二十年後の半端者   作:山中 一

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閑話 二十四年後編

 ――――アツイ。

 

 うだるような熱気と息苦しさに身じろぎする。眩い光がまぶたを通して網膜を刺激した。室温がじりじりと上がっている上に太陽光が直接顔に当たっていて、さらに熱いし暑い。大変に寝苦しくて、零菜の意識は暗闇からあっという間に浮上する。

 零菜はのっそりと身体を起こした。

 両肩に圧し掛かる倦怠感。びっしょりと汗をかいていてシャツが肌に張り付いているのがものすごく不快だ。

「はぁ……ダルイ。なんか頭痛いし……」

 朝から気分が悪い。身体が重いというだけでなく、頭の奥に鈍痛が走っている。風邪でも引いたのかと思いながらベッドから足を出すと、なにやら固い物を蹴ってしまった。からからと音を立てて転がっていくのは、空き缶だった。

「なんこれ」

 零菜の足元には、いくつもの空き缶が転がっていた。

 ベッドのすぐ近くに座卓が置いてあり、その上には空き缶と一升瓶が乗っかっている。食べかけのお菓子の袋も出したままになっている。

 ――――え、何これ。というか、ここどこ……?

 零菜は初めて、そこが自分の部屋ではないことに気付いた。まったく見覚えのない部屋で、足元に転がっているのは、どう見ても酒の空き缶だ。

 種類は様々で、ビールからチューハイ、日本酒、ウィスキーと色々だ。

 ゴミの多い室内は、それに反して日用雑貨が少ない。小さな薄型テレビとノートパソコンの乗った机、漫画やなんらかの参考書が詰め込まれた本棚。クローゼットには、カジュアルな私服のほかにスーツが何着か吊るしてあるのが見えた。

 とりあえず、全体的に見覚えはなかったが、開け放たれたクローゼットの様子から男性の部屋なのだろうということは分かる。

 ――――何これ。え? どういうこと? お酒? え? え? え?

 冷や汗がぶわっと吹き出して、零菜は硬直した。

 ここがどこで、どうしてこんな状況になっているのかまったく分からない。酒の空き缶が転がっている部屋で寝ていたという事実だけは確かにあって、もちろん零菜は中学生なので、それだけでも完全にアウトだ。

 覚えていないが、飲酒したとかいうことになったら雪菜に怒られる等というレベルの話では済まされない。 

 軽くパニックになった零菜は、硬直した頭と身体を何とか動かして現状を把握しようと努めていたところ、背後で、大きな物体が動く気配がした。

 咄嗟に視線を向けて、零菜はさらに絶句する。

 零菜の背後――――つまりは、零菜が寝ていたベッドの壁際で凪が寝ていたのだ。おまけに、上半身裸で零菜に背中を向けている。その身体にはいくつもの古傷が刻まれていて、これまでに彼が潜り抜けてきた修羅場の過酷さを物語っている。眷獣を召喚する度に怪我を負っていた凪は、最近では力が馴染んできたのか負担も軽くなったようだが、過去の傷跡まで消えるわけではない。この生々しい傷跡も、彼が凪であることの証左だった。

 下半身はタオルケットがかかったままなので分からない。今まで気付かなかったのは、零菜が反対側に気をとられていたからだが、こっちはこっちでかなり、いやとてつもなく刺激的な光景だった。

「はうッ!?」

 零菜は一気に顔を真っ赤にして、ベッドから転げ落ちた。

 床に転がっていた空き缶が背中に食い込んで、猛烈に痛い。

「フギッ、んぐッ、あ、ああ~~~~!」

 メキメキと酷い音がした。

 涙目で呻く零菜は、身体を丸めて背中を摩った。

 吸血鬼の身体のおかげで痛みが引くのが早い。もしも人間だったら、零菜が感じた以上の痛みを感じた上、さらに長い時間を悶絶したことだろう。

 吸血鬼でよかった、と零菜は場違いな感想を抱いた。

 それから、零菜はベッドの下から顔を出して、寝ている凪――――らしき人物を眺める。

 確かに、凪っぽくはある。魔力の感じからしても凪と同一だ。だが、どこか違和感もあった。例えば身体付きがちょっとがっしりしすぎているような気がしないでもない。

 もちろん、凪の身体をまじまじと見たことはないのだが。

「ていうか、何で上脱いでんの……?」

 床に落ちているジーンズは、もしかして寝る直前まで凪が履いていたのだろうか。上はどこに脱ぎ散らかしているのか。どこかに落ちているのかもしれないと思って、座卓の下を覗きこむと案の定、服が落ちている。

