二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 大蜘蛛の事件以降大した事件もなく、いたって平穏な日々が流れる暁の帝国は、夏休みの真っ最中だ。大人は仕事に勤しむが、学生は遊びに全力を尽くす。そんな季節。旧日本ということで、日本の文化を受け継いでいる暁の帝国は、日本と同じ時期にお盆休みに入る。

 この時ばかりは熱心な部活動も多くが休みになる。持て余すほどに休みがある学生たちは、ここぞとばかりに遊び始める。

 暁麻夜が異母姉である萌葱の家を訪れたのは、ただ手持ち無沙汰だったからだった。

 空調の整った屋内は実に涼しい。

 もともと帝国内でもとりわけ高いマンションの最上階を占有している暁家は、地上付近に暮らす人々に比べて夏の暑さは楽なほうではある。

 しかし、南国の夏は五十一階の高みにあっても侮れない。

 屋外の気温は二十九度。湿度は考えたくもない。姉妹ではあるが、互いの部屋に行くには一度外に出なければならないのが気になるところで、いっそのこと他の家々の壁をくり貫いて一纏めにすればいいのではないかとすら思うくらいだ。

「て、あれ。零菜もいるんだ」

「麻夜ちゃん、またそんなかっこして……」

 リビングに入ると、先客が呆れたとばかりにため息をついた。

 暁零菜――――麻夜と同い年の異母姉妹で、生まれた順で零菜が姉となる。が、学年が同じなため、二人の関係は対等と言ってもいいだろう。

 零菜が麻夜の姿に苦言を呈したのは、姉貴分という意識からではなく単純に麻夜が表に出れないような守りの薄い格好をしているからだろう。

 タンクトップとホットパンツという出で立ちなのだ。健康的なすらりとした足がこれでもかと存在を主張しており、さらに薄いシャツは豊かな二つの丘が目一杯自己主張している。このような少女が街中を歩いていたら、すれ違う男たちは前かがみで歩く羽目になるだろう。

「紗葵は?」

「友だちんとこ行くってさ」

 萌葱がストローを咥えながら答えた。

 麦茶に浮いた氷が心地よい音を立てる。結露したグラスが中身を美味しそうに演出している。

「萌葱姉さん、僕も水貰っていい?」

「いいよー、冷蔵庫から好きなの選んで。まあ、お茶と牛乳とゲロまずの輸血パックくらいしかないけど」

「それもう捨てればいいんじゃないの」

 冷蔵庫を開けると見覚えのあるパッケージがある。赤黒い血が封入された輸血パックだが、萌葱が口をつけないので一向に減らない。この家で吸血鬼なのは萌葱だけだ。古城はこの冷蔵庫を使わないし、母親の浅葱も料理はほとんどしないので冷蔵庫そのものが萌葱の所有物のように扱われている。

 この輸血パックを見ても、さっぱり吸血衝動が湧いてこない。この血を吸いたいとも思わないのは、吸血衝動が性欲に関連するものだからだろうか。昨今は吸血自体を恥じる若者も増えていて、若者の吸血離れを憂う先達の中には積極的に血を摂取するように呼びかける者もいる。人間との共存が進む中での種族間の文化的な摩擦は、各国の喫緊の課題でもあった。

 手近なコップに麦茶を入れた麻夜は、リビングに戻って椅子に横を向いて腰掛ける。背凭れに肘を置き、麦茶を口に含んだ。

「零菜何してんの?」

 麻夜が零菜に声をかけた。

 テーブルの上に手鏡を置いて、にらめっこしている。目の下を引っ張ってみたり、鏡を覗き込んだりしているのだ。

「あー、なんかカラコンが上手く入ってないような気がして」

「あぁ、分かる。ゴロゴロするんだよね、変な入り方すると」

 零菜は目薬を打って、パチパチと瞬きをする。

「てか、何で今日カラコン付けてんの? 別に学校もないしよくない?」

 萌葱が零菜に尋ねた。

「いや、昨日新しいの買ったから試してみようと思って。んー、合わないのかなぁ」

 カラーコンタクトの需要は年々高まっている。

 吸血鬼の若者――――特に思春期の学生にとっては必需品と言っても過言ではなく、学校も着用を許可する場合が多い。ファッションではなく人権に関わるものとして認識されているのだ。というのも、吸血鬼は吸血衝動に襲われると瞳の色が赤く染まる。吸血衝動は前述の通り性的欲求に関わるものなので、若い世代は赤い瞳を見られるのを嫌う傾向があるのだ。

