やがて、香ばしい匂いが春の飾りの間をすり抜けるように店内へ広がった。
チノ「みなさん、おまたせしました。」
チノは各々が頼んだ飲み物を順番に差し出した。
千夜「シャロちゃんが酔ってるところ、はやく見たいわ~」
シャロ「見なくていいわよ!飲むけど!」
マヤ「シャロ、あんまり無理すんなよ~」
メグ「シャロさんコーヒーですぐ酔っちゃうもんね~」
昼下がりのまったりした時間の流れとともに、カップに入ったコーヒーの水位が下がっていく。
シャロ「...ってことがあって、クラスではいつも大変なのよ。」
ココア「そうなんだ~!...ってあれ?シャロちゃん全然酔ってなくない?」
シャロ「あら、ほんとね。今日は平気だわ。」
千夜「不思議ね。いつもなら1口でもテンションが高くなるのに。」
マヤ「もしかして、"かふぇいんれすこーひー"ってやつか?」
チノ「ウチにデカフェは置いてませんよ。」
メグ「でかふぇ?ってなにー?」
ココア「でっかいカフェラテのことだよ!」
チノ「違います。」
シャロ「デカフェっていうのは、カフェインが入っていないコーヒーのことね。このコーヒー、確実にデカフェだわ。」
シャロはカップを持ち上げ、もう一口だけ含んだ。
苦味も香りも、コーヒーらしさはちゃんとある。けれど、体の奥にいつもやってくる、あの妙な浮つきだけがまるで来ない。
千夜「でも、チノちゃんはいつもの豆を使ったのよね。」
チノ「はい。朝から同じ豆を使っています。」
その言葉に、シャロの眉がぴくりと動いた。
シャロ「……朝から?」
チノ「はい。」
シャロ「朝もその豆でコーヒーを淹れたのよね。」
チノ「そうです。父が飲んでいて、いつものラビットハウスの味だって言っていました。」
シャロはカップをソーサーに置いた。
小さな音が、やけにはっきりと店内に響いた。
シャロ「……少なくとも、いま私が飲んでいるものは、朝タカヒロさんが飲んだものと同じじゃないってことね。」
マヤ「えっ、じゃあ途中で変わったってことか?」
メグ「でも、どうして……?」
シャロは少し考えた後、チノのほうを見た。
シャロ「……チノちゃん。この近くで、デカフェの豆を扱っている店はあるかしら。」
チノは一瞬だけ目を伏せたが、すぐにいつもの表情に戻った。
チノ「あります。豆の状態で常備している店は、この近辺だと一軒だけです。」
メグ「そういうのまで分かるんだねぇ。」
チノ「うちでは扱いませんけど、どこで何を置いているかくらいは。」
シャロ「案内してもらえる?」
チノ「……はい。」
マヤ「おおー、探偵シャロ、爆誕!」
シャロ「遊びじゃないわよ!」
一行は、ラビットハウスからほど近いコーヒー豆店へ向かった。
古びた木の看板が下がるその店は、香ばしい匂いに満ちていた。
店主はシャロたちの話を聞くと、首をかしげた。
店主「デカフェを買ったお客さん、ですか……。」
シャロ「ええ。今日このあたりで買った人を探してるんです。」
店主は少し考えてから、ああ、と声を漏らした。
店主「昼前くらいだったかな。変わったお客さんが、“いちばん高い豆をください”って。」
リゼ「ふむ……。」
店主「味の好みは聞かずに、値段ばかり気にしていましたよ。変なお客さんでした。」
シャロ「その豆、デカフェだったんですね。」
店主「ええ。うちでいちばん高いのは、輸入のデカフェですから。」
千夜「シャロちゃん、何かわかったの?」
シャロ「まだよ。でも、ひとつだけ確かになったわ。」
ココア「なになに?」
シャロ「犯人は、“味”じゃなくて“値段”で豆を選んだ。」
マヤ「……それって、どういうことだ?」
シャロ「つまり犯人は…」
そう言いかけて、シャロの視線が会計台の脇に置かれたガムテープへ止まった。
茶色い紙片。粘着の残る細い切れ端。
シャロは昼に見た光景が浮かぶ。
シャロ「……そうだわ。」
ココア「え?」
シャロ「昼、ココアの服についていた紙片とガムテープ。」
千夜「あら……。」
メグ「たしかについてたよねぇ。」
シャロ「あれは配達物を開けた時に付くものだわ。」
ココア「でも私、配達物なんて触ってないよ?」
シャロ「ええ。だから、あれはココアについたんじゃないわ。その少し前にココアは、チノちゃんへ抱きついていたわよね。」
ココア「あっ……。」
