二十年後の半端者   作:山中 一

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第四部 十六話

 かつてない魔力の昂ぶりに凪は唇を噛む。

 心拍数が明らかに上昇している。激しい運動の所為ではないだろう。背中の翼は鳥のように空気を受け止めて浮力を生み出すものではないようだ。ただ思うだけで身体は空中に舞い上がる。重力制御。重力剣の眷獣の効果も合わせて空中戦を可能としているのだ。

 ベルゼビュートの足を自分の足場にして蹴り上がる。凹凸の多い体表面は足場にできる場所が多く、上を目指すにはちょうどよかった。

 東雲の眷獣が操る妖しい髪がベルゼビュートに絡みつき、その動きを制限している。那月の分身体の鎖も合わさって、ベルゼビュートの動きはほぼ止まった状態で、ベルゼビュートからの邪魔はない。それも、持って数分の猶予だろう。ベルゼビュートが戒めを破り活動を開始するまでの短時間で凪は萌葱が監禁されている心臓部に突入しなければならない。

 園内の建物を下に臨む位置まで昇った。目的地まで残すところ三分の一といったところか。勢いのままに飛んできた凪の侵攻速度が緩んだのは、ベルゼビュートの肩に佇む魔女が明確に凪に戦意を向けてきたからだ。

「ッ……」

 悪魔が動けなくとも、その主は健在だ。那月を追い回すのを止めて、クシカはベルゼビュートを駆け上る凪に狙いを変更したのだ。

 宙空に現れたのは長さ三メートルに達する巨大な石杭。形状は錐に似ていて、先端がドリル状に捻れている。

 鋭い石杭の魔弾が重力に従って落ちてくる。たった一発だけでもちょっとした眷獣の突進と同程度の威力にはなりそうだ。

 小さく吐息を漏らす。凪の身体から力が抜ける。落ちる石杭が胴を貫く寸前に、凪は宙に身体を放り出していた。紙一重で石杭との激突を避けた凪は、地上に向けて落下するかに思われた。

不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)

 漆黒に煌めく粉が凪の身体を押し上げる。重力を制御する眷獣の能力を駆使して、凪は磁石にでもなったかのようにベルゼビュートの身体に着地する。下ではなく横方向に重力を発生させたことで、凪は大悪魔の身体を地上と同じように走ることができるのだ。傍目から見れば奇妙な光景に映るだろう。凪自身も、信じられない気持ちで一杯だ。

「ユリカの言っていた弟君ね。ああ、でもその羽は、記憶にありませんわよ」

 クシカとユリカ。

 悪名高い吸血鬼喰らい(ヴァンパイアイーター)

 多種多様な能力を持つ吸血鬼を捕縛し、取り込むからには彼女達の魔術の腕も確かでなければならない。

 クシカのフィンガースナップ。空気を弾く軽妙な音は必殺の呪文と同義だ。背後に展開した二つの魔法陣はそのまま砲門として機能する。 

 青白く輝く複雑な紋様が高速回転し、人間の腕くらいの大きさの石杭を乱射し始めた。

 先ほどの石杭がロケットランチャーならば、今回の石杭はまさしく自動小銃のフルオート射撃。それも魔力が続く限り撃ち続けられる凶悪な代物だ。

 凪の斥力障壁ならば、多少は持ち堪えることもできるだろう。だが、それは一時しのぎにしかならない。十発は耐えられても、二十発は耐えられまい。

 遮蔽物のないこの場所で、凪が生を拾える可能性など万に一つもありはしない。

 殺意の弾丸は一秒とかからず凪の身体を刺し貫く。防御に徹しても三秒も持たないのは明白だ。

 クシカは凪が見るも無残な肉片に変わる瞬間をその目に焼き付けようと眼を開く。直後、その視界が、真っ赤に染まった。

「な……」

 ずぐん、と奇妙な音が胸の真ん中でした。

 喉からこみ上げる灼熱が気管を塞ぎ、咽てしまう。

「ば、な……」

 クシカの眼前に凪がいた。衣服がところどころ裂けていて、血を流してはいるがそれだけだ。苦悶に顔を歪めるでもなく、失血に顔色を悪くするでもない。石杭の雨に打たれたことを考慮すると、裂傷や擦り傷が身体の表面にしかないのは異様ともいえた。掠めただけで、肉をこそぎ落とすだけの威力はあったはずなのに。

「ああ、そう……」

 疑問はすぐに氷解した。吸血鬼の専門家なだけはあって、見てすぐに理解できた。

 凪の身体から僅かに立ち上る、白い霧。

「身体を霧にして、わたしの攻撃をすり抜けたのね……」

 吸血鬼が普遍的に持つ基本能力の一つである霧化だ。個体差もあるが、これを使いこなした吸血鬼はあらゆる物理攻撃をすり抜けることができる。吸血鬼の専門家であるクシカが、こうも容易く裏をかかれたのは、凪が中途半端な吸血鬼であるという誤った認識に立っていたが故か。

