テロ事件の後、暁の帝国は比較的速やかに平穏を取り戻していた。
それは、テロの首謀者がアルディギア解放戦線であり、そのアジトが暁の帝国内に存在しなかった、あるいはあったとしてもすぐに鎮圧されたからであった。それは一から海上の造営された人工島を基盤にした国家だからこそであろう。
しかし、クリスマスという重要な祭日を逃した商業関係者の落胆は大きく、その反発もあってか通常二十八日には閉まる店が開業していたりと、なくした稼ぎを取り戻そうという動きが広がりを見せている。
結果的に年末を控えて、世の中は例年以上に騒がしくなっているようだ。
テロの数日後には、歳末セールの報道が情報番組の中心になっているというのは、如何なものかと思わなくもないが、今回のテロが局地的なものに終わり、尾を引かなかったことや一般人にはほとんど危害が加わらなかったこともあるのだろう。
意図的に明るい話題をテレビが提供しているようにも見える。
テロ事件に少なからず関わったから、穿った見方をしてしまうのだろうかと、東雲は思う。
だらだらと流れるテレビの電源を消した東雲は、紅のポンチョを着て外に出た。
一月を目前に控えた暁の帝国のタワーマンション五十一階は、南国とはいえ冷たい風が吹き荒んでいる。今日は天気もよくないので、肌寒かった。
東雲は金色に輝く髪を風に靡かせて、足早に渡り廊下を歩き、扉三つ分移動する。この階にあるすべての部屋が暁家の所有になっている。それぞれに姉妹とその母親のプライベートな空間が与えられているのである。
東雲が訪れたのは、そのうちの一つ。萌葱と浅葱の家であった。
「入るよー」
と、声をかけてから返事を待たずに玄関を跨いだ。
玄関の前に真っ直ぐな廊下があって、その向こうにダイニングキッチンへの入口がある。
一般家庭にもよくある構造である。
ワンフロアが丸々暁家のものなので、家というよりも部屋という感覚だ。部屋の中にさらに個別の部屋がある。リビングとして使われる洋室の扉を押し開けると、自分と同年代の少女が二人いた。
萌葱と紅葉である。
長女萌葱は高校デビューに発奮して髪を明るく染めた姉妹のファッションリーダー。紅葉は長く深い黒髪と物静かな言動が年齢以上に落ち着いた雰囲気を醸し出している暁家の次女であった。
萌葱は最近発売したばかりの携帯ゲームに熱を上げ、紅葉はコーヒーカップを傍らに置いて、何やら勉強中だ。
「何か、酷いな」
扉を開けた直後に、東雲は呆れたように呟いた。
「いきなり何よ」
萌葱が顔を上げて、東雲に問う。
「花の女子高生が、せっかくの冬休みにゲームと勉強とか。色気なさすぎじゃない?」
「仕方がないでしょう。外出禁止なんだから」
顔を上げた紅葉が、抑揚のない声で言う。
「好きで篭ってるわけじゃないっての」
さらに、萌葱も紅葉に追随して答える。
テロの影響は世の中にはさほど大きくでなかったが、皇室がテロの標的にされたこともあって、皇女たちはマンションに缶詰状態にされていた。
それはテロから身を守るためだけでなくマスコミを初めとする世間の好奇の視線から守るためでもあった。テロさえなければ、クリスマスも年末年始も恙無く過ごせていただろう。青春の一ページを飾る女子高生の一年目を、このような不本意な形で過ごすことになったのだから、萌葱も紅葉も不快感を隠せない。
「大体、外に出られないのはあんたも同じでしょ」
「まあ、そうだけど」
萌葱の指摘は正しく、東雲もマンションから外には出られない。そのように言い含められている。
「お茶貰っていい?」
「お好きにどうぞー」
東雲は、冷蔵庫の扉を開いて中を覗き込んだ。
ウーロン茶と水出しの煎茶がペットボトルに入れられている。東雲は少し悩んでから、煎茶を選び、コップに注いだ。
「このお茶どこの?」
