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かぐやを連れてツクヨミの管理者領域にダイブすると、慌てた様子のFUSHIが飛んできた。
「おい! ヤチヨとのリンクが切れたぞ!? どうなってんだ!?」
「私たちもその原因を調べに来たの。『チヨ』は?」
「今ツクヨミの内部を
FUSHIに案内されてチヨ――ヤチヨAIの愛称だ――の元へ行くと、チヨは巻物を模したデータを複数広げて網羅的にエラーの検索をしている。
私とかぐやに気がつくと、チヨは手を止めずにニッコリと笑って言った。
「やぁやぁお二人さん! ツクヨミへようこそー!」
姿も声もヤチヨと全く同じだけど、私たち相手には絶妙に言わなさそうなセリフを聞いて、ちょっぴり苦笑いする。
「チヨって、なんかオリジナルよりテンション高くない?」
「多分、ヤチヨ自身が考えるヤチヨの設定を反映してるんだと思う……」
かぐやが小声で言うのに答えながら、ぐるりと室内を眺めた。
私たちが来る間にも既に相当処理したものか、解析し終えた巻物があっちこっちに散乱してる。それらをまとめたり隅に追いやったりと、FUSHIも珍しくフル稼働だ。
その間にも次々処理されていくデータ群を眺めながら、私は控えめにチヨに訊いた。
「チヨ、ヤチヨとツクヨミのリンクが切れた原因、何か手がかりはありそう?」
「うーん、今のところ、めぼしいものはないかにゃー。ヤチヨ側には問題は?」
「無いと思う。ドックも正常に動いてたから、ツクヨミサーバー側の問題かなって思ったんだけど」
ヤチヨがエラー報告をしてからすぐにボディとドックはざっと調べたけど、物理的な問題は発見できなかった。ドックとツクヨミサーバーの無線接続も良好。となると、サーバーがヤチヨの接続を何らかの理由で拒絶してる可能性が高い。
外部からの攻撃の線も考えた。国外からのアクセスもこの十年で増えたから、懸念材料はいくらでもある。この一ヶ月でも弁慶なんてチーターが出るくらいだし、車椅子の幽霊も気になる。
チヨが処理していくデータはほとんど解読不能だけど、一つだけ気になる文字列が流れていった。
「チヨ、この『GHOST』っていうのは? 噂になってる車椅子の幽霊のこと?」
雑に放り投げられた巻物から当該文字列を指すと、チヨは処理中の巻物を最後まで解析してから手を止めてこっちを向いた。
「ご名答ー。ツクヨミ各地から集めた噂から出現箇所と時間をマッピングして解析してるのです」
チヨが指をパチンと鳴らすと、空中に大きなウインドウが現れる。
そこにはツクヨミのマップと、恐らく幽霊の出現場所と思われるピン、そして移動経路が書き記されている。時間帯はまちまちだけど、深夜から早朝にかけての出現が多い。まさに幽霊って感じだ。
「彩葉、車椅子の幽霊って?」
「ここ一ヶ月くらいであちこちに出没してるって言う、謎のアバター。これ見ると、結構出没に規則性があるね」
日付とピンの関係を見ると、らせん状に徐々にツクヨミの中枢である天守閣(管理者領域もここにある)に近づいてる印象がある。
かぐやもそれに気づいたように目を丸くした。
「え、これ普通に激ヤバくない? 天守閣狙われてる?」
「うーん、でもチヨのプロットどおりだと、まだ全然距離がある。それに、わざわざこんな回りくどいことする意味がない」
天守閣なんて見た目で分かる目標に、何日もかけて徐々に近づく理由がない。最初から天守閣を直接目指せば良いだけだ。
もちろん、本当に幽霊が天守閣を狙ってるなら、の話だけど。
「これを雑処理するってことは、今回の事に関与してる可能性は低いってチヨは見てるんだよね?」
「噂程度しか出てないからねー。チヨもヤチヨも直接見たわけじゃないし」
「アカウントは? ツクヨミにいるってことは、偽装でもアカウント情報あるんでしょ?」
かぐやが問うと、チヨはヤチヨみたいにチッチッと指を立てて横に振った。
「それが不明なんだよねー。今のところ紐付け出来そうなアカウントはゼロ。目撃情報が出た時間の前後のアクセス状況を探っても、該当するログイン・ログアウト情報なし」
