守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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昼食を終えた一行は、一度旅館へ戻った。

港町の午後は、朝よりも少しだけ明るく、少しだけ暑い。
けれど、旅館のロビーへ入ると、涼しい空気と畳の匂いが迎えてくれた。

弥子は言う。

「ちょっと休憩!」

泉は深く頷いた。

「それがいいです。本当に、それがいいです」

誰も反対しなかった。

朝の防波堤。
糸が石に引かれたような感触。

昼前の防波堤。
海に呼ばれる声。
岸から呼ぶ声。
水たまりに見えた、顔のぼやけた男。

それらは、明るい昼の中でも消えなかった。

見ないふりをしようと思えばできたかもしれない。

けれど、もう全員が分かっていた。

あそこには、まだ何かが残っている。


岸辺露伴は潮騒を聞く その15

女子部屋では、弥子が畳に座り込んでいた。

 

「はー……昼ごはん美味しかった……」

 

泉も座布団に腰を下ろす。

 

「弥子ちゃん、その回復力は本当にすごいね」

 

弥子は少しだけ笑った。

 

「いや、怖いものは怖いですよ」

「でも、美味しいものは美味しいし」

 

ラクスは窓辺に立ち、海の方を見ていた。

 

港の向こう、防波堤が小さく見える。

 

アウクソーはその横顔を見ていた。

 

「ラクス様」

 

ラクスは振り返る。

 

「はい」

 

「午後、防波堤へ向かわれるおつもりですか」

 

その問いに、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

泉がすぐに顔を上げる。

 

「待ってください」

「本当に、また行くんですか?」

 

ラクスはすぐには答えなかった。

 

窓の向こうで、海が光っている。

 

泉は少し早口になった。

 

「さっき、危ない感じがしましたよね?」

「灯台でも危なかったし、防波堤でも変な声がして……」

 

「わざわざ危険に近づく必要はないと思います」

 

アウクソーも静かに続ける。

 

「泉様のご意見は妥当です」

「現時点で、防波堤周辺の安全確認は不十分です」

 

「再接近は推奨できません」

 

弥子はプリンの袋をぎゅっと握った。

 

「うん……あたしも、怖い」

 

ラクスは静かに頷いた。

 

「ええ」

 

そして、ゆっくりと言った。

 

「わたくしも、確かに怖いですわ」

 

その言葉は、とても静かだった。

 

だからこそ、部屋の中によく響いた。

 

泉は少し驚いた顔をする。

 

ラクス・クラインが、怖いと言った。

 

それは、弱さではなかった。

 

怖いと認めたうえで、それでも目をそらさない人の言葉だった。

 

ラクスは続ける。

 

「けれど、あの声はまだ届いておりません」

「呼ぶ声も、帰れない声も、絡まったままです」

 

アウクソーはわずかに目を伏せる。

 

「ですが、危険です」

 

「はい」

 

「ラクス様ご自身が危険に晒される可能性があります」

 

「はい」

 

「それでも、向かわれるのですか」

 

ラクスは、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「わたくしに出来ることをします」

「あの悲しみを癒せるなら、止められるなら」

 

泉は言葉を失った。

 

弥子は、ゆっくりとラクスを見た。

 

「ラクスさん……」

 

ラクスは弥子へ視線を向ける。

 

「弥子さん。怖いときは、怖いと言ってよいのです」

「それでも、怖いだけで終わらせたくないと思うことも、きっと間違いではありません」

 

弥子は少しだけ唇を結んだ。

 

そして、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

______________________________

 

 

同じ頃、男子部屋でも話は避けられなかった。

 

キラは窓際に立ち、防波堤を見ていた。

 

カイエンは畳に座り、腕を組んでいる。

ソープは湯呑みを持って、静かに海を見ていた。

 

「ラクスは行くと思う」

 

キラが言った。

 

カイエンは短く返す。

 

「だろうな」

 

ソープも頷いた。

 

「止まらないだろうね」

 

キラは視線を落とす。

 

「止めるべきなのかな」

 

カイエンは少しだけ考えた。

 

「止めたいのかい?」

 

キラはすぐには答えなかった。

 

「危険だから」

「また何かあったら……」

 

ソープは穏やかに言う。

 