一口飲んでから、東雲は萌葱に尋ねた。
「知らない。そこのスーパーで買ったヤツ」
「スーパーで買ったの? マジで?」
「何? 不味かった?」
「いや、そうじゃないけど……」
東雲は舌が肥えているというわけではないし、南米暮らしが長いのでお茶の味の違いをいまいち理解していない。しかし、
「ここ、一応王宮なんだよね」
「マンションだけどね」
「うーん、この庶民派……」
こうしていると、第四真祖の娘であることを忘れてしまいそうになる。
高層マンションの最上階を独占しているという時点で一般家庭を超越しているとはいえ、それはそれなりの資産家ならば可能な範囲の贅沢である。
それ以外の面は至極庶民的だ。娯楽はゲームか読書かインターネット。食事はコンビニかスーパーで仕入れた食品で賄っている。
専属の料理人もメイドも執事も暁家には存在しない。護衛として攻魔官が就いている程度で、日常生活は皇女たちが自分で取り仕切っている。母親の多くが仕事で帰りが遅くなるので、夕食を自分で用意することも珍しくはないし、ゴミ出しも自分たちでやっている。世界一庶民的な皇族などと揶揄される由縁である。
「ジャーダ様のところじゃ、いいもん食ってたんでしょ。お姫様」
「そんな言い方しないでよ。別に普通よ、普通。第四真祖の娘ってのも、あまり知られてないしね、わたしは」
存在が正式に公表されていない東雲は、注目度も格段に低い。
その理由は母親が先代の第四真祖であり、両親が共に第四真祖であるという異例中の異例の存在だからである。言わば「純血の第二世代」であり、そういった事例は他に例がない。世間がどのような反応をするか分からない状況だったため、発表が見送られた。
彼女の存在を知っているのは、現在ではごく一部の政府要人のみとなっていた。
「まあ、でも一応メイドはつけてもらってたよ」
「うわー、めんどくさ」
「そこでそういう感想が出てくる時点で、お姫様向いてないよ。パフォーマンスでもそういう人を連れ歩く必要はあるんじゃないの?」
心底嫌そうにする萌葱に東雲は苦言を呈する。
今後、暁の帝国が成熟していくにつれて、そして萌葱達第二世代が成長し、様々な役割をこなさなければならなくなるにつれて、見栄えをより気にする必要性が出てくるだろう。
高校生ともなれば、自分の置かれている立場を理解し、今後の展望に思いを馳せることはできる。が、それと同時に一番遊びたい盛でもある。
「ところで、東雲はいつまでこっちにいられるのかしら?」
と、不意にシャーペンを止めて顔を上げた紅葉が尋ねた。
「冬休みいっぱいかな。紅葉ちゃんは?」
「三が日終わったら帰るわ」
「ちょっと、早くない? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「わたしの学校は、四日から授業があるの。講習ということになっているけれどね」
「進学校ってのも、大変なもんだ」
まるで他人事のように、東雲は気のない相槌をする。
東雲が通う学校も、高い偏差値を誇る名門校ではあるが、自由な校風のために授業自体はきつくない。ただ、その分だけ自分で勉強しなければついていけないというだけで、学校生活が個人の能力と努力に左右されるというだけだ。そして、東雲自身はさほど成績は悪くない。恥ずかしくない程度の学力を維持するための最低限の自学自習を常日頃からしているのであった。
「彩海学園は、七日から。まあ、一般的かな」
「七日まで、缶詰なん?」
「それまでには解除されるでしょ。されるよね? クリスマスを病院で過ごした挙句、冬休みいっぱい家の中に閉じ込められるとか、ないよね?」
女子高生の一年目の冬休みを、なんの楽しみもなく終えることになる予感に萌葱は震えた。
「可能性がないとは言えないのが、辛いところね」