「それって、ガチモンの幽霊ってこと!? ゔえええええ!?」
驚愕するかぐやの横で溜息をつく。そんなのいるわけないでしょ。
多分接続状況を秘匿するためのツールでも使ってるんだと思う。ただ、チヨにもヤチヨにも悟らせないとなると、結構なやり手だ。個人じゃないかもしれない。
結局、情報が少なすぎてチヨも放置せざるを得ないわけだ。
「あ、じゃあ『弁慶』は? ヤチヨはまだ解析中って言ってたけど」
かぐやも遭遇したって言うチーター。こっちはヤチヨも把握してるって言ってたし、関与してるとしたらこっちの方が可能性高そう。
「うーん、そっちはほとんど特定できてるんだけど、決め手に欠けるんだよねー。それに、ちょい気になることが……」
「気になること?」
チヨの言葉の歯切れが悪くなったから思わずオウム返ししたけど、答えは返ってこない。
そのままデータ処理が再開されたから、疑問に思いつつも私は私で出来ることをやることにする。
「かぐや、ヤチヨの管理者ログを調べるから、そっちはFUSHIとツクヨミの様子を見てきてくれる? 何か異変があるかも」
「えぇー、彩葉と一緒がいいー!」
「我が儘言わないの。FUSHI、よろしくね」
「任された! 小娘、ついてこい!」
「あーまた小娘って言ったー! そっちはウミウシのくせにー!」
懐かしいやりとりをしながら、一人と一体は天守閣を飛び出していった。
欄干から見下ろす風景は私の目には普通に見えるけど、FUSHIのいう『ざわざわ』は、ツクヨミのかすかな違和感を正確に拾ってると思う。
チヨに管理者権限を移すにあたって、FUSHIにはツクヨミのバックアップ作成の権限が付与されている。都度バックアップを取って前回差分を検証し、異常なデータがあればチヨに再検証の依頼と、必要によっては修正を促すためらしい。
FUSHIが感知してるのは、この差分の異常だ。
かぐやたちを見送り、私はチヨの承認のもとヤチヨの管理者ログを開いた。ツクヨミ内部でヤチヨが起こした行動や接触したアカウントなどが全部記載されている。ヤチヨのプライベートを覗き見するみたいで気が引けるけど、この際仕方ない。
直近から過去に遡って見てみるけど、特に変わったことはない。相変わらずサプライズ的にあっちこっちに出没してるみたいだけど、基本は配信と、最近はチヨへの業務引き継ぎだ。
「何も出ないな……」
「ツクヨミにいる間はほとんどチヨと一緒だからねー。怪しい動きがあったらチヨが気づいてるよー」
「それもそっか」
だとすると、やっぱり外因性のものか。そう思いつつ、念のためヤチヨが研究室に来てボディに入ってる間のログも確認する。
私とかぐや、後は兄や友人と研究室のスタッフくらいしか接触しないし、かぐやと違って室外に出ないから、ほとんど記録がない。
と、思ってたら。
「……ん? なにこれ」
一つだけ、不審な記録を見つけた。
誰もいないはずの深夜帯に、ヤチヨに接触した記録がある。
誰と接触したかの情報は消されたのか不明になってるけど、イベント自体の記録は絶対に消せない。
それは、ヤチヨが情報
ヤチヨは全部を覚えてる。八千年の間にあった、全ての出来事を。当然、曖昧になってる情報もある。無理矢理忘れようとした情報だってある。でも、それでも覚えてる。
「……これが、ヤチヨがツクヨミに接続できない切っ掛け?」
可能性はある。というか今のところ一番高い。
ボディを直接ツクヨミに接続せずドックを介してる理由は、ツクヨミを介して侵入しようとするウイルスなどの敵性因子をブロックするためだ。当然、ヤチヨボディも積んでいるのが電脳である以上、ウイルス汚染される可能性がある。
逆に、ヤチヨボディからツクヨミ側へウイルスが運ばれる可能性は極めて低いけど、理論上ゼロではない。いずれにせよヤチヨの移動はドックでスクリーニングされる。
つまり、今ヤチヨがツクヨミにアクセスできないのは、ドックでスクリーニングされた結果、アクセス拒否されている可能性――
「っ!!」
ゾッと怖気が走った。
ヤチヨボディが何者かにハッキングされて、ウイルスを仕込まれてる?
