二十年後の半端者   作:山中 一

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第四部 九話

 不意打ちによる指揮系統の混乱と、それに乗じた機動兵器の投入により、戦況はアルディギア解放戦線に優位な形で進んでいる。

 とはいえ、それは一時的なものに過ぎないことは指揮官であるアーロンもよく分かっている。ここはいわば敵国の中枢であり、逃げ場はない。第四真祖とその妃、娘達や各国要人を人質として確保しているのは、暁の帝国側の抵抗を可能な限り弱めるためである。

 反乱を起こしたのは、この日のために仲間に引き込んでいた百二十七人の精鋭たち。それ以外のアルディギア要撃騎士は薬物や不意打ちその他諸々の手を使って無力化している。相手方と違って敵と味方は戦いが始まる前から分かっていた。部隊の配置も武器の配給もすべて任されていた立場にあるアーロンにとって、要撃騎士達を無力化することほど容易いものはない。特区警備隊もよくやっているようだが、身内からの裏切りに即座に対処できるほど戦力が整ってはいないと見える。

「無理からぬ話か」

 もしも、自分が特区警備隊と同じ目にあえば、業腹ではあるが混乱はしよう。自分一人で立ち回ることはできるが、部隊全体の混乱を鎮めて敵に当たるというのは困難を極めるだろう。

 モニターに映し出されているのは凍結したホールの映像だ。パーティ会場は凍結封印直前の姿のまま、時間が停止している。その中で動けるのは、凍結封印の術式に対して対抗呪紋を施した特殊スーツを着用した者だけだ。それでも活動限界時間はほんの三分ばかり。それを越えると、マネキンのように固まった他の人々と同じく停止してしまう。

 要人の一部をカプセルに入れて別の封印をかけ、ホールの外に持ち出すことで、各々移送を行うのが第二フェーズ。

 この作戦はアルディギア解放戦線だけでは成し遂げられなかった。様々な裏工作に参加した多種多様な勢力への手土産が必要になる。例えば、妃のうち何人かは元々は日本人で獅子王機関に属していた。日本政府は彼女達の身柄を欲しており、この騒ぎに乗じて封印状態の彼女達を引き取ろうと潜水艦を派遣している手はずになっている。魔女どもも裏切り者を回収するなどと言っていたし、第四真祖の血縁は軒並み貴重な研究対象として注目されている。

 そう、アルディギア解放戦線の背後には複数の反魔族国家がついているのだ。彼等からの支援を今後も受け続けるために「我が身を犠牲にして」第四真祖を討ち、その血縁者を売り飛ばすのが目的だった。

 端から生きて帰るつもりはない。

 アルディギア解放戦線が、アルディギア王国を再興するための踏み台となることこそが目的であり、それが叶うのならば命など惜しくはない。

 難関は二つある。

 一つはすでにクリアした。この国の最高戦力を一瞬にして凍結するという無理難題はなんとか乗り越えた。後は、それぞれの組織に手土産を届けるだけだが、それがまた難しい。

「申し上げます!」

 指揮所を構えた迎賓館の一室に、飛び込んできた部下は大層慌てているようだ。

「どうした、騒々しい」

「申し訳ありません。園内の人工林より巨大悪魔出現を確認しましたので、報告に上がりました」

「ほう、そうか」

 小さく笑みを浮かべたアーロンは部下を一瞥してから下がるように伝えた。もちろん、最大限の警戒をするようにと下命した上でだ。

「ベルゼビュートを出したということは、吸血姫を取り込めたということか」

 あの魔女二人組の悪魔は魔族を吸収し、その能力を我が物とする特殊な性質を持つ。吸血鬼を好んで捕食するのは、彼等が持つ無限の魔力を活用することと眷獣の強力さによるものだろう。

 これで、吸血姫一人分の戦力を敵から削り取れたことになる。

 若い吸血鬼など、恐れる必要はないと声高らかに吹聴するもののやはり眷獣というのは危険な力である。可能な限り削っておきたいところであり、同時に利用できるのならば利用したい。それができるだけの力をアルディギアは持っている。