「まあ、萌ちゃんは一番の被害者だし、身の安全を考えればしばらく出られないのは仕方がないかと。冬休み終わったら学校に行けるだけマシなのでは?」
「そんなー」
妹二人の容赦のない回答に萌葱はがっくりと項垂れる。
「あたしもリア充っぽいことしたいのー」
「まず彼氏を作るところから始めないといけないわね。立場的にも、前途多難ではあるけれど」
萌葱はただの女子高生ではないのだ。
暁の帝国の皇女である。それも、第四真祖の第一子である。それだけに、人間関係に大きな制約がかかっているのは否めない。
萌葱自身が、一線を引いているというのもあるし、周囲が気を遣っているということもある。いずれにしても、萌葱は見た目がよく、性格にも難がないというのに、未だに色恋沙汰は皆無なのであった。
「ていうか、相手がいないのはみんな似たようなものでしょうが。あんたはどうなのよ、紅葉!」
「わたしはそういうのには関心がないから」
熱もなくあっさりと紅葉は答えた。
「血を吸いたいとか何とか言ってたくせに?」
「それはそれ、これはこれ。彼氏とか作ったら、デートとかしなければいけないくて、いろいろと面倒じゃない」
「それを面倒がってたら、一生彼氏できないでしょうが……」
「今のわたしの理想は、そうね。気が向いたときに、血を吸わせてくれる友だち……くらいがいいわ」
「あんたに都合がいいだけなのでは?」
「そんなことないわよ。吸血は相手も気持ちよくなるって話だし、十分にWin-Winでしょう。ねえ、東雲」
話を振られた時、東雲はちょうどコップに注いだお茶を飲み干したところだった。
コップをテーブルに置いた東雲は、紅葉の問いかけに頷いて同意した。
「血を吸うにも上手い下手はあるみたいだし、相性もあるって言うけどね。で、二人は血を吸ったことあるの?」
「ない」
「まったく、ないわね」
萌葱と紅葉は同時に残念な返答をする。紅葉は何を考えているのか分からないが、萌葱は大分堪えているようではあった。
「この面子、ちょっとダメダメ過ぎない? 妹たちは、凪ちゃんから血を吸いまくってるのに、姉がこれでは……」
この半年と少しの間、暁家は不運に度々遭遇していた。テロに事件にと大忙しで、姉妹のほぼ全員が巻き込まれている。
そして事件を解決する際に、誰かしらが凪から血を吸って能力を高めている。零菜以外は、緊急事態ということを理由に吸血したもので、色気のある話ではないが姉三人が未経験であるのに対して妹たちは吸血の感触と味を知ってしまっている。
「あんたも似たようなもんでしょうが」
と、萌葱は東雲に食って掛かる。
相手も自分と似たようなものという言い分は大変低次元の反論だが、萌葱にはそれくらいしか言葉がなかったのだ。
対する東雲は堪えた様子もなく、泰然としていた。
「血を吸ったことはないけど、キスはしたし、血も吸われたし、萌ちゃんよりは進んでるけど?」
「は、はあ!? 何それ、聞いてないんだけど!?」
萌葱がソファの背凭れから身を乗り出して叫んだ。
紅葉も声にこそ出さなかったものの、驚いたように目を見開いた。
「相手は? つーか、血を吸われたってどういうこと!?」
「相手? そりゃ、凪ちゃんに決まってるでしょう。他に誰がいるっているのよ」
至極当然のように言う東雲に、萌葱は愕然とした。
「は? へえあ?」
「ああ、そういうこと」
パニックになる萌葱とは裏腹に、紅葉は得心したようだ。
「萌葱を助けに行く直前ね。凪君が、吸血鬼に近付いたって聞いていたから、何があったのだろうかとは思っていたのだけど」
「うん、わたしの血を吸ったの」
東雲は頬をほんのりと紅くしながら、首筋に摩る。凪に噛まれた箇所には、それを匂わせる痕は残っていない。
「ちょっと待って。凪君に吸血能力はなかったはずだけど!」