 手に取ると、それは凪の服ではなかった。大人っぽいベージュのワンピースだ。そして、ワンピースには、黒いひらひらしたレースのついたブラジャーと黒いショーツが包まれていた。

 このショーツがまた特徴的で総レースの花柄だ。可愛らしいが、すけすけでかなりきわどい一品だった。

 恐る恐る零菜は自分のシャツの中を確認する。

 零菜はシャツ一枚だった。下着の類は身につけていなかった。状況から察して、このワンピースと下着は、零菜が身につけるべきものなのだろう。

 これもまた、零菜には見覚えがなかった。

 だらだらと嫌な汗が滝のように流れる。室内の暑さのせいだけでないのは、言うまでもない。

 この惨状については、まったく覚えていない。

 落ち着いて考えようにも、ここに至るまでの経緯を含めて何もかもに身に覚えがなさ過ぎるのだ。

 情報がなさ過ぎて、どう動いていいのかまったく分からない。

「ん……」

 凪が寝返りを打った。掛け時計の秒針の音だけが、静かに響く部屋の中では、その音すらも大きく聞こえてくる。

 如何にも眠そうにした凪が、目を開ける。髪は寝癖がついてぼさぼさで、眩しさに目をショボショボさせている。

 そんな寝起きの凪と零菜は目を合わせた。

「あ、あの……」

「あー……零菜か」

「あ、うん……」

 声の感じからしても、やはり凪なのだろう。

 少ししわがれた声なのは朝一番だからだろうか。

 凪は、時計に目を向ける。

「んだよ、まだ八時か」

 と、呟いたが、起き上がろうとせず、二度寝しようとする。

「あの! ぇと、今日、休日だったっけ?」

 と、零菜は恐る恐る尋ねた。

 零菜の記憶では、まだ冬休みなのだが、窓の外から見える景色は、妙に夏めいている。南国の暁の帝国にも、一応四季はあって、街路樹の若々しい緑は初夏を思わせる。季節すら、零菜の昨日までの記憶とずれているようだった。

 零菜に問われた凪は、怪訝そうな顔をする。

「……今日、木曜だぞ」

「そ、そうだっけ? あれ、学校は……?」

「零菜、今日講義あったっけ? 今期、木曜は完全に空いてんじゃなかった?」

 今期、とはどういうことか。そもそも講義という言い回しからして、馴染みがない。

「大丈夫か? 寝ぼけてんの?」

 と、凪は怪訝な顔をして身体を起こした。

 零菜の知る凪よりもちょっと筋肉質な身体つきが目に毒だ。零菜は視線を逸らしつつ、大丈夫、と誤魔化すしかなかった。

 そして、零菜は決定的なものを見つけてしまう。

 それは、視線を逸らした先にかかっていたカレンダーだ。

 一月ではなく、六月のカレンダーである。さらに問題なのは、暦だ。

 ――――……!?

 そのカレンダーが、本当に今日この時点でのものであるならば、実に四年半の月日が進んだ計算になってしまうのだった。

「わ、わたし、顔洗ってくるよ……!」

「ん? ああ……」

 零菜は、逃げるように部屋を出た。

 ベッドが置かれた寝室の隣にダイニングキッチンがあり、そこを出るとすぐに玄関だ。間取りを見ると、極普通の1DKの賃貸住宅だということが分かる。

 どうやら、ここが「凪の家」であるらしい。

「何が起こってるの……?」

 状況を把握しようとしているのに、事態はますます混迷を深めている。

 一先ず、凪から距離を取った零菜は、ふらふらとした足取りで家の中を見て回る。といっても、二部屋しかなく、後はトイレと浴室があるくらいだ。ダイニングキッチンの飾り棚には、家族写真が飾ってあって、学生服を着た凪や零菜たちが楽しそうな表情を浮かべている。写っているのは、皆、零菜の記憶にある顔立ちよりも大人びているように見えるし、凪の身長は古城に並んでいる上、瞳と夏穂に至っては、別人のように大きくなっている。零菜の記憶では幼稚園児だった瞳と夏穂だが、この写真では小学校の中学年くらいにはなっていそうだ。

