ご注文は春のあとで   作:くりーむペン

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#7 ちいさな春はおやすみのあとでそっと咲く

閉店後のラビットハウスは、ひどく静かだった。

 

洗い終えたカップは、棚の中で白く乾いている。

灯りは必要な分だけ落とされ、木の床には、夜の家だけが持つやわらかな影が沈んでいた。

どこを見てもいつも通りのはずなのに、その整い方が今夜は遠く感じられた。

 

チノは階段の下で立ち止まった。

 

右手の中には、小さな桃の花の飾りがある。

薄い紙でできたそれは、指先の熱だけでも傷みそうだった。

それでも手放せなかった。

この夜を越えるための、最後の小さな色みたいに思えた。

 

二階を見上げる。

 

あの先に、ココアがいる。

 

行かなければならない、と思った。

うまく話せる自信はない。

きっと途中で声は詰まるし、言葉はほどける。

それでも今夜を逃したら、また何も言えないまま、季節だけが遠ざかってしまう気がした。

 

チノは息を吸い、階段へ足をかけた。

 

木の段が小さく鳴る。

一段上がるたび、胸の奥の鼓動が少しずつ耳の近くへ迫ってくる。

逃げたい気持ちは消えない。

けれど、今さら引き返す方がもっとみじめだった。

 

ココアの部屋の前に立つ。

 

中には人の気配があった。

頁をめくるような微かな音。けれど、それもすぐに止む。

 

チノは桃の花を胸元へ引き寄せる。

それから、そっと扉を叩いた。

 

チノ「……ココアさん。」

 

部屋の中が静かになる。

 

間を置いて、返事が返った。

 

ココア「……はい。」

 

その声を聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなった。

以前と同じはずの声なのに、今夜は扉一枚ぶんだけ遠い。

 

チノ「少しだけ、いいですか。」

ココア「……どうぞ。」

 

扉を開ける。

 

ココアはベッドの上に座っていた。

膝の上には開いた本がある。けれど、読んでいたわけではないのだろうと、その目を見れば分かった。

頁の上に視線は落ちていても、心はそこに触れていない。

 

部屋には、ココアの匂いがした。

洗いたての布の匂いと、夜の空気の冷たさにまじるやわらかな甘さと、窓辺に残った日だまりの名残。

その全部が懐かしくて、チノは入口のところで足を止めた。

 

ココア「どうしたの。」

 

チノは扉を閉めた。

けれど、そこから先へすぐには進めなかった。

入口のそばに立ったまま、手の中の桃の花だけが、かすかに歪む。

 

チノ「……話があります。」

ココア「うん。」

 

ココアはそれ以上、何も言わなかった。

急かしもしないし、慰めもしない。

ただ、待っていた。

 

その静けさの中で、チノはようやく唇を開いた。

 

チノ「……何を言えばいいのか、ずっと分かりませんでした。」

 

自分の声なのに、少し遠くから聞こえる気がした。

 

チノ「苦しいのに、それをうまく言えなくて。言葉にしたら、本当に壊れてしまいそうで、ずっと黙ってました。」

 

ココアは黙って聞いている。

その沈黙が、逃げないで聞いてくれているのだと、ゆっくり胸に染みた。

 

チノ「隠して、見ないふりをして、その場だけやり過ごして……そうすれば、何もなかったみたいに戻れるかもしれないって、思ってました。」

 

声が少しだけ揺れる。

 

チノ「でも、戻れませんでした。」

 

たった一言なのに、その静けさが胸を刺す。

チノは俯いたまま、部屋の中へ一歩だけ進んだ。

 

チノ「本当は、戻りたかったんです。」

 

ココアの睫毛が、かすかに震える。

 

チノ「ココアさんがいて、リゼさんがいて、みんながいて……あの店の中に、まだいたかったです。」

 

そこでようやく、チノは顔を上げた。

目の奥は赤い。

 

