ご注文は春のあとで   作:くりーむペン

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#4 卒業祝いだからって大人になろうとしすぎです

ガラスの表面に、指が触れる。

冷たかった。

 

チノはしばらくそのまま立ち尽くしていた。

だめです、と心の中で繰り返す。

今夜はだめだ。

卒業祝いの夜に、こんなことをしてはいけない。

 

けれど、胸の奥のざわつきは静まらなかった。

笑い声の中にいても、どこかひとりだけ別の場所に取り残されているような、不安とも焦りともつかない感覚が消えない。

 

チノは小さく息を吐き、棚から瓶を下ろした。

 

メグ「あれぇ……チノちゃん、それ……。」

 

マヤが目を丸くする。

 

マヤ「えっ、お酒?」

チノ「……少しだけです。」

 

自分に言い聞かせるように、チノはそう言った。

グラスをひとつ取り出し、控えめに注ぐ。

琥珀色の液体が、夜の店の灯りを受けて揺れた。

 

鼻先に上る匂いだけで、喉の奥が熱くなる。

チノは一度だけ目を閉じ、それから小さく口をつけた。

 

舌に乗った瞬間、独特の刺激が広がる。

苦い。熱い。けれど、次の瞬間には、胸の奥を掴んでいた見えない手がすっと緩んでいくのが分かった。

 

呼吸が、少しだけ楽になる。

 

マヤ「……どう?」

チノ「……。」

 

どう、と聞かれても、うまく答えられない。

ただ、さっきまでうるさかった頭の中が、少しだけ静かになった。

 

マヤ「ずるいなー。私も飲んでみたい。」

チノ「だめです。」

マヤ「えー、なんで? 卒業祝いだぞ?」

チノ「お酒は、飲まない方がいいです。」

 

そう言いながら、チノは自分で二口目を飲んだ。

言葉と行動が食い違っていることに、自分でも気づいていた。

けれど、その矛盾を責める気力すらなかった。

 

マヤは頬をふくらませ、それからにやっと笑った。

 

マヤ「チノがそんなの飲むなんて、逆に気になるじゃん。」

メグ「私たち、まだだめなんじゃないかなぁ……。」

マヤ「少しだけなら平気だって! ほら、チノも飲んでるし!」

 

チノは止めなければと思った。

なのに、口が開かなかった。

 

少しだけなら。

今夜だけなら。

そんな言い訳が、自分の中に根を張っていた。

 

マヤは勝手にグラスを取り、瓶に手を伸ばす。

チノは見ているだけだった。

 

メグ「えぇ……本当に飲むの?」

マヤ「メグも一緒にどう?」

メグ「私は……。」

マヤ「卒業したんだし、記念!」

 

メグは困ったように笑い、チノの方を見た。

その視線は、止めてほしいと言っているようにも見えた。

 

けれどチノは、目をそらした。

 

ほんの少し。

そう思っていた。

 

最初のうちは、本当にそうだった。

 

少し飲んで、思い出話をして、笑って。

それだけで終わるはずだった。

 

中学三年間の話は、大いに盛り上がった。

一年の頃の出会い。文化祭。テスト。体育祭。進路の話。先生の癖。

マヤはいつも以上に大きな声で笑い、メグは頬を赤らめながらそれに付き合った。

 

マヤ「チノ、あの時さ、転んだ私のこと見て絶対笑ってただろ!」

チノ「笑ってません。」

メグ「でも、ちょっと口元が動いてた気がするよぉ?」

チノ「気のせいです。」

マヤ「ほらなー!」

 

体の中がじんわり熱い。

頭が少しだけ軽い。

考えすぎる癖が、どこか遠くへ押しやられていく。

 

これでいいのだと思ってしまった。

 

このくらいなら、きっと。

 

だが、時間が経つにつれて、三人の様子は少しずつ変わっていった。

 

マヤの声はさらに大きくなり、立ったり座ったりを繰り返すようになった。

ふらついた足で店の中を歩き回り、妙に上機嫌で、何を見ても笑っていた。

 

メグは逆に静かになっていった。

最初は頬を赤くして笑っていたのに、次第に言葉がゆっくりになり、手元のカップを持つ指先も危なっかしくなる。

 

マヤ「なあ見て見て! 私もバリスタできるかも!」

チノ「……マヤさん、そこは入ったらだめです。」

マヤ「だいじょーぶだって! こうやって、がしゃんってやるんだろ?」

メグ「マヤちゃん、危ないよぉ……。」

 

チノは立ち上がろうとした。

けれど椅子がわずかに揺れ、足元がふらついた。

 

次の瞬間だった。

 