 悪い夢を見ているような気分だ。

 顔を洗えば、一気に夢が覚めて現実に戻れるのではないかと淡い期待すら抱いている。

 脱衣所の洗面台を探し出して乱暴に顔を洗い、水滴に顔を濡らしたまま鏡を見つめる。

「なにこれ。朝起きたら、未来に来てたって意味不明なんだけど」

 生ぬるい水道水でも目覚ましには足りず、独り言を呟いてみても何も変わらない。

 鏡に映っている自分の顔は……少し大人びているが、記憶にある零菜の顔に近しい特徴がある。というか、雪菜によく似ていて、嬉しいような嫌なような複雑な気持ちになってしまう。

 先ほど目に入ったカレンダーの日付が正しければ、零菜の記憶から四年半が経っている。俄には信じられないが、零菜が寝ている間に仕掛けるドッキリにしては、手が込みすぎている。

「特に問題なく進学してたら大学二年生か……」

 タオルで顔の水気を取りながら、そんなことを呟く。

 状況が掴めないのは、変わらない。

 浦島太郎になったような気分のまま、あえて今が現実であると受け入れるのであれば、零菜は大学二年生……であって欲しい。

 浪人せずに大学に行けていれば、そうなっているはずなのだ。

 見ず知らずの人の家。ここに未来の凪が住んでいるらしい。

 洗面台の隣に置いてある白い化粧棚も気になる。

 化粧水とかファンデーションとか、女物の用品も化粧棚に入っているし、歯ブラシも何種類か使用中の物が置いてあるのだ。

 男の一人暮らしという感じがまったくしない。

 常時、誰か――――それも女子複数人がこの家に寝泊りしている環境だと断言できる状態だ。

 ここが凪の部屋だと仮定して、これはいったいどういうことか。

 釈然としない気持ちのまま、零菜は脱衣所を出る。

 郵便受けに新聞が投げ込まれていたので、ついでに回収し、洋間に向かった。

 

 

 新聞の日付は、やはり零菜の記憶よりも四年半後になっている。

 テレビ欄を見ると、知らない番組が大半だ。知っている番組もちらほらとあったが、気休めにもならない。

「服、着ないと」

 何をするにしても、一先ず、この格好を何とかしなければならない。寝室に戻った零菜は、凪が二度寝しているのを確認してから、先ほど発見したきわどい下着とワンピースを身につけた。

「何かスカスカするなぁ……」

 本当に、これは自分が着ていた服なのだろうか。

 特にショーツ。これはないだろうと思いながらも、それ以外に女物の服は見当たらなかった。

 空き缶だらけの寝室から、洋間に戻る。

 学生の一人暮らしにしては、広い家だ。零菜は、大学生が暮らす学生アパートの相場を知らないが、中学生の感性からしても、この部屋はそれなりにいいところだと察しがつく。

 イスの上に無造作に置かれた黒いショルダーバッグを発見した。男物とは思えないので、きっと自分のものだろうと思う。

「やっぱり」

 バッグの中には財布があって、そこには各種カードが入っている。そのカードの中に学生証があった。

 零菜の顔写真が入った学生証には、『帝国総合大学魔導学部攻魔師養成課程魔導犯罪史専修』とある。だらだら長い名前だが、要するに攻魔師の資格を取得できる学部ということだろう。

 もともと、研究機関の集合体である絃神島を中心に形成された暁の帝国は、国土内に多くの研究機関を抱えたまま成長している。その結果、旧絃神島と称される地域には、学園都市というべき研究機関、大学等の密集地が誕生した。

