ご注文は春のあとで   作:くりーむペン

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#5 チョコレートのないしょ話は静かな夜に溶けていく

ラビットハウスの朝は、少しずつ元の形を取り戻していた。

 

窓からやわらかな光が差し込み、磨かれたカップが棚の中で静かに並んでいる。

ココアが客席の椅子を整え、チノがカウンターの中でメニューを揃える。

その何でもない光景が、少し前よりずっと自然だった。

 

ココア「チノちゃん、今日なんか調子よさそうだね!」

チノ「普通です。」

ココア「ほんとに? 無理してない?」

チノ「してません。」

ココア「じゃあよかった!」

 

チノは少しだけ呆れたように、息をついた。

 

チノ「ココアさん、最近そればっかりです。」

ココア「だって気になるもん。」

チノ「過保護です。」

 

その返しに、ココアはぱっと顔を輝かせた。

 

ココア「今の!ちょっと前みたいだった!」

チノ「ココアさんが騒がしいだけです。」

 

そのやり取りを聞いていたリゼが、カップを拭きながら小さく笑った。

 

リゼ「チノ、元気になって良かったなー。」

 

チノは少し目を丸くした。

ココアは少し驚いてから、にへっと笑う。

 

昼過ぎ、千夜とシャロが店にやってきた。

千夜は春色の小さな包みを抱えていて、シャロはその隣で、そっぽを向くように立っている。

 

千夜「桜の形のお菓子を作ったの。よかったらどうぞ。」

ココア「わあ〜、かわいい!」

チノ「ありがとうございます。」

 

千夜がやわらかく笑う横で、シャロは咳払いをひとつした。

 

シャロ「まぁその、みんな心配してたんだからねっ。」

チノ「……すみません。」

シャロ「謝れって意味じゃないわよ。」

 

言ったあとで照れたように眉をひそめ、今度はココアの方を見る。

 

シャロ「あんたもまぁ、いろいろ大変だったわね。」

ココア「えっ。」

シャロ「……なによ。」

ココア「ううん。ありがと、シャロちゃん。」

千夜「ふふ。シャロちゃん、今日は素直ね。」

シャロ「うるさいわね!」

 

そのやり取りに、チノが小さく笑った。

ほんの一瞬だけだったけれど、それはたしかに前みたいな笑い方だった。

 

さらに数日後、メグから手紙が届いた。

丸みのあるやさしい字で、短くこう書かれていた。

 

『また落ちついたら、いっしょにお話ししたいです。

また三人で会えたらうれしいです。』

 

その下には、マヤの少し勢いのある字で、

 

『またいつもみたいに遊ぼうな!』

 

と一言だけ添えられていた。

 

チノは封筒を持ったまま、しばらく何も言わなかった。

やがて、静かに息をつく。

 

チノ「……優しいですね。」

ココア「うん。」

チノ「私、あんなことしたのに。」

 

ココアは、手紙を見つめるチノの横顔を見た。

その表情はまだ少し硬かったけれど、前みたいに目を伏せて閉じてしまう感じはもう薄かった。

 

それからの日々は、穏やかに進んだ。

 

ラビットハウスの中では、前みたいな小さな会話が少しずつ増えていく。

チノは注文を取り、コーヒーを淹れ、ココアの空回りに小さくツッコミを入れる。

リゼもいつものように店に立ち、タカヒロも以前より柔らかな顔で店を見ていた。

噂はまだ消えきらない。けれどラビットハウスの中だけは、少しずつ本来の温度を取り戻していく。

 

戻ってきた。

前みたいに。

ちゃんと、戻ってきたんだ。

 

その夜、閉店後の店で、ココアはカウンター越しにチノの後ろ姿を見ていた。

チノは棚を整え、クロスを畳み、明日の準備をしている。

動きに迷いはなく、表情も落ち着いていた。

 

ココアは何も言わなかった。

ただ、その姿を見ているだけで、胸の中の緊張がゆっくりほどけていくのを感じていた。

 

チノが戻ってきた。

そう、静かに信じていた。

 

けれど、その夜。

部屋へ戻ったチノは、扉を閉めた瞬間に小さく息を吐いた。

 

一日が終わった。

ちゃんと働けた。

失敗しなかった。

みんなも優しかった。

ココアも、うれしそうだった。

 

それなのに、胸の奥のざわつきは消えていなかった。

 

優しくされるほど苦しい。

戻ってきたと思われるほど、怖い。

まただめになったらどうしよう。

また壊したら、今度こそ本当に終わる。

 

チノは机の引き出しを開けた。

ずっと開けないようにしていた場所だった。

 

中には、小さな瓶がひとつだけ残っている。

 

しばらく見つめたあと、チノは目を伏せた。

 

だめです。

今夜は寝ればいい。

明日になれば、また店がある。

 

けれど、指先は瓶をつまみ上げていた。

 

ほんのひと口だけ。

それだけなら。

そう思って口をつけた瞬間、胸の奥に張りついていたざらつきが、少しだけ薄くなる。

 

すぐに自己嫌悪が来た。

でも、その一口で終わらせられる気もしなかった。

 

翌朝、チノはいつも通りに店へ立った。

 

誰にも気づかれなかった。

 

ココアも、リゼも、タカヒロも。

千夜やシャロが来た日も、何の違和感もなかった。

受け答えは自然で、手元もぶれない。

むしろ少しだけ肩の力が抜けているように見えて、ココアは「今日は機嫌いいのかな」と思ったくらいだった。

 

そうして、数日が過ぎた。

 