「もともと吸血鬼の力があるんだから、ないってことはないのよ。ただ、封印されていただけで。それをナツキちゃんが解除したから、今はもうばっちり吸血もできるって寸法よ。わたしの血は、凪ちゃんの力を目覚めさせる呼び水だったってわけね。まあ、最初は吸血できないから口移しでしたわけだけど、ね、ふふ」
「…………?」
「あら、萌葱がショートしたわ。あまり、過激なこと言っちゃダメでしょう。萌葱は純情なんだから」
「今時の女子高生で純情とか、絶滅危惧種なのでは?」
「絶滅危惧というだけで絶滅したわけじゃないから」
何と言うこともないように紅葉は言う。
そういうものかと、東雲も取り合わなかった。
「それで、どうだったの?」
「何が?」
「吸血よ。吸血鬼なのに、血を吸われるのはどうかと思うけど……気持ちよかった?」
「そりゃあ……」
東雲は、凪に首を噛まれたときを思い出す。
再び自分の首に手を当てて、血を吸いだされた感覚に思いを馳せた。
「何か言うの恥ずかしいなぁ」
「いいじゃないの、ここにはわたしたちしかいないし」
「そういう問題?」
「そういう問題」
「うーん……んー……まあ、最初は痛い」
「やっぱり痛いの」
「注射みたいな感じ。その後、こう、すぐに痛みが引いて、何ていうか、えーと……まあ、力抜けるっていうのかな、ガクガクするっていうのか、超やばかった。トイレ行っといてよかった」
ナイショ話をするように声を潜めた東雲。
「あんたは血を吸われて何ともなかったの?」
萌葱がソファの背凭れから身を乗り出して尋ねてきた。
頭がショートしていたのは最初だけで、再起動してからは俄然興味を抱いたようだ。
「わたしは特に何とも。あ、でも何か目覚めそうだった」
「目覚めるって何」
「いや、何かこう新しい世界というか。あー、帰る前にもっかい血ぃ、吸われてー」
東雲は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
吸血鬼は通常、血を吸われることはない。それどころか、血を吸われることに対して抵抗感を抱くのが一般的だ。それは、血を吸われると相手に自分の全存在を食い尽くされる可能性があるからであった。上書きと呼ぶ現象だ。暁古城が第四真祖の力を得た経緯も、これに近いものとされている。相手のすべてを食らい、その力を我が物とする。
もちろん、必ず上書きが発生するわけではない。
ただ血を吸い、魔力を補給するだけであれば上書きは発生しない。吸血鬼同士のカップルでは、互いに血を吸い合うこともあるにはある。しかし、一般的とは言い難い。
「吸血鬼が血を吸われる快楽に目覚めてどうするのよ。アブノーマルすぎる」
「むしろすごい興奮する」
「紅葉、妹が変態になったんだけど、どうなのよ、これ」
「もともとでしょう。スイッチが入っちゃっただけで、才能はあったのよ、きっと」
「みんなして酷いこと言うな。自分らだって、血を吸ったり吸われたりあれこれしたいんでしょうに」
心外だとばかりに東雲は唇を尖らせた。
「だいたいこちとら思春期だぞ。エロイこと考えて何が悪い」
「何か開き直ったぞ」
「リア充したいって言ってる萌ちゃんだって似たようなもんでしょ」
「違うわッ。もっと、いろいろとあるでしょ。デート? とか電話? とかで得られる充足感的なヤツが」
「行き着くところはエロイことじゃん。恋愛なんて最後はそこでしょ」
「頭ん中ピンク色過ぎない、ちょっと……」
「それ抜いたら友達でいいじゃんって話になるじゃない。どれだけ仲がよくてもこの人とは無理だなってパターンあるでしょ」
「それは……まあ……」
身も蓋もない話ではあるが、東雲の言い分も分かるだけに口篭ってしまう萌葱。しかしながら、欲望に真っ直ぐな東雲の価値観に萌葱はドン引きだ。