シャロ「チノちゃんが配達物を開けた時についた紙片やガムテープが服に残っていて、ココアに移ったんじゃないかしら。」
シャロはチノの方を見る。
シャロ「チノちゃん。昼に配達員は来た?」
チノ「……。」
ココア「チノちゃん?」
チノ「……はい、来ました。すみません、関係ないと思っていたので……。」
その時だった。
ココアがぱっと顔を上げた。
ココア「あ!そういえば昼すぎに、ラビットハウスからトラックが走っていくのを見たよ!ナンバー覚えてる!」
リゼ「本当か?」
ココア「うん。"わ-9803"だよ!数字の並びが素数だったから覚えてたんだ~!」
シャロが半眼になる。
シャロ「そういうところだけ妙に頼りになるの、ずるいわね……。」
ココア「えへへ。」
リゼ「よし。そのトラックが怪しいんだな?番号が分かれば所属先を当たれるぞ。」
リゼはすぐに携帯を取り出した。短く事情を説明し、番号を伝える。
数分もしないうちに折り返しが来た。
リゼ「分かった。運送会社と、今日の配達先の候補が出た。」
シャロ「早すぎませんか?」
リゼ「父の知り合い経由だ。」
シャロ「すごい組織力ですね…。」
ココア「でも助かるよ!」
リゼ「そのトラック、今は甘兎庵の近くにいるらしい。」
千夜「うちの近く……?」
リゼ「先に連絡を入れてもらった。おばあさまが、少し時間を稼いでくれるそうだ。」
千夜「おばあちゃん、きっと上手にお引き止めしてくれるわ。」
甘兎庵に着いた頃には、空はもう夕方の色を帯び始めていた。
店先では、千夜の祖母が配達員の男を相手にしていた。
祖母「ほら、まだまだあるから。いくらでも食べなよ~。」
男「も、もういいですから……。」
千夜の祖母は、配達員の男に次々と和菓子を渡していく。
男は口いっぱいに和菓子を含みながら、落ち着かない様子でトラックを気にしている。
そこへ、シャロたちが姿を見せた。
男の目が細くなる。
男「……何か?」
シャロ「少し、お話があるの。」
男「配達中なんで、困るんですがね。」
男はそれだけ言うと、身を翻してトラックの方へ走り出した。
シャロ「あっ!待ちなさい!」
その瞬間だった。
男の顔に黒い毛玉がぶつかる。
「ぶっ!?」
それは甘兎庵の看板ウサギ、あんこだった。
男はたまらずよろめく。
肩にかけていたバッグが手を離れ、石畳の上に落ちた。バッグの口が開き、中から布袋がひとつ転がり出る。
その場の空気が、一瞬で変わった。
ティッピーが、ちょこちょことその袋へ近づく。
鼻先を寄せ、短く匂いを吸い込む。
そして、静かに言った。
ティッピー「……間違いない。ウチのブレンド豆じゃ。」
ココア「ティ、ティッピーがしゃべっ――」
チノ「今のは腹話術です。」
メグ「でもほんとにラビットハウスの豆なの?」
リゼ「チノがそう言うなら、まず間違いない。」
男は青ざめ、半歩後ずさる。
シャロはその様子をじっと見つめていた。
シャロ「これで、あなたのバッグの中にラビットハウスのオリジナルブレンドが入っていたことは確定ね。」
男「そ、それが何だっていうんだ……!」
シャロ「まだ分からない?」
男「豆を持ってるだけで、盗んだ証拠になるのか!」
シャロは一歩前へ出た。
夕方の光が、金髪を柔らかく照らす。
シャロ「なるわ。最初から話してあげる。」
周囲が静まる。
あんこだけが、何事もなかったように店の中に戻っていった。
シャロ「今日、ラビットハウスのコーヒーには異変があった。」
シャロ「私は、あそこのコーヒーを飲むと、いつもカフェインで酔う。なのに今日は酔わなかった。」
男「……。」
シャロ「それだけじゃない。朝、お店を開ける前にタカヒロさんが飲んだコーヒーは、ちゃんといつものオリジナルブレンドだった。」
リゼ「つまり、朝には異常なし。」
シャロ「ええ。だから豆が変わったのは、昼の営業中よ。」
男の頬がひきつる。
シャロ「豆はデカフェにすり替わっていた。ラビットハウスの味をごまかしたいなら、本来は“似た豆”を探すはずよ。」
シャロ「この店の豆を知っている人間なら、こんな露骨な間違いはしない。だから、豆をすり替えたのは外部の人間ね。」
シャロは一度だけ、ココアの方を見た。
