守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
弥子は地元プリンを大事そうに冷蔵庫へ入れ、キラは会計表に朝市分を記録し、アウクソーは購入品と予定を確認する。
「朝市分、予備費内です」
キラがそう言うと、弥子は胸を張った。
「計画的買い食い!」
ネウロが笑う。
「ククク……制御された暴食か」
「暴食じゃない!」
泉は旅館のロビーで、少しだけ息を整えた。
「では、この後は……」
露伴が言う。
「防波堤だ」
泉は分かっていた、という顔をした。
「ですよね……」
カイエンは窓の外、防波堤の方を見ていた。
「朝はボウズだったが、釣れないだけならまだいい」
「糸が、海じゃなく石に引かれた」
キラの表情が引き締まる。
「下見だけにしましょう。危なそうなら、すぐ戻る」
ラクスは静かに頷いた。
「ええ。無理はいたしません」
承太郎は帽子をかぶり直した。
「行くなら固まって動け」
アウクソーも続ける。
「足元、風向き、防波堤の状態を確認しながら進みます」
弥子は少しだけ緊張しながらも、しっかり頷いた。
「うん。怖いのは嫌だけど……気になる」
ソープは穏やかに言った。
「怖いものを見に行くんじゃないよ」
「怖い理由を確かめに行くんだ」
ネウロが口元を歪める。
「理由があるなら、吾輩の食事になる」
泉が小さく言う。
「食事の意味が違う……」
防波堤へ向かう道は、朝市の賑わいから少し離れるだけで、急に静かになった。
同じ港町の中なのに、空気が違う。
魚を焼く匂いも、呼び込みの声も遠のき、代わりに聞こえてくるのは、波がコンクリートにぶつかる低い音だった。
海風は吹いている。
けれど、なぜか空気が動いていないように感じる。
弥子が首をすくめた。
「……なんか、変」
泉も小さく頷く。
「風はあるのに、空気が淀んでる感じがします」
露伴はメモ帳を出した。
「いい表現だ。風があるのに、流れない空気」
泉が言う。
「先生、感動するところじゃないです」
カイエンは防波堤の先を見ている。
「朝もこうだったな。ただ、今の方が濃い」
ソープが低く言った。
「人が増えたからかもしれない」
キラが聞く。
「人が?」
「海へ出た者を呼ぶ声と、岸で待つ者の声」
「どちらも、人がいる場所に寄ってくる」
ラクスは黙って海を見た。
彼女の表情は穏やかだったが、キラには分かった。
ラクスは、何かを聞いている。
まだ歌にはならない。
まだ言葉にもならない。
けれど、確かに何かを聞いている。
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防波堤の上に出ると、潮騒が一段低くなった。
海は明るい。
空も晴れている。
それなのに、防波堤の周囲だけが、少し暗く見えた。
承太郎が先に立ち、弥子と泉を内側へ寄せる。
「端へ行くな」
弥子は素直に従った。
「はい」
泉も頷く。
「今回は本当に、お願いします……」
カイエンは朝に糸を切った場所へ向かう。
「ここだ」
露伴が膝をついて防波堤の縁を観察した。
「傷があるな」
コンクリートの端に、細い擦過痕が残っている。
釣り糸が食い込んだような傷。
だが、普通の糸でつく傷には見えない。
アウクソーが確認する。
「糸が引かれた方向は、海側ではなく防波堤内部へ向いております」
キラが眉を寄せる。
「つまり……石の中へ?」
ネウロが笑う。
「ククク……海に釣り糸を垂れたつもりが、岸に喰われたか」
弥子が嫌そうな顔をする。
「防波堤が食べるとか言わないで」
その時。
波音に混じって、声がした。
小さい。
けれど、確かに。
帰ってきて。
弥子が息を止めた。
泉が震える。
「今……」
今度は、別の声。
帰れない。
キラがラクスを見た。
ラクスは、目を伏せていた。
そして、また別の声。
戻れ。
戻るな。
帰ってきて。
帰れない。
声はひとつではなかった。
灯台の時のような、反響による矛盾ではない。
もっと雑然としている。
もっと湿っている。
たくさんの声が、波に混ざって、防波堤に染みついている。
露伴は低く言った。
「これは……灯台とは違う」
ネウロが頷く。
「あれは音の構造だった」
「これは感情の沈殿だ」
