二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 ピピピ、と甲高い電子音が鳴った。

 机に置いた腕時計のタイマー機能が、午後三時を知らせている。

 零菜は、ノートに走らせていたシャーペンを木製のペン立てに入れて背中を伸ばした。机に向かってちょうど二時間が経過した。ノートには、因数分解の問題に悪戦苦闘した証が長々と綴られている。それを見ただけで、今日も一日がんばったぞ、という気持ちになれる。

 零菜が通う彩海学園は、私立の中高一貫校であり、ここ十年の間に進学校としての名声を高め名門校の仲間入りを果たした学校だ。

 第四真祖の出身校で知られ、その縁からか皇女たちが一様に通っているため注目度が格段に高まっている。

 そんな学校のカリキュラムは進学校らしく、中学三年生の中頃になると授業内容が高校の予習になる。一部を除いて高校受験がないので、学習をどんどん進めてしまうのだ。

 当然、ついていく方は大変な思いをすることになる。帰宅部の零菜だが、決して暇ではなく習い事に時間を取られる中で学習時間を確保し、成果を出すことにはストレスを感じざるを得ない。

「うん、終わり」

 ざっと、ノートを眺めて零菜は満足そうに頷いた。

 受験の心配がないので、三年生の冬休みは課題さえこなせば自由に使える。

 そういったところだけは、受験に追われる通常の中学校よりも気持ちの面では余裕があると言えるだろう。勉強に使う集中力など、二時間も持てばいいほうで、冬休みの課題をやり終えた以上、さらに勉学に励む気は毛頭ない。

 聞けば、母親の雪菜は中学三年生時点で高校卒業レベルの学力があったというが、俄には信じ難いものだ。眉唾物だと零菜は思っていたりする。

 零菜は参考書や教科書を閉じて机の上に放置し、自室を出た。

 慌しい一年が過ぎ去ろうとしている年末に、母が帰ってきた形跡はない。暁の帝国の警察権を司る雪菜は、クリスマスに発生したテロの被害者でありながら、自ら陣頭指揮を取ってその後始末に追われているのである。今年は、年末年始に親戚一同が顔を合わせるのは、絶望的な状況だ。

 リビングの暖房を切っていたので、自室を出るとフローリングの床がひんやりとしていて、肌寒い。今日は全国的に冷え込むようで、寒さに慣れていない南国育ちの零菜は身震いした。

 シン、と静まり返ったリビングの静寂が耳に痛い。

 テレビのリモコンを手にしたところで、零菜は動きを止める。玄関の前を通った魔力の気配は、空菜のものだ。十数メートル程度の範囲内ならば、魔力や霊力の「感じ」から個人を特定することも不可能ではない。

 複数の魔力が萌葱の家に集まっている。萌葱だけでなく、紅葉と東雲も一緒にいるようだ。女子高生三人で集まって女子会でもしているのかと思っていたが、空菜がそこに加わるのは珍しい組み合わせだ。海外で暮らす紅葉と東雲とはほとんど面識がないはずである。

 と、そこでテーブルの上に放置していた携帯が震えた。メッセージアプリが起動して、新着メッセージの存在を知らせていた。

 東雲からの呼び出しであった。

 味気ない短文で、今すぐ集合としか書かれていない。集合場所は、萌葱の家だろう。玄関を出て二秒もあれば行けるので、それ自体は問題ない。ちょうど、零菜は勉強を終えたばかりで、時間を持て余していたこともあって、二つ返事で萌葱宅に出かけることにした。

 

 

 

 家の外は思いのほか寒かった。

 地上五十一階という高所かつ風の強い日ということもあって、体感温度はかなり低い。南国と思って油断していると凍えてしまいそうである。

 東雲がそうであったように、零菜も足早に玄関扉を開けて萌葱宅に上がりこんだ。冷たい冬の風で一瞬にして冷えた身体が床暖房によって足裏から暖まっていく。

「さっむ……!」

 天候に文句を言っても何の解決にもならないのだが、ついつい口に出してしまう不快感。年間の平均気温が十度を下回らない南国で育った零菜にしてみれば、気温の低下は天敵にも等しいのだ。

