守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
天気が悪いわけではない。
空は明るく、雲も薄い。
港町の方からは、人の声も、店の音も、車の走る音も聞こえている。
それなのに、防波堤の上だけは違っていた。
風が強い。
波が打ちつける。
ざばん。
ざばん。
その音が、ただの波音ではないことを、一行はもう知っていた。
呼ぶ声。
帰れない声。
戻れという声。
帰ってきてという声。
それらが、海風と一緒に防波堤の上を這っていた。
泉は肩をこわばらせる。
「……やっぱり、ここ……嫌な感じがします」
弥子も、怖さを隠さなかった。
「うん。怖い」
けれど、弥子は逃げなかった。
ラクスも、逃げなかった。
ラクスは防波堤の中央に立ち、海を見つめている。
キラはその隣にいた。
ほんの少し後ろ。
でも、すぐ手が届く距離。
承太郎は海側を警戒し、カイエンは防波堤の端と足元を見ている。
アウクソーは退路と全員の位置を確認し続けていた。
ソープは波と風を聞いている。
露伴はメモ帳を手にしているが、まだ書いていない。
ネウロは、楽しそうに笑っていた。
「ククク……」
弥子が睨む。
「笑うな。怖いんだから」
「怖いなら逃げればいい」
「逃げない!」
ネウロは口元を歪めた。
「なら、見届けろ」
その時、大きな波が防波堤に打ちつけた。
ざばん。
水しぶきが上がる。
その音に混じって、はっきりと聞こえた。
帰ってきて。
次に。
帰れない。
そして。
戻れ。
戻るな。
泉が耳を塞ぎかける。
「もう……!」
ラクスが静かに言った。
「大丈夫です」
その声は、波よりも小さかった。
けれど、不思議と届いた。
「まだ、声がほどけていないだけですわ」
キラはラクスを見た。
「ラクス」
ラクスは、ほんの少しだけ振り返った。
「大丈夫です、キラ」
「僕が守る」
「はい」
そのやり取りに、カイエンが小さく笑った。
「言ったからには、頼むぜ、坊や」
承太郎も短く言う。
「前は俺が見る」
キラは頷いた。
「お願いします」
ラクスが一歩進もうとした時、風が強くなった。
まるで、歌わせまいとするように。
髪が揺れる。
服がはためく。
波が高くなる。
アウクソーが即座に言う。
「風速上昇。これ以上の接近は危険です」
泉が声を上げる。
「やっぱり戻りましょう!」
ラクスは足を止めた。
けれど、戻らない。
その時、ソープが静かに前へ出た。
カイエンが顔を向ける。
「ソープ?」
ソープは海を見ていた。
荒れる波。
鳴る風。
防波堤に染みついた声。
彼は、いつもの柔らかな表情のまま、少しだけ目を細めた。
「……うん」
ソープは、防波堤の縁に近づきすぎない位置で立ち止まる。
そして、海と風へ向けて、穏やかに語りかけた。
「僕たちが、今ここにいる」
風が鳴る。
波が打ちつける。
それでも、ソープは声を荒げない。
「だから、少し聴いておくれ」
その言葉は、命令ではなかった。
怒りでも、威圧でもなかった。
ただ、そこにあるものへ話しかけるような声。
「わかる……ね」
次の瞬間。
波が、低くなった。
風が、ほどけた。
防波堤に打ちつけていた音が、すっと遠のく。
荒れていた空気が、誰かに手で撫でられたように静まっていく。
泉が呆然と呟いた。
「凪……?……」
弥子も目を丸くする。
「今、ソープさんが……?」
カイエンは額に手を当てた。
「相変わらず、さらっと世界に話しかけるな」
ソープは振り返り、少しだけ笑った。
「聴いてくれそうだったから」
「普通は聴かないんだよ」
「そうかな」
露伴は息を呑むように見ていた。
「今のは……」
カイエンがすぐに言った。
「聞くな」
「聞くに決まっているだろう」
「後にしろ」
ソープはラクスを見る。
「さぁ、今だよ」
ラクスは静かに頷いた。
「はい」
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ラクスは海へ向き直った。
防波堤の上に、静けさが降りている。
完全な無音ではない。
波はある。
風もある。