カイエンは一歩、海側へ近づこうとした。
その瞬間、足元の影が揺れた。
いや、影ではない。
防波堤の縁の水たまりが、風もないのに海側へ伸びた。
まるで、手のように。
承太郎が即座に声を出す。
「下がれ」
カイエンは反応した。
一歩引く。
水たまりは、届かなかった。
だが、弥子には見えてしまった。
その水の中に、一瞬だけ顔があった。
男の顔。
ぼやけている。
写真の中と同じように。
「いた……!」
弥子の声に、全員が反応する。
露伴が叫ぶ。
「どこだ!」
「水の中! 今、水たまりの中に!」
泉は完全に青ざめていた。
「帰りましょう。これは下見ですよね? 下見ですよね!?」
キラも即座に頷く。
「戻りましょう。今は深入りしない方がいい」
ラクスが静かに言った。
「まだ、声がほどけていません」
ネウロはラクスを見た。
「ほう」
ラクスは防波堤の先を見つめている。
「誰かを呼ぶ声と、帰れない声が、絡まっています」
「このままでは、どちらも届きません」
ソープが言った。
「ほどくには、音が要るね」
ネウロは笑った。
「歌か」
ラクスは答えなかった。
ただ、海を見ていた。
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その時、防波堤の下から強い波が打ちつけた。
ざばん、と大きな音。
全員が一瞬身構える。
その音に混じって、はっきりと聞こえた。
帰ってきて。
弥子は拳を握った。
「……怖い」
素直にそう言った。
それから、もう一度言った。
「でも、悲しい」
その言葉に、空気が少し変わった。
泉も小さく頷く。
「うん……怖いけど、ただ怖いだけじゃない」
露伴はその二人を見た。
「いいな」
泉が即座に言う。
「先生、今のはメモしないで――」
露伴はもう書いていた。
「遅い」
弥子は少しだけ笑った。
「まあ、いいです。今のは」
承太郎は海から目を離さない。
「今日はここまでだ」
カイエンも頷いた。
「賛成だ。朝飯のあとに、海に引きずり込まれる趣味はない」
ネウロは不満げではなく、むしろ楽しそうだった。
「まだ熟している途中だ」
「昼を挟むには悪くない」
キラは苦笑した。
「昼食の前提が変ですよ……」
ラクスが皆を見た。
「一度、港へ戻りましょう」
アウクソーが予定を確認する。
「昼食を取り、休息後、必要であれば改めて防波堤周辺を確認する流れが妥当です」
泉が強く頷く。
「はい。それがいいです」
弥子も頷いた。
「うん。……お昼食べよう」
ネウロが笑う。
「ククク……恐怖から昼食へ逃げるか」
弥子は振り返った。
「逃げるんじゃない」
「ちゃんと戻るの!」
その言葉に、キラが少し笑った。
「うん。戻ろう」
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昼食は、港近くの落ち着いた定食屋に入ることになった。
朝市の喧騒から少し離れた、古い木造の店だった。
暖簾には、控えめに「浜定食」と書かれている。
中は静かで、地元の人が数人、ゆっくり食事をしていた。
窓からは港が見える。
防波堤は少し遠い。
弥子はメニューを開いて、少しずつ元気を取り戻した。
「焼き魚定食……煮魚定食……刺身定食……あら汁定食……!」
キラもメニューを見た。
「ここは落ち着いてますね。値段も……まあ、観光地としては普通」
ソープが頷く。
「地元の人も入っている店だね。こういう店は信用できる」
カイエンが言う。
「また市場監査官みたいなことを」
「旅人目線だよ」
「嘘つけ」
弥子は真剣に悩む。
「煮魚……でも焼き魚……いや、あら汁も……」
泉が微笑む。
「さっき怖かったのに、ちゃんと悩めるの、すごいね」
弥子は顔を上げた。
「怖かったよ。今も怖い」
「でも、だからって、お昼をまずくしたくない」
ラクスは静かに微笑んだ。
「弥子さんらしいですわ」
最終的に、弥子は煮魚定食と小さなあら汁を選んだ。
キラは少しだけ目を細める。
「小さなあら汁?」
弥子は真剣に答えた。
「小さな、です」
アウクソーが会計表を確認する。
「許容範囲内です」
弥子は勝ったような顔をした。
「やった!」
ネウロが言う。
「許可制の胃袋」