 その中でも最高峰の大学が帝国総合大学だ。

 どうやら、零菜は無事にSランクの大学に合格できたようだ。

 自分のことと言っていいのかどうか分からないが、ちょっと安心してしまった。

 目が覚めてから、一時間ばかり。時刻はちょうど午前九時になった。朝の情報番組が終わり、通販番組が増えてくる。

 この流れは、いつの時代も変わらないらしい。

 見ず知らずの人の家で目覚めたのならば、かなりのパニックになっていただろうが、幸いにして凪がいる。零菜の知る凪とは違うが、知り合いがいるのといないのとでは気持ちの持ちようが大きく異なる。

 比較的落ち着いて、頭を整理する時間を作れたのは大きかった。

「どうにもならない」

 というのが、一時間弱の時間を使って辿り着いた結論だった。

 分かったことはここが零菜の視点から未来に当たる時間軸だということだけだ。

 零菜の意識が時間を超えてきたのか、それともただ四年半の記憶を失ってしまっただけなのか。ここで悩んでいても結論は出ない。

 零菜の場合厄介なのは、タイムスリップが不可能ではないということだった。

 零菜の血に宿る規格外の力。天球の蒼(エクリプティカ・サフィルス)――――時空間制御の力を持つ眷獣である。

 何らかの形で、この眷獣の力が作用しているのだとすれば、精神のみの時間跳躍もありえなくはない。ただ、この眷獣の力は今の零菜では完全に制御も把握もできていないので、可能性があるとしか言えないのであった。

 零菜はこの時代の自分の携帯端末を操作する。

 ロックがかかっていたが、虹彩認証だったのが幸いして解除できたのだ。

 さすがに四年程度では、携帯の変化は余りないようで、操作に苦慮することはなかった。

 大学の講義の登録や各種連絡は、専用アプリで管理するらしい。

 凪が先ほど言ったとおり、零菜の時間割表を見る限り今日――――木曜日には授業が一つも入っていない。ついでに明日もまっさらだ。

「大学って暇なのかな?」

 時間割表は、かなり空白が目立つ。月曜日に四コマ講義があるのが最多で、火曜日は朝一の講義が終わるとそれ以降はまっさらだ。

 毎日、一限から五限までぶっ通しで授業を受けている中学生から見ると、大学生のこのスケジュールはスカスカと評するほかない。

 正直、羨ましい。

 これは、毎日が日曜日といっても過言ではない。遊び放題ではないか。

 画面をスワイプして、アプリを見ていく。何か、零菜の助けになる情報を探すためだ。メールやメッセージアプリを見ていくと、自分も知っている名前がたくさん残っている。中学時代の友人と、大学生になってからも頻繁にやり取りを重ねて会っているらしい。

 凪とのメッセージのやり取りも見てみた。

 大学生になった自分と凪との関係が、これで見えてくるはずだ。ちょっとドキドキする。他人の携帯を盗み見るのは極悪非道の行いだが、これは自分の携帯だ。だから、問題ないと言い訳する。

