ガラスの表面に、指が触れる。
冷たかった。
チノはしばらくそのまま立ち尽くしていた。
だめです、と心の中で繰り返す。
今夜はだめだ。
卒業祝いの夜に、こんなことをしてはいけない。
けれど、胸の奥のざわつきは静まらなかった。
笑い声の中にいても、どこかひとりだけ別の場所に取り残されているような、不安とも焦りともつかない感覚が消えない。
チノは小さく息を吐き、棚から瓶を下ろした。
メグ「あれぇ……チノちゃん、それ……。」
マヤが目を丸くする。
マヤ「えっ、お酒?」
チノ「……少しだけです。」
自分に言い聞かせるように、チノはそう言った。
グラスをひとつ取り出し、控えめに注ぐ。
琥珀色の液体が、夜の店の灯りを受けて揺れた。
鼻先に上る匂いだけで、喉の奥が熱くなる。
チノは一度だけ目を閉じ、それから小さく口をつけた。
舌に乗った瞬間、独特の刺激が広がる。
苦い。熱い。けれど、次の瞬間には、胸の奥を掴んでいた見えない手がすっと緩んでいくのが分かった。
呼吸が、少しだけ楽になる。
マヤ「……どう?」
チノ「……。」
どう、と聞かれても、うまく答えられない。
ただ、さっきまでうるさかった頭の中が、少しだけ静かになった。
マヤ「ずるいなー。私も飲んでみたい。」
チノ「だめです。」
マヤ「えー、なんで? 卒業祝いだぞ?」
チノ「お酒は、飲まない方がいいです。」
そう言いながら、チノは自分で二口目を飲んだ。
言葉と行動が食い違っていることに、自分でも気づいていた。
けれど、その矛盾を責める気力すらなかった。
マヤは頬をふくらませ、それからにやっと笑った。
マヤ「チノがそんなの飲むなんて、逆に気になるじゃん。」
メグ「私たち、まだだめなんじゃないかなぁ……。」
マヤ「少しだけなら平気だって! ほら、チノも飲んでるし!」
チノは止めなければと思った。
なのに、口が開かなかった。
少しだけなら。
今夜だけなら。
そんな言い訳が、自分の中に根を張っていた。
マヤは勝手にグラスを取り、瓶に手を伸ばす。
チノは見ているだけだった。
メグ「えぇ……本当に飲むの?」
マヤ「メグも一緒にどう?」
メグ「私は……。」
マヤ「卒業したんだし、記念!」
メグは困ったように笑い、チノの方を見た。
その視線は、止めてほしいと言っているようにも見えた。
けれどチノは、目をそらした。
ほんの少し。
そう思っていた。
最初のうちは、本当にそうだった。
少し飲んで、思い出話をして、笑って。
それだけで終わるはずだった。
中学三年間の話は、大いに盛り上がった。
一年の頃の出会い。文化祭。テスト。体育祭。進路の話。先生の癖。
マヤはいつも以上に大きな声で笑い、メグは頬を赤らめながらそれに付き合った。
マヤ「チノ、あの時さ、転んだ私のこと見て絶対笑ってただろ!」
チノ「笑ってません。」
メグ「でも、ちょっと口元が動いてた気がするよぉ?」
チノ「気のせいです。」
マヤ「ほらなー!」
体の中がじんわり熱い。
頭が少しだけ軽い。
考えすぎる癖が、どこか遠くへ押しやられていく。
これでいいのだと思ってしまった。
このくらいなら、きっと。
だが、時間が経つにつれて、三人の様子は少しずつ変わっていった。
マヤの声はさらに大きくなり、立ったり座ったりを繰り返すようになった。
ふらついた足で店の中を歩き回り、妙に上機嫌で、何を見ても笑っていた。
メグは逆に静かになっていった。
最初は頬を赤くして笑っていたのに、次第に言葉がゆっくりになり、手元のカップを持つ指先も危なっかしくなる。
マヤ「なあ見て見て! 私もバリスタできるかも!」
チノ「……マヤさん、そこは入ったらだめです。」
マヤ「だいじょーぶだって! こうやって、がしゃんってやるんだろ?」
メグ「マヤちゃん、危ないよぉ……。」
チノは立ち上がろうとした。
けれど椅子がわずかに揺れ、足元がふらついた。
次の瞬間だった。
金属がぶつかる音。
重たいものが倒れる鈍い衝撃。
ガラスの震える音。
夜のラビットハウスに、耳をつんざくような大きな音が響いた。
マヤ「え……。」
倒れたのは、エスプレッソマシーンだった。