シャロ「昼、ココアの服には紙片とガムテープがついていた。でもココア自身は、配達物なんて触っていない。その前にチノちゃんへ抱きついていたから、あれはチノちゃんから移った可能性が高い。」
シャロ「つまり、昼に何かを持ち込んだ外部の人間がラビットハウスへ来た。」
千夜「それが……配達員。」
男は、唇をわずかに噛んだ。
シャロ「しかもココアは、昼すぎにラビットハウスの前から出ていくトラックを見ていて、ナンバーも覚えていた。」
シャロ「その番号から所属先を絞って、今日この辺りを回っていた運送会社の車両を突き止めた。」
シャロ「配達員なら、荷物を持って店に入っても不自然じゃない。自分の豆を持ち込んでも、盗んだ豆を持ち帰っても怪しまれにくい。」
リゼ「そして、豆屋の証言だな。」
シャロ「ええ。近くの豆屋さんで聞いたわ。“今日、いちばん高い豆をくださいと言って買っていった客がいた”って。」
メグ「味じゃなくて値段だけ、だったんだよね。」
シャロ「そう。犯人は、味ではなく値段だけで代用豆を選んだのよ。だからデカフェを選んでしまった。」
男は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
シャロ「そして今、あなたのバッグにはラビットハウスのブレンド豆がある。もう逃げられないわ。」
男「……っ。」
男は言い返そうとして、けれど言葉が出てこない。
代わりに、悔しそうに俯いた。
シャロ「あなたはラビットハウスのコーヒーが好きだった。だから盗んだ。けれど、そのままじゃすぐにばれるから、高い豆を代わりに入れた。」
シャロ「でも、コーヒーを好きなことと、コーヒーを知っていることは違う。あなたはそこで間違えたのよ。」
しばらくして、男は力なく笑った。
男「……あの味が、どうしても欲しかったんだ。」
男「少しくらいなら分からないと思った。高いやつなら、似てるだろうって。」
リゼ「…浅はかだな。」
男「デカフェなんて……知らなかったんだよ。」
千夜は小さく眉を寄せ、ココアは複雑そうに黙る。
シャロもまた、勝ち誇った顔はしなかった。
事件は、これで幕を閉じた。
ラビットハウスへ戻ると、店の中にはもう、いつもの静けさが戻っていた。
チノが改めてオリジナルブレンドを淹れる。湯気とともに、馴染んだ香りが店内へ広がった。
シャロは慎重にひと口飲み、数秒置いてから、むっと頬をしかめる。
シャロ「……来たわ~っ!」
ココア「おぉ!いつものシャロちゃんだ~!」
マヤ「ほんとに分かりやすいなー。」
メグ「よかったのか悪かったのか分からないねぇ。」
千夜「ふふ。でも、これで本当に元通りね。」
リゼ「まあ、一件落着だな。」
みんながようやく息をつき、張りつめていた空気がほどけていく。
誰かが笑い、誰かがカップを置く。ラビットハウスには、またいつもの時間が戻ってきたように見えた。
その時だった。
シャロ「……でも、少し変よね。」
ココア「え? 何が?」
シャロはカップを見たまま、ぽつりと続ける。
シャロ「今日の昼、ラビットハウスに来た相手が誰だったのか。」
リゼ「……?」
シャロ「さっきの話だと、犯人は昼に店へ入って、豆をすり替えたことになる。」
千夜「ええ……。」
シャロ「だったら、その時お店にいた人は、犯人の顔を見ているはずよね。」
ココアの表情から、笑みがすっと消えた。
ココア「……あ。」
リゼ「そうか。昼、店を任されてたのは……。」
しん、と店内が静まる。
メグ「じゃあ、チノちゃんは……。」
マヤ「最初から、配達員だって分かってたってことか?」
千夜「それなのに、何も言わなかった……?」
ココアが勢いよく振り返る。
ココア「チノちゃん?」
さっきまで確かにカウンターの向こうにいたはずなのに、チノの姿は見えなかった。
ティッピーだけが、いつもの場所で丸くなっている。
盗まれた豆は戻り、ラビットハウスはまた、いつもの香りで満ちていた。
それなのに、不気味な違和感だけが残っていた。
昼、あの配達員に応対していたのはチノだった。
シャロたちが配達員へたどり着けるだけの手がかりを、チノは最初から持っていたはずだった。
それなのに、チノは何も言わなかった。
まるで、最初から知っていたみたいに。
ココア「……チノちゃん?」
その呼びかけは、静かなラビットハウスに溶けるように消えていった。