二十年後の半端者   作:山中 一

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第二部 四話

 それは矢というよりも砲弾というにふさわしい凶悪な一撃であった。圧縮空気による砲撃は、地上に真っ直ぐに線を引き大気を捻じ切って凪と麻夜を打ち砕かんと襲い掛かった。

 攻撃性能も防御性能も上位陣には及ばない凪の力では、とても紗葵の攻撃を受け止めることはできない。迎撃などさらに不可能な話である。凪ではどうすることもできない暴威を阻むのは、紗葵と同格の吸血鬼である麻夜の眷獣だ。白銀の鎧と金剛石の楯を持つ防御の眷獣ル・ブランは、輝く楯を全面に押し出し、その巨体すらも壁として紗葵の空気砲を受け止めたのである。

 楯から広がる魔力の膜が、より広範囲に広がり風の炸裂すらも弾き返す。

 空気砲が勢いを失うと見た凪は、未だ暴風の名残を留める膜の外側に身を躍らせる。

「ハッ――――!」

 霊力をこめた警棒を一閃する。

 凪が自慢できる数少ない技能が霊力制御であった。霊媒として最高峰の力を持つ凪の霊力は吸血鬼らに力を与えると同時に魔族にとって致命的な毒を生み出すこともできるのである。

 警棒はこのとき、凪の霊力を吸って擬似的な聖剣となり、白亜に煌めく斬撃を飛ばした。

 擬似聖剣はアルディギア王国に伝わる対魔族用の兵器である。第四真祖が、アルディギア王国を掌中に納めた際に流出した技術の一つであり、霊力を主戦力とする攻魔師たちの武器に転用されている。凪が振るう警棒は、リスクの高い眷獣を使わずに戦えるように、特別に支給されたものである。

 グリップ部分に搭載された霊力の簡易増幅回路が凪の霊力を増幅し、刃に加工する。放たれた光は、物理的な破壊力すらも伴い過たず紗葵の眷獣の前足を斬りつけた。

 発声器官がないのか、苦悶の声を上げることのなかった捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)ではあったが、身体を支える足を斬られたことで体勢を崩すこととなった。重量を四本の足で支え、強大な一撃を放つ据え置き型の砲台にも似た運用を求められるこの眷獣は、本来の用途としては敵の眼前に召喚するものではないのだろう。敵の攻撃範囲外から長距離砲撃を加えるのが正しい運用であり、凪が攻撃できる場所に召喚されたのは、眷獣にとっても不本意だったに違いない。

「紗葵!」

 凪は身体能力を強化して紗葵に向かって走り出す。

 今ならば、人間部門での短距離走世界記録保持者をも上回ることができるだろうと思えるくらいの疾走である。しかし、相手は吸血鬼だ。もともとの身体能力からして人間とは比較にならない。動体視力も含めて、凪よりも紗葵のほうが優れている。

「シュティールアルムブラスト」

 変化は一瞬。一秒とかからず、巨大な眷獣は紗葵が片手で取り扱える程度の大きさのクロスボウへと姿を変えた。

 捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)は、意思を持つ武器であると同時に獣の姿を有する変形眷獣なのだ。

