青い鎧が氷の欠片を散らしながら宙を舞った。
遅れて、強力な魔力の放射と熱風が吹き荒れる。鎧が冷気を発してくれなければ、全身が焼け爛れていたかもしれない。
「く……!」
迎賓館から直線距離にしておよそ百メートル。芝生が敷き詰められた広場の只中で、麻夜は汗と泥に身体を汚しながら、追っ手と相対していた。
魔女の子だからだろうか。麻夜は魔力の変動には聡い。父親と母親達が強力な封印術に囚われたことは肌の感覚で理解できた。すぐにでも助けに行きたかったが、自分一人では何もできない。一緒にいた空菜と共に窓から外に抜け出して特区警備隊の詰め所に向かっている最中にアルディギアの騎士団の襲撃を受けた。
足止めを引き受けてくれた空菜を残し、麻夜は助けを呼ぶためにひた走ったのだが、どこもかしこも戦場だった。公園内に散らばっている特区警備隊の詰め所も、ほぼ同時に敵の攻撃を受けていたのだ。助けを呼ぶどころか、麻夜が助けに入る必要があるほどであった。
まだ未熟な麻夜にとっては、青の騎士ル・ブルーと白の騎士ル・ブランの二体の眷獣を同時に全力で運用するのは、体力的にも精神的にもかなりの負担となる。
麻夜は流れる汗を手の甲で拭い、迫る敵を見据えた。
燃える狼と岩石の蜘蛛、そして半透明な蟷螂。すべて、五メートルほどの大きさであり、間違いなく吸血鬼が使役する眷獣だった。そして、その三体の眷獣の後ろにはアルディギアの騎士甲冑に身を包んだ兵士がいて、銃口を麻夜とその後ろにいる特区警備隊員に向けているのだ。
「麻夜様、後退しましょう! 状況が悪すぎます!」
対魔族用の大楯を構えた隊員の一人が麻夜を庇うように前に立つ。
彼の額からも大量の血が流れている。銃弾が掠めたのか、それとも眷獣との戦いでついた傷なのか。
特区警備隊の装備と錬度ならば、外部の敵ならば如何様にも跳ね返せたことだろう。だが、よりにもよって内部からの裏切りがあるとは思っていなかった。特区警備隊の部隊の配置状況もすべて知られていたために、ほぼすべての部隊が後手に回ることになってしまった。
それに輪をかけてこの眷獣召喚だ。
吸血鬼の姿が見えないのに、眷獣だけがここに存在している。
吼える炎の狼をル・ブルーの氷の壁が押し戻し、狼を押し退けるように迫ってきた岩石蜘蛛をル・ブランの大楯が受け止める。衝撃が再び四方に走り、麻夜は魔力が抜け落ちていく感覚に苦悶の表情を浮かべる。
「後退って言っても、どうやって?」
眼前にいるのは吸血鬼が最強種と呼ばれる由縁たる眷獣であり、銃火器による援護まである。
撤退しようにも、下手に動けば瞬く間に背中から食いつぶされ、撃ち抜かれるのは目に見えている。
麻夜だけならば、この戦場を離れることは不可能ではないかもしれない。特区警備隊の中でも何人かは逃げ切れるだろう。
だが、すでに何人もの怪我人が出てしまっているからには、彼等彼女等を見捨てて行くことはできない。
少なくとも、後方で防衛線が安定するまでは誰かが敵の眷獣を抑える役割を演じなければならない。
眷獣を使っているのが吸血鬼ならば、本体を狙えば済む話ではあった。しかし、本体が見えないとなると眷獣とまともに戦う必要が出てくる。厄介と言えば、それこそが厄介だった。
三体の眷獣を麻夜は二体の眷獣で押し留めている。それは麻夜の才覚がそれほど優秀だったということではあるが、長期戦が期待できる戦い方ではない。にも関わらず、守勢に回らなければならないというのは、麻夜の中に確実に焦りを蓄積させていた。
狼の眷獣が吐き出した炎の中に、蟷螂の眷獣が麻痺毒を乗せていたのだと気づいた時には膝が笑っていた。
「か、ふ……はっ」
膝に力が入らず、すとんと尻餅をついてしまった。
「ぐ、卑怯な」
麻夜を銃弾から庇いながら、警備隊員もまた膝を突く。背後では数名が苦悶の表情を浮かべてもがいている。
「や、ばい。クソ」
麻夜は身体の痺れが原因で魔力が上手く操れなくなっていることを自覚してしまった。そうなれば、眷獣の実体化にも悪影響が出る。ル・ブルーもル・ブランも敵の眷獣を支えるだけの力が残っていない。氷は炎に溶かされ、白亜の盾は蟷螂の鎌に溶断される。
「う、ぅ……!」
眷獣が受けたダメージが麻夜にフィードバックされる。ガリガリと精神力を削られる感覚は、激しい吐き気や倦怠感となって麻夜を襲う。