 吸血衝動自体は性欲以外にも体力の低下や体調不良などでエネルギーを欲する場合などでも現れるもので、一口に性欲と直結しているとはいえないが、それでも赤い瞳をしていると興奮していると宣言しているようなものだった。

 多感な思春期の少年少女にとっては、見た目から吸血衝動が分かってしまう赤の瞳は恥ずかしいもので、からかいの対象ともなり、酷いものだとそれがいじめに繋がってしまう。

「家の中で目を赤くしてても別に気にしないでしょ」

「いや、そうなんだけどね。やっぱ、これ合わないや」

 零菜は諦めたのかカラーコンタクトを外した。自分の瞳の色に合わせた黒と空色を混ぜたような色合いのカラーコンタクトだったが、どうにも使用感が彼女の好みに合わなかったらしい。

「吸血衝動ねぇ。あったとしても基本無視だからなぁ」

 麻夜が言うと萌葱も頷く。

「食欲とかと違ってほっとけば収まるしね。まあ、血が吸いたくなったときに吸えたらいいんだろうなぁとは思うけどね。……輸血パックじゃなくて、生血が欲しいんだよ」

「なんか猟奇的だな、その言い方」

 萌葱が天井を見て欲望を口に出すと、麻夜が笑いながら感想を述べる。

「まあ、確かに輸血パックは不味いなんてものじゃないよね」

 零菜は以前試しに口にしてみた輸血パックの血の味を思い出す。魔力と霊力がすっかり抜けた血は、エネルギーに乏しく味も微妙だった。

「ああ~、このブルジョワが。お姉ちゃんを差し置いて凪君の血を貰っちゃってもう! そりゃ輸血パックは不味いでしょうよ。本物の生血吸ってんだからさ。しかも凪君の!」

「いや、まあ、それはそうなんだけど」

 何と言っていいのか分からない。

 確かに零菜は度々凪から血を吸っている。まだ片手で数えられる程度ではあるが、一回も血を吸ったことのない萌葱からすれば、それだけでも零菜のほうが吸血鬼として進んでいる。おまけに吸血対象の凪は、魔力と霊力を最高水準で兼ね備える血の持ち主だ。それはもう近くにいるだけで、噛み付きたくなるくらいに甘い芳香を放っているくらいで、彼に目がくらむのは栄養価の高い食品に目が惹きつけられるようなもので自然な反応だ。採血してからずいぶんと経ち、魔力を失ったただの血では、決して凪の生血には勝てないのだ。

 萌葱と零菜のやり取りを見ていた麻夜がふと思いついたことを口走る。

「あれ、そういえば凪君はさ、吸血衝動あるのかな?」

 彼女たちの従兄弟に当たる昏月凪は、もともと強い霊力を備えているだけの人間だったものに零菜と古城の血が入ったことで半吸血鬼となった少年だ。

「凪君の吸血衝動?」

「そういえば、聞いたことなかったな」

 零菜と萌葱が首を傾げた。

 凪に吸血鬼の因子が入っているのだから吸血衝動があっても不思議ではない。完全な吸血鬼ではなくとも眷獣を使役する能力は持っているし、弱いながらも再生力もある。ならば、吸血能力を持っていてもいいだろう。

「凪君に吸血衝動があったら、古城君みたいに誰かの血を吸うってことじゃないの。ダメダメそれは。わたしの凪君が汚れる」

「何で萌葱姉さんのになってんのさ」

「でも、実際どうなんだろうね。吸血鬼の因子があるなら、吸血衝動があるのは自然じゃないのかな」

 零菜は、この場にいない人のことを話すのはどうかとも思うのだが、興味深い内容だけに逡巡をすぐに忘れる。

「僕は見たことないな、凪君が吸血衝動を起こすとこ。もともとないんじゃないのかな。あるのに出ないんだったら、問題は大きいでしょ」

 吸血衝動を有していながらそれが出てこないということは性欲を感じていないということである。無論、凪のすべてを知っているわけではないが、彼との付き合いも長いのだ。凪は女に興味がないというわけではないのを麻夜は知っている。

