二十年後の半端者   作:山中 一

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第四部 十話

 那月が事態を把握した時、すでに古城もその妻達も封印された後だった。何をしているのだ、あの馬鹿共は、と教え子の不甲斐なさに苛立ちつつ、その安否の確認作業を急がせた。那月は暁の帝国における攻魔官の筆頭の一人である。こうした事態に率先して行動すべき立場にあり、指揮官として現場を纏める必要性もあった。

 那月が出るということはそれだけ余裕がないということでもある。

 とりわけ、あの悪魔――――ベルゼビュートが顔を出した時、いよいよ危機感に顔を歪めることになった。

「萌葱を取り込んだか。まずいことになった」

 あまり知られていないがクシカとユリカ姉妹が契約しているベルゼビュートは、魔族を取り込みその力を我が物として振るうことのできる悪魔である。咄嗟に公園そのものを結界で閉じたのは、今回あの悪魔が取り込んだのが吸血姫の萌葱であるということを即座に看破したからであった。

 伊達に生まれた時から見守ってきていない。

 那月は萌葱の眷獣の能力を知っているし、ベルゼビュートが彼女の力を完全に掌握するよりも早く公園の内側と外側を切り離すことに成功した。

 とはいえ、これは姑息な手段に過ぎず、長持ちするわけではない上に大雑把に範囲を区切ったために那月の魔力を余計に注ぎ込んでしまっている。おかげで、格下のはずの魔女を相手に五分五分の戦いに持ち込まれてしまっているというのは屈辱以外のなにものでもなかった。

 もっとも、那月の戦闘能力が落ち込んでいるのは何も結界のせいだけではないのだが。

 

 

 

 ■

 

 

 

 凪は気がつくと石造りの城館の中にいた。

 飾り気のない石壁の部屋で、壁には鉄格子が嵌められている。さながら牢獄だ。

「うわ、監獄結界かよ」

 凪はげんなりとして呟いた。

 過去に何度かここにぶち込まれたことがあったので、見るだけで分かってしまう。この停滞した重苦しい空気感は、記憶にある監獄結界そのものとまったく同質であった。

「うわ、とは何だ、馬鹿弟子」

「教官、いたんですね」

 いつの間にか凪の隣に現れた教官、もとい南宮那月が不快そうに睨みつけてくる。ここは那月の居城である。「うわ」などと言われればさすがに不愉快にもなるのか。

「てか、こんなことしてる場合じゃないんですけど! クロエは!? みんなは!? アルディギア解放戦線の連中は……あたっ」

 取り乱した凪の鳩尾を那月が閉じた扇の先端で突いたのだ。

「一々騒ぐな。状況は分かっている」

「教師が学生に手を上げていいんすか」

「わたしはお前が通う学校の教員ではないからな」

 理不尽な答えに凪は絶句する。

 もちろん冗談でもなんでもなく、本気でそう言っているのだから始末に追えない。本当に教師かと疑いたくなってしまうのも無理はないだろう。

「来い」

 単的な命令。 

 有無を言わせぬ絶対的な強制力がある。

 攻魔官の訓練を始めた頃から叩き込まれた弟子根性が問答無用で命令を実行させる。

 ともすれば小学生にしか見えない外見のゴスロリ教師にへこへこするしかないとは何とも情けない、と傍から見れば思うかもしれないが、およそ暁の帝国内で彼女とまともに戦えるのは第四真祖くらいのものであろう。

 監獄結界は那月の「本来」の居住地であると同時に多数の魔導犯罪者を収容する牢獄であり、脱出不可能の地獄である。出口も入口もないここは那月の夢が形作る異世界であり、物理的にはどこにも繋がっていない固有空間であった。

 建物の構造も思ったように変化させられるらしいことを前に言っていた。今回、凪が囚われた部屋を出ると二十メートルくらいの石造りの薄暗い廊下があって、那月に先導されて突き当たりの部屋に入った。