「うるさい!」
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料理が運ばれてくると、店の空気が一段やわらかくなった。
煮魚は照りよく、箸を入れるとほろりと身が崩れた。
焼き魚は皮が香ばしく、味噌汁は磯の香りがする。
あら汁は、魚の旨味がしっかり出ている。
弥子が煮魚を一口食べて、目を閉じた。
「……勝った」
泉が聞く。
「何に?」
弥子は箸を握ったまま言った。
「ちょっと怖い思いもしたけど、昼食が美味しいから勝ち!」
キラは少し笑った。
「弥子ちゃんらしいね」
承太郎は焼き魚を食べて、短く言う。
「悪くねぇ」
露伴がすぐ反応する。
「また最大級評価だな」
「違う」
「違わない」
カイエンは煮魚を食べながら言う。
「うまいな。朝のボウズが少し癒える」
ソープが笑う。
「魚は釣れなかったけど、食べる魚はある」
カイエンは肩をすくめた。
「それで十分かもしれんな」
ネウロはあら汁を見つめていた。
「人間界のあら汁は、骨の残りから味を取るか」
弥子が警戒する。
「変な話にしないでよ」
ネウロは笑う。
「魔界のあら汁では、骨が鍋の底で次の体を待つ」
泉が箸を止める。
「昼食中です!!」
弥子はあら汁をすすり、力強く言った。
「普通のあら汁、最高!」
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昼食の間、防波堤の話はほとんど出なかった。
出そうになるたび、泉が止めた。
キラも止めた。
弥子も「食べてから!」と言った。
露伴は少し不満そうだったが、珍しく従った。
ただ、ラクスだけは時折、窓の向こうの海を見ていた。
キラはそれに気づく。
「ラクス」
ラクスは振り返り、微笑んだ。
「大丈夫ですわ」
「……本当に?」
「はい。ただ……」
ラクスは少しだけ言葉を選んだ。
「あの声は、誰かに届きたがっているのだと思います」
キラは静かに頷いた。
「届かないから、あそこに残ってる?」
「そうかもしれません」
ネウロが横から言う。
「届かぬ声ほど、よく腐る」
泉がすぐ止める。
「だから昼食中!」
ネウロは笑った。
「ならば、食後に腐敗の話をしよう」
「しなくていいです!」
弥子は煮魚をきれいに食べ終えて、満足そうにお茶を飲んだ。
「ごちそうさまでした」
アウクソーが少しだけ柔らかく言う。
「弥子様、本日の昼食も適量です」
弥子は胸を張った。
「計画的!」
キラは会計表を見て、安心したように頷く。
「予備費内です」
カイエンが笑う。
「会計准将、本日も戦線維持か」
キラは少し諦めたように笑った。
「はい。維持できてます」
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店を出ると、港の空気は昼の色になっていた。
朝よりも光が強い。
人の声も増えている。
けれど、防波堤の方角だけは、やはり少し重い。
弥子はそちらを見てから、もう一度食堂を見て
「怖いことだけじゃない」
小さく、そう言った。
ラクスが隣で頷く。
「ええ」
露伴は歩きながらメモを取る。
海に呼ばれる声。岸から呼ぶ声。
防波堤は、境界ではなく、両方の声がぶつかる場所。
ネウロがそれを横目で見て笑う。
「漫画家よ、だいぶ近づいたな」
露伴は返す。
「近づいたのは僕だけじゃない」
ネウロは笑った。
「そうだな」
キラは皆を見渡した。
「一度旅館に戻りますか?」
アウクソーが頷く。
「昼食後の休息を挟むのが安全です」
承太郎が短く言う。
「そうしろ」
カイエンは防波堤を見た。
「午後か」
ソープが静かに言う。
「午後だね」
ラクスは、まだ何も言わない。
ただ、その表情は少しだけ覚悟を帯びていた。
潮騒は、昼の光の中でも、かすかに低く鳴っている。
次に防波堤へ向かう時、ただの下見では済まない。
一行は、それを何となく分かっていた。
それでも弥子は、店を出る前にもう一度振り返って言った。
「美味しかったです!」
店の人が笑う。
「またおいで」
弥子は元気よく頷いた。
「はい!」
怖い声があっても。
防波堤が待っていても。
今日の昼食は、美味しかった。
だから、まだ勝てる。