 リビングにたどり着くと、目に入ったのは乱雑に開けられた菓子袋と脱力気味の姉三人+αである。

 板チョコを割るでもなく、そのまま齧りついていた東雲が零菜を見止め、にやりと笑って手招きする。

「よう来た、よう来た。まあ、そこに座んなさい」

 なんだか良くない気配を感じながらも、零菜は東雲と対面する形でイスに座る。左に萌葱、左斜め向かいに紅葉、右側のお誕生日席に空菜がいて、テーブルは空菜の反対側を除いて席が埋まった。

 座ってから、空菜と目が合った。

「どうも」

「ん」

 空菜との関係は、非常に難しく、決して良好とは言えない。顔を合わせれば挨拶くらいはするし、必要なら話もするが、積極的に関わる仲かというとそうではない。向こうも、零菜を一方的に敵視することはなくなったようだが、時折喧嘩腰になる。

 経緯が経緯だけに、こればかりは一朝一夕には改善しないだろうと零菜は内心で諦めている。彼女自身、空菜を受け入れるには時間がかかると確信しているからだ。

「いきなり、どうしたの?」

 手近にあったグミの袋を開けながら、零菜は尋ねた。

「年の瀬も間近で、思い出話をね、しようとね。ほら、この一年、零菜ちゃんたちも大変だったでしょ?」

「ん、そりゃ、まあね」

 小さなグミを奥歯で噛み締め、零菜は頷く。

 振り返って見ても、かなりハードな一年だった。夏休み前から様々な事件が多発して、帝国内の治安が揺らいだ。零菜が巻き込まれた事件も何件かあって、命の危機を感じたことすらあった。立場上、命の危機に曝される可能性は示唆されていたし、小さい頃は誘拐未遂もあったが、ここ数年ははそんなことを忘れるくらいに平穏だった。

「来年は落ち着くといいんだけど」

「まあ、今年は厄年みたいなもんで、頻発することはないでしょ」

 零菜の呟きに萌葱は楽観的に答えた。

 特区警備隊の治安維持部隊が日夜、中央行政区を中心にして警備を強化している光景にも慣れてしまった。二十年前は世界で最も治安のよい国の一つである日本の一部だったが、それでも多種多様な魔族と人間が混在する絃神島は治安の悪い部類であった。

 暁の帝国となってからも、騒動はどこかしらで起きている。

 それでも、世界規模で見れば、治安は上位に位置しているのであった。

 東雲と紅葉は国外で生活しているので、暁の帝国内で事件が起こっても当事者にはならない。報道や家族友人から後で詳細を聞くだけなのだ。

「うん、ま、それはそれとして、零菜ちゃんに聞きたいことは別にあるんですねー」

「……?」

 口の中のグミを飲み込んで、零菜は何も言わずに東雲に視線を向ける。

 東雲は頬杖を突いて、零菜に微笑みかけた。

「凪ちゃんとキスしたって? それも、ディープなヤツ」

「ッ……んく!?」

 唐突な話題に零菜は喉を詰まらせたような声を漏らした。

「な……! な、それ、は!」

「仲直りしたとは聞いてたよ? でも、まさかねえ、いきなりそんな展開になってるとは思わないじゃん?」

「いや、別に、そんなのは……」

 零菜は昨年まで、凪を避けるように行動していた。今年、一緒に事件に巻き込まれたことで、距離が縮まり、普通に会話できるまでになった。

 そこまでは、東雲も聞いている。

「も、萌葱ちゃん!」

 零菜が食って掛かったのは萌葱だった。

「だって、仕方ないでしょ。つい……」

「つい、じゃなーい!」

 零菜が凪とキスをするに至ったのは、萌葱の悪戯が原因だ。あの場には萌葱と零菜のほかには麻夜もいたが、この場でこの話題が噴出したということは萌葱が口を割ったということだ。