 そこは、比較的明るい部屋だった。印象も軽くなっている。石造りという点は変わらないが、生活空間といった感じだ。テーブルが部屋の中央に置かれ、シャンデリアが明るく室内を照らしている。

 そして、テーブルには零菜、空菜、麻夜、クロエが座っていて、壁際にアスタルテが立っている。

「凪君!」

 零菜がパッと顔を上げて嬉しそうに笑った。

「零菜。それにみんなも無事だった……のか」

 零菜の姿を見て、凪は固まってしまった。

 どうしたことなのか。零菜はふりふりの白黒服で着飾っていたのだ。ドレスとは相容れない、質素素朴ながら明瞭な主張をしてくる典型的なメイド服。

 なるほど、零菜のような愛らしい少女がこれを着れば破壊力は自ずと激増するだろう。状況が状況でなければ、凪もやばかった。

「こ、この服は見ないで! 全然、そうじゃないから! 那月ちゃんが、これしかないって言うから!」

 顔を紅くして、零菜は早口で捲くし立てた。

「ああ、うん、分かった」

 恐らくだが、零菜の空間転移の眷獣を使ったのだろう。あれは、紗葵や那月の転移と異なり自分の身体しか転移させることができないらしい。よって、一度使うと裸になってしまうというここぞという時にしか使えないあらゆる意味で諸刃の剣なのだという。凪は話に聞くだけで、一度も見たことはないのだが。

 それでも、凪はほっと胸を撫で下ろした。

 唐突なまでに始まった事件に翻弄されていたので、まったく情報が入っていない。分かっていることのほうがずっと少ない中で、零菜たちの安否が分かったのは朗報だった。

「あれ、紗葵とか紅葉姉さんとか萌葱姉さんとか……どうしたんだよ」

 ざっと見回して人が足りないのはすぐに分かった。

 尋ねられた零菜は言葉に詰まり、目を伏せた。

 その意味を真正面から受け止められず、零菜を問い詰めるために凪は一歩踏み出した。

「待て」

 その凪の腕を那月が掴んだ。

「那月ちゃん」

「ここに連れて来れたのはお前で最後だ。他の連中は……死んではいない」

「死んでないって……」

「ここにいるのは、わたしの手で救出できる範囲で転移させた暁古城の血族だ。お前と一緒にいた他の連中は、皆後方に下がったから心配するな」

 那月が睨み付けるように見上げてくる。

「まず、お前はどこまで今回の件を把握している? 話はそこからだ」

 どこまで把握していると問われれば、まったく把握していないと答えるほかない。強いて言えば、アルディギア解放戦線の手のものがアルディギア騎士団に紛れ込んでいたというくらいだろう。

 だから、まずは那月が言うように互いの情報を出し合い状況の整理に努める必要があった。

 その上で、状況が逼迫していることが如実に明らかになってくるといよいよ室内の空気は悪化してしまう。

 那月はただ淡々と今分かっている状況を説明した。

 両親が封印されたと聞いて、零菜たちは顔を真っ青にしてしまう。凪も同じ気持ちだった。凪達にとって、第四真祖は絶対的な存在だったのだ。世界最強と謳われる強大な魔力と眷獣を使役する父とその血の従者達は、十人に満たない人数で一国を相手にして勝利することも可能とまで言われるほどの戦闘能力を有するこの国の最後の砦でもあった。それが、こんなにもあっさり覆されてしまうとは思いもよらなかったし、那月が嘘をついている可能性のほうが高いとすら思えてしまう。

 アルディギア解放戦線が実際に活動しているところを目撃し、その襲撃を受けていなければ、那月の言葉であっても笑い飛ばしていただろう。

 それだけ、今、この国で起きていることは非現実的なのだ。

「古城さんたちが封印されたなんて……」

 だが、信じるよりほかにない。

 あれだけの被害を目の当たりにして、ありもしない希望に縋ることなどできはしないのだから。

 空間ごと封印してしまう大雑把な魔術は、しかし、強大な吸血鬼に対処するには、確かに有効な手ではある。むしろ、それ以外に真っ当な対処法など存在しないといったほうが正しいか。