チノ「また、あの中で笑いたかったです。あの声の中に、まだいたかったです。」

 

喉の奥が詰まる。

それでも今度は目を逸らさなかった。

 

チノ「なのに、私は自分でまた壊しました。」

 

涙がひとつ、桃の花へ落ちる。

紙の桃色が、そこだけ少し深くなる。

 

チノ「……ごめんなさい。」

 

短い沈黙が落ちる。

 

チノ「ごめんなさい、ココアさん。」

 

その言葉だけでは何も足りないと分かっていた。

それでも、ほかにもっと正しい形が見つからなかった。

 

チノ「私、ちゃんと伝えたかったんです。苦しかったことも、戻りたかったことも……なのに何も言えなくて、全部遅くなりました。」

 

部屋の中は静まり返っていた。

時計の針だけが、そこにいる誰とも関係なく同じ速さで進んでいる。

 

やがてココアが、膝の上の本を閉じて、脇へ置く。

その小さな動作だけで、部屋の空気が少し変わった気がした。

 

ココア「私ね。」

 

その声は、思っていたよりもずっと小さかった。

 

ココア「本当のお姉ちゃんになりたかった。」

 

チノはじっとその声を聞く。

 

ココア「つらい時に、いちばん最初に頼ってもらえる人になりたかった。苦しいって言われたら、ちゃんと聞いて、大丈夫だよって言える人になりたかった。」

 

そこで言葉が少し細くなる。

 

ココア「でも、なれなかった。」

 

その一言が、夜の部屋へ静かに沈んだ。

 

ココア「見てたつもりだったのに、見えてなかった。そばにいるつもりだったのに、届いてなかった。守りたかったのに、守れなかった。」

 

ココアの指先が、シーツの上で小さく握られる。

 

ココア「守れなかった自分も、許せなかった。」

 

チノの胸の奥が、ぎゅっと痛む。

 

ココア「だって私、お姉ちゃんになるって、あんなに言ってたのに。いっぱい近くにいたのに、何もできなかった。」

 

そこではじめて、ココアの声が揺れた。

 

ココア「戻ってきたみたいで、うれしかったんだよ。前みたいに話せるかもしれないって、ほんとにうれしかった。だから……また見た時、どうしたらいいか分かんなかった。」

 

涙がひとすじ、頬を伝った。

 

チノはその涙から目をそらせなかった。

ココアは怒っていただけではなかった。

助けたかったのに助けられなくて、その届かなさごと胸に抱えて、ここまで来ていたのだ。

 

ココア「でもね。」

 

ココアは涙を拭いながら、まっすぐチノを見た。

その顔は真剣で、でも優しかった。

 

ココア「だから約束して。」

 

チノは小さく息をのむ。

 

ココア「つらくなったら、真っ先に私に言うこと。」

 

その言葉は強くはないのに、逃げ道がなかった。

 

ココア「大きくなる前でもいい。少し苦しいとか、なんか変だなとか、そういう小さいことでもいいから、ちゃんと言って。」

 

言葉のひとつひとつが、胸の奥へやわらかく沈んでいく。

赦しというより、それはこれから先の道のかたちだった。

 

ココア「ひとりで抱え込まないで。今度は、ちゃんと聞くから。」

 

チノは、涙でぼやける視界のまま、何度もうなずいた。

 

チノ「……はい。」

ココア「うん。」

チノ「言います。小さいことでも、ちゃんと言います。」

ココア「うん。」

チノ「ひとりで抱えません。」

ココア「……うん。」

 

その短い返事が、胸の中のいちばん固かったところを、ほどいていく。

 

チノは握っていた手を、そっと開いた。

 

チノ「これ……。」

 

掌の上には、しわになった桃の花がある。

薄い花びらの端が、指の熱でわずかに丸くなっていた。

 

チノ「片づけをしていた時に、見つけました。」

ココア「……。」

チノ「あの日の飾りです。」

 