その隙を狼が見逃すはずもなく、燃え盛る巨大な顎を開いて麻夜を飲み込まんと迫る。当然ながら、回避する力はもう残っていない。
「せめて頭くらいは守ってください」
聞きなれた声が聞こえた直後、麻夜は言われたとおりに頭を抱えて伏せた。
爆弾が爆発するような巨大な音がして、熱と魔力が弾けた。
麻夜と狼の間に割って入った白い巨人が、その豪腕で狼の首根っこを握り締めていた。
「空菜、助かったよ」
「こちらこそ、遅れて申し訳ありません」
巨人の内部に潜む空菜の声はどこか反響して聞こえてくる。こんな時なのにいつもと変わらない口調に麻夜は小さく笑みを浮かべた。
「眷獣の相手はわたしがします」
「大丈夫かい?」
「わたしの眷獣は、こういった手合いには滅法強いので」
そう言うや握りしめた巨人の拳が狼の眷獣の喉を突き破った。何の抵抗も許さず、次の瞬間には狼の首と胴体は捻じ切られて、実体を保つことができずにあえなく消滅した。
魔力を吸収する巨人
敵対するアルディギアの騎士たちもこれは瞠目せざるを得なかったようだ。必死に銃撃してくるが、その銃弾すらも強固な眷獣の身体を突破することはできない。
蟷螂の眷獣を腕の一振りで薙ぎ払い、蜘蛛の眷獣を地面に叩き付けた。どちらも勝敗は一撃で決まった。眷獣同士の殴り合いに於いて、今の空菜と渡り合えるのは魔力無効化能力を有する零菜くらいのものだろう。
「空菜様、助かりました」
背後の警備隊員が言う。蟷螂が倒れたことで毒が消えたのだろう。立ち上がれるまでに回復していた。
「このまま前進するのは不味いですか」
「負傷者多数に加えて、相手の目的や勢力、装備、そして皇帝陛下を初めとする多くの各国要人の状況が不透明です。迂闊に敵地に飛び込めば、どのような結末を招くか分かりません」
現状が不透明なのは、どこも同じだろう。恐らく敵と繋がっていない限りは、今何がどうなっているのか説明することはできまい。
公園全体が戦場となっているが、残存する兵力がどれくらいで敵勢力がどれくらいいて、事態を好転させるにはどの程度の戦力をどこに投入すればいいのか。そういった基本的な情報がまったく手元にない中での進軍は、あまりにも無謀と言うほかない。最悪なことに、こちらは国家を維持する核となる第四真祖とのその親族を丸ごと敵に奪われた状態なのだ。
「では、少しばかり公園を荒らします。その隙に撤退を」
空菜は地面に眷獣の腕を突き立てた。そのまま、地面を掘り起こすように腕を跳ね上げると、捲れ上がったアスファルトや土の塊などが騎士の頭上に降り注ぐ。
至極単純な物理攻撃ではあるが、人間が相手ならばこれだけでも十分すぎるほどの脅威にはなるのだ。
さらに
「め、目茶苦茶するな」
麻夜が呆れているのか非難しているのか、そういった感情が混ざり合った声で呟いた。
敵とはいえ人間。命には変わりない。戦場で軽々しく命のやり取りができるのは、相応の経験を積み重ね、感性を鈍らせた生粋の兵士くらいだ。あるいは空菜のように、初めから軍用として作り出された感情を知らないホムンクルスなどだろう。まっとうな近代国家の価値観で育った麻夜にとっては、目の前で人命が損なわれるのは何にしても現実感がなく、当然ながら気分の良いものではなかった。
「何はともあれ撤退を。どこに逃げても戦場には変わりないでしょうが」
麻夜と特区警備隊員達にそう告げた空菜は、一仕事を終えたとばかりに吐息を漏らした。
■
凪はクロエと一緒に特区警備隊の設備見学をしている最中に、事件を知った。
第四真祖とその妃達が纏めて凍結封印を受けるなど、ありえないと断言できるくらいに非現実的だったので、何かの間違いだろうと思っていた。
しかし、飛び交う情報はどれも凪の期待を打ち砕くものばかりであり、状況が刻一刻と悪化しているということだけがはっきりと理解できた。
クロエは焦燥に駆られた表情で丸イスに腰掛けている。背後に佇む護衛のアレックスもまた、落ち着かない様子だ。両親が敵の手に落ちたというだけではない。クロエにとっては、父の国とはいえここは異国である。
凪はクロエの様子を気にかけつつ、この場を預かる先輩に話しかけた。
「吉岡さん、どうなっているんですか?」
「さあな。ホントか嘘か分からないが、悪い報せばかりが飛び込んでくる。はっきりしていることは迎賓館が敵の手に落ちていることとその近くにあったうちの陣地は軒並みやられちまったってことだな」
「そんな……」