 ともあれ、今回の件は暁の帝国側にもアルディギア王国側にも大きな油断があったことは否めない。

 「加害者」側であると同時に「被害者」側でもあるクロエなど、どう発言したものかと顔を青くして震えているほどだ。

「別にクロエが悪いわけじゃないぞ」

 凪はクロエに声をかけた。

「そ、それでもアルディギアの兵にテロリストが入っていたのだ……わ、わたしは……」

 ぎゅっと拳を握り締めるクロエは、唇を戦慄かせていた。 

 クロエが悪いわけではない。

 それどころか、テロリストはクロエを優先的に排除しようとしているような動きを見せていた。ロケット弾を撃ち込んだり、眷獣をけしかけたりしたのはクロエがいると分かっていてやったということで間違いない。つまり、彼等からすればクロエは自国の姫ではないという扱いだ。

 そんなクロエに那月は容赦のない言葉を投げかける。

「そうだな、クロエ。あのテロリストにとって、お前は真っ先に始末したい要注意人物なのは間違いない。アルディギア解放戦線は、以前からそういう主張をしてきただろう。まさか、知らないわけではないだろうな」

「そ、れは……」

 クロエは悲しげに俯いた。

 クロエの敵は外国ではなく国内にこそ多い。アルディギア王国が抱える重要な問題の一つが「人種問題」であり、クロエは姫であると同時に差別的な感情を向けられる被差別対象でもあった。

 そもそもアルディギア王国は人間の国であり、長らく隣接する第一真祖の帝国と戦い続けてきた人類の盾であり剣でもある退魔国家だった。北欧の小国ながら軍事力と霊能力に秀でたアルディギア王国は、人間社会から大きな期待と畏敬の念を向けられていたのだ。

 それが、今の女王の代で大きく方針転換をした。

 緩やかに人類と魔族が融和していたこの時代にあっても、王家が吸血鬼に血を取り入れるなど前代未聞。

 そんな時代ではないと分かってはいても、感情的に受け入れられない者も少なからずいたのだ。

 経済的にも軍事的にも暁の帝国と結び付く利は確かに大きい。数字の面にも明確に現れていて、外交としては大成功と言える結果が出ている。

 世界的にも聖域条約に批准している国々からは友好的に受け入れられていたし、アルディギア王国ほどの国がそこまで魔族を受け入れるのならばと、後に続く魔族との共存の礎となったのも事実である。

 しかし、それでも受け入れられないという者はいる。

 結果がどうこうではないのだ。

 魔族と戦ってきたアルディギア王国の体制そのものへ忠誠を誓う愛国者たちが立ち上がり、反政府勢力となり、それらは漠然と今に不満を抱く若者を抱きこんで過激なテロ活動を展開し始めたのである。

 そうした過程があるために、吸血鬼が自国の姫であるというのは目の上の瘤でしかない。この世に生まれたその時から、常にクロエは狙われる立場にあった。

 自分の国の民から――――それがごく一部であったとしても――――殺意に等しい悪意を投げかけられるということがどれだけ辛いことなのか。生憎と凪には見当もつかないことであった。

 クロエが姫ではなく騎士として武芸と魔術にのめり込んでいるのも、もともとは戦闘能力がなければ身を守れないという危機感から始めたことだった。

「那月ちゃん、萌葱ちゃんは?」

 零菜がイスから腰を浮かせて、那月に尋ねた。

「那月ちゃん。古城君とママ達が封印されたのは分かったよ……紗葵とか紅葉ちゃんも同じってことも……でも萌葱ちゃんは? 萌葱ちゃん、封印されたわけじゃないよね? 一緒に、途中までいたんだから」