金属がぶつかる音。

重たいものが倒れる鈍い衝撃。

ガラスの震える音。

 

夜のラビットハウスに、耳をつんざくような大きな音が響いた。

 

マヤ「え……。」

 

倒れたのは、エスプレッソマシーンだった。

台から半ばずれ落ち、床にぶつかって斜めに転がっている。

周囲に散った器具がからからと音を立てて止まった。

 

一瞬、店内から笑い声が消えた。

 

その沈黙を破ったのは、二階から聞こえた足音だった。

 

ココア「……なに、今の音……?」

 

眠たげだった声は、階段を下りるにつれて不安に変わっていった。

暗い店の中へ顔を出したココアは、そこで足を止めた。

 

酒の匂いがした。

甘くて、強くて、むっとする匂いだった。

 

店内はひどい有様だった。

倒れたエスプレッソマシーン。床に散らばる小物。開いた瓶。

マヤは顔を真っ赤にしてふらふら立っていて、メグは椅子にもたれるように崩れ落ちている。

そしてチノは、カウンターのそばでグラスを持ったまま、焦点の合わない目でこちらを見ていた。

 

ココア「……何を、してるの……」

 

かすれた声だった。

 

マヤがぱっと顔を上げる。

 

マヤ「ココア〜! きたきた〜!」

ココア「マヤちゃん……?」

マヤ「飲もうぜ〜! 卒業祝いだぞ〜!」

 

そう言って差し出されたグラスから、濃い酒の匂いが立ちのぼる。

ココアは思わず顔をそむけた。

 

その瞬間、床に倒れているメグが目に入る。

 

メグ「……ぅ……。」

 

顔は青白く、呼吸は浅い。

苦しそうに胸が上下している。

ココアの背筋が一気に冷えた。

 

ココア「メグちゃん!?」

 

しゃがみ込んで肩を揺すると、メグはうっすら目を開けた。

焦点が合わないまま、震える唇が動く。

 

ココア「大丈夫!? しっかりして!」

メグ「……チノ、ちゃん……。」

 

チノはゆっくりと顔を上げた。

頬は赤く、目はどこか虚ろだった。

それでも手元のグラスだけは離さない。

ココア「チノちゃん! もうやめて!」

チノ「うるさいですね…」

 

低く、平坦な声だった。

 

ココアは息を呑む。

チノはそのまま、何もなかったかのようにまたグラスへ口をつけようとした。

 

ココア「やめてって言ってるの!!」

 

思わず、ココアはチノの手からグラスを叩き落とした。

薄いガラスが床で割れ、酒の匂いがさらに広がる。

 

マヤ「うわっ、もったいなーい!」

ココア「マヤちゃんは動かないで!」

マヤ「えー……なんれ怒ってんのさー。」

 

言葉はもうろれつが回っていなかった。

ココアはメグの顔を見て、迷う時間はないと悟る。

 

震える手でポケットからスマートフォンを取り出す。

指先がうまく動かない。

それでも何とか救急へ繋ぎ、住所と状況を伝えた。

 

声が震えていた。

途中で涙が出そうになった。

けれど、泣いている暇はなかった。

 

通話を終えるころ、タカヒロも階段を下りてきた。

店の惨状を見た瞬間、言葉を失う。

 

タカヒロ「……これは……。」

 

ティッピーが、いつもより低い声でうなった。

誰も笑わない。

もう、いつものラビットハウスではなかった。

 

救急車のサイレンが近づくまでの時間が、ひどく長く感じられた。

 

メグの背を支え、マヤがふらついてどこかへ行かないようにし、チノを座らせる。

 

やがて夜の街に赤い光が滲んだ。

 

木組みの街の静けさを切り裂くように救急車が停まり、近所の窓にいくつも灯りがともる。

担架。慌ただしい足音。短いやり取り。

メグはそのまま搬送された。

マヤとチノも、保護者同伴で診てもらうことになった。

 

救急隊員の説明を聞きながら、ココアは何度もうなずいた。

うなずいているのに、何も頭に入ってこなかった。

 

メグの細い手首。

マヤの赤い顔。

チノの虚ろな目。

そればかりが、目の裏に焼きついて離れない。

 

その夜のことは、街の中であっという間に噂になった。

 

ラビットハウスで中学生が酒を飲んで倒れた。

夜中に救急車が来た。

あの店で何が起きていたのか。

 

噂は形を変えながら広がり、数日後には心ない書き込みや、イタズラ電話まで来るようになった。

店の壁に幼い字で悪口が書かれていた朝もあった。

 