 躊躇いなく、紗葵は引き金を引いた。

 凪は感じるままに姿勢を低くする。

 おぉぉん、と咆哮にも似た風鳴りが凪の耳元を掠めていく。

 魔力によって加速した風の矢は特区警備隊が正規採用しているライフルよりも初速が速い。正面から撃たせては、回避できるはずがない。

 しかし、凪には未来視の眼がある。 

 優れた霊能力を持つ凪ならではの霊眼で、紗葵の狙いを先読みして回避したのだ。

 さらに一歩、凪は踏み出した。

 クロスボウは尚も凪に狙いを定めている。

 これは賭けだな、と頭の片隅で思う。

 捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)の特性は、凪もよく知るところではある。

 打ち出す矢は空気を魔力で成型した物理攻撃。その特性から魔力無効化能力を持つ零菜の槍の黄金(ハスタ・アウルム)へのアンチとして機能しうる。

 また、一度放たれた矢は途中で進路を変えることはない。

 射線から外れれば、当たらないのは銃弾と同じだ。先読みと身体能力、反射神経を駆使して喰らい付くことは不可能ではない。

 二射目で頬が浅く切れて血が滴る。痛みを無視して、次を視る。紗葵までは残り十メートル弱だ。駆け抜けるのに、一秒もいらない。

 だが、三手先を見通す凪の霊眼が映し出したのは、紗葵を取り押さえる己の姿ではなく、紗葵の矢を強かに浴びて地に伏せる自分の姿だ。

「その眼は知ってるよ!」

 声はまったく別のところから聞こえた。

 目の前にいたはずの紗葵が姿を消した。凪は瞠目したものの、すぐに飛び込み前転の要領で地面に身を伏せる。側面から襲い掛かってきた矢を辛うじて躱すことに成功する。

「転移……! 眷獣か!」

 その正体を凪は即座に看破する。

 空間転移能力を持つ眷獣だ。紗葵が凪の家に入り込んだのも、この公園にいつの間にか現れていたのもすべて、この眷獣による転移があったからだ。

 そして凪が紗葵の眷獣の特性を知るように、紗葵もまた凪のことを知っている。

 だから、誘ったのだ。先読みしても避けきれないように、準備を進めていたのである。すでに、クロスボウに矢は装填されている。凪の想定よりも早い――――空気を取り込み、矢の形に成型するというプロセスが必要な紗葵の眷獣には連射ができないというデメリットがあったはずなのに。

「単発式は時代遅れだよね」

 紗葵がしたのは至極簡単なことで、事前に矢を用意しておいたというだけだ。銃と同じだ。弾倉に銃弾を込めておけば、弾が切れるまでは連続して射撃ができる。紗葵の眷獣は進化している。少なくとも、凪の知識にある捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)よりも、厄介な形で。

「く……!」

 三連射。

 狙いは凪の手足で、身動きを封じるつもりだ。避けることはもはや不可能。未来視は明確に凪の敗北を告げてくる。だが、未来視は数ある未来の中で最も可能性の高い事象を予報しているに過ぎない。適切に対処すれば、未来を回避することは可能である。これまで、そうしてきたように。咄嗟の判断が、未来を変える。

 紗葵の眷獣が放った三つの矢を避けることができないのならば、防ぐしかない。

 幸い、未来視でどこを狙っているのかは分かっている。後は自らの血肉に等しい眷獣を顕現させて、これを防ぐ。

 呼び出すのは金剛の楯と脛当。身体に密着する防具として具現する、意思ある武器の一つ。あらゆる攻撃を反射する、凪が有する最強の守りだ。本物の吸血鬼の眷獣の攻撃ですら、鈍き金剛(ドール・アダマス)は弾き返す。絶対無謬の楯と脛当が紗葵の風矢を受け止める。紗葵を傷付けないように、弾き返す場所を感覚で調整する。眷獣の感覚が凪にも明瞭に伝わってきて、コンマ一秒以下の判断を即座に行う。

 しかし、想定外だったのは弾き返すべき矢が消えたことだ。

 紗葵は鈍き金剛に矢が触れるか触れないかといったところで、矢が纏っていた魔力を消したのである。結果、空気を矢の形に押し込めていた外殻が崩れて内側から圧縮された空気が解き放たれる。 

 それはさながら爆弾のようで、耳障りな轟音と共に凪を吹き飛ばした。

 楯と脛当による守りは一部分しか守れない。上半身と脛より下の部分は影響がほとんどないが、膝と太ももの辺りは至近から強烈な打撃を受けてしまった。 

 いくら未来視ができたところで、限界がある。反応できなければそれまでだ。凪にできたのはダメージを受けるであろう箇所を重点的に強化することだけであり、それすらも無傷で凌ぐには強度が足りなかった。

 仰向けに転がる凪は、両足の激痛に歯を食い縛る。

「うぐ……!」

 呻くも起き上がることができない。

 風の爆発は、凪の両膝を完膚なきまでに叩き壊していた。常人ならば、一生使い物にはならないというほどの重傷である。痛みがあるのは神経が一応機能しているからなのだろうが、それも太ももの半ばからであり、膝より下についてはまったく分からない。膝下は血みどろになっていて、まったく動かない。繋がっているのが目視で確認できる程度である。これほどの重傷を凪の再生力と治癒術でどうにかできるだろうか。できないということはないだろうが、完治に一週間は必要だろう。つまりは今の時点では、まったく役に立たない。