「キラ。止めることと、守ることは違うよ」

 

キラは振り返った。

 

ソープは海を見たまま続ける。

 

「彼女が聞いてしまった声を、なかったことにはできない」

「それを無理に止めても、きっとラクスは苦しくなる」

 

カイエンは頷いた。

 

「坊や。ああいう目をした人間は、止めても行く」

「なら、止めるより先に、行くならどう守るか考えた方がいい」

 

キラは拳を握った。

 

「守る……」

 

カイエンは少しだけ笑う。

 

「君の得意分野じゃないのかい」

 

その時、廊下から低い声がした。

 

「話は聞こえた」

 

承太郎だった。

 

彼は部屋の入口に立っている。

 

キラが振り向く。

 

「承太郎さん」

 

承太郎は短く言った。

 

「行くなら、前は俺が見る」

 

カイエンが笑う。

 

「頼もしいな」

 

承太郎は帽子のつばを押さえた。

 

「落ちるやつは、もう出さねぇ」

 

その一言に、キラは強く頷いた。

 

______________________________

 

午後の光が少し傾き始めた頃、一行はロビーに集まった。

 

泉はまだ不安そうだった。

 

「本当に……行くんですね」

 

露伴は当然のように言う。

 

「行く」

 

泉が睨む。

 

「先生には聞いてません」

 

「僕は行く」

 

「そうでしょうね!」

 

ネウロは笑っている。

 

「ククク……食卓が整うなら、吾輩も行く」

 

弥子がすぐに言う。

 

「食卓って言うな!」

 

アウクソーは全員の位置を確認しながら、静かに話し始めた。

 

「防波堤へ向かう場合、行動範囲を制限します」

「端部への接近は禁止」

「弥子様、泉様は中央側を歩いてください」

「承太郎様、カイエン様は海側の警戒をお願いいたします」

「キラ様はラクス様の護衛を最優先に」

 

キラははっきり頷いた。

 

「はい」

 

ラクスはそのキラを見た。

 

そして、静かに言う。

 

「キラ」

 

「ラクス」

 

「わたくしも、確かに怖いですわ」

 

キラの表情が少し痛む。

 

けれど、ラクスはそのまま続けた。

 

「でも、貴方が居ます。キラ」

「だって、もしものときには――」

 

彼女は、まっすぐにキラを見た。

 

「キラ、貴方が私を守ってくれるのでしょう?」

 

ロビーの空気が止まった。

 

弥子も、泉も、カイエンも、承太郎も。

誰も口を挟まなかった。

 

キラは、ラクスを見返した。

 

一瞬、迷いがあった。

 

危険へ行かせたくない。

怖い目に遭わせたくない。

自分が止めればいいのではないか。

 

でも、ラクスは逃げようとしているのではない。

 

声に向かおうとしている。

 

誰かの悲しみに、届こうとしている。

 

キラは深く息を吸った。

 

そして、言った。

 

「ああ、ボクが君を守る」

「かならず、ボクが!」

 

ラクスは静かに微笑んだ。

 

「はい」

 

カイエンが、少しだけ口元を上げる。

 

「言うじゃないか、坊や」

 

承太郎も短く言った。

 

「見直したぜ」

 

キラは少し照れたように目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

 

「行きましょう」

 

その声に、もう迷いはなかった。

 

______________________________

 

泉は、まだ怖かった。

 

「正直、私は行きたくないです」

 

弥子が隣で頷く。

 

「あたしも怖いです」

 

泉は弥子を見る。

 

弥子は続けた。

 

「でも、ラクスさんだけ行かせるのは嫌です」

「それに……あの声、怖かったけど、悲しかったから」

 

泉はしばらく黙っていた。

 

それから、深く息を吐く。

 

「分かりました」

「行くなら、私も行きます」

「でも、危ないと思ったらすぐ戻りますからね!」

 

露伴が言う。

 

「当然だ」

 

泉が即座に返す。

 

「先生が一番戻らなさそうだから言ってるんです!」

 

「失礼だな」

 

「事実です!」

 

アウクソーは静かに言った。

 

「退避判断は私と承太郎様、カイエン様、キラ様で共有します」

「ラクス様の行動中、周囲の安全確保を優先します」

 

カイエンが頷く。

 

