――これは本気でマズイことになった。
一文無しで途方に暮れながら、彼の心中はそんな一言で埋め尽くされていた。
一文無しというのは正確ではない。財布はポケットの中に入っているし、小銭ばかりで札が心許ないとはいえ、全財産が消えたわけではない。
地元の本屋で参考書を一冊買って、昼に安い飯を食べるくらいの余裕はある。
にもかかわらず、一文無しとしか言いようがない。
なにせ、
「やっぱ、偏差値とかって全然違うんだよな……」
手の中の十円玉――希少な『ギザ十』を指で弾き、少年は長いため息をこぼした。
カラン、と乾いた音がやけに虚しく響く。
これといった特徴のない少年だ。短い黒髪に平均的な身長。やや筋肉質な体格に、安物のグレーのジャージ。
三白眼の鋭い目だけが印象的だが、今はその目尻も落ちていて覇気がない。
人混みに紛れればすぐに埋もれてしまうような、どこにでもいる見た目。
だが――そんな彼に向けられる視線は、明らかに場違いなものだった。
奇妙なものを見るような、値踏みするような視線。
当然といえば当然だ。
なにせ少年の周囲にいる連中は、誰一人として“ジャージ姿”でもなければ“手ぶら”でもない。
全員が分厚い参考書や赤本を抱え、
シャーペンを指に馴染ませ、
どこか張り詰めた空気をまとっている。
掲示板には難関大学の合格実績。
壁一面に貼られた成績上位者の名前。
教室の奥から漏れてくる、講師の張り上げる声。
どこを見ても、“本気”しかない。
無遠慮な空気の圧にさらされて、少年は腕を組みながら納得するしかなかった。
「つまり、これはあれだな」
軽く指を鳴らし、周囲の空気――いや、この場そのものを指し示して、
「――気付いたら浪人して、駿台にいるってことらしい」
目の前を、英単語帳を片手にブツブツと何かを呟きながら歩く生徒が通り過ぎていく。
その背中を見送りながら、少年はもう一度だけ、深くため息を吐いた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
菜月昴は平成日本生まれのゆとり教育世代出身である。
彼の人生は十八年。そのすべてを語るには十八年かかる。
だがそれを語る必要はない。
今の彼を一言で表すなら――『浪人生』だ。
より正確に言うならば、
『受験を目前に控えながら勉強から逃げ続け、そのツケをそっくりそのまま背負って予備校に放り込まれたどうしようもない存在』
といったところだ。
浪人に至った理由は、劇的なものではない。
ある日の朝、「今日は面倒だ」と思った。
それだけで、机に向かうのをやめた。
一日が二日になり、二日が三日になり、
気付けば“やらないこと”が日常になっていた。
そのまま迎えた受験本番――結果は、言うまでもない。
「その結果がこれか……もはや自分で言ってて意味わかんねぇな」
現状を再確認し、スバルは何度目になるかわからないため息をついた。
教室の隅に立ちながら、視線を落とす。
机、椅子、黒板。
そしてそこに座るはずだった“去年の自分”。
日がな一日怠惰をむさぼり、ネットに逃げ込み、
現実から目を逸らし続けた結果が――ここだ。
「マジで勘弁してくれよ……俺にどうしろっつーんだよ」
弱音がこぼれる。
だが、返事はない。
あるのはただ、逃げ場のない現実と、
これから積み上げるしかない時間だけだった。