「くそ……」

 痛覚を魔術で遮断する。痛みで涙が滲むが、確認が取れたからには痛覚の必要はない。

「うぅ、痛い、痛いなぁ、凪」

 紗葵はふらりと凪に歩み寄ってくる。

 紗葵は額から血を滴らせ、衣服もボロボロになっている。ところどころに血が滲み、足も引き摺るようにしているのに、笑みはずっと張り付いたままだ。

 至近距離で風の爆発を受けたのは、紗葵も同じだったのだ。あくまでも自然現象だったこともあり、紗葵自身にも風の爆発は襲い掛かっていた。むしろ、防御の眷獣を出していた凪に比べれば、紗葵は全身で爆風を受けていたはずであり、身体中に血痕がついているのも、かなりの重傷だったからだろう。

「う、ふふ、こんなになっちゃった、よ。血だらけ。ハハ、痛い痛い。凪に痛くされちゃったぁ」

 けれど、紗葵は吸血鬼だ。人間よりも遙かに強靭で、再生能力と不死性は魔族随一である。再生阻害も何もないただの爆風ならば、すぐに治る程度の傷にしかならない。

 事実、紗葵は引き摺っていたはずの足で、凪に近づいてくる。すでに、普通に歩けるようになっているのだ。分かってはいたことだが、反則だ。生物としての性能の限界値が、まるで違う。

「凪も怪我してる。ふふ、ふふふふふ……血の匂い、血の匂いがする。もっと、もっと痛くしてあげる。もっと、血を流して、もっとあたしに感じさせて」

 ふらふらと頭を揺らしながら、紗葵は鏃を凪に向けて射放った。

 威力を抑えた風の矢は凪の肩に向けて真っ直ぐに進んでくる。両足の自由を失い避けようのない凪では、眷獣によってこれを防ぐほかない。金剛石の楯で全面を覆った凪の前に颯爽と割り込んだのは紅蓮に輝く西洋甲冑だ。炎と熱風を撒き散らし、燃える剣で紗葵の風矢を打ち払う。

「凪君! 無茶しすぎだ!」

 駆け寄ってきた麻夜は凪の隣に膝を突く。

 彼女自身、紗葵がここまでするとは思ってもいなかったのだろう。暴走していても、どこかできちんと加減すると。その考えは正しい。紗葵はきちんと加減して、凪を殺すことのないようにしている。目的のために手段を選ばなくなったというだけで、力を誰彼構わず振り撒くような暴走の仕方ではないのだ。だが、加減の上限が麻夜が思っていたものと違いすぎた。

 まさか、凪の手足を壊してでも自分の目的を達しようとは。

「すまん、麻夜。助かった」

「謝るのは僕のほうだ。紗葵がここまでだって分かってたら、みすみす凪君を危険に晒さなかった」

 跪いた麻夜は、凪の傷を見て顔を歪める。

 赤黒い傷口の中に白い欠片が見える。患部はむき出しで、砕けた骨の欠片が見える。傷は貫通してはいないが、上半分がミンチになっているような状態だった。最早、後ろ側の肉と皮と筋で繋がっているだけだ。

「とりあえず、逃げよう。あの娘の相手をしながら、君の治療はできない」

「麻夜姉さん、何してるの!? 凪を連れて行かないでよ! これからなのに!」

「何がこれからだよ。頭を冷やすんだ、紗葵! こんなことして、ただじゃすまないよ! 紗矢華さんとか古城君にだって叱られるし、法律にだって反している!」

「そんなの知らない! 関係ない関係ない……関係ない! そこどいて……どいてって――――そこを、早くどけェッ!」

 血に餓えた獣のように吼えて紗葵は風矢を放つ。無造作に放たれた矢は燃える鎧の眷獣――――ル・ルージュの身体と剣で受け止められて弾かれる。炸裂したとしても、それは物理現象で魔力の塊である眷獣には何の効果も与えない。

「く……ル・ブルー。紗葵を止めて」

 魔力消費に苦悶の表情を浮かべながら、麻夜は青き鎧を呼び出す。凍結の鎧は、振り下ろしたハルバードで地面を砕く。吹き上がった砂と土と石を押し退けて、地面から氷柱が立ち上がった。