 いや、それにしても疑問は残る。

 霧化によって石杭の雨をすり抜けたのは間違いないとして、どうやって一瞬でここに辿り着いたのか。

 凪から目を離したりはしていない。霧化をしていれば、見て分かったはずだ。

「いったい、どうやって……」

 呟きは続かず、赤黒い血を吐き出してクシカは墜ちる。刃から身体が抜けて、地上に向けて真っ逆さまに失墜していく。

 その身体を受け止めたのは那月の分身体が放った鎖だった。

「無茶をする」

 ふわり、と那月の分身体が凪の隣に降り立った。

「アイツは……」

「安心しろ。死んではいない。監獄結界にぶち込んでやったからな。治療も容易だ」

「そうか。良かった」

 凪はほっと吐息を漏らす。 

 未だ人命を奪うほどの心積もりはできていないのだ。真正面から剣を突き刺したという事実はあっても、心まではその行いを認めていない。

「大丈夫か?」

「はい」

 為すべきことは分かっている。

 気持ちと行動を完全に別つのも、凪の得意技の一つである。

 それもプレイヤーのテンプレートなのだろう。

 自分の身の危険に対して鈍感になるという生まれ持っての性質は、身体だけでなく心にも影響している。内心では嫌だと思っても、必要であると判断できればすぐに行動に移せるのだ。

 戦闘経験ではクシカのほうが圧倒的に上。見た目は若い女でも、実年齢はずっと上だろう。記録上は半世紀以上活動している謎多き魔女だけに、真っ当に勝負をしても敗北する可能性のほうが高かった。相手が油断をしている隙を突き、一撃で勝負を決するしかなかったのだ。

 ベルゼビュートの身体が震える。 

 主の一人を失って怒りを覚えたか。それとも、制御が外れてしまったのか。いずれにしても、この巨体。この腕力を防ぎきるのは大変な魔力や霊力が必要になる。那月と東雲の二人掛りでも、さほど猶予はない。

「じゃ、教官。行ってきます」

「ああ」

 凪は臆することなく、ベルゼビュートの胸に飛び移る。ベルゼビュートの身体に触れた感じは錆び付いた鉄だった。冷たく手の平が張り付いてしまいそうだ。鉄は鉄でも丸一日冷凍庫に入れていた鉄のようだ。

 凪は自らの魔力を右手に集めて、ベルゼビュートの胸を突く。

朽ちた銀霧(ウィザー・シネレウス)!」

 凪の目の前が白く染まる。

 ベルゼビュートの硬質な肌と肉が瞬時に白銀の霧と化し、大きな空洞が生まれる。道は見えている。萌葱が囚われている部屋まで、一直線に突き進む。

 表皮を越え、肉を抜け、固い骨も霧に変えて凪は銀霧のトンネルを滑りぬけた。まさか身体を掘り進んで侵入するとは思っていなかっただろう。防衛機構も何もない霧の道は、実に二十メートルにもなった。

 霧の手応えが変わったと思った途端、凪は眼前に広大な空間が広がっていることに気付いた。

 鼻を突くのは腐った肉と血の悪臭。体内だからか壁はぬめりとして生暖かい。まさしく肉の壁だ。ドーム状の部屋は多種多様な魔力が渦巻く奇怪な空間だった。照明はないが、宙に浮かぶ小さな火がぼんやりと周囲を照らしている。そして、凪から見て反対側の壁に下半身と腕をめり込ませた萌葱を見つけた。

 萌葱は意識がある。凪を見て驚いたような表情を浮かべている。

「萌葱姉さん!」

 凪は萌葱に向けて駆け出した。

「来ちゃダメッ!」

 萌葱が叫ぶ。

 凪の未来視が瞬時に襲い掛かってくる危険を読み取り、身体を捻った。見えない刃が凪の首があった場所を通り抜けていった。

「凪君!?」

「大丈夫!」

 くるりと左足を軸にして時計回りに回った凪は、体勢を立て直すと同時に第二、第三の刃を重力剣で斬り払う。

 魔力と魔力のぶつかり合いならば、眷獣に軍配が上がるのは必然だ。風船が破裂するような音と共に、風の刃は消し飛んだ。

 遅れてやって来る、静寂。

 肉の壁が蠢く。悪趣味だ。生きているのだ、この壁は。那月が言っていたのはこういうことか。吸血鬼を取り込み、同化して魔力源とする。萌葱も、放っておけばこの肉の壁の一員となってしまうのだろう。