落ち着け、まだそうと決まったわけじゃない。仮にボディがウイルスに冒されているとしても、それが原因のアクセス障害ならドックが正常に働いてるって事だ。いずれドックのアンチウイルス機能で無害化されるだろう。
でも、もし、万が一ドックが対処できないようなウイルスだとしたら?
急いで戻らないと。
すぐにFUSHIを連れて戻ってくるようかぐやに連絡しようとしたところへ、逆にかぐやから通信が入る。
強烈に悪い予感を感じて通話状態にしたスマコンから、恐慌に陥ったようなかぐやの絶叫が響いた。
「彩葉ヤバい!! ツクヨミが戦場になっちゃう!!」
「は!? どういう」
問い返そうとした言葉が、途中で止まる。
突如目前にポップアップしたウィンドウに現れた文言。
そこには、ツクヨミ全体をフィールドとしたKASSENの開戦が宣言されていた。
○
「チヨ! ツクヨミの主導権を取り返すのにどれくらいかかる!?」
「ちょーっと深いところまで弄られてるみたいだから、小一時間は欲しいかなー」
双剣を振るって白衣の僧兵を背後から袈裟懸けに切り捨て、散る花びらを一顧だにせず私は路地を駆け抜けながらチヨに状況を確認する。
かぐやからの通信後、欄干から飛び降りた私は合流場所をチュートリアルの出口でもある大橋に指定して走った。
途中の高所から見下ろしたツクヨミは、あちらこちらで混乱と狂騒が渦巻いている。
突如として宣言された開戦と同時に、様々な武装の僧兵がツクヨミ全土にポップした。FUSHIが感知しただけで、およそ百体以上。弁慶と類似のアバターで、違いは持ってる武器が一つずつであること。
ここで、弁慶の奇行の理由が分かってしまう。ミニオンのようなNPCを作成し、それぞれに今まで奪った武器を持たせたんだ。
いわば量産型弁慶は、次々とツクヨミにいる人たちを襲っている。みんな最初は戸惑ってたけど、チヨが今話題の弁慶を討伐する『突発イベント』としてツクヨミ中に宣伝し、私とかぐやが参戦してることを知らせると、徐々にお祭り的な様相を帯びてきた。
とはいえ、量産型でも弁慶は強い。私は隙を突いたりしてなんとかなってるけど、慣れてない人だと太刀打ちできないし、経験者でも二人がかりでやっと互角の様相だ。
「かぐや、状況は!?」
「こっちはへーき! さっき戦ったオリジナルより全然弱い!」
スマコンからかぐやの声が届くと同時、少し向こうで派手な破裂音がした。多分かぐやのハンマーの音だ。この距離なら、大橋に着くまでに合流した方が早い。
双剣のワイヤーを飛ばし、手近な建物の屋根に突き刺してそのまま大きく飛ぶ。着地した屋根の上をそのまま走って――いた、かぐやが見えた。
「かぐや!」
恐らく届くであろうと思われた距離からの呼びかけは無事成功し、振り仰いでぱっと笑顔になったかぐやがハンマージェットで飛んできた。
器用に空中でくるっと回転してから着地・併走するかぐやと肩の上のFUSHIに状況を伝える。
「多分、ヤチヨボディに誰かがウイルスか何かを仕込んでる。私は一度ログアウトしてヤチヨの様子を見に行くけど、かぐや一人で持ちこたえられる?」
「ぐぬぬー、任しときって言いたいけど、キツいかも。どれくらい?」
「チヨは小一時間って言ってたけど、正直分からない。向こうが片付いたら、私もすぐ戻ってくるけど」
「じゃあ彩葉を信じる!」
間髪入れずに返ってきた言葉に、私は思わず相好を崩した。ホント、この子は。
そうと決まれば、爆速で問題を解決しなければ。そう思い、ログアウトしようとして……存在しないはずのアバターの心臓が跳ねる。
「……なんで」
「彩葉?」
そんなはずはない。
ヤチヨが教えてくれた。スマコンは開発会社との共同理念として、即座にVRから現実に戻れる仕様としてコンタクトレンズ型にしたと。目を開けるだけで
なら、今のこの状況は?