「ッ……!」

 それは氷の壁であり、氷の檻であった。

 紗葵の周囲に広がる凍結の檻が、瞬く間に少女の身体を取り囲む。

「特別製だ。簡単には出られないよ」

 麻夜は二体の眷獣を消して、白い鎧(ル・ブラン)を召喚し、凪を抱えさせる。ル・ルージュやル・ブルーは人を抱えることはできない。燃えているわけでもなく、冷たいわけでもないル・ブランは運搬には最適だ。

「痛ッ……」

「さすがに、この重傷じゃ痛覚遮断も限度があるね。ゴメン、我慢して。場所を移すから」

 麻夜は眷獣に凪を抱えさせたまま移動を始める。

 空は相変わらずの灰色で、紗葵の魔力で胎動している。果たして、どれくらいの範囲がこの眷獣に覆われているのか定かではないが、森の中に入れば身を隠すことはできるだろう。それくらいの広範囲を眷獣が覆っているのだ。

 しかし、これだけの大眷獣を紗葵はどうやって維持しているのか。

 若い吸血鬼は眷獣を一体呼び出すだけでも一苦労なのだ。鍛錬と時間の経過が扱える魔力の質と量を増やしていくとはいえ、百年も生きていない吸血鬼では二体同時使用でも体力を一気に持っていかれるほどなのだ。

 紗葵は、結界眷獣を維持したまま強力な眷獣を消耗している様子もなく平然と使っていた。

 この結界眷獣が紗葵に都合のいい空間を作り出しているというのならば、この場にいる限り紗葵に対して不利になっていく一方だ。とはいえ、脱出できるかどうかはまったく不明。凪を抱えたまま、あの境界を渡るのは難しそうだ。

 紗葵から離れて挽回の機会を探る。それが一番賢明だろう。麻夜は遊歩道を外れて、道なき道に踏み込む。自然公園ではあるが、他国にあるような超大規模な公園ではなく、人工的に整備された公園である。たとえ道を見失っても出られなくなるようなことはない。後はどこに身を隠すのか、ということ問題となるが、上空を覆い隠す灰色の天蓋が紗葵にどのような影響を与えているのかはっきりしないために、絶対に安心という場所はない。仮にあの眷獣が感覚器官をかねているのならば、麻夜と凪がどこにいこうとも紗葵に居場所が筒抜けとなってしまうからだ。

 とはいえ、事実確認が取れない以上は必要以上に警戒していても仕方がない。紗葵から距離を取り、凪を休ませることができればそれでいい。

 多い茂った南国の木々はさながら熱帯雨林のように密集し、土の湿った匂いが鼻をくすぐる。上を見上げても幅の広い葉が幾重にも重なった緑の天蓋が視界の九割を占めている。僅かに見える空は、紗葵の色に染め上げられているが、そうでなくても空の色が分かる程度の視界でしかない。

 だが、それでいい。隠れているという実感は、それだけで安心感をもたらす。油断に繋がってはいけないが、余裕を持つことは大切だ。

 凪を巨木の幹に横たえる。千切れかけた足がぶらぶらと揺れて痛々しい。傷口を見ると吐き気を催してしまうので、麻夜は目を背けて凪の隣に座った。

「痛い?」

 麻夜は尋ねた。

 当たり前のことで、聞く必要性もないことだった。しかし、話の取っ掛かりが掴めず、つい聞いてしまったのだ。

「痛いよ」

 凪は特に痛がるそぶりも見せないで言った。ここまで損傷が激しいと止血も儘ならない。傷口が大きいので、感染症も不安だ。魔術による止血と治癒は、凪の生命活動に支障を来たさないところまでは回復させている。しかし、傷を完全に塞ぐことはできない。専門の施設に運び込み、相応の治療を施すのが一番だ。そのためには、紗葵を止めるか、この眷獣の世界から脱出する必要がある。

 麻夜は念を入れて、自分たちの周りに半径一メートルほどの結界を張った。彼女の母は魔女の資質を持つ。麻夜自身は悪魔と契約しているわけではないが、それでも魔女術を簡略化した魔術を修めている。紗葵が扱う魔術とはまったく異なる系統の魔術だ。紗葵が、魔術に高い適性を持っていても、そう容易く解析されることもないだろう。