「任せな」

 

承太郎も短く言う。

 

「問題ない」

 

ソープは、少しだけ海の方へ目を向けた。

 

「防波堤へ着いたら、たぶん風と波が邪魔をする」

 

ネウロが笑う。

 

「声を届けさせたくないのだろう」

 

ソープは静かに言った。

 

「なら、少し静かにしてもらおうかな」

 

カイエンがソープを見る。

 

「君、またさらっと変なことを言うな」

 

ソープは笑った。

 

「大丈夫。壊したりはしないよ」

 

「信用していいのかい」

 

「男湯もちゃんと一回だけだっただろう?」

 

カイエンは少しだけ考えた。

 

「……そこを信用材料にするのか」

 

キラが少し笑った。

 

ラクスも小さく微笑む。

 

少しだけ、空気が軽くなった。

 

それでも、防波堤の方角には重いものが残っている。

 

______________________________

 

 

出発前、露伴はロビーの隅でメモを取っていた。

 

泉がそれに気づく。

 

「先生、今度は何を書いてるんですか」

 

露伴は答える。

 

「覚悟の形だ」

 

「覚悟?」

 

露伴はペンを止めない。

 

「ラクスは声に向かう覚悟をした」

「キラは守る覚悟をした」

「弥子と君は、怖いまま進む覚悟をした」

「カイエンと承太郎は、止める覚悟をした」

「アウクソーは、退路を確保する覚悟をした」

「ソープは場を整える覚悟をした」

「ネウロは喰う覚悟をしている」

 

泉は少し黙った。

 

「先生は?」

 

露伴は顔を上げた。

 

「描く覚悟だ」

 

泉は呆れたように笑った。

 

「先生らしいです」

 

「当然だ」

 

泉は少しだけ表情を和らげる。

 

「でも……今日は、それでいいです」

「ちゃんと見て、ちゃんと描いてください」

 

露伴は少しだけ意外そうにした。

 

それから、短く答えた。

 

「言われなくても」

 

______________________________

 

旅館を出ると、午後の海風が吹いた。

 

朝よりも強い。

 

港の声はまだある。

観光客の笑い声も、店の呼び込みも、船の音も聞こえる。

 

けれど、防波堤へ向かう道に近づくほど、その音は少しずつ遠のいていくようだった。

 

弥子は小さく呟く。

 

「さっきまで、あんなに賑やかだったのに」

 

ネウロが笑う。

 

「ククク……食卓の周りだけ静かになることはよくある」

 

「言い方!」

 

ラクスは歩きながら、静かに呼吸を整えていた。

 

キラはその隣にいる。

 

少し前を、承太郎が歩く。

 

カイエンは海側を見ている。

 

アウクソーは全員の位置を確認しながら進む。

 

泉は怖い顔をしながらも、弥子の隣を離れない。

 

ソープは、風を聞いているようだった。

 

露伴は歩きながら、メモ帳を閉じた。

 

ここから先は、書く前に見なければならない。

 

防波堤が近づく。

 

海が、少し荒れ始めていた。

 

波が、コンクリートに打ちつける。

 

ざばん。

 

ざばん。

 

まるで、誰かが扉を叩いているような音だった。

 

ラクスは立ち止まらない。

 

キラも、もう止めなかった。

 

ただ、彼女の少し後ろを歩きながら、静かに言った。

 

「ラクス」

 

ラクスは振り返る。

 

キラは、もう一度言った。

 

「僕が守る」

 

ラクスは微笑んだ。

 

「はい。信じていますわ」

 

その言葉を受けて、キラは前を向いた。

 

防波堤の上で、潮騒が低く鳴っている。

 

呼ぶ声と、帰れない声。

 

待つ者と、戻れない者。

 

午後の海は、もうただの波音ではいられなくなっていた。

 

一行は、防波堤へ向かった。

 

 

 






次回「その16」は、今回の章の大きな山場です。

ラクス・クラインの歌が、
港町に残された悲しみに届く回になります。

もし環境が許せば、
ぜひラクス・クライン(田中理恵さん)の
名曲「Fields of hope」を
BGM代わりに流しながら読んでいただけると嬉しいです。

歌が海を越えて届くような、
そんな場面を目指しました。




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