みんなも少し落ち着かない様子ではあったが、その日はそのまま解散することになった。
リゼ「今日はもう遅い。また明日な。」
千夜「チノちゃん、少し疲れてたのかもしれないわね。」
シャロ「……まあ、そういうことにしておくわ。」
マヤ「チノってたまに急にいなくなるよなー。」
メグ「でも、なんだか心配だねぇ……。」
みんなが帰り、店の扉が閉まる。
ココアはしばらく店の真ん中に立ったまま、二階へ続く階段を見上げていた。
昼間はあんなににぎやかだったのに、時計の音だけがやけにはっきり聞こえる。
洗い終えたカップが、棚の中で静かに並んでいた。
ココア「……どこ行っちゃったんだろ。」
ココアはそっと店の奥へ向かう。
廊下は薄暗く、昼間のぬくもりが少し冷えていた。
一歩進むたび、床板が小さく鳴る。
階段の下で、ココアは一度立ち止まった。
もう1年もここに住んでいる。
なのに今夜は、知らない家みたいに静かだった。
ココア「……チノちゃん?」
小さく呼ぶ。
返事はない。
ココアはゆっくりと階段を上った。
木のきしむ音だけがついてくる。
廊下の先、チノの部屋の下から、細く明かりが漏れていた。
ココアはそこで息を止めた。
明かりはついている。
けれど、物音がしない。
ノックをしようとして、指先が止まる。
ココア「……入るよ、チノちゃん。」
そう言って、そっとドアノブを回した。
扉はあっさり開いた。
部屋の中では、机の上のスタンドライトだけが灯っていた。
その明かりの下で、チノは椅子に座り、細い道具を手にしていた。
机の上には小さなガラス瓶と、その中に作りかけの帆船。
ココア「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
チノはそこでようやく振り向いた。
チノ「どうしたんですか、ココアさん。」
ココア「どうしたって……こっちの台詞だよぉ……!」
ココアはその場でへなへなと力を抜いた。
チノは少しだけ不思議そうな顔をしたあと、いつも通りの調子で言った。
チノ「シフトの時間が終わったので、ボトルシップを作ってました。」
ココア「そ、そうなんだ……。びっくりしたぁ……。」
チノ「何にですか。」
ココア「急にいなくなるからだよ! みんなで探したんだからね!」
チノ「そうだったんですか。すみません。」
チノの声は妙に淡々としていた。
謝っているのに、どこか遠かった。
ココアは机のそばまで歩いていき、瓶の中の小さな船をのぞきこむ。
ココア「すごいなあ……。もうほとんど完成してるじゃん。」
チノ「あと少しです。」
ココア「こういうの作れるの、ほんとチノちゃんらしいよね。」
チノ「慣れれば単純作業です。」
ココア「わたしなら絶対途中で折る自信ある。」
チノ「ふふ。でしょうね。」
ココア「ひどい!」
チノの返しはいつも通りだった。
そのことにほっとして、ココアは笑った。
けれど、チノはすぐまた視線を瓶の中へ戻した。
小さな船を見つめる横顔は静かで、整っていて、いつもと変わらないように見える。
それなのに、ココアはどうしても聞けなかった。
昼のこと。
配達員のこと。
どうして何も言わなかったのかということ。
今ここで聞けば、せっかくほどけた空気がまた冷たくなる気がした。
ココア「……じゃあ、また後で。」
チノ「はい、後で。」
ココアは無理に明るく言ってから、部屋を出た。
扉が閉まる直前、チノはもう一度、瓶の中の船へ目を落としていた。
まるで、その狭いガラスの中だけが、自分の世界かのように。
その日の夕食のあと。
食卓には、飲み終えたハーブティーの香りがかすかに残っていた。
向かいに座るチノは、夕方と同じく落ち着いて見えた。
ココアは膝の上で指を組む。
ココア「ねえ、チノちゃん。」
チノ「何ですか。」
ココア「今日のことなんだけど……。」
それだけで、空気が少しだけ変わった。
ココア「配達員さんが犯人だったって、あとから聞けば、そうかもしれないって思えるでしょ?」
チノ「……はい。」
ココア「昼にお店にいたの、チノちゃんだったよね。」
チノ「そうです。」
ココア「じゃあ、どうして何も言わなかったの?」
