ご注文は春のあとで   作:くりーむペン

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#3 甘くて静かで瓶の中の海みたい

みんなも少し落ち着かない様子ではあったが、その日はそのまま解散することになった。

 

リゼ「今日はもう遅い。また明日な。」

千夜「チノちゃん、少し疲れてたのかもしれないわね。」

シャロ「……まあ、そういうことにしておくわ。」

マヤ「チノってたまに急にいなくなるよなー。」

メグ「でも、なんだか心配だねぇ……。」

 

みんなが帰り、店の扉が閉まる。

ココアはしばらく店の真ん中に立ったまま、二階へ続く階段を見上げていた。

 

昼間はあんなににぎやかだったのに、時計の音だけがやけにはっきり聞こえる。

洗い終えたカップが、棚の中で静かに並んでいた。

 

ココア「……どこ行っちゃったんだろ。」

 

ココアはそっと店の奥へ向かう。

廊下は薄暗く、昼間のぬくもりが少し冷えていた。

一歩進むたび、床板が小さく鳴る。

 

階段の下で、ココアは一度立ち止まった。

 

もう1年もここに住んでいる。

なのに今夜は、知らない家みたいに静かだった。

 

ココア「……チノちゃん?」

 

小さく呼ぶ。

返事はない。

ココアはゆっくりと階段を上った。

木のきしむ音だけがついてくる。

 

廊下の先、チノの部屋の下から、細く明かりが漏れていた。

 

ココアはそこで息を止めた。

 

明かりはついている。

けれど、物音がしない。

ノックをしようとして、指先が止まる。

 

ココア「……入るよ、チノちゃん。」

 

そう言って、そっとドアノブを回した。

扉はあっさり開いた。

部屋の中では、机の上のスタンドライトだけが灯っていた。

その明かりの下で、チノは椅子に座り、細い道具を手にしていた。

机の上には小さなガラス瓶と、その中に作りかけの帆船。

 

ココア「……え?」

 

思わず間の抜けた声が漏れる。

チノはそこでようやく振り向いた。

 

チノ「どうしたんですか、ココアさん。」

ココア「どうしたって……こっちの台詞だよぉ……!」

 

ココアはその場でへなへなと力を抜いた。

チノは少しだけ不思議そうな顔をしたあと、いつも通りの調子で言った。

 

チノ「シフトの時間が終わったので、ボトルシップを作ってました。」

ココア「そ、そうなんだ……。びっくりしたぁ……。」

チノ「何にですか。」

ココア「急にいなくなるからだよ! みんなで探したんだからね!」

チノ「そうだったんですか。すみません。」

 

チノの声は妙に淡々としていた。

謝っているのに、どこか遠かった。

ココアは机のそばまで歩いていき、瓶の中の小さな船をのぞきこむ。

 

ココア「すごいなあ……。もうほとんど完成してるじゃん。」

チノ「あと少しです。」

ココア「こういうの作れるの、ほんとチノちゃんらしいよね。」

チノ「慣れれば単純作業です。」

ココア「わたしなら絶対途中で折る自信ある。」

チノ「ふふ。でしょうね。」

ココア「ひどい!」

 

チノの返しはいつも通りだった。

そのことにほっとして、ココアは笑った。

けれど、チノはすぐまた視線を瓶の中へ戻した。

小さな船を見つめる横顔は静かで、整っていて、いつもと変わらないように見える。

 

それなのに、ココアはどうしても聞けなかった。

 

昼のこと。

配達員のこと。

どうして何も言わなかったのかということ。

 

今ここで聞けば、せっかくほどけた空気がまた冷たくなる気がした。

 

ココア「……じゃあ、また後で。」

チノ「はい、後で。」

 

ココアは無理に明るく言ってから、部屋を出た。

扉が閉まる直前、チノはもう一度、瓶の中の船へ目を落としていた。

まるで、その狭いガラスの中だけが、自分の世界かのように。

 

その日の夕食のあと。

食卓には、飲み終えたハーブティーの香りがかすかに残っていた。

向かいに座るチノは、夕方と同じく落ち着いて見えた。

ココアは膝の上で指を組む。

 

ココア「ねえ、チノちゃん。」

チノ「何ですか。」

ココア「今日のことなんだけど……。」

 

それだけで、空気が少しだけ変わった。

 

ココア「配達員さんが犯人だったって、あとから聞けば、そうかもしれないって思えるでしょ?」

チノ「……はい。」

ココア「昼にお店にいたの、チノちゃんだったよね。」

チノ「そうです。」

ココア「じゃあ、どうして何も言わなかったの?」

 