台から半ばずれ落ち、床にぶつかって斜めに転がっている。
周囲に散った器具がからからと音を立てて止まった。
一瞬、店内から笑い声が消えた。
その沈黙を破ったのは、二階から聞こえた足音だった。
ココア「……なに、今の音……?」
眠たげだった声は、階段を下りるにつれて不安に変わっていった。
暗い店の中へ顔を出したココアは、そこで足を止めた。
酒の匂いがした。
甘くて、強くて、むっとする匂いだった。
店内はひどい有様だった。
倒れたエスプレッソマシーン。床に散らばる小物。開いた瓶。
マヤは顔を真っ赤にしてふらふら立っていて、メグは椅子にもたれるように崩れ落ちている。
そしてチノは、カウンターのそばでグラスを持ったまま、焦点の合わない目でこちらを見ていた。
ココア「……何を、してるの……」
かすれた声だった。
マヤがぱっと顔を上げる。
マヤ「ココア〜! きたきた〜!」
ココア「マヤちゃん……?」
マヤ「飲もうぜ〜! 卒業祝いだぞ〜!」
そう言って差し出されたグラスから、濃い酒の匂いが立ちのぼる。
ココアは思わず顔をそむけた。
その瞬間、床に倒れているメグが目に入る。
メグ「……ぅ……。」
顔は青白く、呼吸は浅い。
苦しそうに胸が上下している。
ココアの背筋が一気に冷えた。
ココア「メグちゃん!?」
しゃがみ込んで肩を揺すると、メグはうっすら目を開けた。
焦点が合わないまま、震える唇が動く。
ココア「大丈夫!? しっかりして!」
メグ「……チノ、ちゃん……。」
チノはゆっくりと顔を上げた。
頬は赤く、目はどこか虚ろだった。
それでも手元のグラスだけは離さない。
ココア「チノちゃん! もうやめて!」
チノ「うるさいですね…」
低く、平坦な声だった。
ココアは息を呑む。
チノはそのまま、何もなかったかのようにまたグラスへ口をつけようとした。
ココア「やめてって言ってるの!!」
思わず、ココアはチノの手からグラスを叩き落とした。
薄いガラスが床で割れ、酒の匂いがさらに広がる。
マヤ「うわっ、もったいなーい!」
ココア「マヤちゃんは動かないで!」
マヤ「えー……なんれ怒ってんのさー。」
言葉はもうろれつが回っていなかった。
ココアはメグの顔を見て、迷う時間はないと悟る。
震える手でポケットからスマートフォンを取り出す。
指先がうまく動かない。
それでも何とか救急へ繋ぎ、住所と状況を伝えた。
声が震えていた。
途中で涙が出そうになった。
けれど、泣いている暇はなかった。
通話を終えるころ、タカヒロも階段を下りてきた。
店の惨状を見た瞬間、言葉を失う。
タカヒロ「……これは……。」
ティッピーが、いつもより低い声でうなった。
誰も笑わない。
もう、いつものラビットハウスではなかった。
救急車のサイレンが近づくまでの時間が、ひどく長く感じられた。
メグの背を支え、マヤがふらついてどこかへ行かないようにし、チノを座らせる。
やがて夜の街に赤い光が滲んだ。
木組みの街の静けさを切り裂くように救急車が停まり、近所の窓にいくつも灯りがともる。
担架。慌ただしい足音。短いやり取り。
メグはそのまま搬送された。
マヤとチノも、保護者同伴で診てもらうことになった。
救急隊員の説明を聞きながら、ココアは何度もうなずいた。
うなずいているのに、何も頭に入ってこなかった。
メグの細い手首。
マヤの赤い顔。
チノの虚ろな目。
そればかりが、目の裏に焼きついて離れない。
その夜のことは、街の中であっという間に噂になった。
ラビットハウスで中学生が酒を飲んで倒れた。
夜中に救急車が来た。
あの店で何が起きていたのか。
噂は形を変えながら広がり、数日後には心ない書き込みや、イタズラ電話まで来るようになった。
店の壁に幼い字で悪口が書かれていた朝もあった。
ココアは、まだ朝の冷たい空気の中で、その落書きを雑巾で何度もこすった。
白い壁に残るかすかな跡を見つめながら、唇を噛んだ。
チノは、自室にこもったまま出てこなくなった。
食事を部屋の前に置いても、しばらくしないと手がつかない。
声をかけても、返事はないか、あっても短かった。
「置いておいてください。」
「すみません。」