 おぞましさに凪は総身が震えた。恐怖はないが、怒りはあった。剣の柄を握りなおした凪は、じっと萌葱の右隣を睨み付ける。

 空間に浮かび上がる黒い影がゴスロリドレスの女に変わる。

「あら、もうばれてしまいましたか」

「冗談。いくらなんでも、初歩的過ぎる」

 現れたのはユリカ。

 魔女の片割れ。

「もう一人の魔女はさっき捕まえたぞ」

「ええ、そのようですわね。見ておりましたわ、現存唯一のプレイヤーさん」

 プレイヤーと聞いて、凪は眉ねを寄せる。

「ねえ、昏月凪君。あなた、ご自身のことはどこまでご存知なのかしら? 萌葱ちゃんの頭の中にはプレイヤーの知識がなかったのだけれど」

 ねっとりとした話し方。

 妖艶、といった表現がしっくりくる悪女の空気がある。関わった男を喰らい、堕落させる悪女。こういう手合いには関わらないのが得策である。

 よって、凪の返答は剣の一閃。目に見えない重力波が、ユリカに放たれた。

「あらら、つれないこと」

 凪の攻撃は届かず、ユリカの足元から盛り上がった肉の壁に阻まれた。

 今の一撃で決着を付けられるとは思っていなかった凪は、萌葱を助けるため走り出す。そもそも、凪の目的は萌葱の救出であってユリカを倒すことではない。

 萌葱まで今の凪ならば十歩程度で到達できる。黒の翼の推進力を加えれば、さらに速度を上昇させられる。

「ッ……!」

 凪の行く手を肉の壁が阻む。

 足を止めた凪に雷撃が四方から襲い掛かってきた。轟音、閃光。薄暗い空間は瞬時に白く染まり、反響する雷鳴が鼓膜を打ち震わせた。

 膨大な電熱は、肉の壁すら焼いた。吸血鬼の肉でできた肉壁を焦がすほどの力を発揮したのは、それが眷獣だったからだ。

 ユリカがベルゼビュートを介して操れる眷獣は萌葱の眷獣だけではないということか。現れた閃電の鷹の羽一枚一枚が雷撃を呼ぶ力があるらしい。

「外した?」

 ユリカが呟く。

 凪を確実に倒すために引き付けて雷鷹で不意を突いたはずだった。どれほど身のこなしが素早くとも雷を躱すのは不可能である。

 しかし、蓋を開けてみれば四方から襲い掛かった雷撃は獲物を穿つことができず、黒くこげた肉壁だけが残されている。

「いえ、なるほど、そういうこと」

 さっとユリカが手を挙げた。青紫色の魔法陣が足元に展開し、その光に照らされた凪の姿が露になった。

「クシカと同じ手は通じませんわよ」

「う……ッ」

 雷鷹の羽がばら撒かれ、凪の身体を打ち据えた。

「あ、がぁ!」

 耐え切れずに弾かれた。目で追うことも、反応することもできなかった。眷獣による攻撃は魔力を高めた程度では防げない。

 肉の床をごろごろと転がった。重力剣が手から離れて飛んでいき、虚空に姿を消してしまった。

「幻惑の眷獣で分身を作って、自分は身を隠す。初見ならば通じたかもしれませんけどね」

 吹き飛んで、うつ伏せに倒れた凪を見下ろしてユリカは小さく笑った。

「い、いやああああああああッ。凪君! 凪君ッ!」

 そして、萌葱が狂気して叫んだ。

 身体を肉壁から抜こうとして身を捩る。もちろん、すでに身体の半分以上を取り込まれている萌葱には脱出する術などありはしない。目の前で凪が嬲られるのを見ていることしかできないのだ。

「ふふ、いい声。萌葱ちゃん、やっと泣いてくれたのね。あなたを助けに来た弟ちゃんがあなたの所為で死んじゃうから」

「離して、離してよ!」

「だぁめ。よく見て、そして感じなさいな。これから、あの子を取り込んであげる。そしたら、萌葱ちゃんと凪君はずっと一緒に居られるわ。身も心も蕩けあって、同じ物として永遠になるの。いいと思わない?」

「ふざけないでよ! 凪君は関係ないじゃない! あんたが欲しかったのはわたしの力なんでしょ!?」

「ええ。でも関係ないってこともないわ。彼はあなたを助けにここまで来たのだから。その時点でわたしの敵。敵は排除が基本でしょう。逃がしてあげる理由はない。それにプレイヤーの血肉はベルゼビュートちゃんの養分としては最上。ますます逃がすわけにはいかないわ」

「うく、くぅ……」

 萌葱は唇を噛み、無力感に打ちひしがれる。

 魔力を操ることもできない萌葱には凪を助けることができない。凪が自分でこの場を離脱するしかない。だが、それは萌葱がここで肉の塊になってしまうことを意味している。そのようなことは絶対に嫌だ。

「うふふ、まあ何でもいいわ。あなたの愛しい凪君はここで臓物ぶちまけてあなたたちの養分になるんですもの」

 べりべりと肉壁が変形する。

 盛り上がった肉壁は何本もの触手となって倒れた凪に襲い掛かった。一本の重量が大型トラックに匹敵ほどの太い触手だ。もはや、それは巨人の腕というべき代物で凪の身体をひき潰し、吸収するための消化器官でもあった。

「凪君ッ!」

 喉が張り裂けんばかりの絶叫。生まれてこの方、ここまで声を張ったことがあっただろうか。眼前で、凪の身体が千々に分かれて押し潰され、血の一滴も残さずに食い尽くされる。避けることのできない一秒後の未来に萌葱は絶望した。

「え……」

 何とも間の抜けた声。

 その主は、ほかでもないユリカであった。

「何をしたのかしら?」

 凪に殺到した触手の先端が掻き消えたのだ。

 結果、凪の生命は永らえた。壊され取り込まれることなく、凪は膝を突いた姿でじっとユリカを睨みつけている。

「ねえ、何をしたのかって聞いているのだけど?」

 空間そのものが軋みを上げる。ここはベルゼビュートの体内。肉塊の内部。ユリカの支配領域だ。魔女の本拠地であり、那月の監獄結界のようにある程度の融通が利く。壁と床と天井の肉を操作して、ドーム状の部屋の作りを変更する。凪の逃げ場のすべてを塞ぐ。点ではなく、面で制圧し、押し潰す。