「わたしも、この話は聞いたことがありませんでした。どういうことか、詳しく説明してくださいとのことです」

 と、表情がない割には強い口調で空菜も迫った。

「説明って……単に、萌葱ちゃんが凪君に吸血促進剤を飲ませて、それで変になったってだけで。事故だよ、事故、ただの事故!」

「それはもう聞いてるんで。というか、それだけなら別に萌葱さんから聞けばいいだけです」

「じゃあ、何……?」

「さあ……東雲さんが、いきなり呼び出しただけなので」

 身構える零菜に空菜は曖昧に答えるだけであった。彼女自身も気になっていながら、何が気になるのか理解していないといった具合だ。

「うん、そういうわけだから、零菜ちゃん。ここは一つ、色々と遅れているお姉さんに教えて欲しいんですけどね」

「……何を」

「味とか?」

「ん、く……あ、え?」

「キスをしました。それは、まあいい。で、どんな感じだった? 味は? 感触は?」

「し、知らない」

 零菜は顔を紅くして、仰け反るようにして答えた。

「知らないってことはないでしょう。所謂ファーストキスだよ? 押し倒されて、ねっちょりちゅぱちゅぱしたんでしょ!? 白状しなさい、具体的に! あるいは詩的に! ほら!」

「知らない知らない覚えてない! 全然まったくこれっぽっちも!」

 カッとした零菜は必死の形相で反論する。

「大体、人のことなんてどうでもいいでしょー!」

「人のことだから気になるんじゃないの」

 棒状のチョコをマイクのように零菜に向けて、東雲はグイグイと零菜を追い詰める。

「ねー、空菜ちゃんも気になるでしょ?」

「いえ、ですが、はい、何でも、キスのほかに凪さんの指を舐めまわしたとか。その辺はどうなのか?」

「ちょっと、萌葱ちゃん!?」

 口の軽すぎる長姉に、零菜は改めて抗議の意を示す。

 空菜が口にしたのは、以前、零菜と凪が蜘蛛型の眷獣に追い回された際の出来事である。吸血行為に抵抗感があった零菜は、凪の手から流れた血を舐めて力に変えた。

「否定はしない、と。そうですか。いやらしい吸血鬼(ひと)ですね」

「だ、だれが、いやらしいだ。常日頃から血を吸ってるのに言われたくないんだけど」

 吸血鬼が吸血するのは、当たり前――――ということでもない。

 何十年も前の価値観ならば、まだよかっただろうが、人間との共生が進む現代では前時代的な発想である。対象となる人間に、低確率とはいえ血の従者化の危険があることもあって、無理矢理の吸血は犯罪だ。そもそも、吸血衝動は性欲に起因するところが大きいので、思春期の吸血鬼にとって、吸血行為は憧れであると同時に恥ずかしいことでもあるのだ。

