守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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三日目の早朝。

旅館の廊下は、まだ夜の名残を残していた。

窓の外は薄青い。
港は眠りから覚めきっていない。
遠くで海鳥が一声鳴き、潮騒が静かに返事をする。

その廊下を、ひとりの男が足音を殺して歩いていた。

ダグラス・カイエンである。

寝酒なし。
チーズなし。
余計な夜更かしなし。

昨日の夜、アウクソーに念を押されてなお、彼は早起きしていた。

理由はひとつ。

「……今朝こそ釣る」

昨日のボウズ。

あれは怪異のせいだった。
防波堤に声がこびりつき、魚が寄りつかなかった。
だから、腕の問題ではない。

ないはずだ。

ない。

カイエンは自分にそう言い聞かせながら、そっと廊下を進む。

その時。

「おはよう、カイエン」

廊下の角に、ソープが立っていた。

カイエンは目を細める。

「……なんでいる」

ソープはいつもの調子で笑う。

「行くんだろう?」

「寝てろ」

「一人で行くつもりだった?」

「そのつもりだった」

「アウクソーに怒られるよ」

カイエンは小さく言った。

「釣れてから怒られる」

ソープは楽しそうに目を細めた。

「その理屈、好きだよ」

「ついてくるな」

「ついていくよ」

カイエンはため息をついた。

「好きにしろ」

二人が歩き出そうとした、その時。

背後から声がした。

「やはり来たか」

カイエンは振り返った。

岸辺露伴が、メモ帳を片手に立っていた。

カイエンは心底嫌そうな顔をする。

「……なんで君までいる」

露伴は当然のように答えた。

「君なら来ると思った」

「寝てろ」

「断る」

「昨日、泉くんに寝ろと言われてただろう」

「寝た」

「何時間だい」

露伴は答えなかった。

ソープが笑う。

「読まれてるね、カイエン」

カイエンは額に手を当てる。

「こっそりの意味が消えたな」

露伴はメモを取った。

「剣聖、早朝に釣行リベンジ。こっそり行くつもりが、出発前から失敗」

「書くな」

「もう書いた」


岸辺露伴は潮騒を聞く その21

港の角にあるレンタル釣具屋は、今日も早かった。

 

昨日と同じ店主が、戸を開けて三人を迎える。

 

「おう、また来たのかい」

 

カイエンは少し気まずそうに言った。

 

「昨日は少し、条件が悪かったからな」

 

露伴がすかさず言う。

 

「少し?」

 

カイエンは露伴を見ない。

 

「少しだ」

 

店主は笑った。

 

「まあ、昨日の朝はおかしかったな。今日は違うよ」

「今朝は港の水がいい。魚も戻ってる」

 

ソープは海の方を見た。

 

「戻ってる、か」

 

店主は何気なく言った。

 

「海が普通に戻った感じがするんだよな」

「昨日の午後から、急に潮の感じが軽くなってね」

 

露伴の目が鋭くなる。

 

「それは、いつ頃から?」

 

カイエンが即座に言う。

 

「取材するな」

 

「重要な証言だ」

 

「釣りの邪魔だ」

 

店主は不思議そうに首を傾げる。

 

「まあ、昨日の夕方は大漁だったしな。今日も釣れると思うよ」

 

カイエンは竿を受け取った。

 

その顔に、少しだけ本気が戻る。

 

「今度こそだな」

 

ソープが言う。

 

「釣れるといいね」

 

露伴はメモ帳を構える。

 

「釣れなかった場合も記録する」

 

カイエンは低く言った。

 

「縁起でもないことを言うな」

 

朝の防波堤

 

防波堤は、昨日とは違っていた。

 

同じ場所。

同じコンクリート。

同じ海。

 

けれど、空気が違う。

 

淀んでいない。

 

風が通っている。

波がぶつかっても、そこに誰かの声が混じっていない。

 

ただの潮騒。

 

ただの朝の海。

 

カイエンはしばらく無言で立っていた。

 

ソープも、何も言わず海を見ている。

 

露伴は防波堤の端と、足元の古い傷を見比べた。

 

「昨日の重さがないな」

 

カイエンは竿を組みながら答える。

 

「ない方がいい」

 

「同感だ」

 

ソープは静かに言った。

 

「戻ってきたんだね。魚も、風も」

 

カイエンは仕掛けを整えた。

 