 と、その時だった。

 迎賓館を揺るがす大きな振動が襲ってきたのだ。

「何……」

 何事かと思えば、室内に設置された複数のモニターがノイズだらけになってしまった。デジタル時計は点滅し、その度に異なる数字を表示する。無線も携帯もすべて使い物にならなくなった。

「何だ、これは? 何が起こっている?」

 異常事態にもアーロンは硬直しなかった。計器の異常の原因を突き止める必要があり、修理するには部下に声をかけなければならない。しかし、無線機も携帯も使えないとなれば直接声をかけに行くか使い魔を飛ばすしかないだろう。そこまで考えた時、部屋のドアが何者かに破られた。

「ッ……!」

 ヒップホルスターから素早く拳銃を引き抜き、侵入者に銃口を向ける。

「何?」

 さすがに驚かざるを得なかった。

 現れたのは黄金の鎧を身にまとうアルディギアの騎士だった。それもアーロンの部下であり、それが三人だ。

「何のつもりだ?」

「違います。違うんです! 隊長。俺は、そんなつもりじゃない。こんなことするつもりじゃないんです!」

「逃げてください、隊長! どうか、離れて! 身体が勝手に、鎧が!」

 飛び込んできた三人の騎士は各々長剣や槍を装備している。時代遅れと罵る者もいるだろうが、アルディギアが誇る魔導技術の粋を結集した鎧は生半可な銃撃ではびくともしない。弾切れで使えなくなる銃火器よりも霊力を込めれば絶大な兵器に様変わりする剣や槍のほうが魔術戦では重宝することもあるのが実状だった。

 魔族を討ち果たすために砥がれた刃が、今、自分に向けられている。

 生身のアーロンでは対魔族用強化外骨格(パワードスーツ)を装備した騎士を相手にするには分が悪い。

「隊長!」

 騎士が悲鳴を上げる。

 彼は言葉とは裏腹に長剣を振り上げてアーロンに斬りかかっていた。体内より組み上げられた霊力が増幅され、刀身を淡く輝かせる。

 分厚い鉄板すらも滑らかに斬り捨てる鋭い聖剣をアーロンは飛び退いて掻い潜る。

「破ッ」

 振り回される剣を避けたアーロンはするりと騎士の懐に入り込み、掌底を放った。同時に霊力が砲弾のように射出され、騎士の身体を跳ね飛ばして壁にめり込ませた。

「後二人か……」

「隊長……」

 上司の強さに驚きながらも、それでも身体を操られた騎士の顔には悲哀の色が濃い。キリキリと音を立てながら、壁に叩きつけられた騎士が起き上がった。

「うぐ、ごふ」

 咳き込みながらも彼は生きている。強化外骨格がアーロンの掌底の威力を大きく減衰したからだ。

「やはり、そう簡単にはいかないか」

 何者かに身体を操られているというよりは、身に纏った鎧が勝手に動いているという状態だろう。 

 彼等を解放するには鎧を破壊するしかないが、素手と拳銃しか装備がない以上は不可能だ。

『ハロー、ハロー、そこにおりますわね、破魔の騎士さん。わたしです。クシカですわ』

 ザリザリと耳障りなノイズを混ぜ込み、より一層耳障りな甘ったるい声が無線機から聞こえてきた。

『うふふ、とっても素敵なサプライズパーティになりましたわね。どうですか? 自分の部下に嬲り殺しにされる気分は? お返事してくれてもいいのですよ。そちらの声もわたしの下に届いておりますので』

「どういうつもりだ、と聞くのは無意味か。我等と手を切って暁の帝国と結んだか?」

『まさか。そんなつまらないことはしませんわ。ただ、あなた方と手を組む必要性がなくなったというだけ』

「……我々の手を借りず、敵軍と事を構えると? 思い上がったな、魔女め」

 部下が繰り出す槍と剣に斬り付けられながら、アーロンは致命傷を避け続けている。歴戦の技が、強化されただけの技術のない部下の攻撃から身を守らせているのだ。

『あなた方の手を借りる必要はありませんが、あなた方は戦力として勘定していますのよ。ほら、騎士さんだってこの通り貴重な戦力。ああ、でも、お命ばかりはいらないかもしれませんわね。先ほどから喚いてばかりで五月蝿いったら』