 零菜は途中から焦ったように早口になった。

「零菜と萌葱姉さんは、一緒だったのか?」

 凪が尋ねると零菜は頷いた。

「うん。でも、途中で銃を持った騎士に追いつかれて……それで、わたしに転移して逃げろって……わたしじゃないと古城君、助けられないからって」

 涙声になった零菜の瞳が涙で濡れる。

 萌葱を置いて、自分だけ助かったという罪の意識に苛まれているのだ。

「萌葱は、暁古城を救い出すために、魔力無効化能力が必須だと分かっていたのだろう。あれの眷獣なら、敵の計画くらい丸見えだろうからな」

 那月はそう言いながら指を鳴らした。

 すると、テーブルの真ん中に水晶玉を出現した。それも浮いている。夢の世界だからといって、ここまで何でもありだと笑えてくる。

 宙に浮く水晶玉が発光し、その光が虚空に立体映像を形成する。

 映し出されたのは、鳥のような頭を持つ巨大な怪物だった。

「何、これ。魔獣?」

 麻夜の問いに答えられる者はいなかった。

 凪はこれを目視で確認していたが、正体までは分かっていない。ただ、おぞましい何かとして言いようがなかった。

 それが、何と那月と戦っているのである。

「那月ちゃん? 何で?」

「騒ぐな。ただの分身だ」

 ただの分身だと言われても実感できるものではない。こちらにいる那月も、あちらで戦っている那月もどちらも本物ではあるのだろう。空想と現実。夢を操る空隙の魔女にとって、もはや肉体の現実性などあってないようなものなのかもしれない。

 分身と言うからには、本気の那月ほどには強くはないのだろうがそれでも那月は那月。魔族殺しとまで呼ばれた怪物的な強さの那月を相手に渡り合っているあの怪物は何なのか。

「あれは悪魔だ。名前はベルゼビュート。双子の魔女が契約するデカ物だ」

「悪魔……あれが?」

 麻夜が信じられないとばかりに目を見開いた。

 悪魔は吸血鬼の眷獣に匹敵する強力な霊的存在だ。

 悪魔は人間と特殊な契約を結び、契約者に様々な恩恵を与える。その代わり、契約を違えればその時点で「罰則」が与えられることになる。

 悪魔と契約した女性を特に魔女と呼び、那月や麻夜の母親がこれに該当する。

 魔女の娘なので、麻夜は他の姉妹よりもずっと悪魔には詳しいつもりだった。だが、あれほどの巨体の悪魔など聞いたことがない。

「あれが悪魔だなんて、信じられない。あんな巨体、維持するだけでも人間の魔力じゃ追いつかないはずですよ」

 悪魔は霊的存在であり、眷獣と同じく魔力で活動している。吸血鬼ならばまだしも、魔女は人間の範疇から出てはいないのだ。莫大な魔力を持つ魔女であっても、悪魔を全力で暴れさせるだけの素養を持っている者は多くない。

 能力の低い魔女では悪魔の力を引き出しきれず、瞬く間に悪魔のほうが契約者の魔力を食い散らかしてしまうからだ。

 麻夜が問うのは極めて根本的な問題だった。

 百メートル近い巨大な悪魔を維持し、さらに那月と激しい戦闘ができるほどの燃料をどこから持ってきているのだろうかということだった。

「ベルゼビュートは極めて特殊な悪魔だ。おそらく、人工的に改造が施されているはずだが、あれは契約者の魔力を食わない」

「食わない? 魔力を消費していないということですか?」

「契約者の魔力はな。ヤツの契約者、クシカとユリカの双子は自分達の魔力ではベルゼビュートを養えないと知って、燃料タンクを外部に求めたのだ。何か分かるか?」

 すっと、那月は凪達を見回す。

 まるで教師が生徒の挙手を促すかのように。

 しかし、誰も答えない。口を開かず、微動だにしない。

「はあ……お前たちと同じだよ。ベルゼビュートは吸血鬼を取り込み、肥大化する。お前たち吸血鬼の魔力は無尽蔵だからな」

「な……じゃあ、あの悪魔は」

「吸血鬼を取り込んでいるな。あの巨体はそういうことだろう」

 全員が言葉を失った。

 吸血鬼は最強の魔族とまで称される強力な種族だ。当然、天敵らしい天敵は存在しない。それが、一方的に捕食される光景など想像したくはない。もちろん、凪以外は吸血鬼だ。自分たちがあの怪物に取り込まれてしまうのではないかと思うと悪寒が走る。