餌をつける。

糸を確かめる。

竿を構える。

 

昨日と同じフォーム。

 

いや、昨日より少し軽い。

 

竿先が朝の光を受けてしなる。

 

「行くぞ」

 

仕掛けが海へ飛んだ。

 

ひゅ、と綺麗な軌道を描き、沖の水面へ落ちる。

 

数秒。

 

十秒。

 

竿先が、ぴくりと動いた。

 

カイエンの目が細くなる。

 

次の瞬間、竿がしなった。

 

「来た」

 

ソープが笑った。

 

「おお」

 

露伴が身を乗り出す。

 

「本当に来たのか」

 

「見れば分かるだろ」

 

カイエンは慌てない。

 

竿を立て、糸を巻く。

力任せではない。

相手に合わせる。

 

やがて、銀色の小さな魚が水面を割って上がってきた。

 

キスだった。

 

カイエンはそれを見て、ほんの少しだけ口元を上げる。

 

「まず一匹」

 

露伴はメモした。

 

「剣聖、リベンジ成功。表情に明確な喜色あり」

 

「書くな」

 

「もう書いた」

 

ソープは笑いをこらえている。

 

「嬉しそうだね」

 

「普通だ」

 

「普通の顔じゃないよ」

 

______________________________

 

 

一匹釣れると、流れは変わった。

 

次はアジ。

 

その次は、少し小さなメバル。

 

さらに、カサゴ。

 

カイエンのフォームは美しく、判断は早い。

 

竿を振る。

待つ。

小さな変化を拾う。

無駄なく合わせる。

 

昨日は沈黙していた海が、今日はちゃんと応えてくる。

 

露伴は興奮を抑えきれず、スケッチを始めた。

 

「なるほど。昨日は怪異による魚影の消失、今日は解放後の回復」

「同じ人物、同じ道具、同じ場所。条件差が明確だ」

 

カイエンは魚をバケツに入れながら言った。

 

「僕の腕前の証明にもなったな」

 

ソープが言う。

 

「そこ、大事なんだ」

 

「大事だ」

 

「昨日、けっこう気にしてたんだね」

 

「気にしてない」

 

露伴が言う。

 

「気にしていたな」

 

「うるさい」

 

その時、背後から静かな声がした。

 

「マスター」

 

カイエンの動きが止まった。

 

振り返ると、アウクソーが立っていた。

 

朝の光の中、完璧に身支度を整えている。

 

その隣には、眠そうなキラもいた。

 

カイエンは一瞬、逃げ道を探すような顔をした。

 

「……おはよう」

 

アウクソーは一礼する。

 

「おはようございます」

 

キラは苦笑した。

 

「やっぱり来てたんですね」

 

カイエンは竿を持ったまま言う。

 

「早朝の散歩だ」

 

アウクソーはバケツを見る。

 

「散歩にしては、魚が四匹ございます」

 

ソープが小さく笑う。

 

露伴が即座に言う。

 

「釣行リベンジだ」

 

カイエンは露伴を睨んだ。

 

「余計なことを言うな」

 

アウクソーは静かに続ける。

 

「マスター。昨夜、予定外の外出はお控えいただくよう申し上げました」

 

「その件だが」

 

「はい」

 

「釣れてから怒られることにした」

 

キラが思わず吹き出しかけた。

 

アウクソーは表情を変えない。

 

「怒られることは前提なのですね」

 

「まあ……そうだな」

 

ソープが言う。

 

「正直でよろしい」

 

カイエンはソープを睨む。

 

「君は黙ってろ」

 

アウクソーはバケツの中の魚を見た。

 

「ですが、釣果は確認いたしました」

「お見事です、マスター」

 

カイエンは少しだけ目を見開いた。

 

「……怒らないのか?」

 

「怒ります」

 

「だろうな」

 

「ですが、釣果については評価いたします」

 

カイエンは小さく笑った。

 

「そうかい」

 

キラはバケツを覗き込む。

 

「本当に釣れてますね」

 

露伴が言う。

 

「昨日のボウズは、やはり異常だったということだ」

 

ソープは海を見た。

 

「魚が戻った。声もほどけた。いい朝だね」

 

______________________________

 

 

アウクソーが到着してからも、カイエンは釣りを続けた。

 

ただし、アウクソーによる時間管理付きである。

 