隠すのは、前より上手くなっていた。

前回みたいに露骨に崩れないよう、量も時間も自分で調整していた。

 

その日の夜も、ラビットハウスは静かに閉店した。

 

一日うまくいった。

ココアは明るく、チノもいつも通りだった。

リゼは「じゃあまた明日な」と言って帰っていった。

何もおかしなところはなかった。

 

部屋へ戻ったチノは、机の上に小さな瓶を置いた。

 

今夜は、少し違った。

新しく開けた、チョコレートの香りがする小さなお酒だった。

 

丸い瓶を前に、チノはしばらくじっとして、眺めていた。

スタンドライトの下で、瓶の中のチョコレート色がとろりと光っている。

小さくて、つやつやしていて、どこかお菓子の瓶みたいだった。

 

チノはそっと身を乗り出す。

 

長めの袖の先から、小さな手がちょこんと出る。

栓に指をかけてみるが、うまく回らない。

む、と眉を寄せて、もう一度力を入れる。

 

チノ「……かたいです。」

 

誰もいない部屋で、小さくつぶやく。

もう一度。

 

今度は両手で瓶を抱えるように持ち直し、唇をきゅっと結ぶ。

細い肩に、ほんの少しだけ力が入る。

 

く、っとひねる。

 

次の瞬間、こくん、と軽い音がした。

 

チノは目をぱちぱちさせた。

それから、口元がゆるむ。

 

瓶を鼻先に近づける。

甘い香りがふわっと広がる。

いつものお酒の匂いとは少し違う。

お菓子みたいで、わくわくした。

 

チノ「……。」

 

小さく口をつける。

舌にのった瞬間、甘さの奥に熱があって、チノは思わず目を細めた。

 

おいしい、と思った。

 

その感想が自分の中に生まれたことが少しおかしくて、また少し飲んだ。

 

胸の奥が軽い。

頭がふわふわする。

考えなくていい。

失敗したことも、怖いことも、今は少し遠い。

 

机に頬杖をつき、チノは瓶の中の色を眺めた。

スタンドライトの下で、トロッとした茶色い液体がゆらゆら揺れる。

なんだかきれいだった。

 

チノ「……ふふ。」

 

自分でも気づかないうちに、そんな声が漏れる。

頬がゆるむ。

少しだけ気分がいい。

誰にも見つかっていない。

今夜も、大丈夫。

甘い考えが、酔いと一緒にじわじわ広がっていく。

 

しばらくして、チノは立ち上がった。

足元が軽い。

体までふわふわして、自分が少しやわらかくなったみたいだった。

 

トイレへ行こうと思って、部屋を出る。

 

廊下はしんとしている。

細い廊下をぱたぱたと進む。

いつもより足取りが軽くて、上機嫌で、危機感はもうどこか遠かった。

 

トイレの前まで来た、その瞬間だった。

 

ココア「あれ、チノちゃん?」

 

声がして、チノはぴたりと止まった。

 

そこにいたのは、寝ぼけ眼のココアだった。

たぶん、水でも飲みにきたのだろう。

けれど、その顔を見た瞬間、チノの酔いは一気に冷える。

 

心臓が、どくん、と跳ねた。

 

まずい。

 

頭の中でその一言だけが弾ける。

さっきまでのふわふわした気分が、崖から落ちるみたいに消えていく。

 

ココアは最初、ただ不思議そうにしていた。

けれど次の瞬間、空気の中の匂いに気づいたのか、その表情が固まる。

 

甘くて、少しつんとする匂い。

まだ、ちゃんと残っていた。

 

ココア「……チノちゃん。」

 

チノは動けなかった。

逃げることも、ごまかすことも、何も思いつかない。

 

ココア「……今、飲んだの。」

 

静かな声だった。

怒っていない。

でも、その静かさの方がずっと怖かった。

 

チノの唇がかすかに震える。

何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。

 

その沈黙だけで、もう十分だった。

 

ココアはしばらくチノを見つめていた。

それから、息を吸う。

 

ココア「戻ってきたって、思ってたよ。」

チノ「……ごめんなさい。」

ココア「今日だって、普通だったのに。」

チノ「ごめんなさい……。」

ココア「わたし、うれしかったのに。」

 

チノは壁に手をついた。

足元がぐらつく。

酔っているせいなのか、怖いせいなのか、自分でも分からなかった。

 

チノ「……私、やめるつもりだったんです。」

ココア「……。」

チノ「今日も、ほんとは……。」

ココア「……。」

チノ「ごめんなさい……私……。」

 

そこで声が崩れた。

顔を伏せたまま、ぽろぽろと涙が落ちる。

 

さっきまで楽しかったことが、もう信じられなかった。

新しい瓶に少しわくわくしたことも、上機嫌で廊下を歩いたことも、全部ひどく浅はかで、子どもっぽくて、どうしようもなく恥ずかしかった。

 

チノ「ごめんなさい…ごめんなさい……。」

 

何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。

けれど、それ以上の言葉が出てこなかった。

 

ココアは、泣き崩れるチノを見つめていた。

いつもなら抱きしめてくれたはずの手は、動かなかった。

 

悲しいとか、怒っているとか、そういう感情より先に、何かが静かに切れてしまったようだった。

 

長い沈黙のあと、ココアは小さく息を吐く。

 

ココア「……そっか。」

 

それだけだった。

 

短い言葉だけが、冷たい廊下に落ちた。

昼間までたしかにあったやわらかい空気は、もうどこにもなかった。

 

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