紅葉は相変わらずの感情の掴めない微笑みを浮かべた。
「まあ、別に相手が誰でもいいってわけじゃないでしょうし」
「そりゃ、もちろん」
相手を選んだ上での発言である。そもそも誰でもいいというのは、問題がありすぎる考え方であり、東雲もそのように考えたことは一度もない。
「今の時点じゃ、ただ妄想癖があるだけよ。別に脳みそがゆるゆるなだけで実害はないでしょう」
「今日一番辛らつだな紅葉ちゃん……」
もとより毒舌なところがある紅葉だ。傷付けるつもりで言ったわけではないのは分かっている。脳みそゆるゆるというのも、自覚はあるので反論はしない東雲であった。
「血を吸う練習って名目なら、凪君に頼めばやらせてもらえるかしら」
不意に紅葉がそんなことを言う。
「性格的に断わらない気がする。でも、内心でどう思ってるか分からないけど」
「それは、確かにそうよね」
東雲の答えに紅葉は同意した。
凪は頼み事を断わらない性格だ。身内からの頼みなら、大抵のことは引き受けてくれる。積極性のない性格で気持ちの上がり下がりが少なく、ぶっきらぼうなところがとっつき難く思われるが、生来のお人好しで、理由さえあれば自分にとって不利益なことでも受け入れることができる。
「ただ、頼みにくいわ。凪君の出生のことを考えると」
「まあ、それは、ねえ……」
凪はある種の人造人間でもある。
ホムンクルスではなく、クローンに近くデザインされて生まれた存在だ。凪沙から生まれはしたが、生まれる前から凪沙の身体に残った『呪い』を受け入れる器としての機能を期待されていた。
その大元となったのは、プレイヤーという自己犠牲を前提として運用される対吸血鬼用の人造生命体の研究である。凪の性格は生活歴もあるが、根本の部分にこの研究成果が反映されていると見るべきであった。
ある程度の我侭を受け入れる広い度量は、凪の意思ではなく遺伝子レベルで操作された結果なのではないかと思ってしまうのも無理はない。
「凪君は血を吸うの、初めてだったはずよね? それで、上手かったわけ?」
「……まあ、わたしも血を吸われたのは初めてだし、何とも言えないけど……けっこう良かった、よ」
改めて口にすると気恥ずかしい。東雲は紅葉から視線を逸らした。
「東雲からすると合格ということ。凪君からしたら、どうかしらね」
「どういうことよ?」
「内心で、『東雲の血、すげえ不味い』とか思ってるかもしれないわ」
「そ、そんなこと思ってるわけないじゃん! 健康診断ちゃんと受けてるし、血糖値も中性脂肪も問題なかったってば!」
焦ったように東雲は声を荒げた。
今まで考えたこともなかった可能性を提示され、ガツンと頭を殴られたような気がした。
そういえば、きちんと感想を聞いていなかったと今になって思い至る。とはいえ、自分の血の味はどうだったかなんて聞けるはずがない。
「もし不味いとかほんとに言われたら、立ち直れない自信があるわ……」
その場面を想像して、東雲は戦慄する。
そうなったら、死ぬ気で生活習慣を改善するしかない。
とはいえ、何がいい血液なのかは分からないのだが。
「吸血鬼が血を吸われるときのことを考えるのも如何なものかと思うけど」
と、萌葱が今更ながらにツッコミを入れる。
「でも、男子にお前不味いからなあとか言われたくないじゃん」
「確かに……」
萌葱は血を吸われることには関心がないが、もし万が一にもそういう場面になってしまったら、否定的な感想ではなく、肯定的な感想を言ってほしいものだ。
自分の身体のことなので、「料理が不味い」と言われた場合以上の衝撃を受けそうではあった。
「じゃあ、味見してみればいいのではなくて?」
「何言ってんの、紅葉?」
唐突な紅葉の言い分に、萌葱が問い返した。