「ログアウト、できない」
「ゔえええええ!? え、仕様変わった!?」
「そんなわけない! でも、これは……」
正確には、目を開けてもARモードに切り替わるだけで、完全なログアウトにはならない。電源はイヤフォン側にあるから、そっちを切ってしまえば強制的にログアウトは出来る。
でも、効かない。電源があるだろう部分を手探りでタッチしても押し込んでも、電源が切れない。
そして、最も最悪なのは。
「やられた……スマコン経由で
目が開かないから、現実がどうなってるのか確認が出来ない!
「どゆこと!? かぐやちゃんの目も開かないぃぃぃぃ!!」
「かぐや、神経回路が焼き切れるかもだから無理しないで! FUSHI、権限で強制ログアウトとかできる!?」
「危険だ! スマコンから微弱電流を流して神経を麻痺させてるなら、強制停止させたときに何が起こるか分からない! 最悪目ん玉が焼けちゃうぞ!」
FUSHIの警告に思わず身震いする。
これまで当たり前に使い過ぎてて油断してた。スマコンもネット接続が出来る以上、ハッキングも出来る。今回は不必要だから装着してないけど、味覚を感じるデバイスも顎の下につけて顔面神経や舌咽神経に微弱電流を送ってる。同じ事がコンタクト側に出来ても不思議ではない。
十一年前、実際にそれを目の当たりにしたじゃないか、私たちは。
「チヨも千手観音状態で頑張ってるから、もう少しお待ちあれ~」
「お願い! 私たちはその間少しでも弁慶を……」
「彩葉、危ない!」
「え!?」
チヨの報告を聞いてひとまず目先の事件に思考を切り替えようとした矢先、かぐやが私の右前方に飛び込んできたと同時に強烈な光と爆風が私たちを襲った。
悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされて、遠く離れた家屋の壁に激突する。
「ぐぅっ!! かぐや、大丈夫!?」
「いててて……ハンマーで咄嗟に直撃防いだから大丈夫! 彩葉は!?」
「私はかぐやがかばってくれたから……って、まずい!」
遠くに見えたものに戦慄し、私はかぐやを引っ張って少し離れた路地に向けて走った。一拍遅れて、さっきまで私たちがいた場所に爆発が起こり、家屋を木っ端見時に吹き飛ばす。
「ずっる! なにあれ!?」
「大筒だ……レア武器。あんなものまで持ってるなんて」
当たらないことで有名なレア武器だけど、当たれば一撃必殺。しかも
これで天守閣にも戻れなくなった。万が一使われたら、チヨを巻き込む。
考えろ、酒寄彩葉。あんたは所長でしょ。天守閣から距離を取るように闇雲に走りながら、自分を叱咤する。
「どうすれば安全にログアウトしてヤチヨの元へ行ける……?」
勝利条件は、弁慶を一掃するか、チヨが主導権を取り戻すまで時間を稼ぐこと。どちらも時間がかかりすぎるし、ボディに閉じ込められたヤチヨの安否が不明の今、一刻も早く現実に戻りたい。
リスクを取って強制ログアウトを試したいけど、FUSHIが許さないだろう。もしも事故ったら、またみんなを悲しませることになるし、何より研究が続けられなくなる。
それは、ハッピーエンドを自ら手放すことと同じ。
「宇田ちゃんは!? まだ近くにいるかも!」
「そう思って何度か連絡してみたけど繋がらなかった。電源切ってるみたい」