「んー……ん?」

 直近のメッセージを表示すると、写真データが添付されている。

 それを零菜は開いて拡大し、零菜の手が止まる。

 それは零菜自身の写真だった。ただ、肌色成分が多い。カメラの位置は零菜の斜め上で、その写真は零菜が自分で撮影したものと思われた。

 恥ずかしげな表情をしつつも嫌そうではない。

 今、零菜が身につけている「ちょっとどうなの?」と思いたくなるようなきわどい下着を身につけた、零菜自身の自撮り写真だった。

 おまけに、写真には『着てみたよ、どうかな(゚∇^*) テヘ♪』とメッセージが書き込まれている。

「こ、れ……な、何……!?」

 絶句しかない。

 てへ♪ じゃねーよ、と内心でつっこみを入れる。

 送り先はもちろん凪だ。

 それ以上、零菜はアプリを見ていられなかったので、すぐにアプリを落とした。

 残念な事に、零菜は四年半の月日を重ねて知能を低下させてしまったらしい。

 携帯をテーブルに置いて肩を落とした零菜の背後で、ばたんとドアが開く音がする。

 凪が起きてきたのだ。

「……おはよう」

 少し、警戒心を滲ませて零菜は挨拶をする。

「おはよう、零菜」

 凪はきちんと服を着ていた。Tシャツとジーンズというラフな格好だ。

 起き掛けに顔を洗ってきた凪は、少しだるそうにしている。

「体調悪いの?」

 と、牛乳を飲む凪に零菜は聞いた。

「ちょっと、頭痛い。二日酔いってヤツ?」

 飲酒について、なんでもないことのように凪は言う。

 やはり、寝室に転がっていた空き缶の山は酒盛りの名残だったのだ。

「零菜は、大丈夫なのか? 昨日も、かなり飲んでたけど」

「え? うん、まあ……」

 嘘だった。

 ちょっと体調不良気味だ。これが、噂に聞く二日酔いなのか。吸血鬼用のアルコール飲料は、後に残ると聞いたことがあるが、本当のようだ。

 ともあれ、そんな体調不良が気にならないくらい、今の零菜の置かれている状況は厳しいものがあった。

「何か様子、おかしくないか? 何かあった?」

 凪は目ざとく零菜の不調を読み取った。

 覇気のない、曖昧な受け答えに違和感を覚えたのかもしれない。

「何かって言われても……別に」

 とりあえず零菜は誤魔化した。

 ここで相談してもよかったが、現状を説明する都合のよい言葉が思いつかなかったのだ。

 凪は顔を洗って、歯を磨き、それから部屋に戻って斜めかけのボディーバッグをかけてきた。

「どっか行くの?」

「授業」

「ぁ、そう……」

 凪と零菜はカリキュラムが違うらしい。

 大学は、授業を自分で選択して必要単位を取得するやり方をしているところもあるのだと漫画で見た。そもそも、零菜と凪が同じ大学に通っているのかどうかも分からない。

 凪が出て行った後、取り残された零菜は手持ち無沙汰のままイスに座っていた。

 テレビでは、日本の刑事ドラマが再放送している。これは、零菜が生まれる前からずっとこうだったらしい。

 こういう時、どう動くのが正解なのか。

 凪にすべてを打ち明けて、それで一緒に解決策を模索するのが良かったのではないか。

 これが一過性の記憶喪失ならば、まだいい。本当に零菜の精神だけが時間を超えてやってきているのだとすれば、未来の零菜はどうなったのか、そしてここにいる零菜は元の時代に戻れるのか等気になることが多い。

 インターホンが甲高い音を鳴らしたのは、零菜がうつらうつらと舟をこぎ始めたころだった。

 音に驚いて目を覚ました零菜だったが、突然の来客に対応していいのかどうかが分からない。もしも、自分の知らない友人とかだったら、困った事になる。

「……うん、居留守しよう」

 零菜はとりあえず無視することにした。

 顔を合わせて、適当に誤魔化せる相手ばかりではない。

 この時代の人間関係が分からないので、人に会わないに越したことはない。

 ともかく、ここは逃げの一手だ。

 部屋の中で大人しくしていよう。

 そう思っていると、がちゃんと鍵が開く音がした。

「……っ!?」

 零菜がびっくりして身を縮める。一瞬、凪が帰ってきたのかと思ったが、それならインターホンを鳴らす必要がない。

 複数の足音とビニール袋の擦れる音が近付いてきた、無造作に扉が開かれた。

 最初に入ってきたのは、金髪の美女だった。身長は零菜のほうが高いくらいで小柄だ。煌めく金色のショートヘアを後頭部で纏めている。

 その後ろから、先ほど鏡で見た零菜とそっくりな顔が現れる。こちらは、銀粉をまぶしたような独特の反射光を放つセミロングの黒髪を赤いバレッタでハーフアップにしている。

「ありゃ、零菜ちゃん、いるんじゃん。返事くらいしてよー」

 金髪の方が口を開いた。

 白く透き通った肌に、金を基調としつつ見る角度で色合いの変わる瞳と髪。

「東雲ちゃん……?」

「ん? 何?」

 入ってきたのは、大人びた東雲だったのだ。彼女は、勝手知ったる我が家のようにリビングに上がってきて、そのまま壁際に黒いビニール袋を置いた。なかなか重量感がありそうだ。