問いかけたあと、ココアは自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。

 

チノはすぐには答えなかった。

ほんの数秒の沈黙だったのに、それがやけに長く感じられる。

 

やがてチノは、目を伏せたまま言った。

 

チノ「すみません。そこまで考えが及びませんでした。」

 

それは謝罪の言葉だった。

けれど、同時に、そこで話を終わらせるための言葉にも聞こえた。

 

ココア「でも、チノちゃん――」

チノ「私、あの時はそこまで頭が回らなくて。」

 

チノはそこで言葉を切った。

それ以上は続けない、というふうに。

 

チノ「ご迷惑をおかけしました。」

ココア「……うん。」

 

チノは静かに立ち上がる。

 

チノ「疲れたので、もう休みます。」

ココア「え、あ……うん。」

 

引き止める間もなく、チノは食器をまとめ、そのまま席を離れた。

 

残された食卓は、しんとしていた。

さっきまで温かかったティーカップも、もうほとんど冷めている。

ココアはその縁に指を添えたまま、小さく息をついた。

 

それから数日、ラビットハウスはいつも通りに朝を迎えた。

ココアはいつものように騒がしく、チノは変わらず淡々と働いた。

注文も、抽出も、接客も、何ひとつ乱れない。

 

けれど、その夜だった。

部屋の前を通りかかったココアは、扉のすき間から甘い匂いが流れてくるのに気づいた。

ただ甘いだけじゃない。かすかにつんとして、喉の奥にひっかかるような匂いだった。

ココアは足を止めた。

 

ココア「……チノちゃん?」

 

思わず呼びかけそうになる。

けれど、部屋の中からは返事も物音もしない。

気のせいかもしれない。

そう思ってそのまま通り過ぎたが、その匂いだけは胸の中に残った。

 

数日後の夕方。

ゴミ箱の袋を替えようとした時だった。

透明な袋の底に、小さな金色のフィルム片が混じっていた。

瓶の口を覆っていたような、薄い封の切れ端だった。

ココアはそれを拾い上げる。

指先でつまむと、そこにはかすかに甘い匂いが残っていた。

ココアはそれを鼻先に寄せた。

その瞬間、胸の奥がざわついた。

どこかで覚えのある匂いだった。

思い出せそうで、思い出せない。

 

チノ「ココアさん、何してるんですか。」

 

背後から声がして、ココアはびくりと肩を跳ねさせた。

振り返ると、チノが買い物袋を提げて立っていた。

 

ココア「あ、いや、その……ゴミまとめてただけで。」

チノ「そうですか。」

 

チノの視線が、ココアの手元へ落ちる。

その一瞬だけ、表情が固くなったように見えた。

 

チノ「それ、捨ててください。」

ココア「え? あ、うん。」

 

ココアが慌てて包み紙を袋に戻すと、チノはそれ以上何も言わなかった。

ただ、買い物袋をカウンターへ置き、いつものように冷蔵庫の中を整えはじめた。

 

その日の夜、布団に入ったココアはふいに目を開けた。

 

あの匂いだ。

 

甘くて、少しだけつんとする、あの妙な香り。

思い出したのは、1年前の冬のことだった。

 

洋酒入りのチョコを食べて、チノが酔ってしまった夜。

顔を赤くして、いつもよりずっと素直で、危なっかしくて。

みんなで慌てながらも笑っていた、あの夜。

 

今の匂いは、あの時とまったく同じではない。

けれど、甘さの奥にある熱っぽさだけは、たしかに似ていた。

 

ココア「……まさか。」

 

けれど、その先は口にできなかった。

 

あれは一度きりの出来事だったはずだ。

可愛いハプニングみたいなものだったはずだ。

そう思いたいのに、嫌な想像だけが膨らんでいく。

 

あの夜のことを、チノは別の意味で覚えていた。

 

みんなが笑っていたこと。

自分がいつもと違う話し方をしていたこと。

頬が熱く、足元がふわついていたこと。

 

それよりも強く残ったのは、胸の奥をずっと塞いでいた重たいものが、その時だけ薄れたことだった。

 

何を言えばいいのか考えなくていい。

どう見られているのか気にしなくていい。

失敗してはいけないと肩に入っていた力が、その時だけ抜けていた。

 

翌朝には、そんな自分を恥ずかしいと思った。

思ったのに、忘れられなかった。

 

最初は、本当に少しだけだった。

 

似たようなお菓子を見つけた時に、誰にも見られないように口にする。

それだけで、胸のざわつきが少しやわらいだ。

 