「んー、でも零菜に血を吸われてたときとか普通にしてたしね」

「零菜をそういう対象で見てなかったとか?」

「ちょ、あの、その言い方やめて二人とも……わたしの尊厳がね……ほら……」

 言いながらも零菜の不安そうな表情は隠せない。無理もない。血を吸うために身体を密着させたりもしたのだ。それで何も感じていないのならば、それは零菜の乙女としての尊厳が失われることになる。

「何か、興味が出てきたな。凪君に吸血衝動があるのかどうか。ねえ、零菜」

「え、あ、うん。でも、どうやって確かめるの?」

「そりゃ、あれじゃないの? 凪君が感じればいいわけだから、あー……危なくない一歩手前辺りで頑張るとか」

 手っ取り早いのは凪が性的に興奮することだが、それはつまり凪を興奮させなければならないわけだ。要するには、凪に色仕掛けをするということになる。同い年の従兄弟を相手に、それはハードルが高い。物怖じしない麻夜が口篭るのも当然だろう。

「吸血衝動だけなら、薬で何とかなるんじゃない?」

「一服盛るのか。水かなんかに溶いて」

 萌葱が立ち上がって部屋の隅にある棚を空ける。薬箱がそこには入っている。怪我をすぐに治せる吸血鬼でも体調不良に陥ることはある。決して不老不死だから、肉体面に問題が生じないということではないのだ。

「確かね、吸血障害の薬があったはずなのよ」

「吸血障害の薬って、確か吸血衝動を起こさせるヤツでしょ。なんで萌葱ちゃんが持ってんの?」

「貰い物。まだ経験がないって言ったら、寄越されたのよね。誰が不感症だってのよ」

 どうやら萌葱は以前に誰かから不感症だと勘違いされたらしい。

 市販の吸血衝動を補助する薬は、通常は体調不良のために吸血すらする気が起きない中で無理にでも血を吸って体力を取り戻そうとするときや、吸血に対する心因性の拒絶反応の軽減などを目的に服用する。

「粉薬でミルクによく溶けるタイプです」

 萌葱は茶色の小瓶を振って零菜と麻夜に見せた。

「それ、大丈夫なの?」

「百パーセント天然成分だって書いてあるし、市販されてるヤツだから。それに軽く血が吸いたくなるだけで実害ないし、へーきへーき」

 萌葱は小瓶を麻夜に投げ渡す。片手でそれをキャッチした麻夜は、ラベルに視線を這わせた。

「ダンピールに効果あるのかな、これ」

「そもそも凪君の体質は唯一無二だから、薬の効能も効き目があるのかどうか分からないのよね」

 吸血鬼には吸血鬼の、人間には人間の薬がある。

 多くの薬は共用でもいけるのだが、やはり不老不死の吸血鬼と人間では免疫などでも違いがある。人間に効く薬が吸血鬼に効かないということは往々にしてあることであり、その逆もまた然りである。

「あの、それって、凪君に薬を盛るってことだよね。まずいんじゃない?」

 零菜は恐る恐る意見すると萌葱はからからと笑った。

「でも気になるじゃん。それにこれはちょっと気分を高めるだけだから、大丈夫だって。プロテインみたいなもんでしょ」

「いや、でも、そもそも薬って勝手に使っていいものじゃないし……」

「あ、凪君三十分くらいで来るって」

 麻夜が零菜の言葉を遮って言った。彼女はいつの間にか手の平大の液晶パネルを操作していた。最新式の携帯だ。

「ナイス麻夜」

 萌葱がグッと親指を突き立てた。

 基本的に友人と外で遊ぶことのない凪は、暇を持て余しているのである。その一方で、連絡を入れれば呼び出すことはできる。凪から人を誘うことがないだけで、付き合い自体は悪くないのだ。特に、皇女姉妹は親戚筋で気心が知れているとあって、呼び出しに応じることは多い。

 通い慣れた道を通って凪はやって来る。

 三十分というのは凪の自宅から暁家のマンションまで寄り道せずにかかる時間であった。

「どうして俺が呼ばれたんだ」

 きっかり三十分でやってきた凪は、従姉妹に問う。

 伸びた前髪が目にかかって鬱陶しそうにする凪は、夏場だというのに相変わらずの黒のパーカー姿だ。見ているだけで暑苦しいが、特殊材質のパーカーは紫外線をカットし、熱を散らす機能を持った夏服だったりする。