「さて、ここからが本題だ」

 那月は相変わらずの傲岸な表情で凪たちを見回す。

「今回、あれは誰を取り込み成長したのか。それが重要だろう」

 ベルゼビュートが吸血鬼を取り込むことで肥大化する悪魔ならば、当然ながら被害にあった吸血鬼がいるはずだ。 

 テロによる封印を運よく逃れ、しかし、この場に辿り着けなかった吸血鬼。

「あ、まさか……」

 零菜は喉が干上がったような声を出す。

 脳裏に浮かんだ答えを必死に否定できる要素を探す。

 しかし、その前に那月が頷いてしまった。

「あれの中に暁萌葱がいる。それは間違いない」

 

 

 それはあまりにも残酷な宣告だった。

 誰もが言葉を失った。

 古城が封印されたというのも衝撃的ではあったが、それは同時に封印を解けば救出できるということを示していた。封印とは殺傷することができないからこそ選ばれる選択肢だ。つまり、命は保証されている。ショッキングではあったが、最悪ではなかった。

 しかし、萌葱が悪魔に取り込まれたという現実は、最悪以外のないものでもない。

「も、萌葱ちゃんが、あの悪魔に? でも、だって、さっきまで……那月ちゃん。そんな嘘、笑えないよ?」

 零菜が笑顔を凍りつかせて、那月に言った。

「そうだぞ、教官。何だってそんな、こんな時に冗談キツイって」

 那月の言葉を受け入れられないのは凪も同じだった。

 零菜に続いて、凪は那月に言う。

 冗談だと、いつもの冷淡な態度で言い放って欲しかった。

 だが、那月は腕を組んだままため息をつく。

「ベルゼビュートの能力は、取り込んだ吸血鬼の眷獣を自分のものとして使うことだ。それが本来の能力かあるいは契約した魔女に弄られたからなのかは不明だが、吸血鬼の無限の魔力を利用するから、魔女を始末しても召喚が途切れん。あれをどうにかするには、中から取り込まれた吸血鬼を助け出すか、もしくは吸血鬼ごと始末するかしかない」

 零菜と凪の言葉を、那月は無視して話を進めた。

 それは二人の問いに答える必要がないという言外の圧力となって、零菜と凪を黙らせた。

「あれが顕現してから、公園内の電子機器に異常が発生した。あらゆる銃器や計器類がまともに動かせなくなったのだ」

「それが、萌葱姉さんと関係あるってことですね。那月先生」

 麻夜の問いに那月は頷く。

「お前たちは萌葱の眷獣のことは知っているだろう?」

「まあ、それなりには。でも、姉さんは、あまり人前で眷獣を使いたがらなかったから」

 麻夜が口篭りながら言った。

 凪と零菜は視線を交わし合った。実は那月が言うほど、萌葱の能力を知っていないのだ。萌葱の力が電気に関することであり、眷獣の大きさが抱えられる程度の小型であることくらいのものだ。攻撃性は非常に低い、後方支援型の眷獣であると聞いている。

 凪達が知っていることなど萌葱の眷獣が、電子機器に干渉できるというくらいが関の山であろう。

「あれはな、確かに直接的な攻撃能力は低い。コンクリートの壁を壊すこともできないくらいで精々が焦げ目を入れるくらいだろう。だがな、今の時代にあって萌葱の眷獣は決して無視できない。知られれば、暗殺や誘拐の被害にあう可能性が極めて高くなり、敵の手に墜ちればその時点ですべてが終わる。そういうレベルの危険な眷獣だ。萌葱の口が重いのも、当然だろう。電子の悪魔(グレムリン)は、まさしく世界を支配する災厄の眷獣と言える」

