ラビットハウスの朝は、少しずつ元の形を取り戻していた。
窓からやわらかな光が差し込み、磨かれたカップが棚の中で静かに並んでいる。
ココアが客席の椅子を整え、チノがカウンターの中でメニューを揃える。
その何でもない光景が、少し前よりずっと自然だった。
ココア「チノちゃん、今日なんか調子よさそうだね!」
チノ「普通です。」
ココア「ほんとに? 無理してない?」
チノ「してません。」
ココア「じゃあよかった!」
チノは少しだけ呆れたように、息をついた。
チノ「ココアさん、最近そればっかりです。」
ココア「だって気になるもん。」
チノ「過保護です。」
その返しに、ココアはぱっと顔を輝かせた。
ココア「今の!ちょっと前みたいだった!」
チノ「ココアさんが騒がしいだけです。」
そのやり取りを聞いていたリゼが、カップを拭きながら小さく笑った。
リゼ「チノ、元気になって良かったなー。」
チノは少し目を丸くした。
ココアは少し驚いてから、にへっと笑う。
昼過ぎ、千夜とシャロが店にやってきた。
千夜は春色の小さな包みを抱えていて、シャロはその隣で、そっぽを向くように立っている。
千夜「桜の形のお菓子を作ったの。よかったらどうぞ。」
ココア「わあ〜、かわいい!」
チノ「ありがとうございます。」
千夜がやわらかく笑う横で、シャロは咳払いをひとつした。
シャロ「まぁその、みんな心配してたんだからねっ。」
チノ「……すみません。」
シャロ「謝れって意味じゃないわよ。」
言ったあとで照れたように眉をひそめ、今度はココアの方を見る。
シャロ「あんたもまぁ、いろいろ大変だったわね。」
ココア「えっ。」
シャロ「……なによ。」
ココア「ううん。ありがと、シャロちゃん。」
千夜「ふふ。シャロちゃん、今日は素直ね。」
シャロ「うるさいわね!」
そのやり取りに、チノが小さく笑った。
ほんの一瞬だけだったけれど、それはたしかに前みたいな笑い方だった。
さらに数日後、メグから手紙が届いた。
丸みのあるやさしい字で、短くこう書かれていた。
『また落ちついたら、いっしょにお話ししたいです。
また三人で会えたらうれしいです。』
その下には、マヤの少し勢いのある字で、
『またいつもみたいに遊ぼうな!』
と一言だけ添えられていた。
チノは封筒を持ったまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息をつく。
チノ「……優しいですね。」
ココア「うん。」
チノ「私、あんなことしたのに。」
ココアは、手紙を見つめるチノの横顔を見た。
その表情はまだ少し硬かったけれど、前みたいに目を伏せて閉じてしまう感じはもう薄かった。
それからの日々は、穏やかに進んだ。
ラビットハウスの中では、前みたいな小さな会話が少しずつ増えていく。
チノは注文を取り、コーヒーを淹れ、ココアの空回りに小さくツッコミを入れる。
リゼもいつものように店に立ち、タカヒロも以前より柔らかな顔で店を見ていた。
噂はまだ消えきらない。けれどラビットハウスの中だけは、少しずつ本来の温度を取り戻していく。
戻ってきた。
前みたいに。
ちゃんと、戻ってきたんだ。
その夜、閉店後の店で、ココアはカウンター越しにチノの後ろ姿を見ていた。
チノは棚を整え、クロスを畳み、明日の準備をしている。
動きに迷いはなく、表情も落ち着いていた。
ココアは何も言わなかった。
ただ、その姿を見ているだけで、胸の中の緊張がゆっくりほどけていくのを感じていた。
チノが戻ってきた。
そう、静かに信じていた。
けれど、その夜。
部屋へ戻ったチノは、扉を閉めた瞬間に小さく息を吐いた。
一日が終わった。
ちゃんと働けた。
失敗しなかった。
みんなも優しかった。
ココアも、うれしそうだった。
それなのに、胸の奥のざわつきは消えていなかった。
優しくされるほど苦しい。
戻ってきたと思われるほど、怖い。
まただめになったらどうしよう。
また壊したら、今度こそ本当に終わる。
チノは机の引き出しを開けた。
ずっと開けないようにしていた場所だった。
中には、小さな瓶がひとつだけ残っている。
しばらく見つめたあと、チノは目を伏せた。
だめです。
今夜は寝ればいい。
明日になれば、また店がある。
けれど、指先は瓶をつまみ上げていた。
ほんのひと口だけ。
それだけなら。
そう思って口をつけた瞬間、胸の奥に張りついていたざらつきが、少しだけ薄くなる。
すぐに自己嫌悪が来た。
でも、その一口で終わらせられる気もしなかった。
翌朝、チノはいつも通りに店へ立った。
誰にも気づかれなかった。
ココアも、リゼも、タカヒロも。
千夜やシャロが来た日も、何の違和感もなかった。
受け答えは自然で、手元もぶれない。
むしろ少しだけ肩の力が抜けているように見えて、ココアは「今日は機嫌いいのかな」と思ったくらいだった。
そうして、数日が過ぎた。
隠すのは、前より上手くなっていた。
前回みたいに露骨に崩れないよう、量も時間も自分で調整していた。