 避けることは不可能だ。今の不可解な現象を探るのならば、凪の逃げ道のすべてを塞いで、彼の出方を見る。

 やはり、肉壁は届かない。

 凪の一歩手前で消失する。

 凪全体を包み込むように押し寄せた肉壁は、凪を中心に半径五メートル以内に近付けない。ならば、足元からならと攻撃を加えようとしたが、ユリカの指示が通らない。

「氷……!」

 ユリカが苦虫を噛んだような顔をする。

 凪の足元が凍り付いている。強力な魔力による凍結は瞬時に凪の足場を確保した。凍結した肉はピクリとも動かない。

「腹立たしいですわね。何をしているのかは分かりませんが、小賢しい。ええ、実に小賢しい」

 ユリカの表情に苛立ちが浮かび上がる。

「言うの忘れてたよ、姉さん」

 凪は立ち上がった。

「助けにきた。さっさと帰ろう」

 見れば、顔に幾筋もの血線。強力な魔力の行使。眷獣召喚が度重なり、肉体が悲鳴を上げているのか。吸血鬼化が進み、眷獣召喚へのリスクが低減したとはいえ、まだ人間の部分も多く残している状態だ。戦えなくなるのも時間の問題だろう。

「感動的ですわね。で、それができるとでも? このベルゼビュートちゃんの中で。そのボロ雑巾のような身体で」

「難しくはないだろ。あんた程度なら、今の俺でも十分やれる」

 おそらく、ユリカに対しての初めての挑発。

 単騎でここに突入してきたことや、これまでの言葉からそれが事実だと――――少なくとも、凪自身は萌葱を助けることができると確信している。

「大言壮語、もしくは有名無実、かしら。この国にもありますわよね、この言葉。あなたのような吸血鬼もどきがこのわたしを相手にしてただで済むと? 甘く見られたものですね」

 あからさまな挑発に易々と乗るほどユリカは優しくはない。常に冷静で余裕を持って事に当たるのが彼女のやり方だ。

 対する凪は特に戦い方を定めているわけではない。最終的に萌葱を助けられればそれでいい。目覚めた眷獣の力を使えば、萌葱を助けることは可能なのだ。その実感は確かにあって、後はどうやってそこまで行き着くかという問題を片付けるだけだ。

 本来、ユリカなど眼中にはない。凪にとって彼女は萌葱を苦しめた敵だが、優先順位は萌葱が第一だ。ユリカなど後で誰かが捕まえればいい。しかし、当然ながらこうも邪魔をしてくるのなら、どうしたって相手にしなければならない。それが面倒だ。

 おそらく、ベルゼビュートが取り込んだ吸血鬼の眷獣を操るためには肉壁に完全に取り込んでしまうのは都合が悪い。萌葱を半分だけ残しているのは、彼女を辱める目的もあるのだろうが、取り込めば眷獣の使用に制限がかかるからだろう。普段ならば問題はないかもしれないが、今は暁の帝国との抗争中だ。戦いを優位に運ぶには、萌葱の眷獣の力が最大限に引き出されているのが望ましい。

溶けた水銀(メルティッド・メルクーリ)

 静かに眷獣の名前を呼ぶ。

 現れたのは双頭の蛇だった。全長は五メートル程度。ちょうど、肉壁が掻き消えた部分の半径と同じだ。

「へえ、なるほど。それが、わたしの肉を抉った眷獣の正体ですか」

 ユリカは未だ正体の定かならざる眷獣を目を細めて眺める。

「第四真祖の眷獣……によく似ていますわね。ええ、彼の双頭の龍蛇よりもずいぶんと愛らしい見た目ですが、能力はほぼ同じと言ったところですかね」

 第四真祖が召喚する天災級の十二体の眷獣の内の一つ、竜蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)を縮小したような外観の眷獣だ。能力も同系統の空間干渉。竜蛇の水銀はその顎であらゆるものを空間ごと喰らい、異空間に放逐する能力があるという。ならば、肉壁を削ったのも同じ理屈によるものだろう。

 理屈が分かれば、対処の仕方も見えてくる。第四真祖と同系統の眷獣ならば、第四真祖の眷獣が苦手とする攻撃も同じく苦手なはずだ。

 竜蛇の水銀の過去の戦闘記録はユリカも見たことがある。伊達に吸血鬼の専門家ではない。竜蛇の水銀は食い切れない物量に押し負けることがあった。凪のそれはずっと規模が小さいので、ユリカが用意できる戦力でも、十分に打ち勝てる。

「では、総攻撃といきますわ。もったいないですけど、それを持ち出された以上、手加減はできませんものね」

 肉壁だけではない。五体もの眷獣が動員された。先ほどの雷鷹に加えて、青紫色の巨大蠍に角の生えた氷のトド、二又の巨大猫に泥のような表皮の巨狼。それらが、ユリカの一声で一斉に襲い掛かってくる。

 本来の力を完全に再現できているわけではないにしても、狭い空間に五体の眷獣だ。迫る肉壁もあって、圧迫感はかつてないものがある。

 多少の無理はやむを得ない。

 肉壁自体は溶けた水銀の能力でどうにでもできる。五体の眷獣の攻撃に対処するのは別の眷獣に任せることにする。

暗き紫(ダークネス・ヴィオーラ)

 現れたのは下半身が蛇で上半身が人間の女性――――伝説に語られるゴルゴンを思わせる眷獣だ。

 紫色の頭髪はよく見るとすべて蛇だ。この暗き紫が発する金切り声が迫る五体の眷獣に叩きつけられる。すると、先頭にいた巨大猫又の動きが僅かに鈍る。その隙に暗き紫は無数の蛇髪を伸ばして猫又に絡み付かせ、毒牙を突き立てた。

 猫又が苦悶に鳴き、振り払おうと牙と爪を剥く。猫又を助けようとしているのか、暗き紫に氷のトドと泥の巨狼が襲い掛かり、蛇の毛髪が引き千切る。

老いた瞳晶(オールド・クリュスタルス)