ココアの目が、その桃色に落ちる。

驚きと、懐かしさと、遠くへ行ったと思っていた日をふいに見つけた時の痛みが、いっぺんにその目に浮かんだ。

 

ココア「……まだあったんだ。」

チノ「私も、なくなったと思ってました。」

 

チノはそこで、もう一歩だけ前へ出た。

ベッドのそばまで来て、桃の花をそっと差し出す。

 

ココアはゆっくり手を伸ばした。

紙の花びらが、ふたりの指のあいだで一瞬だけ触れ合う。

それだけのことなのに、失くしたと思っていた時間の端が、静かに戻ってきた気がした。

 

ココアは桃の花を受け取り、枕元の小さな棚へ置く。

部屋の灯りの下で、その色だけがかすかに春を離していなかった。

 

しばらく、ふたりでその花を見ていた。

 

ココア「……今日は、もう遅いね。」

チノ「はい。」

ココア「明日から、またちゃんと話そう。」

チノ「……はい。」

ココア「少しずつでいいから。」

チノ「はい。」

 

ココアは泣いたあとの声のまま、やわらかく言った。

 

ココア「おやすみなさい、チノちゃん。」

 

その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

ずっと待っていた音だった。

 

チノは涙をこらえながら、深く頭を下げる。

 

チノ「おやすみなさい、ココアさん。」

 

部屋を出ると、廊下の空気はまだ少し冷たかった。

けれど、来る時のように、世界の全部が遠いとは思わなかった。

扉一枚の向こうに届く声がある。

それだけで、夜の色がほんの少しだけ変わって見えた。

 

翌日の午後、開店前の店で、リゼはカップを拭く手を止めた。

 

カウンターの向こうでは、ココアがメニューを揃えている。

いつものように元気いっぱいというわけではない。けれど、ずっと張りつめていたものが、少しだけほどけたような顔をしていた。

 

リゼ「ココア。」

ココア「ん?」

 

リゼは頭を下げながら言った。

 

リゼ「この前は悪かった。」

 

ココアが目を丸くする。

 

リゼ「感情的になりすぎた。ココアが辛いこと、分かってたのに、あんな言い方して悪かった。」

 

言葉は短かった。

飾りも逃げもない、まっすぐな謝罪だった。

 

ココアはしばらく黙っていた。

それから、小さく首を振る。

 

ココア「私も、ごめん。」

リゼ「……。」

ココア「ちゃんと頼れなかった。リゼちゃん、ずっと間に入ってくれてたのに、私、全然見えてなかった。」

 

リゼはそれを聞いて、肩の力を抜いた。

 

リゼ「次は、一人で抱え込むな。ココアも、チノも。」

ココア「うん。」

リゼ「私だっているし、タカヒロさんだっている。千夜たちもいるだろ。」

ココア「うん。」

 

ココアは少しだけ笑った。

 

ココア「ありがとう、リゼちゃん。」

リゼ「おう。」

 

それだけのやり取りなのに、店の空気がふっと軽くなる。

痛みも、これから先のやさしさも、きっと誰かと分けていいのだと、ようやくそう思えた。

 

それからの日々、チノは少しずつ、自分の中の揺れを言葉にするようになった。

 

劇的に何かが変わったわけではない。

朝、目が覚めた時に胸の奥が重い日もあるし、ふとした拍子に言葉を飲み込んでしまう癖も、すぐには消えなかった。

それでも、以前とは違った。

 

ある日の閉店後、カップを拭きながら、チノがぽつりと言う。

 

チノ「……今日、少しだけ不安です。」

ココア「うん。」

 

ココアはすぐに何かを解決しようとはしなかった。

ただ、隣に立ったまま、そこにいてくれる。

 

チノ「何が、っていうほどじゃないんですけど……なんとなく。」

ココア「うん。」

チノ「……こういうのも、言った方がいいんですよね。」

ココア「うん。言ってくれてうれしい。」

 

