エルザの手が、ゆっくりと持ち上がる。
刃は見えない。
なのに――空気だけが、わずかに裂ける気配。
「ねえ」
囁くような声。
「どこまで耐えられるのかしら」
次の瞬間。
何かが“通り抜けた”。
スバルの体を。
衝撃はない。
痛みもない。
ただ――
膝が、落ちる。
「……く、そ……」
立てない。
さっきよりも、明確に。
“先に進めない”感覚が、強くなっている。
「スバル!」
エミリアが叫ぶ。
その声と同時に、彼女の視線が奥の棚に吸い寄せられる。
「……これ」
手に取る。
ビニールに包まれた、一式の教材。
一瞬の沈黙。
「……パック」
そして、確信。
「……共テパック!」
顔が上がる。
視線が、エルザを捉える。
空気が変わる。
「それ、返してもらうわ」
低く、はっきりとした声。
エルザは楽しそうに目を細める。
「それ、あなたの?」
「違う。でも――」
一歩、前に出る。
スバルをかばうように。
「盗まれたものは、取り返す」
短く言い切る。
その手に握られた共テパックが、わずかに光を帯びるように見えた。
「へえ」
エルザが、首を傾げる。
「面白いことするのね」
エミリアは構える。
パックを胸元に引き寄せ、静かに息を吐く。
「これは……“まだ”じゃない」
小さく、呟く。
「でも、“ここから先に進むためのもの”よ」
踏み込む。
空気が、震える。
エルザの手が振られる。
見えない一閃。
だが――
その“切断”は、わずかに逸れる。
「……っ!」
エルザの眉が、ほんの少し動く。
「効かないわけじゃない……でも」
エミリアが前に出る。
距離を詰める。
「簡単には、切らせない!」
共テパックを軸にした一撃。
ぶつかる、見えない斬撃と“意志”。
弾く。
押し返す。
だが――
「甘いわ」
エルザの声が、近い。
一瞬で距離を詰められる。
次の斬撃。
今度は、深い。
「――くっ」
エミリアの体が揺れる。
踏みとどまるが、完全には防げない。
「いいわね、それ」
エルザが笑う。
「でも、それ“まだ途中”でしょ?」
一歩。
さらに踏み込む。
「確定してない未来なんて――切りやすいのよ」
その言葉が、突き刺さる。
エミリアの動きが、ほんの一瞬だけ鈍る。
共テパックは“可能性”だ。
だが、それはまだ“確定”じゃない。
だから――
切れる。
「……っ」
押し込まれる。
距離が、詰められる。
届きそうで、届かない。
そのとき。
「――その程度かしら」
声。
静かで、しかし圧倒的な重みを持つ声。
空気が、変わる。
振り向く間もなく――
エルザの体が、弾かれた。
「な――」
初めて、エルザの表情が崩れる。
そこに立っていたのは、ひとりの女性。
青を基調とした装い。
落ち着いた佇まい。
だが、その存在感は異質だった。
「未来を切る、ですって?」
淡々とした声。
「随分と、軽く扱うのね」
一歩、前に出る。
その瞬間、空気が“固定される”。
揺らぎが、消える。
「私は山崎良子」
名乗る。
「『青』の称号を持つ者――そして」
わずかに、目を細める。
「何年もの浪人を見てきた、駿台の理事長よ」
その言葉と同時に、場が“確定”する。
曖昧だったものが、全て一つに収束する感覚。
「足切り?」
小さく、鼻で笑う。
「そんなもの――何年でも越えさせてきたわ」
一歩。
踏み込む。
それだけで、圧が違う。
エルザが後退る。
「未来は、切るものじゃない」
静かに言い放つ。
「積み重ねて、届かせるものよ」
次の瞬間。
“何か”が振るわれた。
見えない。
だが、確実に。
エルザの存在そのものが、弾き飛ばされる。
「――っ」
抵抗すら許されない。
圧倒的な差。
壁に叩きつけられ、そのまま動きを止める。
静寂。
残されたのは、三人。
エミリアと、スバルと――
そして、『青』の理事長。
「さて」
山崎良子が振り返る。
「終わらせましょうか」
そ一言で、未来が“確定済”と理解させられた。