「え、ああ、ゲームがね四人いるからさ。一人加えようと思って」

 萌葱がテレビを指差した。

 最近出たばかりのテレビゲームの本体が液晶テレビの前に置かれている。手の平サイズのそれは、ついさっきまで麻夜が弄っていた携帯だった。

 無線を利用してテレビゲームの本体として使うことができるのだ。

「あれ、紗葵はいないのか?」

「外に出てるよ。友だち、多いからね」

 麻夜がそう言うと零菜が笑う。

「それだと、わたしたち友だちがいないみたいじゃん」

 皇女という立場はあるものの、概ね学校生活に問題はない。友人関係は良好である。

「まま、外暑かったでしょ。これで一服してからにしよ」

 と、萌葱はグラスに麦茶を注いで持ってきた。

「ありがと、萌葱姉さん。ちょうど、喉が渇いてたんだ」

 何せ外の気温は三十度を軽く越える真夏日だ。南国らしい湿度の高さとフェーン現象のダブルパンチはそれだけで外出意欲を尽く低下させる。

 凪は萌葱に渡されたグラスの中身を一息に飲み干した。

「ん?」

 凪は眉を顰めた。

「あ、ど、どうかした?」

 萌葱は凪の様子を観察するように表情を覗き込んで尋ねる。

「いや、なんか苦いと思って。気のせいか?」

「気のせい気のせい。いつもと使ってるの変わらないよ。普通の麦茶。そこのスーパーで買ってきたヤツ」

 萌葱は乱暴に凪の手からグラスを奪い取り、そのままキッチンに戻った。

 手際よくグラスを洗う。

 その様子を見ていた凪に零菜が話しかける。

「ねえ、凪君」

「ん?」

「……あ、いや、なんでもない」

「何だよ」

 凪は訳が分からないとばかりに首を捻る。

 麻夜はちょっとがっかりしたといった風にソファに沈み込んでいるではないか。なんだか分からないが、あまりいい気はしない。

「ま、いいや。ゲームしよゲーム。せっかく来たんだし、凪君が選んでいいよ」

「ん、そう? 四人だし、パーティゲームでいいんじゃないか。確か、入ってたよな?」

「いくつかあるね。あー……じゃあ、この前買ったばかりのダンジョン飯2にしようか」

「聞いたことないぞ、それ……」

「あれ、知らない? CMとかよくしてるはずだけどな」

「あまり意識してCMとか見ないから」

 そもそもテレビ自体、流し見している状態だ。内容はほとんど頭に入っていない。

「ふぅん、結構面白いよ、これ。嵌ると癖になる……あれ、起動遅いな」

 ローディング画面から先に進まず、画面が黒いままだ。

「あ、凪君。ごめん、コントローラー持ってきてなかった」

「ああ、わたしの部屋の棚のとこに置いてあるわ。凪君悪いんだけど、取ってきてくれない?」

 萌葱は、キッチンでなにやら作業を始めていた。人数分の飲み物と菓子の準備を始めたのだ。

「俺が入っていいの?」

「別にいいわよ。ちょっとなら変なことしても許したげる」

「しねえよ」

 挑発的な笑みを浮かべる萌葱にムッとして返し、凪は萌葱の部屋に向かうべく背を向ける。

 女子の部屋に男を一人で向かわせるとか年頃の娘としてどうなんだろうかとは思うが、萌葱にとっては凪は弟分でありそれ以上のものではないのだろう。弟が姉の部屋に入ったところで、困ることはない。見られてどうこうなるものもない。

「わたしもいこー」

 なぜか、零菜が凪についてくる。

「コントローラーくらい俺一人でいいぞ」

「いや、ほら萌葱ちゃんはああ言ったケド凪君は年頃の男子だし、何があるか分からないからね」

「何かって何だよ」

「そうだね。例えば、萌葱ちゃんのベッドでいやらしいことするとか」

「しねえよ」

 そんなことをしたら、生きていけなくなる。

 明け透けで美少女ではあるものの態度は普通の女子高生と変わらない萌葱ではあるが、この国の皇女という立場でもある。おまけに第一子である。その萌葱の部屋で不埒な真似をすれば、あらゆる存在を敵に回す。