 淡々と説明する那月に答える者はいない。

 萌葱が自分の眷獣について語ろうとしないのは、何か訳があるのだろうとは思っていた。誰もが、そこに踏み込んだことは尋ねない。吸血鬼の間に敷かれた暗黙のルールである。眷獣は個々人のパーソナリティに関わる部分であり、重要な個人情報の一つである。軽々とその能力を他者に明かすことはできない。萌葱の場合は、周囲に危険視されることもあり、具体的な説明は姉妹にすらしていなかったのだ。

「萌葱姉さんの眷獣をあの悪魔は使えるようになった、ということですか?」

「そうだ」

「それで、例えばどんな危険があるんですか?」

「……あれの能力は電子機器への干渉。それを極限まで突き詰めたものだ。電気の眷獣ではなく、電気信号の眷獣だと思えばいい。電気が通る場所ならどこにでも現れて、あらゆるプログラムを自在に構築することができるというわけだ。究極のハッキングツール。あらゆる文明が萌葱の支配下になると言えば、危険性の高さは分かるだろう? あれがその気になれば、世界中の電子機器を操れる。家電製品から兵器まで何でもありだ。当然、科学技術の塊であるこの国は真っ先に陥落するだろうし、その他の国々も同じだ。夜の帝国(ドミニオン)すら生活水準の根幹を科学に頼っている今の時代に、萌葱の力は致命的過ぎる毒になる」

 電子機器に干渉する能力の凄まじさ。何よりも驚愕するのはその規模だ。まさか、世界を覆い尽くすほどの干渉力があるとは思いもよらなかった。

 だが、考えてみれば当然のことではあるのだ。

 萌葱はただ座っているだけでいい。プログラムは眷獣が構築し、ネット回線などを使って狙った獲物に向けて飛ばせばいいのだ。座して世界を支配する女王の眷獣こそが、萌葱の眷獣の正体。

 直接的な戦闘能力を持たない、という点で弱いと判断されがちだったが、強弱などという戦術的な眷獣ではなく、それ以前の戦略面で相手を圧倒する眷獣だったということだ。

 これは確かに危険すぎる。 

 下手をすれば、聖域条約の前提すら崩しかねない眷獣だ。

 人類が、科学技術の発展で魔族と対等に渡り合えるようになったからこそ聖域条約が結ばれたのだ。両者の力関係はつりあっていなければならない。第四真祖の出現と科学の王国である暁の帝国の建国から歪みが生じていた聖域条約に、萌葱の眷獣はさらなる歪を生みかねない。

 萌葱の眷獣は敵対者を一国丸ごと中世レベルの生活水準にまで叩き落とす。それだけでなく、相手が保有する兵器の大半を支配できる。戦争をする前から結果が見えてしまう。そんな危険な眷獣が存在すると知られたら、確かに萌葱の身は危険に曝されるだろう。

「政治的にも萌葱はこの国の安全保障上とてつもなく重要な存在だ。心情的にも救出を最優先にすべきだとは思う。が、それが困難だというのが現状だ。何せ、兵器が投入できん。アルディギアの反乱分子どももこちらの特区警備隊も最新鋭の武器の支配権を乗っ取られている。わたしが結界を張って影響を公園内に抑えているが、そちらに能力の大部分を割いているせいであの魔女ども拘束するだけの力が出せん」

 忌々しいとばかりに那月は鼻を鳴らした。

 それで「表」の那月が苦戦しているのだ。

 本来ならば、一秒とかからず拘束できるほどの戦力差があるはずなのに、ベルゼビュートと戦っている那月の分身はやや劣勢に立たされているようにも見える。

「那月先生。萌葱さんの能力を那月先生の結界が抑えているということは、公園の外にある電子機器は影響を受けていないということですか?」

 手を挙げた空菜の問いに那月は頷く。

「今のところはな」

「どれくらい持ちますか?」

「あの規模の結界を維持するとなると、三時間程度が限度だろう。戦闘を止めればさらに伸ばせるがな」

 つまり、三時間以内に萌葱を救出し、ベルゼビュートを討ち果たさなければ暁の帝国はあの悪魔の支配下になってしまうということだ。いや、暁の帝国だけでない。これは、もはや世界の危機といっても過言ではないだろう。