 後退した暗き紫に並び立つように、水晶の亀がのっそりと表れる。きらり、と老いた瞳晶の身体が光ったかと思うと、猫又の眷獣が隣の巨狼ののど元に噛み付いたのだ。

 老いた瞳晶は精神支配の眷獣だ。暗き紫の毒と魔力吸収で弱った猫又を支配し、味方にしてしまったのだ。

「よし、いい具合だ」

 身体の傷も塞がった。暗き紫が周囲から魔力を奪い、凪に還元しているからだ。今、まさに凪は絶好調だ。対する相手の眷獣は精神支配に屈した猫又の裏切りと暗き紫が吐き出した毒霧によって苦戦を余儀なくされている。

 戦場が狭いのが逆効果となった。猫又一体の寝返りが、他の眷獣の進路を妨害することになったのだ。

 だが、それで凌げるのは地上を這う眷獣だけだ。空から攻めて来る雷撃の鷹は仲間割れで生じた混乱などまったく気にする様子もなく、凪の頭上を取った。

鈍き金剛(ドール・アダマス)!」

 凪が眷獣を召喚するのと鷹が雷の羽をばら撒くのは同時だった。

 鈍く光る金剛石の大楯が鷹の雷撃を受け止めて、跳ね返す。

小さな黄金(タイニー・アウルム)! 頼むぞ!」

 空を舞う雷の鷹の動きは凪では追えない。よって、同じ雷の属性を持つ金色の豹に任せることにした。

 雷の豹は類希なる敏捷性を発揮して、雷の鷹に襲い掛かる。こうなると天井の低さは空中戦を基本とする雷鷹の不利となった。小さな黄金は鷹が滞空している高さくらいなら軽々と飛びかかれるし、雷の身体なので宙も自由に駆け抜ける。となれ、機動力に秀でる豹の眷獣のほうが有利に戦いを進めることになる。

 豹と鷹の交錯は一度。それで決着がついた。小さな黄金は、名も知れぬ雷の鷹の喉を食い破り、宙から叩き落したのだ。

 ちょうどその頃、地上での戦いも佳境を迎えていた。

 猫又の腹部をトドの一角が貫き、猫又が内側から凍結してしまっていたのだ。凍りついた猫又を巨狼が頑丈な前肢で粉々に砕いてしまう。

「小さな黄金。撹乱しろ」

 小さな黄金は素早さは高くても攻撃性能は低い。体長一メートル程度の大きさでは、その三倍以上の大きさの泥の巨狼や氷のトドに致命傷を与えることはできないだろう。

「暗き紫と老いた瞳晶は援護だ」

 右手に再び重力剣を呼び出して、凪は巨狼とトドに向き合った。

「いくぞ、不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)

 手の平で黒き剣が僅かに震えた。

 暗き紫の蛇の頭髪が肉壁に喰らい付き、手当たり次第に魔力を収奪する。全面が吸血鬼の肉体で構成されているという肉壁は魔力の宝庫だ。そうして得た魔力を使い、凪は不出来な黒剣の出力を向上させる。

 軽く呼気を漏らし、肩の力を抜いて一閃。斥力場が瞬時に肥大化して泥の巨狼の顔面を打ち据える。巨狼が怯んだ隙に凪の姿が掻き消えた。老いた瞳晶による幻術だ。

「そこ!」

 成り行きを見守っていたユリカがキッと目を見開いてトドの右斜め前に向けて手刀を切る。それが凪を覆っていた幻術を斬り裂いた。

「ッ……!」

 姿を現した凪に驚いたトドが身を引いた。外見の割りに素早い動きで、凪の剣は切先を掠めた程度のダメージしか与えられなかった。

 おまけに反撃とばかりに激しい冷気が叩きつけられた。全身が引き裂かれそうな猛烈な冷たい風を斥力障壁で凌ぐ。

「冷てぇ、な!」

 顔を歪めた凪は床を手で叩いた。するとそれを合図に氷の壁が目の前に出現した。氷を操る眷獣は凪も持っている。その能力を引き出して、氷の壁を作ったのだ。トドの発する冷気をこれで防ぐと共に、凪は重力剣を宙に放り投げる。宙を舞う重力剣の柄を雷光の豹が咥えた。

 重力剣の軌道が変わる。雷豹に導かれ、泥の巨狼の頭蓋に刀身をめり込ませたのだ。

「一万倍くらいでどうだ」

 巨狼の頭蓋に食い込んだ重力剣の重量が瞬時に膨れ上がった。眷獣の筋力を以てしても抗い難い超重量に巨狼の頭は一瞬で潰れて魔力へと還っていく。

 残ったのは氷のトドと蠍の眷獣だ。

 蠍は見るからに毒持ちだ。対毒能力を持つ暗き紫をぶつける。凪は小さな黄金と協力してトドを退ける。

「ですから、甘いのですよ、弟ちゃん」

 笑みすら漏らしてユリカが言った。

 送り込んだ眷獣を屠られていながら、それでも彼女の余裕は崩れていない。

「この肉室は数多の吸血鬼の肉から作られたもの。眷獣の数は取り込んだ吸血鬼の数を、当然に凌駕しているのです。分かっているでしょう。一体や二体の眷獣を倒したところで、わたしの手元にはまだまだ眷獣が控えているということくらい!」