「だから、事前に味を見ておこうという試みよ。吸血練習にもなるでしょう。とりあえず、萌葱の血をわたしが吸うのはどうかしら?」
「何言ってんの、マジで」
萌葱はあからさまなドン引きであった。
妹に噛み付かれて血を吸われるということに対して、まったくと言っていいほど興味関心が湧かないどころか嫌悪感すら覚える始末であった。
そこで、インターホンが鳴る。マンションの入口ではなく、家の扉の前に人がいるのだ。ここまでやってこれるのは、親族の誰かだ。
「あ、鍵かけてたわ」
「じゃあ、開けてくる」
東雲が家に上がる際に鍵をかけていたため、訪問者は家の中に入れなかったのだ。萌葱は、ソファから降りてゲーム機をクッションの上に投げ出すと、玄関に向かって去っていった。
「あらら、振られちゃったね」
「そうね、残念」
紅葉は小さく笑って、頬杖を突いた。
「じゃあ、あなたの血をもらおうかしら」
「ダメー」
「あら、そう。残念。わたしはアリなのだけれど」
「ガチ百合だったの? 姉妹なんだけど?」
「百合じゃないわ。両方イケる口ってだけ。萌葱と凪君がツートップ。東雲は次点だから、安心してよくてよ」
「どこにも安心できる要素がないんですけど」
そう言いながら、東雲は携帯端末を取り出した。
無料ゲームのアプリを立ち上げつつ、紅葉との何ということのない会話を続けた。
「わたしのこと散々に言ってくれた割に、紅葉ちゃんも相当ぶっ飛んでるんじゃないの……」
「かもね」
紅葉の視線が廊下の方に向けられる。
扉の向こうから、二人分になった足音が近付いてくる。
扉が開いて、入ってきたのは零菜――――ではなく、よく似た新入りであった。
「おじゃまします」
「空菜ちゃん、いらっしゃーい」
昏月空菜は零菜を基にして作られたという人造吸血鬼だ。外見も文句なしに零菜そっくりで、遠目からでは見分けはつかない。
空菜は大きなビニール袋を持ってきていた。中にはペットボトルとお菓子の袋が詰め込まれている。
「軟禁状態にあるということで、差し入れです」
「ありがとー。気が利く」
テーブルの上に置かれたビニール袋に東雲が駆け寄る。遅れてきた萌葱が空菜の後ろから、テーブルに広げられた菓子袋を眺める。
「ちょうど口寂しかったのよね。うちにあるのは、粗方食べちゃったし」
「することがないと、ついつい食に向かうものね」
と、萌葱と紅葉が言う。
「凪君の様子はどう?」
「今年中には退院するようです。検査結果も問題ないようですね」
「そっか。良かった」
空菜は凪を見舞った帰りなのだ。
身体そのものが変質した凪は、萌葱よりも入念に検査が行われていた。それだけに、心配もあったが、問題がないようなので安心した。
「じゃあ、わたしはこれで」
「待った待った」
と、帰ろうとする空菜を萌葱が呼び止める。
「せっかく来たんだから、ゆっくりして行きなよ」
「しかし……」
「何か急ぎの用事でもあるの?」
「いえ、これといって」
「じゃあ、いいじゃん。東雲と紅葉とは、あまり話したこともないでしょ」
東雲は南米、紅葉は日本でそれぞれ暮らしている。
そのため、空菜とはまったく接点がなかった。情報として存在は知っていたが、顔を合わせるのはテロ事件の日が最初だったし、それからもさほど会話をした覚えがなかった。
「そうそう、これを機に親交を暖めるのもいいんじゃない?」
「そうね。それがいいわ」
東雲と紅葉も萌葱の提案に乗り気だった。
突然の誘いではあったが、用事がないと言ってしまった手前断わることもできないし、その理由もない。
「分かりました。では、同席させていただきます」
と、半ば事務的に答えて空菜はイスに腰掛ける。
菓子袋が盛大に破られて、何種類もの彩りある菓子がテーブルの上に姿を現した。
新たに空菜が加わって、何があるわけでもない駄弁るだけの一日が過ぎていくのだった。