その日の夜も、ラビットハウスは静かに閉店した。
一日うまくいった。
ココアは明るく、チノもいつも通りだった。
リゼは「じゃあまた明日な」と言って帰っていった。
何もおかしなところはなかった。
部屋へ戻ったチノは、机の上に小さな瓶を置いた。
今夜は、少し違った。
新しく開けた、チョコレートの香りがする小さなお酒だった。
丸い瓶を前に、チノはしばらくじっとして、眺めていた。
スタンドライトの下で、瓶の中のチョコレート色がとろりと光っている。
小さくて、つやつやしていて、どこかお菓子の瓶みたいだった。
チノはそっと身を乗り出す。
長めの袖の先から、小さな手がちょこんと出る。
栓に指をかけてみるが、うまく回らない。
む、と眉を寄せて、もう一度力を入れる。
チノ「……かたいです。」
誰もいない部屋で、小さくつぶやく。
もう一度。
今度は両手で瓶を抱えるように持ち直し、唇をきゅっと結ぶ。
細い肩に、ほんの少しだけ力が入る。
く、っとひねる。
次の瞬間、こくん、と軽い音がした。
チノは目をぱちぱちさせた。
それから、口元がゆるむ。
瓶を鼻先に近づける。
甘い香りがふわっと広がる。
いつものお酒の匂いとは少し違う。
お菓子みたいで、わくわくした。
チノ「……。」
小さく口をつける。
舌にのった瞬間、甘さの奥に熱があって、チノは思わず目を細めた。
おいしい、と思った。
その感想が自分の中に生まれたことが少しおかしくて、また少し飲んだ。
胸の奥が軽い。
頭がふわふわする。
考えなくていい。
失敗したことも、怖いことも、今は少し遠い。
机に頬杖をつき、チノは瓶の中の色を眺めた。
スタンドライトの下で、トロッとした茶色い液体がゆらゆら揺れる。
なんだかきれいだった。
チノ「……ふふ。」
自分でも気づかないうちに、そんな声が漏れる。
頬がゆるむ。
少しだけ気分がいい。
誰にも見つかっていない。
今夜も、大丈夫。
甘い考えが、酔いと一緒にじわじわ広がっていく。
しばらくして、チノは立ち上がった。
足元が軽い。
体までふわふわして、自分が少しやわらかくなったみたいだった。
トイレへ行こうと思って、部屋を出る。
廊下はしんとしている。
細い廊下をぱたぱたと進む。
いつもより足取りが軽くて、上機嫌で、危機感はもうどこか遠かった。
トイレの前まで来た、その瞬間だった。
ココア「あれ、チノちゃん?」
声がして、チノはぴたりと止まった。
そこにいたのは、寝ぼけ眼のココアだった。
たぶん、水でも飲みにきたのだろう。
けれど、その顔を見た瞬間、チノの酔いは一気に冷える。
心臓が、どくん、と跳ねた。
まずい。
頭の中でその一言だけが弾ける。
さっきまでのふわふわした気分が、崖から落ちるみたいに消えていく。
ココアは最初、ただ不思議そうにしていた。
けれど次の瞬間、空気の中の匂いに気づいたのか、その表情が固まる。
甘くて、少しつんとする匂い。
まだ、ちゃんと残っていた。
ココア「……チノちゃん。」
チノは動けなかった。
逃げることも、ごまかすことも、何も思いつかない。
ココア「……今、飲んだの。」
静かな声だった。
怒っていない。
でも、その静かさの方がずっと怖かった。
チノの唇がかすかに震える。
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。
その沈黙だけで、もう十分だった。
ココアはしばらくチノを見つめていた。
それから、息を吸う。
ココア「戻ってきたって、思ってたよ。」
チノ「……ごめんなさい。」
ココア「今日だって、普通だったのに。」
チノ「ごめんなさい……。」
ココア「わたし、うれしかったのに。」
チノは壁に手をついた。
足元がぐらつく。
酔っているせいなのか、怖いせいなのか、自分でも分からなかった。
チノ「……私、やめるつもりだったんです。」
ココア「……。」
チノ「今日も、ほんとは……。」
ココア「……。」
チノ「ごめんなさい……私……。」
そこで声が崩れた。
顔を伏せたまま、ぽろぽろと涙が落ちる。
さっきまで楽しかったことが、もう信じられなかった。
新しい瓶に少しわくわくしたことも、上機嫌で廊下を歩いたことも、全部ひどく浅はかで、子どもっぽくて、どうしようもなく恥ずかしかった。
チノ「ごめんなさい…ごめんなさい……。」
何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。
けれど、それ以上の言葉が出てこなかった。
ココアは、泣き崩れるチノを見つめていた。
いつもなら抱きしめてくれたはずの手は、動かなかった。
悲しいとか、怒っているとか、そういう感情より先に、何かが静かに切れてしまったようだった。
長い沈黙のあと、ココアは小さく息を吐く。
ココア「……そっか。」
それだけだった。
短い言葉だけが、冷たい廊下に落ちた。
昼間までたしかにあったやわらかい空気は、もうどこにもなかった。