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わたしはあまりに順調な進行にほくそ笑んだ。
ARモードで起動したスマコンの左目が、ツクヨミの混乱を中継している。
これであの
あとは、悠々と聖域に侵入し、歩くこともままならない姫君を連れ去れば良いだけ。
「ヤチヨ……もうすぐだから」
セキュリティを正当な手段で解除し、研究室に足を踏み入れる。日の落ち始めた薄暗い室内には、二人の女性がそれぞれ椅子とドックに座った状態で目を閉じ荒い息を吐いていた。
スマコンのハッキングも、スマコン自体の充電が切れてしまえば意味を成さなくなる。まだたっぷり時間はあるはずだが、あの天才のことだ。即座に解決してしまう可能性は十分ある。
慎重に、しかし迅速に。そう心に唱えながらも、神々しい姫君を前にしては、早鐘のように高鳴る鼓動を抑えきれない。
彼女は今、ツクヨミに戻れない。そしてここから連れ出せば、永遠に。
「迎えに来たよ、ヤチヨ」
声に応えるように、姫は、伏せた瞳をゆっくりとわたしに向けた。
宝石のような水晶体に、わたしの貌が映る。
その全容を確認して、姫は――ヤチヨは全てを見通していたように、あるいは推測を確信したかのように、寂しげな笑顔を浮かべた。
「……やっぱり、あなただったんだね」
妖艶にも見える表情は、わたしの心をぐらつかせる。
全てを照らす光。万人に向けて等しく与えられるはずの慈悲なる光。その源たる姫君。それを今、わたしは私欲のために独占しようとしている。
わたしは自問する。果たしてそれは許される行為か否か。
許されるはずだ。結論はとっくに出ている。
わたしは見下ろす。電脳世界でもがく若き才女を。
なぜなら、今、まさに私欲のために光を独占しようとしている天才がいるからだ!
「彩葉はね」
やめて。その名を出さないで。
「ヤチヨを独占するつもりなんて全然ないんだ。ただ、ヤチヨが一人の女の子として生きていけるようにしてくれてるだけ」
分かっている。そんなことは、分かっている。
「だから、この選択は、ヤチヨのわがまま」
やめて。その続きを言わないで。
「そんな彩葉と、ヤチヨは一緒に生きていきたいって思うんだ」
聞きたくない。そんなことは、聞きたくないの!
叫ぶように、吼えるように、わたしは臓腑の奥底から迫り上がるような感情を強張った喉から絞り出した。
隠し持っていたネイルハンマーを、眼前に構える。これ以上、何も考える必要はない。ドックを破壊し、彼女を連れ去る。それで、ハッピーエンドだ。
なのに、どうして。
「……それを仕舞って、――――」
どうして邪魔をするの、酒寄彩葉!
○
月人召喚プログラムはめちゃ優秀だった。
「二時の方向に四体! 六時の方向に三体いるぞ!」
「オッケー、みんな、大掃除の時間だー!」
一度に呼び出せるのは十体くらいだけど、ミニオンより全然強いし、三体くらいで囲めば弁慶一人くらい余裕で勝てる。一度やられてもすぐに再起動できるから、戦力が枯渇することもない。
かぐやちゃんの行動サポートも完璧だし、FUSHIの誘導に従ってエンカウントするだけでサクサク狩れる。
それにしても、STEVENと名乗ったあの車椅子のお爺さんは何者なんだろう。彩葉のことも知ってたし、このプログラムって月のこと知らないと作れないよね? やけに準備も良いし、マジ謎。
おまけに、さっき彩葉がログアウトしたのをFUSHIが検知した。どうやったのか分かんないけど、これも彼がやったに違いない。
「FUSHI、あと何体くらいいる?」
「今でようやく半分ってとこだ。チヨが解決するのとどっちが早いか見物だな」
「うええええ、かぐやちゃんも頑張ってるんですけど!」
FUSHIが意地悪言う間も、通りがかりに見つけた弁慶をやっつける。だいぶスピードが上がってきたけど、あっちこっちに散ってるから移動に一番時間がかかる。
一個にまとまってくれたら良いのに、と思ったところで、私が戦った弁慶のことを思い出した。
そういえばアイツ、何処行ったんだ?