「あ、じゃあ帝! 妹のピンチと知れば颯爽と駆けつけてくれるに違いない!」
「親族で高額パトロンだけど、部外者だからね!?」
それに、仮に兄が研究室に入れても出来ることは何もない。せいぜい動けない私たちを警備することくらいしか。
思考が袋小路に迷い込んだのを示すかのように、飛び込んだ路地の先は行き止まりになっていた。再びワイヤーで屋根の上に飛び乗ってもいいけど、大筒が狙ってる可能性を考えると下手に動けない。
「うぇぇ、行き止まり!? どうすればいいのだー!?」
遅れて気づいたかぐやの嘆きが路地に空しく響く。
万事休す、なんて言いたくない。何か、まだ何か可能性があるはず。そう思って知らず俯いていた顔を前に上げて。
ふと、おかしなことに気づいた。
「アレ!? 行き止まりと思ったのに、道続いてるくない!?」
かぐやの声で、私の見間違いではなかったことが明らかになる。
行き止まりと思っていた奥の壁が、遙か向こうに遠のいてる。ほんの数メートル先だったのに、今やゆうに二十メートル以上ある。
さらに。
「……あ!! 彩葉アレ!! 車椅子!!」
「!!」
行き止まりのはずの奥の壁に、車椅子に乗った人影が現れた。それも、あたかもそこはT字路であるかのように、左手から右手へ移動して消えていく。
地面を蹴る脚に力がこもった。速度を上げ、かぐやと一緒に突き当たりまで一気に進む。
突き当たりの左側に、道はない。右側は、また長い一本道になっている。
顔を見合わせて頷き、二人で右側へ。奥には、また車椅子がさっきと同じく左手から右手へ移動していく。
「気をつけろ! ここだけ地図情報がデタラメだ!」
FUSHIが叫ぶのを聞きながら再び突き当たりへ。今度もやっぱり左側に道はない。右側は同じ一本道で、車椅子は――いた。
通路の奥。車椅子に乗った赤い服のアバター。
それが、私たちを待ち構えるように、こちらを向いて座っている。
誘い込まれてる。でも、敵意は全く感じられない。
飛び出して行こうとするかぐやを制止しながら、私は車椅子に近づいていった。静かに佇む姿が、徐々に詳細になっていく。
男性アバターだった。赤いスーツに黒のネクタイを締め、全体に白くなった髪を丁寧に整えた彼は、ツクヨミでは珍しい老人の顔をしている。
警戒しながらも、一メートルほどの距離まで近づいた。アバターは消えない。組んだ足を入れ替え、銀縁の眼鏡の奥にある瞳をじっとこちらに向けている。
私を、かぐやを、そして再び私の方を見て、車椅子の男性は静かに口を開いた。
「会えて光栄だ。
「……どうして私のことを」
見た目よりも若々しい彼の言葉に思わず驚愕する。「知り合いなの!?」とかぐやも驚嘆するが、当然首を横に振る。
いつぞや兄がやったみたいにアカウント名を見て当たりをつけたわけではないだろう。なにせ、私のアカウント名はまだ昔つけた『いろ』のままだ。とはいえ、私が酒寄彩葉であることは一部で周知の事実になってるみたいだから、何処からか漏れたのかもしれない。
私の問いに答えず、彼はほんの少しだけ右の口角を上げた。
「私のことは
「偽名かい!」
堂々と偽名を名乗る車椅子の老人にツッコミを入れるかぐや。私も思わず苦笑したけど、何故か心の中に引っかかるものがある。
目の前の老人を、私は知らない。知らないはずだ。
なのに、何処かで……別の場所で、彼のことを見たことがあるような……。