それだけだった。
マヤの家にも、メグの家にも、タカヒロと一緒に何度も頭を下げに行った。
メグは急性アルコール中毒で二日ほど入院したと聞かされた。
命に別状はないと分かった時、ココアはその場でへたり込みそうになった。
けれど、それで全部が終わるわけではなかった。
メグの母親は泣いていた。
マヤの父親は怒っていた。
そのどちらも、当然だった。
ココアは何度も頭を下げた。
自分が謝る立場なのかどうかすら分からなかった。
それでも、謝らずにはいられなかった。
チノの部屋の前に立つたび、ココアは一度だけ深呼吸をした。
怒ってはいけない。
責めてもいけない。
今、チノちゃんをひとりにしてはいけない。
夜、温かいミルクを置く。
朝、軽いスープを置く。
昼には「今日は晴れてるよ」と、どうでもいいことを扉越しに話す。
返事がなくても、続けた。
ある日、扉の向こうから小さな声がした。
チノ「……どうして。」
ココアは持っていたトレイを抱え直す。
ココア「え?」
チノ「……どうして、そんなふうにするんですか。」
しばらく、ココアは答えられなかった。
自分でも、はっきり言葉にしたことがなかったからだ。
ココア「お姉ちゃんだから、だよ。」
扉の向こうで、息を呑む気配がした。
ココア「チノちゃんが悪いことしたって、思ってる。思ってるけど……でも、それで終わりじゃないもん。」
チノ「……。」
ココア「だって、チノちゃんはチノちゃんだよ。」
言ったあと、ココアは少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだった。
その日から、わずかに何かが変わった。
短い返事が返るようになった。
そして数日後、夕方の薄い光の中で、チノは久しぶりに部屋から出てきた。
顔色はまだ良くなかった。
目の下には薄く影がある。
それでも、ちゃんと自分の足で階段を下りてきた。
ココアは思わず立ち上がる。
ココア「チノちゃん……。」
チノ「……食器、洗います。」
ココア「う、うん!」
それだけだった。
それだけなのに、ココアは胸の奥が熱くなった。
その日は、二人で無言のまま食器を洗った。
水の音だけが店内に響いていた。
ココアは何度も何か言いそうになったが、やめた。
今はただ、隣にいることの方が大切な気がした。
次の日は、チノが床を掃いた。
その次の朝、チノは小さな声で言った。
チノ「……注文くらいなら、取れます。」
ココアは一瞬、泣きそうになった。
けれど、ぐっとこらえて、いつもより明るく笑った。
ココア「無理しないでね! ほんとに少しずつでいいから!」
チノはかすかにうなずく。
その仕草はまだぎこちなく、慎重で、壊れやすそうだった。
けれど、それでも前へ進もうとしていることだけは分かった。
街の空気も、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
店の前を通る視線の冷たさは、まだ消えない。
噂だって、完全にはなくならない。
それでも、常連客のひとりが「久しぶりにブレンドを」と言ってくれた日のことを、ココアは忘れられなかった。
ラビットハウスの朝は、以前より少し静かになった。
笑い声は減ったし、みんなが元通りとは言えない。
けれど、止まっていた時間が、ゆっくり動き出していた。
ある朝、開店前の店で、ココアがカップを並べていると、背後で小さな声がした。
チノ「ココアさん。」
振り返ると、チノがエプロンの紐を整えながら立っていた。
顔はまだ少しこわばっていたが、その目は前よりもずっとはっきりしていた。
チノ「……今日は、私がコーヒーを淹れます。」
ココア「……うん。」
ココアはそれ以上、何も言えなかった。
言ったら泣いてしまいそうだった。
湯が落ちる音がする。
挽いた豆の香りが、ゆっくりと店内へ広がっていく。
まだ完全に元通りではない。
壊れたものは、きっと簡単には戻らない。
それでもその朝、ラビットハウスには確かに、穏やかな空気が戻っていた。
そしてココアは、その香りの中で、もう一度だけ思った。
今度こそ。
今度こそ、ちゃんと支えたい、と。