 ドアを開けて部屋の中に入ると、桃色を基調とした女の子らしい部屋が広がっていた。

 十畳ほどの広さで、個人の部屋としては十二分であろう。凪の部屋よりは広い。

「しっかし、零菜もそうだけど、ずいぶんと庶民的な部屋だよな」

「そう? 普通じゃない?」

「普通だよ。でも零菜たちは皇女だろ。もっと煌びやかな部屋に住んでてもいいんじゃないかと思うけどな」

 零菜の部屋もここと大して変わらない。綺麗ではあるが一人暮らしの学生の部屋でもここと同じような内装にできるだろう。

 庶民派というか、完全に庶民の部屋だ。

「まあ、うちは歴史も伝統もないからね。古城君だって一般人の出身だし。ああ、かのねえはアルディギアの血縁だからあそこは歴史も伝統もあるけど……クロエちゃんとこは、その辺別格だよ」

 羨ましいと思う反面、金銀で彩られた王宮での生活は息苦しい。 

 皇女らしからぬ今の立場がほどよくて楽なのだ。

「そう。まあ、でもあれだな、何にしても、これじゃ皇女らしさは欠片もないな。シンディの部屋と大差ないじゃないか」

 時折絡んでくる後輩を思い出す。

 彼女の部屋も萌葱の部屋と同じような雰囲気だった。あちらのほうがスポーティな印象があったというくらいしか違いが分からない。

「シンディ?」

「ん、ああ。いっこ下のヤツ……零菜と同じ学校だったはずだぞ。麻夜は知ってるらしいけど」

「ふぅん……で、その娘の家に行ったんだ」

「何度かな」

「へえ」

 答えながら、凪はコントローラーを探した。

 萌葱は棚のところにあると言っていた。ソレらしき場所に視線を向けてみれば、プラスチックのケースの中にコントローラーらしきものが入っている。

「お、あったあった」

 凪はケースを棚から取り出して、中を確認する。黒や青の手の平サイズのコントローラーが収納されていた。

「しっかし、今時外付けコントローラーってのはマニアックだよな」

 大抵のことは携帯一つでできるのだ。今の時代はテレビゲームですら本体を必要としない。携帯が本体とコントローラの役割を併せ持つものも多いのだ。ゲーム業界は通信技術の発達が大いに貢献している世界でもある。