「解決すべき問題は三つ。一つ、迎賓館に囚われている第四真祖らの救出。二つ、ベルゼビュートに取り込まれた萌葱の救出およびベルゼビュートと魔女の駆除。三つ、雪霞狼の捜索だ」

「え? 雪霞狼?」

 零菜が反応したのは、ここまで名前が挙がっていなかった彼女の母の武神具のことだった。

「雪霞狼が、どうしたの?」

「強奪された。少なくともお前の母の手元にはないだろう。あれば、凍結封印などされなかったはずだからな」

「あ……」

 確かにその通りだった。

 魔力を無効化する雪霞狼は、所持しているだけでもおよそすべての魔術的干渉を打ち消してしまう。雪菜が雪霞狼を持っていれば、その時点で凍結封印が無効化されていただろう。

「でも、じゃあ、どうして……」

「今日は各国の要人が集まるパーティだったのだぞ。いつものように武器を持ち歩けるわけがないだろう。部下に持たせていたはずだが、どこかで誰かと入れ替わったかあるいは部下が内通者だったか……監視カメラの映像があれば、すぐに分かるのだが、今はベルゼビュートの支配下だ。犯人は不明。だが、公園からは出ていない。雪霞狼を持ったままわたしの結界をすり抜けることは不可能だからな」

 雪霞狼が結界に触れれば、その部分が打ち消されるので分かる。

 那月は魔力無効化の影響が最小限になるように結界の術式を非常に複雑なものにしており、それも彼女への負担を強いる結果になっているようだ。

「さて、萌葱を救出するにしても暁古城達を救出するにしても、お前たちに出てもらわなければならん。特区警備隊の武装は旧式の電子装備を積んでいない武器しか持ちだせん。眷獣と魔術が頼りだ」

 凪達は一様に頷く。

 科学がダメならば、旧時代の戦い方を採用するしかない。幸い、火薬と金属だけで構成される銃火器の類は使えるようなので、十分対抗する手段はあると思いたい。

 そして、やはり鍵を握るのは眷獣という生身で爆撃機並みの攻撃性能を有する吸血鬼の存在だろう。

 とはいえ、敵には最新鋭の対魔族兵器があるのだ。決して楽な戦いになどならない。むしろ、命を落とす可能性すらあるのだ。

 だが、やるしかないというのは、この場にいる全員が共有する思いだった。

「萌葱ちゃんが悪魔に囚われているのなら、わたしの槍の黄金(ハスタ・アウルム)で解放できるはずだし、わたしが……」

「ダメだ」

 覚悟を決めた風の顔つきだった零菜は、那月に真正面から否定されて水をかけられたような顔をする。

「な、ど、どうして?」

「萌葱は捕まっているわけではない。悪魔の身体と半ば同化しているはずだ。お前の槍ならば、悪魔を消滅させることはできるだろうが、そのときは萌葱も一緒に消してしまうだろう」

「ッ……」

 零菜は息を呑み、唇を噛んだ。

「打つ手はある。馬鹿弟子。お前が萌葱の救出に当たれ。この中では、唯一お前だけが事態を打開する手段を持っている」

「俺?」

 凪は那月が何を言っているのか理解できず、呆然とした。

「いや、待ってくださいよ教官。萌葱姉さんはあの悪魔と同化してるんですよね? 助け出すのなら、かなり特殊な魔術的手段が必要になる。俺はそんな魔術は使えないし、眷獣だって同じです」