「さて」
老人がパンと手を鳴らし、我に返る。彼は敵意が無いことを殊更示すように両腕を控えめに広げると、穏やかな口調で続けた。
「交友を深めたいところだが、あまり時間は無い様子。単刀直入に言おう。君たちに協力したい」
「協力って……」
「これだ」
訝しむ私たちの前にSTEVENが何かを掲げる。
そのあまりに見慣れた形状に、私は、そして何よりかぐやが飛び上がって驚く。
「こ、これ、かぐやのブレスレット!?」
彼の手に合ったのは、かぐやが地球にやってきたときに持参し、今は私が持っている銀のブレスレットとほぼ同じものだった。
唯一の違いは、らせん状になったブレスレットの先端部が虹色に輝いていること。
彼はそれを右腕にはめると、虹色に輝く部分を軽くこすった。
瞬間、私たちの目の前に人型の物体が出現する。
もうこれ以上驚くことはないと思っていたのに、灯籠を模した頭部を有する異形の人型にトラウマを刺激された私は、思わず斬りかかりそうになった。
すんでのところでかぐやに止められなかったら、車椅子の老人ごとたたき切っていたかもしれない。
「……なんであなたがそれを」
乱れて荒い息を吐きながら、現れたときと同じように瞬時に消えた人型を見送る。
STEVENは何事もなかったかのように腕輪を外すと、私ではなくかぐやにそれを差し出した。
「『月人召喚プログラム』。君なら上手く使いこなせるだろう?」
まるで、何もかもお見通しであるかのように。
かぐやはおっかなびっくり手を伸ばしたが、私が止めようとする前に覚悟を決めた顔つきでブレスレットを手に取った。
右腕にはめ、彼がやって見せたように虹色の部分をこすると、何体もの月人が空中に舞い踊り、かぐやに傅くようにして待機する。
彼らをぐるりと見渡して、かぐやは力強く頷いた。
「彩葉! ツクヨミはかぐやが守る! だから、彩葉はヤチヨを助けてあげて!」
言うが早いか、かぐやは月人たちを引き連れてハンマージェットで飛び出して行ってしまった。肩に乗ったままのFUSHIの悲鳴のような声が遠ざかっていく中、私と老人だけが取り残される。
かぐやのいつもの即決即断に溜息をつきながら、私は今や得体の知れない存在と化した車椅子の老人・STEVENと再び相対した。
彼は私だけでなく、かぐやの正体も知っている。かぐやが月から来たのを知っているのは、正真正銘私の身内と研究室の限られたメンバーだけ。当然、彼はその誰でもない。
誰だ、これは。
「博士の懸念はごもっとも。しかし、我々の目的は同じであると信じている」
「……目的って」
疑念や不信感を隠す気も失せた不機嫌な声に、彼は一切動じることなくまた別の何かをスーツの胸ポケットから取り出した。
節くれ立った手でつまみ上げられたそれは、小さな
彼はそれを空中に
「大事な人を、助けたいのだろう?」
そんなセリフと共に、小片から縦横無尽に光の筋が伸びた。
無数の光の糸が折り重なって網のようになり、私を覆っていく。
まさか、トラップ!?
慌てて抜け出そうとした私の背を、何者かが押し返した。
振り返ると、さっきまで目の前にいたはずのSTEVENがそこにいる。
車椅子姿ではなく、二本の脚でしっかりと立つ彼が。
「
私を光の網の中に突き落とした彼は、そう言ってまたほんの少し右の口角を上げた。