ココアは、まだ朝の冷たい空気の中で、その落書きを雑巾で何度もこすった。

白い壁に残るかすかな跡を見つめながら、唇を噛んだ。

 

チノは、自室にこもったまま出てこなくなった。

 

食事を部屋の前に置いても、しばらくしないと手がつかない。

声をかけても、返事はないか、あっても短かった。

 

「置いておいてください。」

「すみません。」

 

それだけだった。

 

マヤの家にも、メグの家にも、タカヒロと一緒に何度も頭を下げに行った。

メグは急性アルコール中毒で二日ほど入院したと聞かされた。

命に別状はないと分かった時、ココアはその場でへたり込みそうになった。

 

けれど、それで全部が終わるわけではなかった。

 

メグの母親は泣いていた。

マヤの父親は怒っていた。

そのどちらも、当然だった。

 

ココアは何度も頭を下げた。

自分が謝る立場なのかどうかすら分からなかった。

それでも、謝らずにはいられなかった。

 

チノの部屋の前に立つたび、ココアは一度だけ深呼吸をした。

 

怒ってはいけない。

責めてもいけない。

今、チノちゃんをひとりにしてはいけない。

 

夜、温かいミルクを置く。

朝、軽いスープを置く。

昼には「今日は晴れてるよ」と、どうでもいいことを扉越しに話す。

返事がなくても、続けた。

 

ある日、扉の向こうから小さな声がした。

 

チノ「……どうして。」

 

ココアは持っていたトレイを抱え直す。

 

ココア「え?」

チノ「……どうして、そんなふうにするんですか。」

 

しばらく、ココアは答えられなかった。

自分でも、はっきり言葉にしたことがなかったからだ。

 

ココア「お姉ちゃんだから、だよ。」

 

扉の向こうで、息を呑む気配がした。

 

ココア「チノちゃんが悪いことしたって、思ってる。思ってるけど……でも、それで終わりじゃないもん。」

チノ「……。」

ココア「だって、チノちゃんはチノちゃんだよ。」

 

言ったあと、ココアは少しだけ笑った。

泣きそうな笑いだった。

 

その日から、わずかに何かが変わった。

 

短い返事が返るようになった。

そして数日後、夕方の薄い光の中で、チノは久しぶりに部屋から出てきた。

 

顔色はまだ良くなかった。

目の下には薄く影がある。

それでも、ちゃんと自分の足で階段を下りてきた。

 

ココアは思わず立ち上がる。

 

ココア「チノちゃん……。」

チノ「……食器、洗います。」

ココア「う、うん!」

 

それだけだった。

それだけなのに、ココアは胸の奥が熱くなった。

 

その日は、二人で無言のまま食器を洗った。

水の音だけが店内に響いていた。

ココアは何度も何か言いそうになったが、やめた。

今はただ、隣にいることの方が大切な気がした。

 

次の日は、チノが床を掃いた。

その次の朝、チノは小さな声で言った。

 

チノ「……注文くらいなら、取れます。」

 

ココアは一瞬、泣きそうになった。

けれど、ぐっとこらえて、いつもより明るく笑った。

 

ココア「無理しないでね! ほんとに少しずつでいいから!」

 

チノはかすかにうなずく。

その仕草はまだぎこちなく、慎重で、壊れやすそうだった。

 

けれど、それでも前へ進もうとしていることだけは分かった。

 

街の空気も、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。

店の前を通る視線の冷たさは、まだ消えない。

噂だって、完全にはなくならない。

それでも、常連客のひとりが「久しぶりにブレンドを」と言ってくれた日のことを、ココアは忘れられなかった。

 

ラビットハウスの朝は、以前より少し静かになった。

笑い声は減ったし、みんなが元通りとは言えない。

けれど、止まっていた時間が、ゆっくり動き出していた。

 

ある朝、開店前の店で、ココアがカップを並べていると、背後で小さな声がした。

 

チノ「ココアさん。」

 

振り返ると、チノがエプロンの紐を整えながら立っていた。

顔はまだ少しこわばっていたが、その目は前よりもずっとはっきりしていた。

 

チノ「……今日は、私がコーヒーを淹れます。」

ココア「……うん。」

 

ココアはそれ以上、何も言えなかった。

言ったら泣いてしまいそうだった。

 

湯が落ちる音がする。

挽いた豆の香りが、ゆっくりと店内へ広がっていく。

まだ完全に元通りではない。

壊れたものは、きっと簡単には戻らない。

 

それでもその朝、ラビットハウスには確かに、穏やかな空気が戻っていた。

 

そしてココアは、その香りの中で、もう一度だけ思った。

 

今度こそ。

今度こそ、ちゃんと支えたい、と。

 

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