「マスター、朝食までの残り時間を考慮し、あと二投までを推奨いたします」

 

「厳しいな」

 

「朝食の時間がございます」

 

「分かってるよ」

 

カイエンは一投。

 

すぐに反応があった。

 

またアジ。

 

二投目。

 

少し粘ってから、良い型のキス。

 

ソープが拍手した。

 

「大漁だね」

 

キラも笑う。

 

「弥子ちゃんが喜びそうです」

 

カイエンはバケツを見て、満足そうだった。

 

「これで名誉挽回だな」

 

露伴は言う。

 

「名誉挽回と自分で言った」

 

「書くな」

 

「もう書いた」

 

アウクソーはバケツの中身を確認する。

 

「合計六匹。調理可能か旅館に確認が必要です」

「また、レンタル釣具費用の扱いについては、後ほど確認いたします」

 

カイエンは少しだけ視線を泳がせた。

 

「その件だが」

 

キラが嫌な予感を覚える。

 

「はい?」

 

カイエンは堂々と言った。

 

「釣った魚は皆で食べるだろう」

 

「たぶん、そうですね」

 

「主に弥子が」

 

キラは否定できなかった。

 

「……はい」

 

「なら、竿のレンタル費用くらい、旅費全体で賄ってもいいんじゃないか?」

 

キラは静かに会計メモを取り出した。

 

「最初は個人負担という話でしたよね」

 

アウクソーも即座に言う。

 

「当初の申請内容と異なります」

 

カイエンは竿をたたみながら言った。

 

「結果的に共有食材調達になった」

 

露伴が目を輝かせる。

 

「いい言い換えだ」

 

キラは頭を抱えた。

 

「また請求区分が増える……」

 

ソープは笑う。

 

「共有食材調達費。いい名目だね」

 

アウクソーは静かに言った。

 

「要審議です」

 

カイエンは満足げに頷いた。

 

「審議なら勝ち目はある」

 

キラは小さく言った。

 

「会計処理は勝負じゃないんですけど……」

 

______________________________

 

 

釣具屋へ戻ると、店主はバケツを見て目を丸くした。

 

「おお、今日は釣れたじゃないか!」

 

カイエンは、少しだけ得意げに言った。

 

「潮が良かった」

 

露伴が横から言う。

 

「腕も良かった、と言いたそうだ」

 

カイエンは無視した。

 

店主は魚を見て頷く。

 

「これなら、旅館に言えば朝飯か昼飯にちょっと焼いてくれるかもしれないな」

「小さいのは唐揚げでもいい」

 

その言葉に、キラが会計の顔になる。

 

「調理費が発生する可能性がありますね」

 

ソープが言う。

 

「でも、旅の思い出としては良いよ」

 

カイエンが頷く。

 

「そうだろう」

 

アウクソーは冷静だった。

 

「調理費、衛生管理、持ち込み可否を確認いたします」

 

カイエンは小さく言う。

 

「本当に頼りになるな」

 

アウクソーは一礼した。

 

「必要なことです」

 

露伴はその様子を見てメモする。

 

「剣聖、魚を得て少し素直になる」

 

カイエンが振り返る。

 

「書くな」

 

「もう書いた」

 

______________________________

 

 

旅館へ戻る頃には、空はすっかり朝になっていた。

 

ロビーには、ちょうど女子組が降りてきていた。

 

弥子はまだ少し眠そうだったが、バケツを見た瞬間に完全に目が覚めた。

 

「魚!!」

 

泉が驚く。

 

「えっ、本当に釣れたんですか?」

 

ラクスも微笑む。

 

「まあ、立派ですわ」

 

弥子はバケツを覗き込む。

 

「キス! アジ! メバル! カサゴ!」

「食べられる!?」

 

キラが即座に言う。

 

「まず旅館に確認してからね」

 

弥子はカイエンを見上げる。

 

「カイエンさん、すごい!」

「昨日釣れなかったの、やっぱり怪異のせいだったんですね!」

 

カイエンは、少しだけ気を良くした顔で言った。

 

「まあな」

 

アウクソーが静かに言う。

 

「マスター、表情が非常に分かりやすくなっております」

 

「言わなくていい」

 

弥子は拳を握る。

 

「これで朝ごはんも勝ち!」

 

キラが苦笑する。

 

「朝食はもう十分あると思うけど」

 

「釣った魚は別!」

 

