守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
大漁の夕餉を終えたあと、一行は旅館のラウンジへ移動した。
腹は満ちていた。
心も、少し満ちていた。
防波堤での歌。
顔のぼやけた男の微笑み。
商店街の古い写真。
大漁の舟盛り。
それらが、今日一日の出来事として、ようやく少しずつ落ち着き始めていた。
弥子は座布団の上で、満足そうにお茶を飲んでいる。
「はー……今日も勝った……」
キラは会計表を閉じながら頷いた。
「今日は本当に勝ちだったね」
ラクスは少し疲れた表情ながらも、穏やかに微笑んでいた。
「皆さまのおかげですわ」
承太郎は黙って茶を飲んでいる。
カイエンは食後の余韻に浸っていた。
ソープは窓の外の夜の海を眺めている。
アウクソーは全員の体調を確認していた。
泉は、今日はもう何も起きないようにと祈るような顔をしていた。
そして岸辺露伴は。
当然、落ち着いていなかった。
露伴は湯呑みを置くと、ソープを見た。
「さて」
泉の肩がぴくっと動いた。
「先生?」
露伴は、聞こえていないふりをした。
「ソープ。君には訊きたいことがある」
ソープは窓の外を見たまま、のんびり返す。
「僕に?」
「君以外に誰がいる」
カイエンが小さくため息をつく。
「始まったな」
露伴はメモ帳を開いた。
「まず、先日の起動キーの件だ」
ソープは少しだけ目を細めた。
「起動キー?」
「とぼけるな。あれは普通の鍵ではない。機械とも違う。だが、明らかに何かを起こすためのものだった」
泉が慌てて口を挟む。
「先生、食後です! 食後の穏やかな時間です!」
「食後だからだ。消化しながら聞く」
「消化に悪い話をしないでください!」
露伴は構わず続ける。
「それに、シュペルターのこともある」
カイエンの目が少しだけ細くなった。
アウクソーも静かにソープを見た。
露伴は言う。
「名前、起動、反応、そして存在感。すべてが異常だ」
ソープは、ようやく露伴を見た。
「露伴は、よく見ているね」
露伴は即座に返す。
「当然だ。僕は漫画家だ」
「漫画家って、そういうものなの?」
「そういうものだ」
カイエンが小声で言った。
「違うだろ」
露伴は聞こえていたが無視した。
「そして今日の防波堤だ」
空気が少し静かになる。
露伴はソープを真正面から見た。
「君は海と風に話しかけた」
「そして、凪を作った」
泉が頭を抱える。
「先生……」
露伴は止まらない。
「あれは何だ?」
ソープは困ったように笑う。
「少し、お願いしただけだよ」
露伴は身を乗り出した。
「誰に?」
「海と風に」
「比喩か?」
「比喩じゃないかな」
「なら、どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
露伴は目を輝かせた。
「よし、詳しく聞かせろ」
泉が即座に言う。
「聞かせないでください!」
カイエンも低く言った。
「露伴、その辺にしておけ」
露伴は不満そうに振り返る。
「なぜだ。君も見ただろう」
「見たから言ってるんだ」
「なら君にも訊く」
「僕は答えない」
「なぜだ」
「面倒だからだ」
露伴は苛立った。
「面倒で済む話じゃない。あれは明らかに世界の法則に干渉して――」
弥子が、その瞬間、ぱんと手を叩いた。
全員がそちらを見る。
弥子は立ち上がり、満面の笑みで言った。
「卓球しましょう!」
沈黙。
泉がゆっくり弥子を見る。
「弥子ちゃん……?」
弥子は力強く頷く。
「こういう時は卓球です!」
露伴が眉をひそめる。
「なぜだ」
「先生、今その話を始めたら絶対長くなるじゃないですか」
泉が感動したように言った。
「弥子ちゃん……空気読んだ……!」
弥子は胸を張る。
「たまには読みます!」
ネウロが笑う。
「ククク……騒音娘が会話の流れを制御したか」
「騒音娘って言うな!」
キラは少し笑った。
「でも、いいかもしれません。少し体を動かしてからお風呂に入って、今日は早めに休みましょう」
ラクスも微笑む。
「わたくしも、少しだけなら」
ソープは楽しそうに立ち上がった。
「旅館卓球、二回目だね」
カイエンは露伴を見た。
