
弥子はまず干物をほぐした。
白いご飯に、焼き魚。
そこへ少し醤油。
一口。
弥子の表情がほどける。
「……勝った」
泉が笑う。
「まだ一口目だよ」
「朝に勝った」
キラも少し笑った。
「それはいい勝ち方だね」
弥子は次に塩辛へ箸を伸ばす。
「これ、ご飯進むやつ!」
キラの会計表には影響しない。
しかし、白米消費量には影響する。
弥子はあっという間に一杯目を空にした。
「おかわりお願いします!」
仲居は少し驚いたが、すぐににこやかにご飯をよそってくれた。
「まあ、気持ちよく召し上がりますねぇ」
キラがなぜか頭を下げる。
「すみません……うちの弥子が……」
弥子が振り向いた。
「うちの弥子って何!?」
承太郎が短く言う。
「よく食うな」
弥子は胸を張る。
「朝ごはんだから!」
承太郎は少しだけ口元を緩めた。
「そうか」
露伴がメモした。
「空条承太郎、弥子の食欲を受容」
「書くな」
「もう書いた」
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二杯目。
弥子は温泉卵をご飯にかけた。
黄身が崩れ、白米に絡む。
「これは……二勝目!」
泉が笑う。
「勝敗制なんだ」
「そう!」
キラは味噌汁を飲みながら、ようやく少し安心していた。
朝食はプラン内。
おかわり自由。
つまり、今のところ会計表は燃えていない。
ラクスがそれに気づいて微笑む。
「キラ、少し表情が柔らかくなりましたわ」
「うん。朝食は大丈夫そうだから」
カイエンが言う。
「会計准将にとって、おかわり自由は防衛線か」
キラは苦笑する。
「否定できません」
ソープはしらすおろしを味わいながら言う。
「朝食の海の幸は、夕食とは違うね。派手さより、生活に近い」
露伴は頷く。
「いい表現だ」
「港町の朝は、祝宴ではなく日常として海を食う」
泉が言う。
「先生、今日は普通にいいこと言ってますね」
「いつも言っている」
「そうでしたっけ?」
ネウロは塩辛を見ながら笑った。
「人間界の塩辛は、魚介の内臓を塩に漬けるのか」
弥子が警戒する。
「変な話にしないでよ」
「魔界の塩辛は、漬けられた側が漬けた者を覚えている」
「蓋を開けると、恨み言が発酵している」
泉が箸を止める。
「朝食中です!!」
カイエンが乗ろうとする。
「ジョーカー太陽星団の塩辛は――」
アウクソーが静かに言う。
「マスター」
カイエンは味噌汁を飲んだ。
「……何でもない」
ソープが笑う。
「朝から止められたね」
弥子は力強く言った。
「普通の塩辛、最高!」
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弥子の三杯目は、海苔と漬物としらすおろしだった。
キラが感心したように見る。
「ちゃんと三杯で組み立ててる……」
弥子は真剣だった。
「一杯目は干物。二杯目は温泉卵。三杯目は海苔としらす」
「朝ごはんには構成がある」
露伴が目を輝かせる。
「いい。食欲の構成論」
泉が即座に言う。
「先生、広げないでください」
仲居が近くを通りかかり、弥子の茶碗をちらりと見た。
「おかわり、もう一杯いかがですか?」
弥子の手が止まった。
キラの手も止まった。
アウクソーが静かに弥子を見る。
「弥子様」
「はい」
「朝市がございます」
弥子は目を閉じた。
朝市。
焼き貝。
揚げかまぼこ。
イカ焼き。
地元プリン。
弥子は茶碗を置いた。
「……三杯で止めます!」
キラが小さく拍手した。
「えらい」
泉も言う。
「ほんとに偉い」
ラクスが微笑む。
「未来の楽しみを残す、よい判断ですわ」
ネウロが笑う。
「食欲に未来設計が生まれたか」
「うるさい!」
仲居はにこにこしていた。
「美味しそうに召し上がっていただけて、こちらも嬉しいです」
弥子は元気よく頭を下げる。
「すごく美味しかったです! ごちそうさまでした!」
その笑顔に、仲居も嬉しそうだった。
キラはほっと息を吐く。
「旅館に迷惑をかけない範囲で、ちゃんと楽しめましたね」
カイエンが笑う。
「坊や、朝から保護者だな」
「否定しません……」
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朝食の途中、弥子が改めてカイエンを見た。
「そういえば、カイエンさん、本当に一匹も釣れなかったんですか?」
カイエンは焼き魚を食べながら、少しだけ眉を上げた。
「釣れなかったね」
弥子は不思議そうに言う。
「カイエンさん、なんか釣りも上手そうなのに」
ソープが言った。
「フォームは完璧だったよ」
露伴も続ける。
「重心移動、竿の振り抜き、仕掛けの飛距離。どれも悪くなかった」
カイエンは少し嫌そうにする。
「褒めるなら釣果がある時にしてくれ」