「そろそろ、紗葵に何があったのか教えてくれないか?」

 麻夜は凪に尋ねる。

「俺もよく分からない。いつの間にか、紗葵がうちに来ててな。それで、いきなり襲われた。多分、うちに来る前からああいう状態だったんだろうな」

「そうか」

「何か、心当たりがあったりするか?」

「心当たりといってもはっきりとはしないけど、多分この前の眷獣暴走事件があっただろう。多分、あれだ。あのとき、紗葵も現場に居合わせたから、そこで何かされたんだろうね」

「された……やっぱり、誰かが紗葵を操ってんのか」

「そうと考えるしか辻褄が合わないと思うよ。まあ、これは僕の希望的観測でもあるんだけど。そうでなければ、紗葵は自分の意思で眷獣を使ったことになっちゃうからね」 

 街中で、自分の意思で眷獣を召喚するというのは、非常事態でもなければ厳禁である。聖域条約下においても、攻魔師に討伐される可能性があるほどだ。それだけ、文明化された社会では眷獣という個人が持つには大きすぎる力は危険視される。

 紗葵が眷獣で暴れまわれば、たとえ皇族と雖も何かしらの処罰は免れない。ただし、それが誰かの悪意によって操られていただけだとすれば、紗葵は被害者として扱われるだろう。幸いと言っては語弊があるが、まだ、紗葵が攻撃を加えているのは麻夜の護衛の攻魔師も含めて身内だけの少人数だ。

「やっぱりか」

 麻夜はポツリ、と呟いた。

「何が?」

「紗葵の眷獣……この空を覆う眷獣の能力が何かって考えてたんだ。多分、結界で覆った範囲内の魔力を吸ってる。少しずつだけどね」

「魔力の収奪能力?」

「結界なんて言うくらいだから、ただ敵を分断するだけだとは思ってなかった。さっき、僕が張った隠蔽結界からも少しずつ魔力が抜かれてる。うん、魔術を使ってなかったら気付かなかったな」

 常に魔力を消費する魔術を使ったことで、魔力の流れに違和感を覚えた。

 紗葵が眷獣を複数同時に使って疲弊しなかったことと併せて考えると、結界内のすべての魔力源から魔力を吸っていると考えるべきなのだ。おそらくは、木々や虫、鳥や小動物も対象にしている。決して命には影響しない範囲で、魔力を少しずつ掻き集め自分に還元しているのだ。

「森は失敗だったね。ここは魔力源にする命が多すぎる。実質、この結界の維持費は零だ」

「それがマジなら反則だ。眷獣をノーリスクで使うなんて、羨ましすぎる」

 凪は肩を竦める。

 眷獣を使うごとに寿命を削り、身体を削っている凪からすれば羨望すら覚える。

「ねえ、凪君。君、回復系の眷獣とか持ってないの?」

「……あるにはあるんだよね。一応」

「え、あるの?」

 麻夜は意外そうな顔をする。

「ああ。でも、本当に死ぬってときにしか使うなって言われてんだよな。ばあちゃんに」

「そこまで?」

「反動が酷い。他のヤツに比べても、あいつほどキツイ眷獣はないな」

「そう」

 凪の眷獣は使用に多大なデメリットがある。寿命を削ったり、身体のどこかに裂傷を生じたりといった問題があるのだ。それ以上の反動となると、確かによほどの事態でなければ使えない。使ってみれば、などとは口が裂けても言えないのだ。

 ポツポツと雫が落ちてくる。

 見上げれば豊かな緑の合間から雨水が滴ってくる。

「雨だ」

 天気予報では晴れのち曇りのはずだったが、どうしたことか。

 この結界は雨は通すらしい。敵対する意思を持たないからだろうか。それとも、魔力源である植物を枯らさないようにしているのだろうか。

 南国の島国である暁の帝国は、降雨量が多い。特に夏から秋にかけての台風の時期は、大嵐になる。今も、大型の台風が近付いてきていると報じられているくらいだ。この雨も、その影響なのだろうか。雨が止む気配もなく、それどころか徐々に強まっていく。