問いかけたあと、ココアは自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。
チノはすぐには答えなかった。
ほんの数秒の沈黙だったのに、それがやけに長く感じられる。
やがてチノは、目を伏せたまま言った。
チノ「すみません。そこまで考えが及びませんでした。」
それは謝罪の言葉だった。
けれど、同時に、そこで話を終わらせるための言葉にも聞こえた。
ココア「でも、チノちゃん――」
チノ「私、あの時はそこまで頭が回らなくて。」
チノはそこで言葉を切った。
それ以上は続けない、というふうに。
チノ「ご迷惑をおかけしました。」
ココア「……うん。」
チノは静かに立ち上がる。
チノ「疲れたので、もう休みます。」
ココア「え、あ……うん。」
引き止める間もなく、チノは食器をまとめ、そのまま席を離れた。
残された食卓は、しんとしていた。
さっきまで温かかったティーカップも、もうほとんど冷めている。
ココアはその縁に指を添えたまま、小さく息をついた。
それから数日、ラビットハウスはいつも通りに朝を迎えた。
ココアはいつものように騒がしく、チノは変わらず淡々と働いた。
注文も、抽出も、接客も、何ひとつ乱れない。
けれど、その夜だった。
部屋の前を通りかかったココアは、扉のすき間から甘い匂いが流れてくるのに気づいた。
ただ甘いだけじゃない。かすかにつんとして、喉の奥にひっかかるような匂いだった。
ココアは足を止めた。
ココア「……チノちゃん?」
思わず呼びかけそうになる。
けれど、部屋の中からは返事も物音もしない。
気のせいかもしれない。
そう思ってそのまま通り過ぎたが、その匂いだけは胸の中に残った。
数日後の夕方。
ゴミ箱の袋を替えようとした時だった。
透明な袋の底に、小さな金色のフィルム片が混じっていた。
瓶の口を覆っていたような、薄い封の切れ端だった。
ココアはそれを拾い上げる。
指先でつまむと、そこにはかすかに甘い匂いが残っていた。
ココアはそれを鼻先に寄せた。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
どこかで覚えのある匂いだった。
思い出せそうで、思い出せない。
チノ「ココアさん、何してるんですか。」
背後から声がして、ココアはびくりと肩を跳ねさせた。
振り返ると、チノが買い物袋を提げて立っていた。
ココア「あ、いや、その……ゴミまとめてただけで。」
チノ「そうですか。」
チノの視線が、ココアの手元へ落ちる。
その一瞬だけ、表情が固くなったように見えた。
チノ「それ、捨ててください。」
ココア「え? あ、うん。」
ココアが慌てて包み紙を袋に戻すと、チノはそれ以上何も言わなかった。
ただ、買い物袋をカウンターへ置き、いつものように冷蔵庫の中を整えはじめた。
その日の夜、布団に入ったココアはふいに目を開けた。
あの匂いだ。
甘くて、少しだけつんとする、あの妙な香り。
思い出したのは、1年前の冬のことだった。
洋酒入りのチョコを食べて、チノが酔ってしまった夜。
顔を赤くして、いつもよりずっと素直で、危なっかしくて。
みんなで慌てながらも笑っていた、あの夜。
今の匂いは、あの時とまったく同じではない。
けれど、甘さの奥にある熱っぽさだけは、たしかに似ていた。
ココア「……まさか。」
けれど、その先は口にできなかった。
あれは一度きりの出来事だったはずだ。
可愛いハプニングみたいなものだったはずだ。
そう思いたいのに、嫌な想像だけが膨らんでいく。
あの夜のことを、チノは別の意味で覚えていた。
みんなが笑っていたこと。
自分がいつもと違う話し方をしていたこと。
頬が熱く、足元がふわついていたこと。
それよりも強く残ったのは、胸の奥をずっと塞いでいた重たいものが、その時だけ薄れたことだった。
何を言えばいいのか考えなくていい。
どう見られているのか気にしなくていい。
失敗してはいけないと肩に入っていた力が、その時だけ抜けていた。
翌朝には、そんな自分を恥ずかしいと思った。
思ったのに、忘れられなかった。
最初は、本当に少しだけだった。