「どうかしたか?」

「別に」

 零菜は妙に刺々しい視線で凪を見ていた。空色の瞳がどことなく影を帯びているようにも見えた。

「ッ……!」

 凪はぞくり、と背筋を這うような悪寒に曝された。

 胸がざわつき、頭が真っ白になる。その一方で、不思議と感覚は研ぎ澄まされていた。

 甘い香りが鋭敏になった嗅覚に染み込んでくる。

 前後不覚に陥ってプラスチックケースを取り落とした。

「凪君、どうかした?」

 零菜が凪の異変に気付いて近付いてくる。

 無防備に凪のパーソナルエリアに入った零菜を、凪は抱きしめた。

「ふぇ……?」

 固まった零菜は状況を理解するのにたっぷり五秒を要した。

「ちょ、あ、凪君!? 何、何どうしたの!?」

 叫ぶ零菜を凪はベッドに突き飛ばす。さらに、尻餅をついた零菜に凪は覆い被さった。

「え、あ、ちょ、わわわ! ストップ! 凪君、ストップ!」

 零菜が慌てて凪を押し退けようとする。

 だが、思いのほか凪の力が強く、零菜の体勢からでは力が上手く出ない。ベッドのスプリングが力を吸収してしまう。

「も、もしかして吸血衝動!? 今更出た……うわぁ、ちち近いぃぃ! 待ってって!」

 騒ぐ零菜を無視して凪は烏羽玉の黒髪を梳き、零菜の耳元に唇を寄せる。

 凪の吐息を肌で感じ、零菜は羞恥とくすぐったさに身を縮める。

「何か、いい匂いがするな。髪もさらさらで気持ちいいし……」

「うわぁ、うわぁ! 変態! 変態! いやらしい!」

「ああ、何かもう、それでいい」

「それでって、わぁぁ! 萌葱ちゃん、麻夜ちゃん! 助けて! 凪君が変になった!」

 じたばたと凪に抵抗する零菜の叫びを聞いた萌葱と麻夜がドアを開けて室内に入ってくる。

 零菜を襲う凪を見て、二人は目を見開いて固まる。

「これ、どういう状況?」

 麻夜はどうしたものかと萌葱に尋ねる。

「えぇと、薬の所為だよね、多分。吸血衝動が出たのかな」

「と、止めてぇぇぇぇ!」

 零菜が足をバタつかせ、凪の肩を掴んで押し退けようとしている。凪はそんな零菜の手首を掴んで、拘束を外すと零菜の首元に顔を埋める。

「んんん~~~~~!」

 零菜は顔を背けて凪から逃れようとする。

 やれやれと、萌葱は凪に近付いて、その手を引っ張った。

「そこまでよ、凪君。色々と興奮してるのは分かるけど、とりあえず落ち着いて」

「あぁ、萌葱姉さんか」

「今気付いたの?」

「ああ、ゴメン」

 萌葱に謝った凪は零菜を解放する。

「まったく、吸血衝動は分かるけど、もうちょっと我慢ってのをしないとダメでしょ」

 萌葱は凪を諭すように言った。

 吸血衝動を引き起こす薬を盛った手前あまり強く言うこともできないのだが、凪がここまで過剰反応してしまうとは想定外のことだった。普通の吸血鬼であれば、軽く血の味が恋しくなる程度で済む薬なのだが、中途半端な体質の凪には異なる効き目をもたらしたらしい。

「輸血パックのでよければうちにもあるし。味の保証はないけど……」

 萌葱の言葉は途中で途切れた。

 凪が今度は萌葱を抱き寄せたからだ。

「え、あれぇ、ちょっとぉ!?」

「姉さんもいい匂いがする」

「にゃあっ!?」

 さわ、と背中を摩られた萌葱は真っ赤になり、くすぐったさに身を捩る。

「凪君、見境がなくなってるね」

「麻夜、冷静に言ってんじゃない!」

 萌葱は凪を引き離すべく両手に力を込める。戦闘能力は低いものの、それでも古城の第一子たる萌葱のスペックは高い。

 同年代の男子が身体を強化していたとしても、振り払うことは可能だ。

「うわ」

 凪の手を振り払った萌葱は、バランスを崩して机にぶつかる。ノートや鉛筆が、ばらばらと床に落ちたが気にせず数歩後ろに下がって体勢を整えた。

「萌葱姉さん、大丈夫?」

「わたしはね。……ただ、凪君が大丈夫じゃないっぽいけど」

 ふらふら身体を揺らす凪の表情は明らかに普通じゃない。どことなく夢見心地のようで、正気を失っていることが分かる。薬物中毒に陥った人間が浮かべるような、虚無的な表情であった。