「ほら、取材は中断だ」
露伴は露骨に不満そうだった。
「僕はまだ何も聞けていない」
泉が力強く言う。
「だからいいんです!」
承太郎は短く言った。
「卓球だ」
露伴は承太郎を見た。
「君まで」
「休め」
「卓球は休みなのか?」
「知らん」
その雑な断定で、話は決まった。
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娯楽室の卓球台は、昨日と同じ場所にあった。
弥子はラケットを握って気合い十分。
「よーし! 食後の軽い卓球!」
キラがすぐに言った。
「食後なので本当に軽くね」
「はい!」
アウクソーは確認する。
「特殊能力、魔界777ツ能力、剣技、スタンド、凪の発生、その他空間干渉は禁止です」
ソープが笑う。
「凪の発生も禁止なんだ」
カイエンが即座に言う。
「当たり前だ」
ネウロが不満そうにラケットを持つ。
「魔界卓球はまた禁止か」
弥子が睨む。
「当たり前!」
今回の卓球は、本当に軽かった。
弥子と泉がペアになり、キラとラクスが相手をする。
弥子は勢いで打ち、泉は必死に拾う。
キラは安定して返し、ラクスは相変わらず優雅にえぐい場所へ落とす。
「ラクスさん、やっぱり強い!」
「そうでしょうか?」
「その返しがもう強いです!」
カイエンとソープは隅で見ていた。
ソープが小さく言う。
「いいね。みんな、戻ってきた」
カイエンは頷く。
「泣いて、食って、遊んで、風呂入って寝る」
「人間の回復ってのは単純だな」
ソープは笑った。
「その単純さが、強いんだよ」
カイエンは少しだけ目を細めた。
「……まあな」
その横で露伴は、まだ諦めきれずソープをちらちら見ていた。
泉がそれに気づく。
「先生、ラケット持ってください」
「僕は観察を――」
「ラケットを」
「……君は担当編集として厳しすぎる」
「先生が止まらないからです」
露伴はしぶしぶ台の前に立った。
相手は承太郎だった。
露伴はラケットを構えながら言う。
「君とは昨日もやったな」
承太郎は短く返す。
「来い」
露伴が打つ。
承太郎が返す。
露伴が角度を変える。
承太郎が動かず返す。
「……相変わらず腹が立つ卓球だな」
「普通だ」
「普通じゃない」
少し離れたところで弥子が笑った。
「露伴センセ、消化不良そう!」
泉も笑う。
「聞きたいことを聞けないまま卓球してますからね」
露伴は不満そうに言った。
「笑うな。僕は非常に重要な取材を中断されている」
ネウロが言う。
「ククク……消化不良の漫画家か」
弥子が即座に返す。
「食後だからちょうどいいんじゃない?」
「貴様にしては上手い」
「褒めた!?」
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軽い卓球は、思ったより楽しかった。
昨日ほど白熱はしない。
全員、少し疲れている。
だが、それでよかった。
カコン、という球の音。
弥子の笑い声。
泉の悲鳴混じりの返球。
キラの苦笑。
ラクスの穏やかな微笑み。
カイエンの軽口。
ソープの楽しそうな声。
承太郎の短い返事。
露伴の不満そうな分析。
ネウロの嫌味。
それらは、今日の防波堤の声とは違っていた。
誰かを縛る声ではない。
人を日常へ戻す音だった。
最後のラリーを終え、弥子は息を吐いた。
「よし! 今日も勝った!」
キラが聞く。
「今度は何に?」
弥子は笑った。
「食後の眠気に!」
泉が笑った。
「それは勝っていいのかな?」
ラクスが微笑んだ。
「この後は、温泉でゆっくりいたしましょう」
アウクソーが頷く。
「軽い運動後の入浴は適切です。ただし、長湯はお控えください」
ソープが言った。
「今日は僕も普通に男湯だよ」
カイエンが即座に返す。
「当然だ」
「信用回復中なんだけどな」
「継続審査中だ」
承太郎が短く言う。
「余計なことをするな」
ソープは肩をすくめた。
「はいはい」
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入浴は、何事もなく終わった。
本当に、何事もなく。