「わたしが血を吸っているのは、身体の問題もあるからです。こそこそ凪さんの家に通って血を吸っていた誰かさんとは違うのです」

「もう半年は経ってるし……て、あれ。あんた、その時にはいなかったような」

 はっとして零菜は再び萌葱を見る。

 萌葱はそっぽを向いて口笛を吹いた。

「ちょっと、萌葱ちゃん、べらべらしゃべりすぎじゃないの!?」

「話の流れで」

「話の流れじゃないよぉ」

 箇条書きで並べると、確かに空菜の評にも反論できない面はあるが、それはそれとして妹のためを思って胸の中にしまっておくのが姉ではないのか。

 好奇心旺盛な女子高生は分かるが、口の軽い女子高生は嫌われるだけだと、内心で忠告する。

「ま、萌ちゃんは萌ちゃんで色々あったし。ほら、病院で、頭撫で撫であったでしょ」

「待って、何で知ってる?」

 萌葱が焦ったように東雲を問い質す。

「見たから。ちらっとだけね。まあ、でも、暁東雲はクールに去ったので、詳しくは知りません」

「ばらしたらクールでもなんでもないでしょうよ!」

「もうそろそろいいかなって」

「よくねえよ。まったく、よくねえよ」

「というか、そこ止まり? その先は行かなかったの?」

「先って何よ。ほんとに、あれは、あれよ? 凪君の優しさよ? 下心とかないから」

「密着してて下心ないって、乙女としてどうよ、それ」

「……そ、そういうこと言わないでよ」

 自分で言ってて、若干傷つく萌葱であった。

 異性として見られていないと言われたようで、がっくりとする。

「じゃあ、そういう東雲ちゃんは、どうなのさ」

「わたし? わたしは、実はもう白状しているっていうか、零菜が来る前に口を割ってるからね。凪ちゃんに血を吸われてヤバかったって話したよ?」

 零菜が反撃とばかりに東雲に尋ねたが、東雲は余裕の表情で答えた。

「血を吸われた? 凪君に?」

「イエス」

「吸血鬼なのに?」

「うん」

「えぇ……」

 零菜は気味の悪いものを見るような目で東雲を見つめた。

「なんか失礼な妹だね」

「いや、普通そういう反応になるのではなくて?」

 姉妹の会話を楽しげに見つめていた紅葉が口を挟む。

 一般的な感性で言えば、吸血鬼が吸血されるのは危険行為である。また、アブノーマルな行為でもあった。少し背伸びをした、大人の女性向けの雑誌には吸血鬼同士の恋愛に於いて確かに互いの血を吸うことを取り上げている場合もある。しかしながら、やはりそれは正道からずれているからこそ燃え上がるのだとしている。とどのつまりは真っ当な行為ではないのであった。

 とはいえ、東雲は遊びで凪に血を吸わせたわけではない。それにはきちんとした理由があって、彼女が口走ったように快楽を覚えてしまったのだとしても、それは想定外の出来事でとして取り扱うべきものだ。その時点では、あくまでも凪の中に眠る吸血鬼の力を呼び覚ますために、最も都合のよい呼び水として東雲の血が適していたというだけであって、享楽的な事情による吸血ではなかった。

「やっぱり、相性がよかったのかなー」

「ちょっと、除夜の鐘で煩悩飛ばしてきなさいよ。このオープンスケベ」

「わたしから煩悩取ったら何も残んないよ」

 などと、萌葱の暴言をさらりと受け流す。

 本気かどうかも分からない発言に、萌葱はため息をついた。別に、東雲が煩悩に塗れていたとしても、それはそれで構わないのだ。吸血も相手が許せばいいだろう。ただ、やはり萌葱の気分は優れない。吸血するのもされるのも、萌葱は経験がない。頭の中で描ける情景には限界があって、こうして話をしていても経験者たちの感想を内心で羨んでばかりだ。

「そういえば、凪君はどうしたのかしら? 今、家に一人でいるの?」

 紅葉が空菜に尋ねた。

「凪さんは、合宿中です。攻魔師候補生の合同合宿ですね。来月、試験があるとか何とか」

「ああ、そういえば、そんな時期ね」

 攻魔師として働くには、中卒以上の学歴が必要だ。身の危険を伴う仕事の割りに早い就労年齢なのは、単に技術職としての側面が大きいからだろう。もちろん、大半が大学や専門学校を出てから就職するのは言うまでもないが、凪のようにもともとの霊力の高さを見込まれて幼い頃から魔術の鍛錬を積んでいた者もいれば、魔族のように身体能力や魔力が種族柄優れている者も存在しているのが、現代社会だ。

 学生をしながら攻魔師として働く者も、かなり少ないが皆無というわけではないのであった。

「笑ってはいけないが始まるまでには帰ってくるって言ってましたよ」

 空菜は、いつの間にか手にしていた携帯用輸血パックから赤々とした血を啜った。


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