けれど、声が届く余白ができていた。
ラクスは両手を胸の前で軽く重ね、目を閉じた。
キラはその隣に立つ。
少しでも何かが動けば、すぐに反応できる距離。
弥子は息を止めるように見守っていた。
泉は怖そうにしながらも、目を逸らさない。
アウクソーは退避経路を確認しつつ、ラクスの姿を見ていた。
承太郎とカイエンは、海側と足元を警戒している。
そしてラクスが、歌い始めた。
それは、大きな声ではなかった。
けれど、海へ向かってまっすぐに伸びていく声だった。
波の上を渡り、風の間を抜け、防波堤の古いコンクリートに染みこんだ何かへ、静かに触れていく。
弥子は、鳥肌が立つのを感じた。
「……すごい」
泉の目に、涙がにじむ。
「声が……広がっていく……」
キラは何も言わなかった。
ただ、ラクスを守るように立っていた。
その表情は、もう迷っていない。
ラクスの歌は、誰かを責める歌ではなかった。
帰れなかった者を責めない。
待ち続けた者も責めない。
ただ、そこに残った悲しみへ、そっと手を伸ばすような歌だった。
その時、防波堤の下から、声がした。
帰ってきて。
ラクスの歌が、それを包む。
次に。
帰れない。
歌は、それも拒まない。
戻れ。
戻れない。
待っている。
待たせた。
声が増えていく。
けれど、さっきまでのように絡まり合ってはいなかった。
ひとつひとつが、ほどけ始めていた。
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ネウロが、ゆっくりと前に出た。
弥子が気づく。
「ネウロ……?」
ネウロは海を見たまま笑う。
「ククク……歌でほどくか」
その手に、奇妙な楽器が現れた。
竪琴のようにも見える。
しかし弦は普通の弦ではない。
黒く、細く、光の角度によって骨のようにも影のようにも見える。
「魔界777ツ能力(どうぐ)――」
ネウロは、弦に指をかけた。
「哭弦の竪琴”イビルハープ”」
弥子は息を呑んだ。
「伴奏……するの?」
ネウロは目だけを弥子へ向ける。
「勘違いするな」
「歌を助けるのではない」
弦が鳴った。
低く、深い音。
それは楽器の音というより、海の底から響く音に似ていた。
「この腐った残響の骨を、浮かび上がらせるだけだ」
ラクスの歌に、ネウロの伴奏が重なった。
不思議な音だった。
優しくはない。
美しくもない。
けれど、ラクスの声が届いた場所から、何かを掘り起こすような音。
露伴の目が見開かれる。
「見える……」
防波堤の表面に、細い線が浮かび始めていた。
水の跡ではない。
ひびでもない。
声の軌跡。
波が何度も打ちつけた場所。
誰かが立ち続けた場所。
船を待った場所。
帰らなかった者の名前を呼んだ場所。
それらが、白く細い線になって見えた。
ネウロの伴奏が、その線を一本一本浮かび上がらせていく。
「……人間の声とは、時に妙なものだ」
「謎を隠すこともあれば、謎の奥を暴くこともある」
弥子はネウロを見た。
一瞬、彼の表情がいつもと違ったように見えた。
ほんのわずか。
ラクスの歌声を聞きながら、ネウロは別の歌を思い出しているようだった。
「歌姫というものは、どの世界でも面倒なものだな」
弥子は、小さく呟いた。
「……アヤさんのこと、思い出してる?」
ネウロは答えない。
ただ、弦を鳴らす。
その沈黙が、答えのようでもあった。
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防波堤の先に、水が集まり始めた。
波ではない。
人の形を作るように、潮が立ち上がる。
泉が息を呑む。
「……あれ……」
弥子も見た。
写真の中にいた男。
食堂に。
灯台に。
旅館に。
朝食会場に。
朝市の古い写真に。
いつも、顔だけがぼやけていた男。
その男が、防波堤の先に立っていた。
ただし、今も顔ははっきり見えない。
濡れたガラス越しのように、輪郭だけが揺れている。
露伴が低く言った。
「ようやく、出たな」
ネウロは笑う。
「出たのではない」
「浮いたのだ。沈んでいたものがな」
ラクスは歌い続ける。
男の影は、海を向いていた。