今狩ってる量産型みたいなのは動きが遅くて攻撃への対処もあまり上手くない。最初のやつは雷と私の二人がかりでも攻撃が通らなかったのに。
そこまで思い出して、急に何かモヤみたいな引っかかりが蘇ってきた。
あのとき、なんで弁慶は宇田ちゃんから武器を奪わなかったんだろう。絶好の機会だったし、躊躇する理由が分からない。
一つ引っかかると、色々と変なところが出てくる。
弁慶は一貫して喋らなかった。声で身バレしないためかと思ったけど、そんなんボイチェンとかでなんとでもなる。動きも変に機敏だった。予備動作もなく雷に突っ込んでいったのをよく覚えてる。
それに、あのとき――弁慶が出現したとき、宇田ちゃんはなんて言った?
ゲームを終えてログアウトしたとき、帰る間際に宇田ちゃんはなんて言ってた?
そして、チヨは、なんで弁慶の正体に言葉を濁した?
「まさか……!!」
全部が一個の結び目になって、私はチヨに通信を飛ばした。返ってきた答えが、最悪の予想を叩き出す。
このままだとヤチヨが、ログアウトした彩葉が危ない!
私の指は、すぐさま一つの連絡先を呼び出していた。
「助けて、帝! ヤチヨと彩葉が危ない!!」
○
光の網から抜け出した先の光景を目の当たりにして、私の体は反射的に飛び出していた。
ヤチヨと――宇田ちゃんの間に。
「……それを仕舞って、宇田ちゃん」
彼女の右手に構えられたネイルハンマーを見て、今更ながらに冷や汗が流れ始める。彼女が何をする気だったのかは分からないけど、凶器としては十分すぎる代物だ。
頭をフル回転させ、状況を推測して整理する。
一ヶ月前から仕組まれていた、弁慶によるツクヨミ襲撃。
その正体をほとんど知っていたそぶりのチヨ。
時期を同じくして起きたヤチヨの接続不良と、謎の接触者。
そして、その原因を突き止めるべくツクヨミに潜ったタイミングでの混乱に乗じたスマコンのハッキング。
薄々気づいてて、でも気づきなくなかった内部犯の可能性。
その動機だけが、今も分からない。
「……何をしようとしてたの」
だから、直接尋ねる。
目の前にいる、普段の相貌から変わり果ててしまった、灼け付くような瞳の彼女に。
深く息をつき、宇田ちゃんは射貫くような視線を私に向けた。
「……解放です。月見ヤチヨの」
「どういうこと」
「そのままの意味です。月見ヤチヨを解放するんです。あなたの作った檻から」
意味が分からなかった。
私はヤチヨを閉じ込めているつもりはないし、研究室から出られないのもどちらかというと歩行問題によるものだ。研究所として別に成果を上げられれば、彼女も自由に行動できるようになる。
仮に今のヤチヨが研究室内に閉じ込め状態にあるとして、宇田ちゃんの行動はやっぱり理解できない。ヤチヨを外へ連れ出すという意味なら活動限界の問題があるし、ツクヨミへの移動が出来ない今の状態は、ある意味別の檻に入れたのと同義だ。
ずっと研究室にいてヤチヨに関わっている宇田ちゃんなら、そんなことはわかりきってるはずなのに。
「分からないって顔ですね。そうですよね。あなたは選ばれたんだから、分からなくて当然ですよね」
「いったい何の話を……」
ますます分からなくなる疑問の答えを、激情の津波が
「ヤチヨはあなたと――酒寄彩葉と一緒に生きていきたいって言ったんだ!! 分身も出来ない一つのボディで! ツクヨミも偽物に任せて! だったら、わたしたちは、わたしは、何処でヤチヨと会えばいいの!?」
宇田ちゃんの頬を伝わる涙が、燃え広がる炎のように見えて、私は初めて自分の盲目具合に気がついた。
あぁ、バカだったな。
ヤチヨと一緒に過ごせる日々が楽しみすぎて、ヤチヨという存在の大きさをすっかり忘れていた。私だって、あのときまでヤチヨに救われて生きてきた一人に過ぎなかったのに。
ヤチヨが自立できるようになっても、今まで通り配信もするし、ライブだってするだろう。でも、その比率は大きく変わってしまう。
私と生きたいって、言ってくれたから。
