ご注文は春のあとで   作:くりーむペン

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#6 桃色のひとひらは約束を忘れない

泣き崩れるチノの嗚咽も、夜の冷たい空気の中ではひどく小さく、頼りなかった。

ココアはそれ以上何も言わず、そのまま背を向けた。

足音だけが遠ざかっていく。

 

チノは手を伸ばすこともできなかった。

呼び止める資格なんて、もうどこにもなかった。

 

翌朝、ラビットハウスはいつも通りに朝を迎えた。

 

窓から差し込む光はやわらかく、磨かれたカップは静かに棚に並んでいる。

ティッピーも、いつもの場所で丸くなっていた。

それなのに、店の中の空気だけがひどく固かった。

 

ココアは開店準備をしていた。

けれど、その動きは必要なことだけを淡々とこなしているようで、以前のような軽さがなかった。

チノが隣でメニューを揃えても、目を向けない。

 

ココアの様子を見て、昨夜のことが夢ではなかったのだと、朝の光の下で改めて突きつけられる。

 

その日から、ココアは本当にチノと口をきかなくなった。

 

視線は合わない。

返事も短い。

以前のように「チノちゃん」と呼ぶこともない。

 

チノは小さなことにも神経を尖らせるようになった。

ココアの動線に入らないように、一歩引く。

同じ場所へ向かいそうになったら、先に避ける。

何かを渡す時も、指先が触れないように気をつける。

 

それでも、避ければ避けるほど、かえってぎこちなくなる。

自分がそこにいること自体が、邪魔なのではないかと思えてしまう。

 

リゼはすぐに、その空気の変化に気づいた。

 

同じ店に立っていれば、分からないはずがない。

ココアがチノを見ないこと。

チノがココアの顔色ばかり窺っていること。

何も言わなくても、店の中の温度がひとつ下がっていること。

 

けれど最初のうち、リゼは何も言わなかった。

ただ黙って自分の仕事をし、時々二人の間に入るように動いた。

それでどうにか店を回そうとした。

 

だが、それだけではどうにもならなかった。

 

ラビットハウスは細々と営業を続けていた。

客足は戻らない。

やって来た常連も、どこか遠慮がちに話し、すぐ帰っていく。

カップを置く音や、ベルの音だけが妙にはっきり聞こえた。

 

前なら、ココアがはしゃいで、チノが小さくツッコミを返し、リゼが呆れながら笑うような時間があった。

今は、その小さな会話すらない。

 

ある日の昼、少しだけ客が重なった時間だった。

 

ココアはトレイを持って客席へ向かおうとしていた。

チノもまた、別の注文の皿を運ぼうとして、同じ場所へ足を踏み出す。

動きがかぶった。

 

チノ「……あ。」

ココア「っ。」

 

ほんの一瞬のことだった。

けれどココアの口から、反射みたいに言葉が飛び出した。

 

ココア「邪魔。」

 

静まり返った。

 

言った本人であるココアも、一拍遅れてその言葉を認識したみたいに固まった。

チノは目を見開き、それからすぐに顔を伏せる。

 

チノ「ご、ごめんなさい……。」

 

声はかすれていた。

チノはそのままトレイを抱え直し、逃げるようにカウンターの奥へ引っ込んだ。

 

客の前では何事もなかったように取り繕ったけれど、その一言は、店の空気の奥に重く沈んだままだった。

 

客が途切れたあと、リゼが低い声で言った。

 

リゼ「ココア。」

 

ココアは返事をしない。

テーブルを拭く手だけが、ぎこちなく動いている。

 

リゼ「今のは言いすぎだ。」

ココア「……。」

リゼ「これ以上チノが壊れていったらどうするんだ!」

 

その声は珍しく強かった。

リゼにしては感情が前に出すぎているくらいだった。

 

ココアの肩がぴくりと揺れる。

それから、ふっと笑った。

笑ったというより、息が漏れたみたいな、乾いた音だった。

 

ココア「でも、もう……限界だよ……。」

 

その顔は、笑っているのに、少しも楽しそうじゃなかった。

 

ココア「私、あんなに頑張ったのに。」

リゼ「……。」

ココア「謝りにも行ったし、店も片付けたし、ずっと見てたし、やっと戻ってきたって思ったのに。」

リゼ「……ココア。」

ココア「私、もうどうしたらいいか分かんないよ……。」

 

最後の言葉だけ、声が震える。

リゼは何か言い返そうとした。

けれど、ココアの顔を見て、そのまま口を閉じる。

怒っているだけではない。

責めているだけでもない。

本当に、もう削れきっているのだと分かってしまったからだ。

 

その日を境に、ラビットハウスはさらに静かになった。

 

ココアとチノは口をきかない。

リゼも、二人の間へ入る言葉を見つけられない。

三人が同じ店に立っているのに、まるで別々の場所にいるみたいだった。

 