ネウロがいつの間にかロビーにいた。

 

「ククク……剣聖が釣り、騒音娘が喰う」

「実に単純な生態系だな」

 

弥子が振り向く。

 

「単純でいいじゃん!」

 

承太郎も階段から降りてくる。

 

バケツを一瞥し、短く言った。

 

「釣れたか」

 

カイエンは少しだけ胸を張る。

 

「釣れた」

 

承太郎は頷く。

 

「悪くねぇ」

 

弥子が即座に言う。

 

「最大級評価!」

 

承太郎は否定しなかった。

 

カイエンは少し満足そうだった。

 

______________________________

 

女将は、釣れた魚を見ると笑顔になった。

 

「まあ、きれいなお魚ですね」

 

アウクソーが一歩前に出る。

 

「持ち込み魚の調理可否について、ご確認をお願いいたします」

 

女将は少し考えた。

 

「量も多すぎませんし、朝食には間に合わないかもしれませんが……」

「簡単に唐揚げと塩焼きにして、お昼前に少しお出しすることはできますよ」

 

弥子の顔が輝く。

 

「やったー!!」

 

キラは慎重に聞く。

 

「調理費は……」

 

女将は笑った。

 

「昨日、今日とよく泊まっていただいてますし、少しだけならサービスで」

 

キラは目を見開いた。

 

「サービス……!」

 

カイエンが言う。

 

「よかったな、会計准将」

 

キラは本気で安堵した。

 

「はい……本当に助かります」

 

露伴が小さくメモする。

 

魚を釣り、旅館が調理し、弥子が食べる。

怪異後の港町における循環の回復。

 

泉がそれを見て言った。

 

「先生、またいいこと書いてますね」

 

露伴は答える。

 

「当然だ」

 

弥子はカイエンの前で両手を合わせた。

 

「カイエンさん、ありがとうございます!」

 

カイエンは少し照れたように顔をそらす。

 

「礼は、食べてからでいい」

 

ソープが笑う。

 

「嬉しそうだね」

 

「うるさい」

 

アウクソーは静かに言った。

 

「マスター、予定外の外出については後ほどお話がございます」

 

カイエンは小さく息を吐く。

 

「分かってるよ」

 

「ただし、今回の釣果については評価いたします」

 

その言葉に、カイエンは少しだけ笑った。

 

「それだけで十分だ」

 

 

______________________________

 

 

魚を女将に預け、一行は朝食会場へ向かった。

 

弥子は元気いっぱいだった。

 

「今日の朝ごはんも楽しみ! さらにあとで釣り魚も食べられる!」

 

キラが言う。

 

「朝食は朝食、釣り魚は釣り魚?」

 

弥子は満面の笑みで頷く。

 

「そう!」

 

キラは笑ってしまった。

 

「分かってた」

 

ラクスはカイエンに向かって微笑んだ。

 

「名誉挽回、おめでとうございます」

 

カイエンは少し気取って言った。

 

「潮が良かっただけさ」

 

アウクソーがすぐ言う。

 

「マスター、先ほどは腕前の証明と仰っていました」

 

「……聞いていたのか」

 

「はい」

 

ソープが笑う。

 

「聞かれてるね」

 

カイエンは諦めたように肩をすくめた。

 

露伴は最後に防波堤の方を振り返った。

 

朝の海は、穏やかだった。

 

そこにはもう、人を引く声も、石へ糸を吸い込むような気配もない。

 

ただ、魚が戻り、風が通り、朝が来ていた。

 

露伴は短くメモする。

 

昨日、海は声を返した。

今朝、海は魚を返した。

 

泉が隣でそれを見た。

 

「先生、それ、いいですね」

 

露伴は言う。

 

「当然だ」

 

弥子の声が朝食会場から聞こえた。

 

「ご飯おかわり自由ですか!?」

 

キラの声も続く。

 

「弥子ちゃん、今日は釣り魚もあるからね!」

 

カイエンは笑った。

 

「さて、今日も忙しくなりそうだな」

 

承太郎は短く言う。

 

「帰る日だ。忘れるな」

 

ソープは港の方を見て、穏やかに言った。

 

「帰る前に、いい朝になったね」

 

潮騒は、静かに鳴っていた。

 

それはもう、誰かを呼び止める声ではない。

 

旅の終わりを見送る、普通の波音だった。

 

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