「ここもさっさと引き上げないと全滅だ。ここにあるのは監視装置ばっかだしな。十人ちょっとでこの場を維持するなんざ土台無理な話だ。他んとこと合流して立て直さないといけない」
残念ながら、吉岡が指揮する部隊は戦闘を目的に配置されたわけではない。
不審者の侵入を逸早く察知して、警報を発するための部隊であり装備そのものも戦争に対応できるような大仰なものではない。
一般的な獣人ならば一人か二人までならば対応できるだろう。しかし、眷獣やアルディギア製の兵器まで投入されているとなれば話は変わってくる。
「相手はアルディギア解放戦線ってところでしょうか」
「個人的にはその可能性もアリだろうとは思ってるけどな。証拠がない。ただのクーデターかもしれん。どっちにしても俺達からすればテロ以外の何物でもない」
憎憎しげに吉岡信二は呟く。
暁の帝国は新興国家ではあるが若い世代にとっては疑いの余地なく祖国である。愛国心教育をしているというわけではないにしても、そこにあるのが当たり前で育ってきた国を根幹から揺るがそうとしている敵に対して敵意を隠しきれない様子だ。それは、もちろん凪も同じである。曲りなりにも暁の血を引いている。親族に手を出されて憤らないなどということはありえない。
凪が比較的冷静なのは、ただ単に状況を飲み込みきれていないからでしかないのだろう。
「分かっているのは、やらかしたのはアルディギアの一部の奴等だってことだ」
それは、とりわけクロエにとってはショッキングな内容だった。まさか、と思っただろう。信じたくないと目を瞑り、唇を噛み締める。
「クロエ様」
アレックスがクロエの肩に手を置いた。
「すまない、アレックス」
悄然としたクロエに信二が近付いていく。
「クロエ姫、申し訳ありませんがすぐにここを発たなければなりません。車が通れる道はすべて戦場となっています。草木を掻き分けながら走ることになりますが、よろしいですか?」
「わたしは構いません。……こんなことになってしまって、申し訳ない」
「謝罪の必要はありません。悪いのはあっちであって、クロエ姫ではありません」
淡々とした口調で信二はクロエに言う。
その他十数人の隊員が各々武器を持って、周囲に警戒の視線を走らせている。
クロエが立ち上がったとき、テントの中に警報が鳴り響く。
「吉岡さん!」
その警報の意味を知る誰かが叫んだ。時間的にも、それが限界だった。迎賓館屋上から放たれたロケット弾がテントを強襲したからだ。
爆風がテントを燃やし、衝撃に皆が動転した。けれど、被害は軽微。咄嗟に未来を先読みした凪が金剛の盾でロケット弾を爆風ごと弾き返したからだ。
「兄さん!」
クロエが叫ぶ。
「大丈夫!」
ロケット弾を受け止めたのは初めてだったが、こんな弾き方をするのかと凪は意外な発見をしてしまった。やはり銃弾などと違ってロケット弾の場合は爆発しないまま跳ね返すことはできないらしい。その代わり、爆風を反射する形で防御することになる。爆炎は相手までは届かないが、防げるのを確認できただけでも収穫だろうか。
「助かったぞ、凪!」
「とにかく、ここは不味いです。見晴らしが良すぎる」
「ああ。おい、さっさと撤退だ。とりあえず、後ろの再生林まで走れ」
最低限の機材と武器を持って、一斉に撤退を開始する。
木々の間に身を隠せば、遠距離からの火力支援は当面は防げるだろう。適当に撃ちまくってくればその限りではないにせよ、正確に狙われるということはなくなる。
走りながら、吉岡が叫ぶ。
「凪、次来るぞ! 何とかしろ!」
「無茶振りですよ、それ!」
背後から迫るのは五発の光。それが、正確にこちらに向かって飛んで来るのだ。赤外線なのか魔力や霊力なのか。ロケット弾ではなく誘導弾のようだ。
「頼む!」
凪は魔力を搾り出し、
「雷ってのは便利だな!」
「そんな簡単なもんじゃないですからね!」
加減しているとはいえ、自前の魔力で眷獣を使うのは激しい疲労を凪にもたらす。金剛の盾を召喚した右腕は出血で赤く染まっているだろう。
「ふぉおおおおおおおおおおッ」
何ものかの咆哮が響き、空から強力な魔力が落ちてくる。
「散開!」
信二が叫ぶ。
落下してきた何かから逃れるように、一同はバラバラに散った。地響きを立てて着地したのは、身の丈三メートル余りの人型の眷獣だった。筋骨隆々で、全身が筋肉で作られているのではないかというくらいであり、右手には武器として身長よりも大きな棒を持っていた。それもまた丸太のように太い。