「眷獣も魔術も必要ない。が、詳しい話は後にしよう。長くなるからな。まずは、体力の回復が先だ」

 そう言って、那月は零菜たちを見回した。

「お前たち、さっさとコイツの血を吸って力を蓄えておけ。これから厳しい戦いになる。疲れて動けないでは話にならないからな」

「え゛!?」

 凪だけでなく、急に話が飛び火した姫達が目を白黒させる。

 コイツ、と指を指された凪は絶句している。

「あ、那月ちゃん!? ちょっと、急過ぎない!? いきなり吸血とか」

 零菜が立ち上がって那月に抗議する。

「なら、そこのメイドは吸わなくてもいい」

「え、いや、そういう意地悪なことはなんていうか……」

「ふん、万全を期して戦場に臨むのならば、それ相応の準備は必要だろう。「緊急事態」だ。気にするな。とりあえず、十分席を外しておいてやる」

 言うや否や那月はその場から姿を消した。

 ここは監獄結界。彼女の夢の世界だ。移動に足を使う必要が、そもそもないのだ。

 取り残されたのは吸血姫と霊媒の少年。

 最初に動き出したのは、空菜であった。やるべきことを的確に行うホムンクルスの本能もあって、躊躇なくイスに座る凪の背後に回りこむ。

「おい、空菜」

「状況は那月先生の言ったとおりです。合理的に考えて、吸血行為は必要不可欠と考えます」

 空菜は凪の肩に両手を突いた。

「第四真祖の救出には魔力無効化能力が必要ですが、それならわたしも持っています。そこのエセメイドが一々出てくる必要はありません」

「な!」

 じろりと意味深な視線を投げかけられた零菜が青筋を浮かべた。

 エセメイドなのは事実だが、それでもカチンと来たのだろう。

「あなたね、毎回毎回喧嘩吹っかけてきて……何? そんなにわたしが嫌いなの?」

「いえ、別に嫌いというわけじゃありません」

 あっさりと空菜は否定し、凪の頭頂部に顎を乗せて背後から抱きつく姿勢を取った。

 凪は背中に押し付けられる柔らかい感触に困惑しつつ、この妙な空気に口出しできないでいた。

 そうしている間に、零菜と空菜の間には冷戦もさながらの火花が散り始めていた。

 空菜は零菜の遺伝子を元にして製造されたクローンだ。遺伝子操作により、オリジナルの零菜とは異なる性質を多分に付与されているが、外見を決定する部分にはほとんど手がつけられていなかったらしく二卵性双生児のようにそっくりだった。

 そういった生い立ちのため、空菜は昏月家に引き取られた後も、零菜に対して挑発的な態度をしばしば取っている。

「じゃあ、何?」

「さあ? 何ででしょう?」

 はぐらかすような態度。しかし、これは嘘でもなんでもなく空菜自身が自覚していないので仕方がないことではあった。

 対抗意識、あるいは嫉妬心であろうか。

 空菜が言うように生まれて間もない彼女は、自分の感情に名前をつけて制御する術に疎い。

「まあまあ二人とも落ち着いて」

 そこに割って入ったのは麻夜だった。

「喧嘩も煽りあいも意味がないよ。僕らにできることをするしかない。そうだろう?」

 朗らかに。さっぱりとした口調が戦場さながらの空気を洗い清める。

「那月先生がせっかく席を外してくれたんだ。この時間に血を吸っておかないと、後で何を言われるか分かったもんじゃない。凪君も、それでいいかな?」

「そうだな……俺が血を提供するしかないもんな」

 この中で人間は凪だけだ。

 吸血鬼同士での吸血は、よほど特別な仲か敵対関係でもない限りはしない。「上書き」される危険があるためだ。

 もちろん、上書きなしで吸血してもいいのだろうが、吸血鬼からの吸血を心情的に受け付けない吸血鬼も多いらしい。

「ほら、凪君の許可が出たことだし……誰からする?」

 零菜、空菜、麻夜、クロエ……四人の視線が交錯する。

 血を吸うのは当然と思っている視線。どう答えたものかと探りを入れるような視線。そもそも考えが読めない視線。血を吸うとかいきなりすぎて混乱しているという視線。四者四様の心情で、各々が誰かが発言するのを待っていた。

 


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