 雨を遮るものは木々の葉だけで、それすらも今は心もとない。

「まいったね」

「ああ。傘持って来てないな」

 冷たい雨粒が身体を冷やす。むしろ夏の暑さに火照った身体にはちょうどいいかもしれない。

 麻夜は唐突にジャージの上着を脱ぐ。

 ジャージの下は、タンクトップ一枚だ。

「おい、何してんだよ、いきなり」

「雨が傷口に入るでしょ」

 麻夜は凪の膝の上にジャージを被せる。

「いいのか、こんな使い方して」

「別にいいよ。これくらい」

 ジャージが土に汚れるのも気にしない。

 雨はすっかり土砂降りとなっていた。

 滝のような雨は、慣れ親しんだ南国の前である。しかし、こうも長く雨に打たれるのは久しぶりだ。

 森の木々では雨宿りにもならない。滴る水が、身体を濡らし体温を奪っていく。

 ちらりと真横に視線を向けると、麻夜が青時雨に濡れた前髪を弄っている。肌に張り付くタンクトップが、扇情的な身体つきを強調し、黒い下着を浮かび上がらせている。

「ん? 何?」

「いや、何でもない」

 凪は視線を麻夜から外す。

「何、見てた?」

 にやり、と麻夜は笑う。

「何だと思う?」

「胸」

「違うわ」

 違わないが。

 分かってはいたが、麻夜は少年のような雰囲気を持ちながら身体は非常に女性的だ。目のやり場に困って仕方がない。

「あまり見ないで。これでも、恥ずかしいからさ」

「ああ、まあ、そりゃあな」

 何と言えばいいのか言葉に困る。

 麻夜は頬を紅くして恥ずかしさを誤魔化すように、

「紗葵は、どうしてるかな」

「あの氷は」

「もう抜かれてる。今は、僕らを探してるんだろうね」

 麻夜の魔術が何とか誤魔化している。見つかれば、また戦闘になるだろうが、凪がこれでは足手まといにしかならない。敗北は必至だ。

「凪君」

「ん?」

「思ったんだけどさ。凪君の眷獣……僕の魔力でどうにかならないかな?」

「は?」

 何を言っているのか、理解ができなかった。

 確かにアスタルテの眷獣の消費魔力を古城が肩代わりするなど前例がないわけではない。しかし、凪についてはその試みがすでに失敗している。凪の眷獣は、なぜか他者の肩代わりを許さない。

「それは知ってるけど。でも、僕が凪君に魔力を供給すれば話は別じゃないかなって。眷獣に直接魔力を渡すんじゃなくてさ、凪君を経由すればどうかなって」

「ああ、なるほどなぁ。試したことないから、どうかな。第一、どうやって?」

「そうだね……」

 麻夜はしばらく視線を彷徨わせる。どう伝えたものか、悩んでいるという風に。

 やがて、葛藤を振り払うように麻夜は口を開いた。

「手っ取り早いのは、君を僕の血の従者にすることだよ」

「……だけど、それは」

「うん、そう簡単にはいかないよね」

 血の従者についても、以前に失敗している。無論、臓器の移植といった確実に血の従者にする方法を取ったわけではないので、その気になれば凪を血の従者にすることは不可能ではないのだろうが、今の凪はかつてのように命の危機に瀕しているというわけでもない。不用意に血の従者を作り出すのは、非常に問題のある行為である。

「だからさ、同じような方法で、君と魔力のパスを作るってのはどうだろう。血の従者にはしないけど、僕が君に魔力を供給する道を作れれば、どうかなって」

「それは、確かにアリかも知れないけど。どうやってするんだ?」

「そんなの、簡単だ。僕が君の血を吸えばいい。吸血鬼は血を媒介にする魔族なんだからね。僕自身も紗葵に対抗できる」

「そうか。うん、そうだな」 

 それに、麻夜の魔力が供給されれば、膝の怪我も治せる。

「紗葵を止めるためだ。背に腹は代えられないな」

「何か、それ僕に血を吸われるのが嫌だって言ってる感じなんだけど」

「いや、そんなことないぞ」

「そう? じゃあ、遠慮なく、貰うから」

「う……?」

 麻夜は凪の目を手で隠し、首に牙を突き立てた。目隠しは、羞恥心からだろう。

 麻夜にとっては初めての吸血だが、やり方は本能が知っている。牙を突き立てるべき場所も吸い方も重々承知の上で、それでもおっかなびっくり牙を凪の肌の下に埋め込む。滲み出る血の味が口腔内に広がって、麻夜は膨らんでくる多幸感に肌を打つ雨の冷たさも忘れてしまう。