けれど、少しずつ、岸の方へ顔を向ける。
その向こうには、見えない人々の声があった。
帰ってきて。
待っていた。
ごめん。
帰れなかった。
それでも、待っていた。
防波堤が震える。
カイエンが身構える。
承太郎も一歩前へ出る。
キラはラクスの前に出かけたが、ラクスの歌を遮らない位置で止まった。
その時、男の影が一瞬、ラクスへ向かって伸びた。
海から伸びる手のような水。
キラが即座に動く。
「ラクス!」
彼はラクスの前へ出た。
しかし、水の手が届く前に、承太郎のスタープラチナが叩き落とす。
「オラァッ!」
同時に、カイエンが横から水の動きを断ち切るように足場を変えた。
「させるかよ」
水は崩れた。
ラクスの歌は止まらない。
キラは一瞬だけ振り返る。
ラクスは歌いながら、静かに頷いた。
大丈夫。
そう言っているようだった。
キラも頷く。
「守るって言ったからね」
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ラクスの歌が、防波堤の上に満ちていく。
ネウロの竪琴が、残響の骨を浮かび上がらせる。
ソープが作った凪が、その歌を海へ通す。
波が、もう暴れていない。
風も、声を邪魔しない。
防波堤に染みついた声が、少しずつ形を変えた。
帰ってきて、という声は、責める声ではなくなった。
帰れない、という声は、言い訳ではなくなった。
ただ、悲しみだった。
待っていた悲しみ。
戻れなかった悲しみ。
伝えられなかった悲しみ。
弥子の目から、涙がこぼれた。
「……なに、これ……」
泉も泣いていた。
「怖いのに……悲しい……」
ラクスの歌は、さらに遠くへ伸びていく。
海の彼方へ。
帰れなかった者たちの方へ。
待っていた者たちの方へ。
もう声になれなかった声の方へ。
顔のぼやけた男が、少しずつ見えてくる。
濡れた輪郭。
疲れた目。
長い間、どちらにも行けなかったような表情。
その男は、防波堤の上に立ち尽くしていた。
帰りたかったのか。
待っていたのか。
どちらだったのか。
それすら、もう分からなくなっていたのかもしれない。
露伴は、ペンを握りしめたまま動けなかった。
描くべきものが目の前にある。
だが、今はまだ、描くより先に見なければならない。
ネウロの竪琴の音が変わる。
低く、鋭く。
「そろそろだ」
弥子がネウロを見る。
「ネウロ」
「歌は届いた」
「悲しみはほどけた」
ネウロは笑った。
「ならば、残った謎は吾輩のものだ」
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ネウロは、竪琴の弦を強く弾いた。
防波堤の上に浮かんだ白い線が、一斉に男の影へ集まる。
声の軌跡。
写真に残った記録。
ぼやけた顔。
帰るな。
戻れ。
帰ってきて。
帰れない。
それらが絡まり、ひとつの結び目になる。
ネウロはその結び目を見て、満足そうに笑った。
「なるほど」
露伴が言う。
「分かったのか」
「この男は一人ではない」
弥子が息を呑む。
「え?」
ネウロは続ける。
「帰れなかった者たちの顔」
「待ち続けた者たちの顔」
「そのどちらにもなれなかった未練」
「それらが記録の中で混ざり、ひとつの“ぼやけた顔”になっていた」
露伴の目が鋭くなる。
「だから写真の年代が合わなかったのか」
「そうだ」
ネウロは、結び目を掴む。
「防波堤は境界だった」
「海へ向かう者と、岸で待つ者」
「その両方の声が、ここでぶつかり続けた」
結び目が震える。
無数の声が、最後にもう一度響いた。
帰ってきて。
帰りたかった。
待っていた。
待たせた。
ごめん。
ラクスの歌が、その最後の声を包む。
ネウロは笑った。
「よい謎だ」
「潮で締められ、涙で漬けられ、長く熟した」
弥子が泣きながら叫ぶ。
「食レポみたいに言うな!」
ネウロは気にしない。
「いただきます」
そして、謎を喰った。
音が消えた。
防波堤の中に残っていた重さが、ふっと抜けた。
海風が通る。
本当に通った。
さっきまで淀んでいた空気が、嘘のように流れた。