 そんな言葉が無線機から聞こえてきた直後、部下の一人が長剣で自らの首を掻き切った。

「な……!」

 その場の誰もが、言葉を失った。自分の首を斬り、大量の血を噴き出した彼自身も信じられないという表情を浮かべ、そしてそのまま生命活動を停止した。

 しかし、彼は死んでも尚鎧が勝手に肉体を操り、アーロンを攻撃してくる。

「貴様ッ」

『うふふふ! そう、そう。そうやって踊っていればいいの。どこまで持つか、高みの見物をさせてもらいますわ。わたしたちは素晴らしい力を手に入れた。今のわたしたちは世界を潰せる、支配できる。あなた方の兵器も人もとりあえずわたしが管理してあげますわ。アルディギアも、そうですね。まるっといただいてしまいましょうか。この眷獣――――電子の悪魔(グレムリン)の力でね』

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 白銀の刃が振るわれると、赤黒い眷獣の姿が解れて消える。

「なるほど、これが雪霞狼の力」

 機械的なフォルムの短槍をぐるりと回して、彼女は油断なく周囲を見回した。世界で唯一、魔力を完全に無効化する魔族殺しの槍は、かつて獅子王機関が実用化に成功し、暁の帝国に簒奪された日本の秘奥兵器であり、彼女の任務は不当に持ち出された雪霞狼の回収が第一である。

 彼女――――かつて剣巫候補生として活動していた(みやび)という女性は、大した感慨もなく木陰に姿を隠した。

 状況が変わったということは肌で感じている。

 遠目に見るアルディギア騎士の様子がおかしい。特区警備隊の面々も困惑している。どうも、武器が何者かに乗っ取られたらしいのだ。

 おそらくは、あの魔女姉妹の差し金だろう。

 見上げんばかりの巨大な悪魔。その身体から不可思議な魔力が放射されているようだ。雅は雪霞狼の能力で悪魔の干渉を遮断しているが、雅だけの特権というべきだろう。他の者達は尽くあの悪魔の能力に当てられている。

「誰を食ったんでしょうかね。暁零菜に、あのような能力はなかったはずですが」

 となれば、逃げ延びた姫の誰かか或いは特区警備隊に属してこの公園にいた吸血鬼か。もしかしたら吸血鬼以外の魔族なのかもしれない。

 雅には関係ないことで、白銀の突撃槍と共にこの国を脱することが何よりも重要だ。姿を見せるたびに能力を変化させる節操のない悪魔の情報など、収集しても何にもならないだろう。

「わたしは相手をするつもりはないというのに」

 伏せたところを銃撃された。

 魔女の大半は信用ならない。欲望を満たすために悪魔に魂を売った者どもだ。初めから味方だとは思っていないが、このように戦う必要のない相手にまで喧嘩を売ってくるとは、長期的な視点を持たない、刹那的な快楽主義者の何と面倒くさいことだろうか。

 現れたのは人ではなく、小型の自動兵器である。四足歩行の蜘蛛のような外観で、背丈は一メートルばかりしかない。背中に積んだ砲塔には一挺の機関砲があり、その弾丸一発だけで人間の上半身を粉々に吹き飛ばせるだろう。

 雅は厄介なと、舌打ちをする。

 彼女が持つ雪霞狼は、魔力に対しては絶大な効力を発揮するが物理攻撃に対してはただの槍でしかなく銃撃を防ぐことはできない。

 しかし、剣巫としての彼女の経験と霊眼が攻略手段を教えてくれる。

 悪魔の力に汚染された兵器――――ならば、刃を当てれば無力化できるだろう。雅にとっても兵器にとっても一撃で勝敗が決まる。それだけ分かれば十分だった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 双子の魔女の姉クシカは、巨大な悪魔の肩に座って光り輝く夜の街並を俯瞰している。遠目からも十分に見えるだろう。このベルゼビュートの圧倒的な威容は。