 血を媒介にして、凪との間に魔力の道を作り出す。そして、吸い出した血を自分の力に還元する。

 一通り血を吸った麻夜は唇を離す。凪の首についた噛み痕が、自然と消えていく。治癒能力が上昇している証である。

 凪は麻夜のジャージを取って膝を確認すると、怪我をする前の状態に戻っているのが分かった。驚くべき回復力だ。

「治ってる」

「成功、だね。ふふ、これで君は僕の血の従者だ。二、三十分の間だけだけどね」

 麻夜の魔力が凪の体内から排出されるまでの間だけ、凪は麻夜からの魔力供給を受けられる。長く見積もって、三十分。それが限度だ。

「でも、これならまた戦えそうだ。紗葵を抑えられる気がする」

「そう? じゃあ、紗葵を捜しに行こうか」

 立ち上がった麻夜はジャージの袖を腰の辺りにまきつけて固定する。さすがにずぶぬれになったジャージを羽織る気にはならないらしい。凪としては、きちんと隠すところを隠して欲しいのだが。

「あ」

 麻夜が口を開けて棒立ちになる。

 麻夜が見つめる先に視線を向けると、草木の陰に紗葵が佇んでいた。

「何してんの、麻夜姉さん」

「何って?」

「凪の血、何吸ってんの?」

 ひりひりとした感覚が肌を撫でる。紗葵の魔力が周囲に満ちていくのが分かる。

「あたしが血を吸うって言ったじゃん! なんで、麻夜姉さんが吸ってんの!? 順番が違うじゃん! 割り込みしちゃダメでしょ!」

「いや、まあ、そうなんだけど……」

 紗葵の剣幕と正論に麻夜はどうしたものかと頭を掻く。言っていることは正しいが、その過程を思うと悪いのは明らかに紗葵のほうなのだ。

「この、もう我慢できない。凪も麻夜姉さんも纏めてやっつけてやる! ――――残虐なる合成獣(ブルタール・シメーレ)!」

 現れたのは体長およそ七メートルにもなる巨大な怪物だった。青く燃える身体は多数の動物の寄せ集めでできていて、獅子の頭と虎の胴体、蠍の尾に蝙蝠の翼と名の通りキメラを思わせる姿だった。

「俺が抑える。麻夜は紗葵を」

 凪は前に進み出る。木々を蹴散らして飛び掛ってくる眷獣に、凪もまた眷獣を召喚して応戦する。

獅子の右腕(タイ二ー・アウルム)!!」

 雷光の輝きが緑を焼く。恐るべき魔力の集合体が紗葵の眷獣(ブルタール・シメーレ)を真正面から受け止めた。

 それは、巨大な獅子の右腕だった。雷でできた五本の爪で、キメラを頭から鷲掴みにする。

「な――――!」

 紗葵が驚愕に目を剥いた。

「おおおおおおおおおおお!」

 凪自身、まさかこれほどの変化があるとは思ってもいなかった。しかし、これは好機。麻夜からの魔力でその力を遺憾なく発揮できる雷の眷獣は、すぐさま紗葵の眷獣を押し戻し、ついには地面に叩き伏せるまでになった。

 地響き。次いで、雷撃の渦が周囲に拡散し、炎が上がる。

「紗葵!」

 麻夜が紗葵に向かって飛び掛った。眷獣を失い、消耗したところを狙ったのだ。

残虐なる合成獣(ブルタール・シメーレ)シュティールシュヴェーアト!」

「ッ――――ル・ノワール!」

 紗葵の手に現れたのは青く燃える剣の眷獣。幅三十センチ、刃渡り一メートル五十センチばかりの大剣である。凪が打ち倒したキメラが剣に姿を変えたものだが、紗葵が持つにはあまりにも大きすぎる。そして、大剣が現れた瞬簡に麻夜は漆黒の鎧を着込み、メイスを振るっていた。

 メイスと剣がぶつかり合い、激しい魔力の嵐が吹き荒れる。

 黒と青のぶつかり合いは、どちらに軍配が上がることもなく引き分けに終わる。

 眷獣の衝突が生み出した破壊によって、直径二十メートルばかりの木々が砕かれ、燃えて倒された。さながら決闘場のように広がった空間の中で凪と麻夜は紗葵と睨み合うことになった。

 眷獣を着込む麻夜と眷獣の形態を変化させる紗葵。どちらも、これまでの眷獣の常識では考えられない特殊な能力である。それが、第四真祖の血縁の特性なのだろうか。凪はふと思わずにはいられなかった。

 


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