アウクソーが淡々と言う。
「釣果はございませんでした」
「二回言わなくていい」
承太郎が短く言う。
「魚がいなかった」
ネウロが笑う。
「いや、魚が寄りつかなかった」
泉がすぐ顔をしかめる。
「朝食中にまた不穏な方へ行かないでください」
キラも頷く。
「まず朝ごはんを食べましょう」
露伴は味噌汁を置き、静かに言った。
「だが、防波堤は調べる必要がある」
ラクスが海の見える窓の方へ目を向けた。
「防波堤……」
彼女は何かを聞くように、ほんの少しだけ黙った。
弥子が気づく。
「ラクスさん?」
ラクスは微笑んだ。
「いえ。今は、朝食をいただきましょう」
その声は穏やかだった。
けれど、キラは一瞬だけラクスを見た。
何かを感じ取ったのかもしれない。
あるいは、ラクスが何かを感じ取ったことに、キラが気づいたのかもしれない。
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食事が一段落した頃、露伴はふと壁の方へ目を向けた。
朝食会場の隅に、古い写真が飾られていた。
旅館の創業当時らしい写真。
食事処の前で、従業員と客が並んでいる。
その背景には、窓越しに港が写っていた。
そして、港の向こう。
小さく、防波堤。
その防波堤の端に、また一人。
顔のぼやけた男。
露伴の表情が変わった。
「……まただ」
泉が嫌な予感を覚える。
「先生?」
露伴は立ち上がり、写真に近づいた。
カイエンも続く。
キラ、ラクス、承太郎、ソープ、アウクソーも視線を向ける。
ネウロは、最初から気づいていたように笑っていた。
弥子も口元を拭きながら写真を覗き込む。
「また、あの人?」
露伴は低く言う。
「食堂、灯台、男湯の脱衣所、そしてここ」
「場所は違う。年代も違う」
「だが、同じように顔だけがぼやけている」
泉が小さく言う。
「写真が古いから……ではないんですよね」
露伴は頷く。
「他の人物は鮮明だ」
「ぼやけているのは、こいつだけだ」
ネウロが笑う。
「記録に残りたいのか、残りたくないのか」
「実に中途半端な未練だ」
ラクスは写真を見つめたまま、静かに言った。
「この方は、どなたかを待っているのでしょうか」
ソープが少しだけ目を細める。
「それとも、誰かに待たれているのかもしれないね」
カイエンは防波堤の端に写る影を見ていた。
「朝、糸が引かれた場所に近いな」
承太郎が短く言う。
「またあそこか」
キラの表情が少し曇る。
「朝市の前に、調べますか?」
弥子が即座に言った。
「朝市は行く!」
全員が弥子を見る。
弥子は真剣だった。
「行く! でも、その写真のことも気になる!」
「だから、朝市行って、そのあとちゃんと調べる!」
泉が少し笑った。
「どっちも大事なんだね」
弥子は頷く。
「うん。怖いことだけで今日を埋めたくない」
ラクスが静かに微笑んだ。
「弥子さんらしいですわ」
露伴はその言葉を聞いて、写真から目を離した。
「いいだろう」
「朝市へ行く。その後、防波堤だ」
泉が即座に言う。
「先生、勝手に予定を決めないでください」
アウクソーが旅程表を確認する。
「朝市散策後、防波堤周辺の確認。昼食前に旅館へ一度戻るのが妥当かと存じます」
キラは頷く。
「その流れなら、会計的にも安全です」
カイエンが笑う。
「会計的にも、か」
キラは真面目だった。
「大事です」
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弥子は最後にお茶を飲み、満足そうに息を吐いた。
「朝ごはん、美味しかったー!」
泉も頷く。
「ちゃんと食べると、落ち着くね」
承太郎は短く言う。
「悪くなかった」
露伴が言う。
「また最大級評価か」
承太郎が見る。
「書くな」
「もう覚えた」
「忘れろ」
ソープは窓の外の海を見ながら言った。
「朝の海は、夜より優しい顔をしているね」
ネウロが笑う。
「優しい顔ほど、腹の中は見えん」
弥子が言う。
「朝食後にそういうこと言わない!」
ラクスは静かに湯呑みを置いた。
「でも、今日もきっと大丈夫です」
「皆で参りましょう」
キラはその言葉に少し安心したようだった。
アウクソーは全員の様子を確認する。
「では、朝市へ向かう準備をいたしましょう」
弥子は立ち上がる。
「朝市!」
キラも会計表を手に取る。
「買い食いは計画的にね」
弥子は笑った。
「任せて!」
ネウロが即座に言う。
「任せると破綻するぞ」
「しない!」
露伴は、もう一度写真を見た。
顔のぼやけた男は、防波堤の端に立っている。
見ているのは海か。
港か。
それとも、帰ってこなかった誰かか。
潮騒が、朝の食事処にもかすかに届いていた。
今はまだ、ただの波音。
だが、写真の中の男だけが、音の向こう側に立っているように見えた。