 倒れた眷獣を補充する。それもユリカにとっては朝飯前なのだ。肉壁から魔力を抜き出して、新たに二体の眷獣を召喚する。今度は燃える獅子とエメラルドでできた四足の蜘蛛のような眷獣だった。

 獅子が火を吹き、氷のトドごと凪を焼き尽くそうとする。凪が生み出していた氷の壁は容易く融解し、身を翻していなければ凪も焼かれていただろう。直撃を受けたトドの眷獣は、消滅してしまっている。

「使い捨てかよ。可愛そうだな」

「吸血鬼なんて皆そんなものでしょう」

「ふざけんなよ! 眷獣だってな、心はあるんだぞ! 年増の魔女には分からねえんだろうけどな!」

「そう。今すぐに死にたいようですね。眷獣、さらに二体追加してあげますわ。精々飛び跳ねてくださいな。萌葱ちゃんに情けない死に様をよぉく見てもらうとなおよろしい」

 轟、と旋風が巻き起こる。

 召喚されたのは大きなバクの眷獣と孔雀の眷獣。どちらも風を操る眷獣のようだ。

 炎の獅子の口に紅蓮が宿る。その両脇を固めるバクと孔雀も攻撃態勢に入った。

「凪君!!」

 萌葱が悲痛な叫びを上げた。

 三体の眷獣の一斉攻撃。一体一体に割り当てられた魔力量も、これまでに召喚、使役されていた眷獣よりも明らかに多いのだ。恐らくは旧き世代の眷獣なのだろう。瞬間火力は現代兵器にも引けを取らない。

 炎が風に乗り、巨大な火炎嵐(ファイアストーム)を生み出した。ベルゼビュートの胴体すらも打ち抜くつもりか。当然、巻き込まれれば、凪は灰も残さず焼滅してしまう。

 まず、獅子に踊りかかっていた小さな黄金が跡形もなく吹き散らされた。次いで、凪を庇うように前に出た暗き紫が絶叫を上げて消失する。熱に肌を焼かれながら、それでも凪は逃げなかった。やるべきことを最後までやり通すためだ。そのための準備をしてきた。プレイヤーの特質で恐怖を最低限にまで抑えることができるというのも影響したのだろう。死を目の前にして、凪は起死回生の一手――――ジョーカーとも言える眷獣を表に出した。

「行くぞ、毀れた白鋼(ブロークン・アルバス)

 姿を現したのは両腕が翼、下半身が鳥のそれになっている女性――――神話に於いてハルピュイアと呼ばれる怪物である。身の丈は二メートル程度か。平均的な眷獣の中では小さいほうであろう。

 毀れた白鋼が表れた途端、熱と風が意味を失った。

 凪を肉壁を炙っていた火炎嵐が奇妙な形で後退し、眷獣の体内に吸い込まれていったのだ。

「何!?」

 さすがに、ユリカも驚かずにはいられなかった。

 炎が掻き消されたのならば分かる。防がれたのならば、許容もしよう。だが、今のはそのような現象ではなかった。

「炎と風を巻き戻した……ッ。時間遡行能力ッ!?」

 一目でユリカはその正体を看破した。確かに第四真祖にはそういった眷獣がいるとは聞いていた。文明規模で時間を後退させることも可能、などと言う眉唾めいた話もある。だが、実際に目で見るそれは信じ難い現象であった。

「コイツを出すのは、時間がかかるんだ。いや、出すには出せるけど、能力を使うにはそれなりの充電が必要だ。だから、今まで使えなかった。ここで待機させるしかなかった」

「待機、ですって。ずっと前から召喚は済んでいたというの?」

「まあ、な」

 そのための老いた瞳晶(オールド・クリュスタルス)だ。敢て凪自身に幻術を度々かけたのは、本来背後に隠れる毀れた白鋼を隠すためだったのだ。

「もう一度言うぞ。俺は萌葱姉さんを助けに来た。あんたと戦うのだって、本来の目的じゃないんだよ」

「涙ぐましいですわね。本当にイライラしますわ。……何にしてもわたしを倒さない限りは、萌葱ちゃんは助けられませんけど?」

「何度も言わせんな」

 再び呼び出した重力剣の斥力波がユリカに放たれる。当然ながら、それは彼女が呼び出した眷獣が我が身を盾にして防いだ。

 何度も繰り返した行為は当たり前のように無為に終わるはずだった。が、しかし、今度ばかりは意味があった。

「え? きゃっ!?」

 驚きの声を上げたのは萌葱だった。

 何と萌葱の身体が肉壁から抜け出て、宙に投げ出されたのである。

「何ですって!?」

 ユリカが咄嗟に伸ばした手をすり抜けて、萌葱は凪の下に落ちていく(・・・・・)