「昔話に出てくる鬼って感じだな」
「眷獣ですけどね」
警戒しながら距離を取る凪達。鬼の眷獣は、ぐるりと周囲を見渡してある一点――――クロエを見つけると喉を裂かんばかりに叫び声を上げて飛び掛った。
「いかん!」
信二が咄嗟に宙にいる鬼に手榴弾を投げつけた。空中で炸裂した手榴弾からは封入された霊力が撒き散らされて鬼の身体を激しく揺さぶる。
「おおおおおおおおおッ」
バランスを崩した鬼が地上に落ちる。
そこに、特区警備隊員の一斉射撃が加えられた。魔族に対して絶大な効力を発揮する魔弾であり、眷獣に対しても魔力の結合を弱らせることで効果を発揮する。
だが、この鬼はそう簡単には膝を突かない。
金棒の一振りは途方もない突風を生み出して、ゴミでも払うかのように特区警備隊の抵抗を跳ね返す。
さらに、鬼はクロエとアレックスに対しても金棒を振るった。鉄槌もかくやとばかりの豪風がクロエとアレックスの二人に叩きつけられる。
クロエは目に見えない魔力の塊に対して、背負っていた竹刀袋を突き立てる。
「ぬぅ、あああああああああ!」
竹刀袋が内側から溢れるエネルギーに耐えかねて破れていく。
現れたのは一振りの槍だった。飾り気のない棒の先に刃を取り付けただけの無骨な槍だが、その穂先は白銀の輝きを振り撒いて、鬼の魔力を散らしていくではないか。
振り上げた槍はそのまま莫大な霊力の斬撃となって鬼の身体を打ち据える。
よろけた鬼にクロエが猛然と襲い掛かる。
炎の吐息を漏らし、鬼がクロエをひき潰そうと金棒を振り回した。一振り目を伏せて躱し、振り下ろされる金棒を飛び退いて避けた。その直後、戻すことなく真横を薙ぎ払うように振り回された金棒がクロエの腹部を直撃し、骨と筋肉が拉げる音を響かせて小さな身体が宙を舞う。
「クロエッ」
凪が悲鳴を上げたときには勝敗は決していた。跳ね飛ばされたクロエが溶けるように消え、いつの間にか懐に潜りこんでいた白銀の少女の槍が鬼の喉笛を貫いていたのだ。
「ミスティルテイン!」
ぎゅるん、と鬼の身体が歪んだ。
白銀の穂先が光り輝き、その柄に至るまでが複雑な文様に彩られる。鬼を構成していた魔力が一瞬にして消滅し、上半身がこの世からかき消された。
まるで雪霞狼を食らった眷獣のようだった。
「クロエ、大丈夫か?」
駆け寄った凪にクロエは微笑んだ。
「何とか」
「でも、さっき殴り飛ばされたのは」
「あれはアレックスの幻術だ。ニンジャの変わり身というヤツだな」
「変わり身ってそういう技だったか」
どこかしらを勘違いしているようでもあるが、本人がそれでいいのならいいだろう。
クロエの槍は、眷獣が相手でも十分に通用する兵器らしい。さすがはアルディギアの技術力だ。魔族と戦うことに慣れているだけのことはある。
「ほっとしている場合じゃありません。すぐに行きますよ。怪我人はいるか? いないな? 走るぞ!」
信二が銃を背負いなおして言った。
幸いなことに、眷獣の襲撃を受けても負傷者らしい負傷者はいなかった。
これならば、撤退にさしたる支障はない。
凪が異様な魔力を察したのは、そのときだった。数百メートル離れた場所から禍々しい魔力の塊が膨れ上がる感覚がする。
「兄さん……何これ。気持ち悪い」
クロエが顔を顰めている。彼女も、この異質極まりない魔力に悪寒を感じているようだ。
「吉岡さん、何かおかしい」
「ああ、みたいだな」
信二にすら感じられるほどの周囲の空気が変わっている。
その正体は、すぐに知れた。
森の向こうから立ち上がったのは、あまりにも巨大なシルエット。百メートルに届こうかという漆黒の怪物だったのだ。
「何だ、ありゃ」
さすがの信二も呆然とそれを見上げている。
「クロエ、知ってるか?」
「知らない。あんなものはうちの兵器にも存在しないはずだ。あれは――――まるで、そう、魔女と契約した悪魔だ」
悪魔と呼ばれた怪物はその形を整えていく。顔に当たる部分は鳥のように細く。腕は地面に届くくらいに長くなし、手の先端から肘の辺りまで鋭い突起で一繋がりになっている。その形状は、中世騎士が愛用したランスに酷似している。
悪魔が頤を持ち上げ、二つに裂けた顔――――おそらくは口の部分から猛烈な鳴き声を放った。
君の名は。に浮気して遅くなってしまった。