その言葉だけで、胸の奥の重たさが少しだけ薄くなる。

 

別の日には、マヤとメグが来る前に、正直に「少し緊張しています」と言った。

ココアは「じゃあ不安になったら、すぐ私に言って」と笑い、リゼは「必要なら裏、代わるぞ」と自然に言った。

マヤは照れくさそうに「言うようになったな」と笑い、メグは「うん、それでいいと思うよぉ」とやさしく続けた。

 

千夜は変わらずやわらかく、シャロは変わらず不器用に気を遣った。

 

ラビットハウスの毎日は、同じ形には戻らなかった。

けれど、前より少しだけ、人の弱さを置いておける場所へ変わっていた。

 

数日後の午後だった。

 

やわらかな光が窓から差し込み、棚の中のカップの縁を白く光らせている。

客足がひと段落した店内には、コーヒーの香りと、春の終わりに近い空気のやさしさがゆっくり混じっていた。

 

チノはカウンターの中で、洗い終えたカップを元の位置へ戻していた。

肩には以前のような張りつめた硬さがない。

慎重ではある。けれど、それは怯えではなく、ちゃんと息をしながら立っている人の静けさに近かった。

 

ココアは客席側から、その横顔を見ていた。

 

しばらく見てから、どうしても言いたくなって、声をかける。

 

ココア「チノちゃん。」

チノ「何ですか。」

ココア「ひとつ、聞いてもいい?」

チノ「はい。」

 

ココアは一度だけ息を吸った。

真面目な顔をしている。けれど、その目の奥にはもう、ココアらしい明るさが戻っていた。

 

ココア「……もふもふしてもいい?」

 

チノは目をぱちぱちさせた。

 

以前なら、聞く前にもう抱きついていたはずだ。

なのに今は、ちゃんと待っている。

そのことが少しくすぐったくて、少しうれしくて、チノは目を伏せた。

 

頬が熱くなる。

 

チノ「……少しだけなら。」

 

ココアの顔が、ぱっと明るくなる。

 

ココア「やったあ!」

 

次の瞬間には、もう駆け寄っていた。

 

ココア「チノちゃーん、もふもふー!」

チノ「ちょ、ココアさん、本当に少しだけです……!」

ココア「少しだけの中には、わりといろいろ入ってるんだよ!」

チノ「近いです……。」

ココア「今日は特別!」

チノ「毎回そうやって言いそうです……。」

 

そのやり取りに、リゼが小さく吹き出す。

 

リゼ「元に戻ったな。」

千夜「ふふ。よかった。」

シャロ「ほんと、騒がしいわね。」

マヤ「もふもふ再開だー!」

メグ「なんだか安心するねぇ。」

 

笑い声が、店の中をひとめぐりする。

 

チノはココアの腕の中で、そっと目を閉じた。

近くて、あたたかくて、うるさいくらい。

なのに、そのどれもが胸を刺さなかった。

むしろ、失くしたと思っていたものが、形を変えて帰ってきたことを、からだの方が先に知ってしまう。

 

頬を、ひとすじ、あたたかいものが伝う。

 

ココアがぴたりと止まった。

 

ココア「えっ、チノちゃん!?痛かった!?」

チノは小さく首を振る。

チノ「違います。」

ココア「ほんと?」

チノ「……少しだけ、うれしかっただけです。」

 

その答えを聞いたココアの顔が、ふっとやわらかくなる。

次の瞬間には、またいつもの明るさが戻った。

 

ココア「そっか。じゃあ今日は、もふもふ再開記念日だね!」

チノ「何ですかそれ……。」

ココア「えへへ。」

 

窓辺に置かれた小さな桃の花が、傾きはじめた光を受けて、淡く透けていた。

 

あの日こぼれ落ちた春は、形を変えながらも、またラビットハウスの中でそっと咲きはじめていた。

 

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