宇田ちゃんには、私がヤチヨを独り占めするように見えたんだ。そして実際、このまま研究が進めばその通りになってしまう。私と同じようにヤチヨに救われて生きてきた宇田ちゃんが、結果としてヤチヨから引き離されることになる研究を続けている。
それがどれほど残酷なことか、私には思い至らなかった。
覚悟が、足りなかった。
ヤチヨと共に生きるための全てを受け止める、覚悟が。
「私は、ヤチヨと一緒に生きていきたい」
宇田ちゃんの目をまっすぐ見て、私は震えそうになる声をねじ伏せて言い切った。
「……っ!! 何を、いまさら……!!」
「『神降ろし』は、私のこの願いだけで動かしたプロジェクトなの。十一年間、ずっとそのことだけを考えて生きてきた。ヤチヨと、そしてかぐや。この二人だけが、私の生きる目的だった」
ヤチヨと再会して出来た目的。おとぎ話を超えた、物語の続き。
これからの私の人生を全て捧げても良いと思えた、希望の輝き。
表向きはAIとアンドロイドの融合を目的とした研究。医学、物理学、情報工学、必要なものはなんでも学んだ。所長になってからは莫大な研究費を得るために講演、企業提携、クラファンまでなんでもやった。
ヤチヨボディを経て完全自立するかぐやが生まれたときのことを、今でも覚えてる。
「かぐやが生まれて、やっと願いの半分が叶ったの」
もういい年なのに、子供みたいに泣いちゃった。
かぐやが月から来たのは、宇田ちゃんも知ってる。『もと光る竹』からかぐやの人格バックアップを抽出したときに、彼女も同席してたから。
「そうだ、あなたにはかぐやちゃんがいる! それなのにヤチヨまで独占するなんて、あんまりじゃないですか!!」
でも、宇田ちゃんは知らない。
ヤチヨが、八千年生きたもう一人のかぐやだってことを。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「足りないんだ。私は、欲深だから」
そう言って笑った。上手く笑えてたかは分からないけど。
私の願いは、想いは、ヤチヨとかぐやの両方がいないと叶わない。そのための
今、この状況でさえも。
見開かれた宇田ちゃんの瞳に、怒りとも憎しみともつかない色が見える気がした。自分勝手な女の戯言と罵られてる気さえした。
「……酷いですよ」
そうだね。
「わたしだって、ヤチヨに救われたのに」
私もだよ。
「ヤチヨがいたから、生きていけたのに」
今もそう。
「わたしから、ヤチヨを取り上げないで」
ごめんね。
「自分勝手な願いで、わたしからヤチヨを取り上げないでよ!!」
それでも、私は。
宇田ちゃんの右手が、ネイルハンマーを振り上げる。
ヤチヨの叫び声が聞こえた気がした。
せめてもの抵抗として、両腕を顔の前に掲げる。彼女の絶望を受け止めるには、腕の一本くらいじゃ足りないかもしれないけど。
その瞬間を待って――でも、いつまでもやってこなくて。
思わずつぶっていた目を開いて顔を上げたところで、無意識に閉め出していた周りの音が耳になだれ込んできた。
「大丈夫か、彩葉」
「おにい……ちゃん?」
最初に見えたのは、焦りと安堵が
何故ここにお兄ちゃんが、と疑問を投げかける前に、兄は深く溜息をついて言った。
「かぐやちゃんから連絡があったんよ。ヤチヨちゃんと彩葉が危ないから、すぐに研究室に来てくれって」
あんなに焦った声のかぐやちゃん初めてやよ、と苦笑いする兄。それを聞いて、私は二人に深く感謝すると同時に、情けなくも脚から力が抜けてその場にくずおれてしまった。
ネイルハンマーを取り上げられた宇田ちゃんは、兄の監視の下で椅子に座らされる。縛っとかなくていいのかと聞かれたけど、首を横に振った。彼女の絶望がこれ以上深まるのを、私は望まない。
なんとか落ち着きを取り戻した私は、立ち上がって宇田ちゃんを見た。憔悴しきった彼女の様子に、胸が痛む。
もし私がヤチヨの正体を何も知らないまま十年推し続けて、それが唐突に誰かに奪われてしまうと知ったら――きっと平静を保つことは難しかっただろう。奪い去ろうとする誰かに殺意くらい抱いたかもしれない。