 足元に蠢く特区警備隊やアルディギアの退魔騎士どもなどもはや相手にならない。歩けば潰れる虫でしかないのだ。

 ちょっとやそっとの銃撃ではビクともしないし、最新鋭の兵器は軒並みベルゼビュートの支配下に収まっている。もはや人間に勝ち目はなく、魔族であろうと敵ではない。

 羽化したベルゼビュートは、六枚のトンボのような羽を広げ、二対の巨大な刃となった腕を掲げる。

「うん?」

 クシカは首をかしげて、悪魔の横顔を見上げた。銀色を帯びた機械の鳥のような顔には感情らしいものはないが、霊的に繋がっているクシカにはベルゼビュートが困惑しているのが分かる。

 悪魔が方々に伸ばした見えざる感応の触手が阻まれているのだ。悪魔を中心に半径一キロあまりを覆う半球状の結界が、ベルゼビュートの能力を内側に封じ込めている。

「これは」

 ベルゼビュートの周囲に展開した数十からなる魔法陣の包囲網に、クシカは目を細めた。魔法陣からは魔術で生み出された鎖が伸びて忽ちにして悪魔の巨体を絡め取ってしまう。巨体が災いしたか。四方八方から伸びる鎖から逃れることなどできなかった。

「南宮那月ですか」

「貴様とは初対面のはずだがな」

 憎憎しげに名前を呼ぶと、十代前半にも見える小さな少女が現れる。クシカの先達にして、恐怖の代名詞ともされる最強最悪の魔女。空隙の魔女と渾名される暁の帝国の最高戦力の一人だ。

 現れた那月は、宙に浮かぶ魔法陣を足場にして浮かんでいる。空間制御に特化した彼女ならではの反則技だ。

「わたしたちであなたの名を知らない者はいませんでしょう。空隙の魔女」

「そうか、ならばこれから先、貴様達が向かう場所も知っているだろうな。そのデカブツを仕舞えとは言わんさ」

 ベルゼビュートを拘束した太い鎖とは異なる、対人用の鎖がクシカに伸ばされた。拘束されれば一巻の終わり。魔女としての実力は那月には及ばないと自覚している。だが、それは平時での話である。

「わたしはどこにも行きませんわ。ええ、強いて言えばあなたが彼の世とやらに行くのではなくて?」

 クシカの念を受けて、ベルゼビュートが吼えた。強靭な腕が膨れ上がり、力任せに那月の拘束を砕いてしまったのだ。

「やはり、無理をしていらっしゃいますね、空隙の魔女。ベルゼビュートちゃんの力を押さえ込むこの結界、相当の負担と見ますが?」

 那月の正体は理解している。ここで彼女を倒したところで、那月そのものを殺すことにはならないだろう。だが、意識をこちらに表出している器を壊せばそれなりのダメージを与えることにはなるし、復活にも時間がかかるはずだ。結界の中での戦いは決してベルゼビュートとクシカの不利には働かない。那月を倒すのならば、今が好機だ。

 悪魔の巨大な腕を、那月は転移で回避する。乱れに乱れた大気が、那月とクシカの髪を掻き揚げる。

「ところで、貴様は二人一組で行動する魔女だったはずだが、片割れはどこに行った? まさか、戦争も序盤で脱落したわけではないだろう」

「ああ、ユリカのことですか。お気づきの通り、中にいます。萌葱ちゃんと一緒にね」

 伸びてくる鎖を悪魔の腕で弾き返し、クシカは笑みを深めた。

「あの可愛いお姫様のこと、よほど気に入ったみたいですわ。どんな風に壊そうか、ずっと考えていたみたいですからね」

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 どろりとした粘性を感じさせる空気の不快感。腐肉の臭い。何者かの呻き声。そうした劣悪な環境の中で萌葱は周囲に目を凝らした。自分がどこにいるのかはさっぱり分からない。息をするのも嫌だと言いたくなるような酷い臭いのする場所としか分からない。周囲は真っ暗で何も見えない。魔術を使おうとしても、魔力が上手く扱えないために闇夜を透視して様子を探ることもできないという状況だ。