女湯では、弥子が今日一日を振り返りながら「濃かったねえ」と言い、泉が「濃すぎたよ」と返し、ラクスが静かに笑った。
男湯では、カイエンがソープを念のため監視し、キラが湯に浸かってようやく深く息を吐き、承太郎が「今日は寝ろ」と言った。
露伴は、風呂上がりにもまだソープを捕まえようとした。
「ソープ、さっきの話だが――」
泉が廊下の向こうから言う。
「先生! 今日はもう寝てください!」
露伴は顔をしかめた。
「なぜ聞こえる」
カイエンが笑った。
「編集嬢の索敵能力も大したもんだ」
ソープはにこにこしている。
「また今度ね、露伴」
露伴は不満そうに言った。
「逃げるな」
「逃げてないよ。今日は寝るだけ」
「それを逃げると言うんだ」
アウクソーが静かに告げる。
「露伴様、明日は帰路がございます。休息を推奨いたします」
キラも言った。
「明日の朝、出発準備もありますし」
カイエンは目を逸らした。
「そうだな」
アウクソーがそのわずかな反応を見逃さなかった。
「マスター」
「何だい」
「明朝、予定外の外出はお控えください」
カイエンは一瞬だけ黙った。
「……もちろん」
ソープが横で小さく笑う。
カイエンが睨む。
「笑うな」
アウクソーはさらに言った。
「釣り具屋方面への移動も、お控えください」
カイエンはまた黙った。
キラが小声で言う。
「完全に読まれてますね」
ソープも小声で返す。
「読まれてるね」
カイエンは額に手を当てた。
「寝るぞ」
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部屋へ戻る前、露伴は廊下の窓から海を見た。
潮騒は静かだった。
防波堤も、灯台も、夜の中に沈んでいる。
だが、もうあの声はしない。
露伴はメモ帳を開き、短く書いた。
ソープへの問い。未回答。
起動キー。シュペルター。凪。
すべて保留。
少し間を置いて、もう一行足す。
消化不良。だが、素材は逃げない。
泉が背後から言った。
「先生、寝てください」
露伴は振り返る。
「君は本当にどこからでも現れるな」
「先生が寝ないからです」
「僕は寝る前に整理を――」
「明日もあります」
「明日帰るんだぞ」
「だから寝るんです」
露伴は不満そうにメモ帳を閉じた。
「分かった」
泉は疑わしそうに見る。
「本当に?」
「本当に」
「善処するじゃないですね?」
「本当にだ」
泉はようやく少しだけ安心した。
「では、おやすみなさい」
露伴は部屋へ戻りながら、小さく呟いた。
「まったく……訊きたいことが山ほどあるというのに」
廊下の先で、ソープが振り返って笑った。
「おやすみ、露伴」
露伴はその笑顔を見て、ますます不満そうになった。
「……絶対に訊くからな」
ソープは答えない。
ただ、軽く手を振って部屋へ入った。
露伴は、完全に消化不良だった。
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その夜。
弥子は布団に入ってすぐ眠った。
今日の勝利が多すぎて、数える前に眠気に負けた。
ラクスは貝殻チャームを枕元に置き、静かに目を閉じた。
キラは会計表を閉じ、久しぶりに心から深く眠れそうだった。
泉は、露伴が部屋を抜け出さないことを祈りながら眠った。
承太郎は短い眠りに入り、ネウロは海の音を聞きながら、どこか満足そうだった。
ソープは、何も言わずに眠った。
あるいは、眠っているように見えた。
カイエンは、布団の中で目を閉じていた。
だが、彼の頭の片隅には、朝の防波堤があった。
釣れなかった竿。
石に引かれた糸。
そして今は、もう鎮まった海。
「……明日の朝なら」
小さく呟いたその声は、誰にも聞こえなかった。
と思っていた。
隣の布団で、ソープが小さく笑った。
「行くの?」
カイエンは目を閉じたまま答える。
「寝ろ」
「アウクソーに怒られるよ」
「釣れてから怒られる」
ソープはくすくす笑った。
「それ、怒られる前提なんだ」
カイエンはもう答えなかった。
夜の海は静かだった。
潮騒は、ただの波音として旅館の窓に届いている。
二日目の夜は、こうして終わった。
ただし、三日目の朝が本当に静かに始まるかどうかは、まだ誰にも分からない。