似たようなお菓子を見つけた時に、誰にも見られないように口にする。
それだけで、胸のざわつきが少しやわらいだ。
やがて、それでは足りなくなった。
店に置かれている酒瓶に、夜の片づけの途中で視線が向くようになる。
ほんの少しだけ。そう自分に言い聞かせながら、チノは何度も一線を越えた。
やめなければと思うたびに、別の声が囁く。
少しだけなら大丈夫。
明日からやめればいい。
けれど本当は、その頃にはもう気づいていた。
少しだけ、で止まれなくなっていることに。
中学三年の冬は、息苦しかった。
卒業が近い。進路の話が出る。ラビットハウスのことを考えない日はない。
父の背中は優しくて、静かで、だからこそ重かった。
ココアは明るく手を引いてくれる。リゼは頼もしい。みんな優しい。
優しいからこそ、弱いところを見せられなかった。
苦しい、と言えなかった。
自分で買うようになったのは、その頃からだった。
中学生が酒を買うことも、店を任されているチノには容易かった。
ラビットハウスとして注文し、店に誰もいない時間に配達してもらうよう手配した。
あの日のコーヒー泥棒も、酒を届けに来た配達員だった。
チノはただ、受け取って、隠して、それで終わるはずだった。
まさか配達員が豆を盗むとは思わなかった。
まさかシャロが、ああいう形で異変に気づくとも思わなかった。
あの時、真実にいち早く気づいていたのはチノだった。
けれど、配達員が来ました、と言えば、その先まで全部バレてしまうかもしれない。
自分が何を受け取ったのか。
なぜ隠したのか。
なぜそんなものが必要だったのか。
だからチノは、目を伏せて言ったのだ。
「すみません。そこまで考えが及びませんでした。」
日は過ぎ、チノは卒業式を迎えた。
卒業式は、驚くほどあっけなく、そして眩しく終わった。
校舎の窓にはやわらかな春の光が差し、まだ少しだけ冷たい風が制服の裾を揺らす。
写真を撮る声、名前を呼び合う声、泣き笑いの混じったざわめき。
マヤは最後まで騒がしく、メグはそんなマヤを見て微笑んでいた。
チノも二人と並んで、何枚も写真を撮った。
マヤ「チノ、もっと笑えって!」
チノ「笑ってます。」
メグ「それ、ちょっと真顔に見えるかも。」
チノ「写真は苦手です…。」
ココア「チノちゃーん! こっち向いてー!」
リゼ「ほら、撮るぞ。動くなよー。」
明るい声が重なって、春の空へ溶けていく。
何もかもが、きれいだった。
夜。
閉店後のラビットハウスには、昼間とは違う静かな浮き立ちが残っていた。
チノはマヤとメグを店へ招いた。
卒業祝いの、ささやかな打ち上げだった。
大げさなことをするつもりはなかった。
少し話をして、名残を惜しんで、それで終わるはずだった。
テーブルの上にはお菓子と飲み物が並び、三人の声は夜の店の中で小さく弾んでいた。
マヤ「いやー、ついに卒業しちゃったなあ。」
メグ「まだあんまり実感ないねぇ。」
チノ「私は、少しあります。」
マヤ「チノ、さみしがってるのかー?」
チノ「そうは言ってません。」
メグ「でも、なんか分かるかも。明日から急にいつも通りじゃなくなるんだなあって。」
メグがそう言って、カップを両手で包む。
チノはその言葉に、少しだけ目を細めた。
上では、ココアたちがもう休む支度をしている頃だろう。
店の中は静かで、時計の針だけが夜を少しずつ深くしていく。
マヤが笑いながら、中学三年間の失敗談を話していた。
メグもつられて笑う。
チノも、いつもより前のめりに、その輪の中にいた。
その時だった。
ふと、チノの視界の端に、棚の奥が映った。
薄暗い店の隅。
そこに並ぶ瓶のひとつが、灯りを受けて鈍く光っていた。
笑い声が遠のく。
喉の奥が急に乾いた。
胸の内側がざわ、と落ち着かなくなる。
指先がかすかに熱を持ち、呼吸が浅くなる。
だめです、とチノは心の中で言った。
今日はだめだ。
今夜はやめる。
そんなことをしたら、本当に終わってしまう。
それなのに、目だけがそらせなかった。
マヤ「チノ? どうした?」
マヤの声が聞こえる。
チノは返事をしない。
ただ、棚の奥の瓶へ向かって、無意識に指先を動かした。