宇田ちゃんのしようとしたことは犯罪で、それを擁護するつもりはない。でも、彼女の感じた心の痛みの責任は、私にもある。
何か声をかけようと口を開いて、そっと閉じる。今の私が何を言っても、きっと彼女には届かない。
やきもきする私を、ヤチヨがそっと呼んだ。
「彩葉。少しだけ、手伝ってくれる?」
手招きするヤチヨの方へ行くと、彼女は姿勢をずらし、私の手を取ってゆっくりと立ち上がった。慌てて脇で支えると、ヤチヨは覚束ない足取りで一歩、また一歩と宇田ちゃんの方へ歩いて行く。
そして彼女の前まで来ると、ヤチヨは立つときと同じようにゆっくりと膝をつき、俯いたままの顔に視線を合わせた。
「宇田ちゃんが初めてヤチヨのライブに来てくれたときのこと、覚えてるよ」
「…………え」
囁くような優しい声で、懐かしそうに言うヤチヨ。
宇田ちゃんは、まるで信じられない言葉を聞いたように顔を上げた。
「八年前、久しぶりの握手券付きのライブの時。ご両親と進路のことで大喧嘩したことを、泣きながら話してくれたっけ」
「な、なんで覚えて……」
「ツクヨミのみんなとお話ししたことは、全部ヤチヨの宝物だから」
本当に全部覚えてるんだろう。分身で見たり聞いたりした内容も、本体に統合したときに全部体験できるとヤチヨは言ってた。
八千年分の記憶を覚えてられるヤチヨには、それくらい簡単なことなんだと思う。
「一生懸命悩んで、結論を出した宇田ちゃんが彩葉の研究室に来てくれたのを見て、ヤチヨは本当に嬉しかった。彩葉の……ううん、ヤチヨの願いを形にしてくれようとしてくれる宇田ちゃんが、とても眩しく見えた」
「わたし……わたしは……」
「でも、そのことで苦しんでもいたんだね」
ヤチヨの言葉に、宇田ちゃんが呻く。
きっと、現実に降り立つヤチヨの姿を想像して、ときめいてくれていた。彼女の仕事は、とても真摯で、情熱に溢れていたから。
「わたしは……ヤチヨのためにって思って……でも、途中から分からなくなって……!」
再びの嗚咽が、室内に響く。
「ヤチヨが酒寄所長に特別な想いを向けてるのに気づいて、わたしは嫉妬した……嫉妬した自分にショックを受けた……! ヤチヨのためと思って働いてたのは、嘘だったんだ……全部、全部自分のためだったんだ……!」
胸の奥を締め付けるような、告白。
ずっとその気持ちに悩んでいたんだろう。どこかで折り合いをつけようとしていたのかもしれない。だって今日まで、彼女はずっと研究室を支えてくれていたから。
誰にも、その苦悩を悟らせないまま。
「……自分勝手にヤチヨを独り占めしたかったのは、わたしだったんだ」
最後の言葉が、ガラス細工のように床に零れて壊れていく。
ヤチヨは項垂れた彼女の頭を両手でかき抱いた。小さな子をあやす、母親のように。
「ヤチヨは、果報者なのです。こんなにも愛してくれる人がいて」
みんなが好きなことをして、誰も孤独にならず、いつでも返事をもらえる場所。そんな思いを込めて、ヤチヨはツクヨミを作った。
その結果、ツクヨミは様々な人の想いで溢れ、クリエイターの愛で溢れ、そしてその中心であるヤチヨは、誰からも愛される歌姫となった。
「……本当は、ヤチヨを愛してくれる人たちみんなに愛を返してあげたい。ツクヨミは、そういう場所にしたかったから。でも……ダメみたい」
ヤチヨの手が、宇田ちゃんからそっと離れる。
その手を縋るように追う視線が、初めての恋を告げる乙女のような涙の笑顔に吸い込まれていった。
「愛する人と一緒に生きる、普通の女の子になりたくなっちゃった」
きっとそれは、ヤチヨが初めて誰かの想いを断ち切るために紡いだ言葉。
目の前のヤチヨを見失ったように、宇田ちゃんの瞳が宙を彷徨う。何処にも行き当たらない感情を覆い隠す両手が、くぐもった慟哭を押しとどめた。
「うぅ……ううう……うううううううううぅぅぅぅっっっっ!!」
いつの間にか夜の帳が下り、月明かりだけが室内を照らしている。
優しく