 そして、凪は悠々と萌葱を受け止めた。重力を制御して、萌葱にかかる重力の方向を変えたのだ。よって萌葱は地上に落下するのと同じように凪のいる場所まで落ちたのだ。

「あ、な、凪君……」

 何が起こったのか分かっていない萌葱はただ呆然と自分を抱きかかえる凪を見上げるばかりだ。

溶けた水銀(メルティッド・メルクーリ)!」

 凪の足元にいた双頭の蛇が鎌首を上げて、背後の肉壁に喰らい付く。目的は明らかで、ユリカは気勢を上げて眷獣に攻撃を命じた。

 そのユリカが使役する眷獣の攻撃は途中で巻き戻る。それどころか、眷獣の姿すらも巻き戻されて肉室から消えてしまう。

「姉さん掴まって」

「う、うん」

 萌葱は言われるままに凪にしがみ付く。

 萌葱を抱きしめたまま、凪は溶けた水銀が作ったトンネルに身を投げた。脱出はあっという間で、浮遊感に身を任せた二人は夜の空に飛び出した。

 凪は漆黒の翼を広げ、萌葱を外に連れ出したのだ。ベルゼビュートが苦悶とも怒りともつかない声を上げている。萌葱を失った以上、電子機器を支配する能力は失われた。

「萌葱姉さん、怪我、ないよな。時間を戻したから、大丈夫だとは思うけど」

「……うん。大丈夫、みたい」

「よかった」

 ほっと、凪は安堵の吐息を漏らす。

「あ、凪君。あの、色々と聞きたいことが……えと、その前に、その、ありがと。助けてくれて」

「いつも世話になりっぱなしだからな。こういうときくらい萌葱姉さんの助けにならないと」

「……そんなこと、ないよ。わたしは……」

 つん、と鼻の奥が痛んだ。萌葱は言葉が続かなかった。ユリカに直視させられるまでもなく理解していたことだった。凪の弱いところ、劣った部分を見て自分を支えていたという事実があった。凪を心配していたのは確かだが、その気持ち、行為を通じて自分自身を上に持ち上げようとしてたのだ。だから、こんな風に凪に命を張ってまで助けてもらえるというのは、いっそ申し訳なかった。

「凪君?」

 浮遊感が消えて、重力に吸い寄せられる。

「凪君、落ちてない!?」

「飛んでたわけじゃないからな」

「羽は!?」

「いや、飛行用じゃないみたいなんだよね、これ」

「ちょ……!」

 萌葱は絶句する。地上まで果たして何メートルあるのか分からないが、地面に叩きつけられればミンチより酷いことになるのは目に見えている。残念ながら萌葱の眷獣では、高層ビル級の高さからのフリーダイブに対処できない。

 咄嗟に萌葱は凪を抱きしめる。身を任せるのではなく、赤子を守る母のようにできるかぎり地面との衝突を萌葱自身の身体で受け止めようと体勢を整えようとしたのだ。

不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)

 萌葱が決死の覚悟を決めたとき、凪はやっと重力剣を呼び出した。重力を操作して二人分の体重を大幅に軽減し、さらに地面との間に斥力を発生させて落下速度を緩め、ふわりと着地したのだ。

 凪が着地したのは遊歩道から逸れた人工林の只中。ベルゼビュートが踏み荒らして荒廃し、見晴らしがよくなった場所の一つであった。足元は悪く、倒れた木々の残骸が敷き詰められている。

 萌葱を降ろした凪は重力剣を送還して、膝を突いた。

「凪君、大丈夫!? 身体が……血が……!」

「大丈夫。でも、さすがに疲れた」

「疲れたって、それだけじゃないでしょ! あんなに無茶して、古城君みたいな羽まで出して、あれ何?」

「何っていっても、第四真祖の原初の力だとか。まあ、俺も実はよく分かってないんだ。後で、きちんと確認しないととは思ってるよ」

「それは、そうよ。ちゃんと確認しないと」

 自分の力を確認もせずに使う危険を理解していない凪ではなかった。原初についての説明も那月から受けている。分からないことも多いが、力を使うことに不都合はない。

 凪は黒の翼を消した。維持する力も使いきった感じがする。東雲の血を吸い、ベルゼビュートから収奪した魔力もそろそろ底を突く。

 見上げる巨体。大悪魔ベルゼビュートは未だ健在だ。

「萌葱姉さんを出したら、ちょっとは弱くなるとは思ったんだけどな」

「アイツの力の源はさっきの部屋そのものだもの。魔力はあそこから得ているから、魔女を倒しても残る可能性もあると思うわ」

「うん。まあ、そのために毀れた白鋼を残してきたんだけどな」

 凪は呟いて、ベルゼビュートを見つめる。

 内部に残してきた眷獣は今も戦っている。その力を一瞬でいい。最大解放して、この戦いに終止符を打つのだ。

 

 

 