 自分の状態も芳しいとは言えない。手足が固定されており、身動きができないのだ。手枷と足枷が何か分からないが、生暖かいのがますます気持ち悪い。巨大な芋虫のような化物に飲み込まれたかと思えば、この場所に拘束されていた。とすれば、ここはあの化物の腹の中で、自分の手足はその肉の中に埋め込まれていると考えるのが一番しっくりくるのだが、信じたくはなかった。純粋に気持ち悪いとしか言いようがない。そのため、叫ぶこともせず、ほとんどしゃべることもなく呼吸すら最小限に抑えていた。

 閉じ込められてからどれだけの時間が経過したのか、萌葱には分からなかった。完全な暗闇の中では時間の感覚すらも曖昧だ。だから、ぼんやりとした明かりでもとても久しぶりに見たような気になってしまう。それが敵の用意した光であっても、明かりというのは心を落ち着ける作用がある。

「酷い顔。ずいぶんと不機嫌そうですのね、萌葱ちゃん」

 水のりのような声だと思った。やって来たゴスロリの魔女は、見た目だけならば非常に愛らしい少女だ。外見は萌葱と同じくらいだろうが、実年齢は上だろう。もともと人間だったとしても、魔女になった時点で人間としての寿命には縛られない。契約した悪魔や本人の実力にもよるだろうが、外見年齢を取り繕うくらいは皆やっていることだ。

 左右に宙に浮かぶ火の玉を引き連れて、魔女は妖艶な笑みを浮かべている。

「自己紹介から始めましょうか。わたしはユリカ。このベルゼビュートちゃんの契約者であり、あなたの飼い主になる者よ」

 ふてぶてしい魔女の発言を萌葱は黙殺する。

 ただ彼女の様子を観察する。今の時点で萌葱が言葉にできることなど何もないからだ。しかし、ユリカのほうは萌葱の態度が気に入らなかったと見える。目に見えて不快そうに顔を歪ませたのだ。

「ふふ、ずいぶんと余裕なのねお姫様。ここがどこだか、分かっていて?」

「どこって、あの悪魔の腹の中とかそんなとこでしょ。まさか、飲み込まれた後でこんなとこに捕まるなんて思ってなかったけど」

「察しがイイのは、素晴らしいことですわ。でも、できればもっと愚鈍であって欲しかったところです。こういうことをあえて説明して差し上げるのも、愉しみの一つでしょう」

 ユリカは萌葱のすぐ傍までやってくる。彼女が持ち込んだ明かりのおかげで、萌葱は自分が置かれている状況が目視で確認できた。

 そこは赤黒い肉壁だった。四方のすべてが肉の壁で閉ざされた部屋で、萌葱は四肢の膝と肘までが壁の中に埋もれていた。

 がっちりと肉の中で固定されていて、身動きは取れそうもない。

「どういうつもりよ。こんなことして」

「どういうつもりとは? あなたを捕まえたこと? それとも、あなたのご両親を封印したこと? 後者についてはわたしたちには関わりのない話なので詳しいことは存じません。前者については、まあ成り行き上ですわ」

「成り行き」

「ええ、だって本当は零菜ちゃんを狙っていたんですもの。でも、あなたのほうが美味しそうだったから」

「美味しそう、ですって」

 ぞくりと萌葱は背筋を震わせた。ここが化物の体内であることも相俟って、一段と強い恐怖を覚える。

 その萌葱を見て、目の前の魔女は顔を紅くして身体を捩った。

「うふふ、そうそう。そうよぉ、いいわ。その顔、実にイイ。ぞくぞくする。怖いわよね。そうよねえ」

「何を言ってるのよ。別に、あんたなんて怖くないわ」

「ええ、知っているわよ。わたしじゃあない。でもベルゼビュートちゃんは怖いでしょう。具体的には、これから何をされるのか分からないことが怖い。隠しても無駄。わたしはあなたの感情を読み取ることができるし、記憶を覗くこともできる」