お客さんの前では、どうにか形だけは保つ。

けれど、裏へ回れば沈黙しかない。

 

チノは店でも家でも居場所を失っていった。

ココアに避けられることが、何よりつらかった。

リゼにもどう接していいか分からない。

 

千夜とシャロも、以前ほど頻繁には顔を出さなくなった。

マヤとメグも来なかった。

 

手紙はあった。

優しい言葉もあった。

けれど、実際に店へ来ることはない。

会いたい気持ちはあっても、あの夜の記憶がまだ重いのだと、チノには分かった。

分かったからこそ、自分からも何もできなかった。

 

日々は色を失っていった。

 

朝、会話のない開店準備。

昼、必要な注文だけが交わされる店内。

夕方、空いたままの席。

夜、二階と三階に並ぶ二つの灯り。

近いのに、遠い。

 

チノは自分の部屋でひとりになる時間が増えた。

酒に手を伸ばすことすら、今はもう怖かった。

ただ、胸の奥には重たいものが沈んだままだった。

 

全部、自分のせいだった。

再発したこと。

ココアに見つかったこと。

それよりも、もう一度、ココアの信じた顔を壊してしまったこと。

 

このまま、声をかける機会も、謝る勇気も、全部なくしていくのかもしれない。

 

ある夕方、閉店後の店で片付けをしていた時だった。

 

棚の隅に押し込まれていた小さな箱が、手をかけた拍子に落ちた。

中身が床へ散る。

 

しゃがみ込んで拾おうとして、チノはその手を止めた。

 

桃の花のかたちをしたオーナメント。

端の潰れた、ひなまつりの飾りだった。

 

あの日、ココアが買ってきたものだ。

 

チノはひとつを指先でつまみ上げた。

薄い紙でできた花びらは、触れれば壊れてしまいそうなほど軽い。

季節はもう過ぎているのに、その桃色だけは、忘れられた春の名残みたいに、まだやわらかな色を残していた。

 

誰もいない店で、それは小さな欠片だった。

けれどチノには、その小ささが、心の底に沈めていた何かへ触れる鍵のように思えた。

 

桃の花。

春の始まりを告げる色。

その淡い色を見つめた瞬間、心の奥に沈んでいた記憶が、ひとひらずつ水面へ浮かび上がってくる。

 

飾りを並べて、楽しそうにはしゃいでいたココア。

笑い声の混じる店の空気。

 

そして、不意にひとつの声だけが、まっすぐ胸へ戻ってくる。

 

ココア「私はお内裏様!お雛様のチノちゃんを、となりで守るんだ~!」

 

その無邪気な声は、あまりにも明るくて、あまりにもまっすぐで。

だからこそ今になって、いちばん痛いところへ触れた。

 

守るんだ、と笑っていた。

冗談みたいに。

当たり前みたいに。

あの人は、そう言ってくれていたのだ。

 

チノは飾りを握ったまま、しばらく動けなかった。

 

あの頃は、騒がしいと思っていた。

距離が近すぎると思っていた。

うるさいとすら感じていた。

 

けれど今は、その騒がしさが、戻らない春の音みたいに胸へ沁みた。

 

あの時のラビットハウスには、笑い声があった。

ココアがいて、リゼがいて、千夜やシャロが来て、マヤとメグもいて。

自分はその真ん中にいた。

 

今は、何もない。

静かで、冷たくて、近いのに遠い。

 

チノの喉が詰まる。

 

戻りたい、と思った。

 

怒られたくないからでもない。

許されたいからでもない。

ただ、あの頃に戻りたかった。

 

ココアにまた「チノちゃん」と呼ばれたい。

笑いながら距離を詰められて、困りたい。

やめてください、と言いながらも、そのぬくもりの中にいたい。

 

それを、自分で壊したのだと、改めて思い知る。

 

逃げてばかりだった。

謝るべき時に謝れず、苦しいことも言えず、隠して、誤魔化して、そのたびに全部を悪くしてきた。

 

けれど、桃色の花は、壊れた季節の中にひっそり残っていた。

もう終わったと思っていた春の名残が、まだそこにある。

それはまるで、色を失った日々の底に、まだやり直せるものが沈まずに残っていると告げているみたいだった。

 

もう、これ以上はだめだと思った。

 

チノは手の中の桃色の飾りを、そっと胸元で握りしめた。

 

ちゃんと、謝らなければいけない。

誤魔化さずに。

泣いて終わりにせずに。

今度こそ、自分の口で。

 

店の中は静かだった。

沈みきる前の春の色が、ガラス越しに細く差し込み、チノの指の中の桃の花を、かすかに透かしていた。

 

その淡い色を見つめながら、チノはゆっくりと息を吸った。

 

ココアに、謝りに行こう。

 

その決心だけが、色を失った日々の中で、ようやく自分の中に灯った、ほんの小さな春だった。

 

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