やがて、それでは足りなくなった。

 

店に置かれている酒瓶に、夜の片づけの途中で視線が向くようになる。

ほんの少しだけ。そう自分に言い聞かせながら、チノは何度も一線を越えた。

 

やめなければと思うたびに、別の声が囁く。

 

少しだけなら大丈夫。

明日からやめればいい。

 

けれど本当は、その頃にはもう気づいていた。

少しだけ、で止まれなくなっていることに。

 

中学三年の冬は、息苦しかった。

卒業が近い。進路の話が出る。ラビットハウスのことを考えない日はない。

 

父の背中は優しくて、静かで、だからこそ重かった。

ココアは明るく手を引いてくれる。リゼは頼もしい。みんな優しい。

 

優しいからこそ、弱いところを見せられなかった。

苦しい、と言えなかった。

 

自分で買うようになったのは、その頃からだった。

中学生が酒を買うことも、店を任されているチノには容易かった。

ラビットハウスとして注文し、店に誰もいない時間に配達してもらうよう手配した。

 

あの日のコーヒー泥棒も、酒を届けに来た配達員だった。

 

チノはただ、受け取って、隠して、それで終わるはずだった。

まさか配達員が豆を盗むとは思わなかった。

まさかシャロが、ああいう形で異変に気づくとも思わなかった。

 

あの時、真実にいち早く気づいていたのはチノだった。

 

けれど、配達員が来ました、と言えば、その先まで全部バレてしまうかもしれない。

 

自分が何を受け取ったのか。

なぜ隠したのか。

なぜそんなものが必要だったのか。

 

だからチノは、目を伏せて言ったのだ。

 

「すみません。そこまで考えが及びませんでした。」

 

日は過ぎ、チノは卒業式を迎えた。

卒業式は、驚くほどあっけなく、そして眩しく終わった。

 

校舎の窓にはやわらかな春の光が差し、まだ少しだけ冷たい風が制服の裾を揺らす。

写真を撮る声、名前を呼び合う声、泣き笑いの混じったざわめき。

マヤは最後まで騒がしく、メグはそんなマヤを見て微笑んでいた。

チノも二人と並んで、何枚も写真を撮った。

 

マヤ「チノ、もっと笑えって!」

チノ「笑ってます。」

メグ「それ、ちょっと真顔に見えるかも。」

チノ「写真は苦手です…。」

ココア「チノちゃーん! こっち向いてー!」

リゼ「ほら、撮るぞ。動くなよー。」

 

明るい声が重なって、春の空へ溶けていく。

 

何もかもが、きれいだった。

 

夜。

閉店後のラビットハウスには、昼間とは違う静かな浮き立ちが残っていた。

 

チノはマヤとメグを店へ招いた。

卒業祝いの、ささやかな打ち上げだった。

 

大げさなことをするつもりはなかった。

少し話をして、名残を惜しんで、それで終わるはずだった。

 

テーブルの上にはお菓子と飲み物が並び、三人の声は夜の店の中で小さく弾んでいた。

 

マヤ「いやー、ついに卒業しちゃったなあ。」

メグ「まだあんまり実感ないねぇ。」

チノ「私は、少しあります。」

マヤ「チノ、さみしがってるのかー?」

チノ「そうは言ってません。」

メグ「でも、なんか分かるかも。明日から急にいつも通りじゃなくなるんだなあって。」

 

メグがそう言って、カップを両手で包む。

チノはその言葉に、少しだけ目を細めた。

 

上では、ココアたちがもう休む支度をしている頃だろう。

店の中は静かで、時計の針だけが夜を少しずつ深くしていく。

 

マヤが笑いながら、中学三年間の失敗談を話していた。

メグもつられて笑う。

チノも、いつもより前のめりに、その輪の中にいた。

 

その時だった。

 

ふと、チノの視界の端に、棚の奥が映った。

 

薄暗い店の隅。

そこに並ぶ瓶のひとつが、灯りを受けて鈍く光っていた。

 

笑い声が遠のく。

 

喉の奥が急に乾いた。

胸の内側がざわ、と落ち着かなくなる。

指先がかすかに熱を持ち、呼吸が浅くなる。

 

だめです、とチノは心の中で言った。

今日はだめだ。

今夜はやめる。

そんなことをしたら、本当に終わってしまう。

 

それなのに、目だけがそらせなかった。

 

マヤ「チノ? どうした?」

 

マヤの声が聞こえる。

チノは返事をしない。

 

ただ、棚の奥の瓶へ向かって、無意識に指先を動かした。

 

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