波は、防波堤に静かに触れている。
もう叩きつけてはいない。
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ラクスの歌が終わった。
最後の音が、海の彼方へ消えていく。
誰も、すぐには話さなかった。
弥子は涙を拭いた。
泉も、黙ってハンカチを目に当てている。
キラはラクスのそばへ寄った。
「ラクス」
ラクスは少しだけ疲れたように微笑んだ。
「届いたでしょうか」
キラは頷いた。
「届いたよ。きっと」
ラクスは静かに息を吐いた。
「よかった」
そして、キラはゆっくりとラクスを抱きしめた。
「おつかれ。そして、ありがとう」
ソープが海を見ている。
「うん。よく聴いてくれた」
カイエンが言う。
「波も風もか」
「たぶんね」
「便利な言い方だな」
ソープは笑った。
「便利ではないよ。たまにしか聴いてくれない」
承太郎は防波堤の先を見ていた。
「もういないな」
露伴は、ゆっくりとカメラを取り出した。
防波堤の古い案内板に、写真が貼られていた。
朝には気づかなかったものだ。
古い港の記録写真。
そこにも、顔のぼやけた男が写っていた。
だが、今は違った。
ぼやけていた顔が、少しだけ晴れている。
はっきりとした顔ではない。
誰か一人の顔ではないからだろう。
けれど、その表情だけは分かった。
優しい微笑み。
露伴は言葉を失った。
泉が写真を見て、小さく声を漏らす。
「……笑ってる」
弥子も覗き込む。
「ほんとだ……」
ラクスは、写真へ静かに目を向けた。
「ようやく、届いたのですね」
ネウロは口元を拭うような仕草をした。
「謎は喰った」
「未練はほどけた」
「だが、涙が完全に止まるかどうかは、人間どもの仕事だ」
弥子は涙を拭きながら言った。
「それでいいんじゃない?」
ネウロが見る。
弥子は続けた。
「これからも、港町の涙は止まらないのかもしれない」
「止まっても、今だけなのかもしれない」
彼女は防波堤の先を見た。
「でも、放っておくなんてできない」
「今日、少しでも止まったなら……それは勝ちだよ」
キラが静かに頷いた。
「うん」
ラクスも微笑む。
「ええ」
承太郎が短く言った。
「悪くねぇ」
露伴が小さく笑う。
「それは最大級評価だな」
承太郎は否定しなかった。
ただ、帽子を少し深く被った。
______________________________
防波堤の空気は変わっていた。
まだ、海は海だ。
これからも船は出る。
戻る船もあれば、戻らない船もある。
待つ人もいる。
悲しみも、きっと完全には消えない。
けれど、今この場所に閉じ込められていた声は、海の彼方へほどけていった。
ラクスの歌は、きっと届いた。
ソープが作った凪の上を渡って。
ネウロの伴奏が浮かび上がらせた道を通って。
キラに守られながら。
承太郎とカイエンが危険を止めながら。
アウクソーが退路を確保しながら。
泉が怖いまま見届けながら。
弥子が泣きながら立っていながら。
露伴が描く覚悟を持ちながら。
誰もが、自分にできることをした。
だから、届いた。
露伴は、ようやくメモ帳を開いた。
しばらく考えてから、短く書く。
歌は海の彼方まで届いた。
そして、ぼやけた顔は微笑んだ。
泉がそれを覗き込み、何も言わなかった。
代わりに、少しだけ頷いた。
弥子は大きく息を吸った。
「……お腹空いた」
全員が一瞬、弥子を見た。
弥子は慌てて言う。
「いや、泣いたし! けっこうエネルギー使ったし!」
キラが笑った。
「うん。そうだね」
カイエンも笑う。
「さすがだな」
ネウロが言う。
「ククク……悲しみに勝って、次は間食か」
「違う! 休憩!」
ラクスが穏やかに言った。
「では、旅館へ戻ってお茶にいたしましょう」
アウクソーが頷く。
「妥当です。皆さま、精神的疲労が見られます」
ソープは防波堤を振り返った。
「また、騒がしくなるといいね。普通の意味で」
承太郎が短く言う。
「戻るぞ」
一行は、防波堤を後にした。
潮騒は、もう誰かを閉じ込めてはいなかった。
ただ、海が鳴っていた。
遠く、遠く。
歌の残響を乗せて。