「どうすんの、これ。僕、回復系の眷獣持ってないし」

「わたしだってないわよ。零菜も……」

「ない」

 零菜が凪から距離を取りつつ答える。

「参ったな、想定外ね。これが催眠の類だったら、零菜でなんとかなるのに」

 萌葱は冷や汗を流しながら呟く。

 もしも凪がおかしくなった原因が魔術に由来するものならば、零菜の眷獣槍の黄金(ハスタ・アウルム)ですぐに解決できた。

 だが、今回は薬によって前後不覚の状態に陥ったものだ。魔力無効化の槍は何の意味も為さない。

「まあ、凪君は再生能力あるし、ほっといても大丈夫じゃないかな」

 無責任なことを麻夜が言うと萌葱も頷く。

「そうね。薬の効果がずっと続くわけじゃないし、落ち着けば元通りになるでしょ」

「よし、じゃあとりあえず凪君にはこの部屋から出ないでいてもらおう」

 頷きあい、そしてドアを開けて外に転げ出る。

 最後まで見ていなかったが、萌葱たちが部屋の外に出る気配を察したのか凪が動き出したようだった。

 外に出ると同時にドアを閉め、体重をかけ、ドアレバーを下から押さえて開かないようにした。ドン、とドアに重い何かがぶつかる音がする。

「ふぅ……いや、後でどう謝ろうか」

「これ、母さんたちにばれたら怒られるよね、さすがに」

 人に悪戯で薬を盛った挙句に暴走させたなどとなれば、大目玉は確実だ。

「やっちゃったぁ……はあ、ねえ零菜は?」

 萌葱はそこで辺りを見回す。

 麻夜はすぐ隣にいるが、もう一人の妹の姿がない。

「あれ、零菜?」

「部屋の中だよッ! 閉めるの早いよッ!」

 ドンドンと零菜が室内からドアを叩いている。

「あ、やっべ!」

 萌葱がドアを閉めたとき、逃げ遅れた零菜が室内に取り残されていたのだ。

 脱出直後にドアにぶつかったのは凪ではなくて零菜だったのだ。

 彼女はドアから最も遠くにいて、しかもベッドに座り込んでいた。萌葱と麻夜が息を合わせて脱出を図っても、零菜はそれについていけなかったのだ。

「ドア開かない、ちょ出して! 今、二人きりはまずい……あ、ちょ、放し、待って! そんなとこ触っちゃ、やぁ……! もっと、優しく……え、あ、ぁ、何す――――」

 それっきり、零菜の声は聞こえなくなった。

 物音もしなくなり、シン、と静まり返った。

 萌葱と麻夜は目を見合わせる。それから、意を決した萌葱が恐る恐る少しだけドアを開ける。

「んーーーー! んんーーーー! ぷあ、はぁ、落ちついて、あ、ま……ん、んんんんんんーーーーー!! んんんんんんんんんんッーーーーーーーーー!! ん、んぅ……ふぅむ、んぅ……あふ、あ、うんぅ……」

「うわぉ……」

 そして、そっと閉じた。

「姉さん、どうだった?」

「あ、いや、そうだね……何かね、凪君が覚醒した初号機みたいになってた」

 一体零菜はどうなってしまったのか。萌葱は室内を見ただけで、頬を朱色に染めているではないか。心なしか瞳も赤い。

「ま、まあ、あれよね。吸血衝動っていうよりも性欲が増強された的な感じなのかな。よく分かんないね、凪君の身体は」

「止めなきゃまずくない?」

「だ、大丈夫だとは思うけど」

 中三で一線を越えてしまうとなるとかなり問題が大きい。責任を問われるのは薬を盛った萌葱らであると同時に被害者である凪である。

 とはいえ、今の室内に踏み込むのは刺激が強い。踏み込んだとして、その後凪をどう止めるのかという問題もある。

 ドアが勢いよく開いたのは、その時だった。

 バチバチと放電する零菜が仁王立ちしていた。

「なんで助けてくれなかったの?」

 真紅に染まる瞳で零菜は萌葱と麻夜を見る。

 一番の元凶である萌葱は震え上がって、

「ひぃ、いや、これはちょっとしたミスであって……あれ、凪君は?」

「眷獣で縛ったよ」

 部屋の中を見ると、凪が雷光の槍に絡みつかれて倒れている。変幻自在の槍の黄金は、形状を変化させて縄のようにすることもできるのだ。その気になれば、このまま感電させることもできる。悪辣なことに、この眷獣は零菜の魔力以外のあらゆる異能の力を打ち消してしまう。つまり、巻きつかれたら、脱出は不可能なのだ。

「そんな使い方できんの?」

「萌葱ちゃんにもしてあげようか。ついでに部屋の中に放置してもいいよ」

「か、勘弁してください。本当に死んでしまいます」

 身動きができない状況で部屋の中に入れられたら、それこそ暴走した凪に取って喰われることになる。どの程度凪が相手を選んでいるのか分からないが、それでも萌葱に興味を示していたのだから零菜と同じようになる可能性は高い。

「で、どうするの?」

「どうしようもないから、落ち着くまで待つしかないと思います」

「はあ……」

 零菜はため息をつく。

 今回の一件は萌葱だけが悪いということではない。凪に薬を盛ることを興味本位で認めてしまった零菜にも落ち度はある。零菜も同罪なのだ。ただ、運悪く凪に捕まったのが零菜だったというだけだ。

「えーと、凪君は吸血衝動が出ない代わりにキス魔になったってことでいいのかな?」

「吸血もキスも親愛と関わるから……かな? だとしても、あれはすごかったけど」

 萌葱はちらりと零菜を見る。

 カッと零菜は顔を茹蛸のように染め上げる。

「どんな感じだったか聞いてもいい?」

「ダメに決まってるでしょ、萌葱ちゃん!」

 零菜は叫ぶ。

 正直に言えば訳が分からなかったので、よく覚えていないのだ。激しく求められる心地良さとスリルに身を任せそうになった。

 もしも、抵抗しなかったら今でも貪られていたかもしれないし、完全に屈服していたかもしれない。

 そう思えば、少し惜しいと感じると同時に周囲に当り散らしたくなるほど恥ずかしかった。

 結局、凪が正気を取り戻し落ち着いたのはそれから一時間ほど経ってからだった。幸いなことに暴走していたときのことは覚えておらず、零菜たちはほっと胸を撫で下ろしたのだった。


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