 凪と萌葱を取り逃がしたユリカは爪を噛んだ。

 完全に裏を掻かれた。油断があったのは事実だが、クシカのように簡単にはやられないという自負が邪魔をしたか。

 いずれにしても萌葱を失い電子の悪魔(グレムリン)が使えなくなった以上はこの島に留まる理由もない。

 上手くすれば一日にして世界を支配することも不可能ではなかったが、こんなことならば欲張らずに零菜を食らっておくべきだった。

 魔力無効化能力を纏ったベルゼビュートならば、真祖とだって戦える。単純な戦闘能力よりもロマンを追及してしまうのは、魔女の悪い癖ではあった。

 凪の眷獣を打ち払い、肉壁を再構成した。削り取られた部分も不死の呪いが生きているのですぐに治せたのだ。

「クシカはもうダメですわね。仕方ありません。ベルゼビュートちゃんの手綱を握るのは大変ですが一人でできないわけではありませんし」

 そのための肉室だ。ユリカ一人でも、無限に等しい魔力が供給される肉室があれば、ベルゼビュートを暴れさせ続けることも可能だ。

 まずは戦場を離脱する。空間転移はお手の物だが、那月という上位の魔女が目を光らせている状態では簡単にはいかない。

「フン、ここが貴様の心臓部か」

 そこに、今一番聞きたくない声が届いた。

「南宮那月」

 ゴスロリドレスは以前顔を合わせたときとまったく変わらない。小さな身体、幼い顔立ちに相手を見下したような視線という不釣合い。

「わざわざ本体がお越しとは。いえ、それも本体ではありませんでしたわね」

「貴様の相方と同じ運命を辿らせてやる。安心しろ」

「問答の余地はなしということですか。空隙の魔女。言っておきますが、わたしを牢に繋いだところでベルゼビュートちゃんは止まりませんわよ」

 むしろ、司令塔を失い制御不能に陥る。これだけの巨体だ。歩くだけで街を壊滅させることも十分に考えられる。

「ああ、この心臓部が魔力炉心になっているようだからな。それくらい、見れば分かる。蝙蝠どもの肉を継ぎ接ぎした、何とも悪趣味な部屋だ」

「この美しさが分からないなんて、センスのなさは服だけにしてもらいたいものですわね」

 挑発に挑発が重なる。傍目から見ればただ言葉を投げかけあっているだけだが、その実、目に見えない多種多様な呪いの類が飛び交っている。二人の魔女を隔てる僅か十三メートルの距離は、まさしく死の川というべき空間に仕立て上げられていた。

「十五、六の子どもにしてやられた貴様にわたしのセンスを理解しろとは言わんよ。貴様の目はどこまでも節穴だ。度し難いほどにな。わたしが、わざわざ貴様と話をする時間を取ってやっているということにすら気付かん愚かさ。もはや笑う気にもならん」

「何を言って……」

 那月の背後で魔力が膨れ上がった。

 それはハルピュイアの魔力。凪が残した眷獣の力だった。

「馬鹿な、その眷獣はさっき!」

「倒した、と思っただろう。実際には、わたしが転移させて引き取っていたのだがな」

 再び現れたハルピュイアは、すでに死にかけていた。度重なるユリカの攻撃を受けて、それでもなおこの世に留まり続けているのは、さすがとしか言いようがない。

「さて、どうするか。この部屋の魔力を暴走させれば、確かに周囲に甚大な被害をもたらすことができるだろう。そうして、わたしの目から逃れる算段だったのかもしれないが、みすみす見逃してやるはずもない。考えなしの馬鹿魔女め。これまで貴様が出し抜いてきた三下どもとわたしを一緒にするなよ」

「南宮那月……ッ!」

 眷獣が召喚される。もはや何を召喚するのか指定する余裕もない。出せるだけ出して一斉に攻撃を加える。少しでも那月の目を眷獣に向ければ、脱出の可能性は高まるのだ。しかし、那月はあっさりとその場を去った。空間転移をして、ユリカの眷獣軍団の攻撃から逃れたのだ。残されたのは凪が召喚した手負いのハルピュイアだけだ。

 そのハルピュイアが遂に最後の力を振り絞った攻撃を放つ。白い光が満ち溢れ、眷獣が魔力に回帰する。

 自分自身の魔力すらも贄として、時間遡行の能力を肉壁に叩き付けた。効果は覿面だった。肉室を構成していた吸血鬼の肉があわ立って、壁面から老若男女様々な身体の部品が湧き出してくる。ホラー映画のような光景。その意味をユリカが誰よりも理解していた。

「き、さま……!」

 ベルゼビュートに命じて眷獣の能力に対抗させようとする。それすらも、時間遡行の前には無力でしかない。肉壁は瞬く間に吸血鬼に還元された。形を取り戻した吸血鬼たちは那月の魔法陣に吸い込まれてどこかへ消えていく。ベルゼビュートの胸にぽっかりと大穴が開くまでに十秒とかからなかった。

「チェックメイトだな、ユリカ」

 もはや眷獣を支配することはできず。力の源のすべてを失ったユリカには那月に抵抗する手段は残されていない。紫色の鎖に身体を縛られて、呆然とするしかなかった。

「何故、このような……ところで」

 問答の余地はない。那月は彼女と言葉を交わす必要性を感じない。よって、ユリカに声をかけることもなく、彼女の身体を監獄結界に叩き込んだ。

「■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 甲高い叫び声を上げるベルゼビュート。魔力源と主を同時に失って、狂乱しているのだ。身動きは取れず、放っておいても消えるだけ。だが、最後の悪あがきに何かしらの毒なり攻撃なりを放たれても困る。

 那月からの合図があった。

 地上からそれを見上げたのは東雲だった。金色の髪を掻き揚げて、唇を吊り上げる。

「来た来た、待ってましたよナツキちゃんッ」

 小さな身体に溢れんばかりの大魔力。

「使えるときに使っておかないと、もったいない。凪ちゃんばかりにカッコイイとこ持ってかれるわけにもいかないし、ねッ」

 吹き荒れる魔力風が周囲の木々を凍結させる。

 立ち上がるのは氷の眷獣シバルバー。見た目は巨大なサイの骨だが、全身が氷でできている。美しく輝く氷の死だ。

「久しぶりの大盤振る舞い! 凪ちゃんと萌ちゃん苦しめたあんたは、即刻シバルバーに墜ちて死ねッ!」

 晴れ晴れとした笑顔で死の宣告。雄叫びは凍える風となり、サイの眷獣は鋭い角をベルゼビュートの腹部に突き立てる。身動きの取れないベルゼビュートにこれを防ぐ術はなく、体内から一瞬にして氷付けにされて砕け散ったのであった。

 


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