「な……嘘、そんなことができるわけ……」

「できますわ。だって、あなた。もう半分はベルゼビュートちゃんと溶け合っているんだもの」

「え……」

 萌葱は絶句してユリカを見た。

 ユリカはますます笑みを濃くして萌葱の頬を撫でた。

「ベルゼビュートちゃんは魔族を取り込み、その力を我が物とする。ほら、周りをよく見てごらんなさい。あなたの前任者たちの姿が見えるでしょう」

 火に照らされた肉壁がもぞりと動いた。

 まるで火の熱から逃れるように。そして、赤黒い肉壁の表面に時折目のようなものが浮かび上がっては消える。人の顔のようなものが見えるときもあった。

 ――――この部屋は生きている。

 生かされているのだ。ほかでもない、この悪魔と魔女に。

「一番最初の贄は、半世紀以上も前でしょうね。わたしがこの子を受け継ぐ前から、生きた吸血鬼の肉壁は作られていたのですから。まあ、これをベルゼビュートちゃんに接続したのはわたしとクシカなのですけれどね。ほうら、萌葱ちゃん、融合が進んでいるわよ」

 ずぶり、と萌葱の身体が僅かに壁の中に沈む。腕と足の先の感覚がないことに萌葱は初めて気が付いた。

「ひ、ひあ、や、やだ。いや、離して! 離してよ!」

「くふふ、ダ・メ。萌葱ちゃんはこの肉壁の中で永遠に生き続ける。魔力と力をこの子に与え続ける装置になるの。それまでの間、たっぷり絶望して養分を蓄えてね」

 そう言って、ユリカは萌葱の唇を奪う。

「ん!? んんーーーーーー!!」

 萌葱は目を白黒させ、ユリカのキスから逃れようともがくが完全に四肢の動きを奪われた状態では逃げようがない。ユリカの為すがままにされるしかない。

 長いキスを終えてユリカが唇を離した。

「げほ、げほ、なに、すんのよ」

「ファーストキスの相手が可愛い可愛い弟ちゃんじゃなくてごめんなさいね、萌葱ちゃん」

 あくまでも萌葱を玩ぶのを楽しむかのように、ユリカは笑っている。

「何で……弟なんて」

「わたしはあなたの記憶も感情も読み取れると申しましたわよ? 正確には従弟なんですわねぇ。一つ年下で、一緒にいると血を吸いたくなってしまうのでしょう。ええ、姉が弟に抱く感情としては少々情熱的に過ぎますわねぇ」

「ッ……そんなんじゃないわよ。勝手に人の気持ちを語るなッ」

 萌葱は食って掛かるように怒鳴った。しかし、身動きのできない萌葱では何を言ったところで相手の脅威にはならないだろう。危険な魔獣でさえ、鎖に繋ぎ、檻に閉じ込めてしまえば人に危害を加えることはできなくなる。まして、もともと戦闘能力のない萌葱では、五体満足であったとしても目の前の魔女に傷一つ付けられない。

 クスクス笑う女に対して強い敵意を抱く。その敵意すら、ベルゼビュートを介して筒抜けになってしまっているのだろう。

 すると、ユリカは虚空から氷の刃を作り出した。血液を凍らせたかのような赤黒い氷の杭を萌葱が埋め込まれている肉壁に突き刺した。

「あ、ああああああああああああッ!!」

 肉壁が痛みに嘆く。その痛みが萌葱にも届いた。

「い、痛い、ん、うあああ! やめ、ああッ! 痛い、痛いッ!!」

 ユリカは舌なめずりをしながら、氷の杭をぐりぐりと肉壁に押し込み、左右に捻る。

「どこ? どこが痛いの萌葱ちゃん。答えて、ねえ」

 肉壁はこれまで犠牲になった吸血鬼の血肉でできている。最悪なことに、不死の呪いも生きているようで、ユリカがつけた傷は瞬く間に修復されていく。傷付けられても傷付けられても再生してしまうのだ。萌葱はユリカが刃物を振るうたびに新しい傷を付けられる。嗜虐的な笑みを顔に貼り付けた魔女は、痛みに悶え涙する少女になんら手心を加えない。

「い、ぐぅ……あ、あぅ……ぐ」

 何度斬りつけられたのか。萌葱は自分の身体ではない場所が痛めつけられているのに、その痛みを直接感じなければならない。血はでないのに、傷付けられているという実感は明確にあった。

「あ、あう、あ……はあ、あ……」

 ぜえぜえと荒く息を吐く萌葱は、ぐったりとしてユリカを見上げることもできないでいた。声も出せないとばかりに、ただ喘ぐことしかできない。

 そんな萌葱の頬にユリカは肉壁から引き抜いた杭を押し当てる。

「ひう……」

 萌葱は恐怖に顔を引きつらせる。また、痛いことをされるのではないかという恐怖感が、萌葱の中で湧き上がる。

「可愛い可愛い萌葱ちゃん。こんなに痛いのは初めてだったわよねぇ」

 ねっとりとしたユリカの声が毒を帯びて萌葱の中に入ってくるかのようだった。

「あなたの弟ちゃんは、今までに何度もこんな痛みと戦ってきたのよね。眷獣を召喚するたびに、誰かのために戦うたびに……事あるごとに怪我をする困った弟ちゃん。そんな彼にあなたはどんなことを思ったかしら……ふふ、言い当てて見せましょうか」

 ぞくり、とした。

 背筋を蛇が這い上がるかのような忌避の感情に震える。

「あ……」

「怪我をした弟ちゃんに『もっと怪我をして欲しい』なんてことを思っていたのではなくて?」

 息が詰まりそうになる。ユリカの言葉はナイフで切り刻まれる痛みを上回る衝撃を萌葱に与えた。それは荒唐無稽な話などではなく、今まで表に出したことのない本心であったがために、萌葱にとってこの上ない弱所を貫くものとなったのだ。

「いろんな吸血鬼を食べてきたけれど、弟に対してこんなに歪んだ思いを抱く子は初めてでしてよ」

「違う」

「違わないでしょう」

「違うッ。そんなこと思ってない。そんな酷いこと、凪君に思わない。凪君はずっと頑張ってきたんだもの。それを見てきたから、だから、わたしは」

「応援してきた、知ってますわ。それはもう真剣に。他の妹ちゃんたちと同じくらい。いいえ、もっと大事に思ってきた。それは親愛であり友愛であり恋慕であり、そして姉弟愛でもありましたわね。『姉として』弟ちゃんを素直に心配できるのは、あなたにとっては重要なことですものね」

「ッ――――」

「だって、弟ちゃんだけはあなたよりも弱かった。いつも優秀すぎる妹ちゃん達に劣等感を抱いていたあなたにとって、唯一『必要とされていること』を実感できる相手だった」

「違う」

 冷や汗が出る。呼吸が大きく乱れて、過呼吸になりそうだ。

「弟ちゃんの成長に、実は焦っていたでしょう。置いていかれたら、いよいよ後がなくなるものね」

「違う」

 胸が痛い。見えないナイフで心臓を一突きにされたみたい。

「ああ、そういえば眷獣を使って怪我をするなんて未熟さにほっとしていましたわね。まだ自分が上だと思えたのでしょう。その怪我を姉らしく心配してあげるたびに自分の存在意義を確認できた……」

「違うって言ってるでしょ! それ以上、余計なことをしゃべるな、この――――あ、ぐ!?」

 萌葱は急に全身に怖気が走った。それは、眩暈の前兆のような不快感だ。

「やっと回ってきましたわね。先ほどのベーゼの際にあなたに飲ませた魔女の秘薬」

「薬……?」

「ええ、あなたにはもっと絶望して、墜ちてもらわないといけませんもの。ベルゼビュートちゃんのためにね。ええ、もちろん、あなたの弟ちゃんもここに連れてきて差し上げますわ。実用化したプレイヤーなんて、わたしも見るのは初めてですもの」

「なに、言ってるのよ……わけの分からない、ことを……」

 まるで酒に酔っているかのようだ。うつらうつらとして呂律が回らなくなる。そんな萌葱の耳元でユリカは囁く。

「プレイヤー……吸血鬼に血を吸われるためだけに作られた、憐れな生餌のことですわ」

 それを萌葱が聞くことができたかどうかは定かではない。

 萌葱は再び夢の中に落ちたのだ。

 彼女が抱える闇の中へ。これまでの人生の中で、萌葱が抱いたあらゆる負の感情を直視する。そういう夢の世界へ彼女は落ちていくのである。

 

 


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