 入ってきた金髪が東雲だとすると、残る零菜似の方は自ずと答えが出る。

「空菜?」

「何?」

「いや、なんでも……」

 空菜がずいぶんと大人に見える。髪形の所為だろうか。いいとこのお嬢様と言われても納得の、教養ありそうな美人に育っているではないか。

「何か、様子が変だよ。零菜、変なものでも食べたんじゃない?」

「別に何にも……何もないって」

 空菜が、柔らかい口調で零菜を心配してくるというのは、奇妙な感覚がする。

 零菜の知らない四年半の間に何があったのか。こんな風に見るからに優しいお嬢様に空菜がなってしまうなんて、よほどのことがあったに違いない。ぶっちゃけ気持ちが悪い。

「んー? 凪君は?」

「さっき、出てった。授業だって」

「あれ、マジで? えー? そうだっけ?」

 東雲は東雲で凪をちゃん付けで呼んでいない。これは、まあ妥当な変化と言っていいのだろうか。しかし、違和感があるのは違和感がある。

「えー、今日って水曜日じゃなかったっけ?」

「今日は木曜だよ、シノさん」

「そうだっけ? あれー?」

「徹夜明けで曜日感覚狂ってない?」

「ん……かも」

 見れば東雲の目の下には隈ができている。

「徹夜?」

「ゼミの発表資料作らなくちゃいけなくて。それに、実験のレポートもあって寝てないの。三十時間くらい。で、さっき出してきたとこなのよー」

 やけくそ気味に笑う東雲。

 ついさっきまで大学生は暇ではないかと思っていたところで、三十時間ぶっ通しで勉強しなければならないと聞くとそのギャップに困惑する。

 これは、まさか零菜が勉強していないだけなのではないか?

「零菜は、今日は完全オフでしょ?」

「……ま、まあ」

「零菜は今期、ホントに必修しか入れてないからね。二学期から大変かもね」

「そ、そういう空菜はどうなの……?」

 と、零菜は未来の自分の名誉のために言い返す。加えて空菜の情報を聞き出すためでもある。

「わたし? わたしは今期は三十単位入ってるし、結構取ってるほうじゃないかな? 夏休みも夏期講習出る予定だし」

 よく分からないが、空菜はしっかりと授業を取っているらしい。それが、零菜と比較してどの程度か分からないので評価の仕様がないのだが。

 零菜は携帯を取り出して、もう一度大学のアプリを起動した。

 時間割表を見ると、右上に今期の単位数が記載されていた。

 零菜の大学二年前期の登録単位数は、十二単位だった。空菜の半分以下である。

「少なッ」

「何単位?」

「十二」

「そんな単位で大丈夫?」

「ど、どうかな……」

「なんで自信なさげにしてるの?」

 空菜が可愛そうな人を見る目で零菜を見てくる。

 大学生の中で時折現れる、学業をおろそかにして遊びを優先する人に対する真面目な学生からの冷ややかな視線である。

「こ、これはきっと何か深い事情があるってことで」

「だから、なんで他人事なのさ」

 零菜と空菜の会話を聞いていた東雲が、そこで思わず噴き出した。

「ま、まあ、零菜ちゃんはわたしたちと違って文系だし。二年生は暇な時期だよ。ゼミもないしね」

「東雲ちゃんは、ほんとに忙しいみたいで」

「うん、魔導科学部は魔術と科学を平行してやってくからね。めんどくさいんだ」

 魔術と科学を融合する研究は古くから行われている歴史ある研究分野だが、その一方で多様な知識を必要とするため極めるのは非常に困難なのだ。

 理系の知識が必要でありつつ、古典や外国語の書物を読み解く語学力や魔術の知識や才覚も必要だ。

 ごく一部の、才能と知識があって初めてこの分野に取り組む土俵に上がれるのである。

「将来安泰じゃないですか。魔導科学系の技術者なら、食いっぱぐれないでしょうし。わたしの魔獣学は、ちょっと先々不安ですよ」

「魔獣だって、いろいろとあるでしょ。畜産から学芸員、環境保全といろいろと」

「まあ、流れ的に公務員になりそうですね。魔獣関係の職に就く先輩って、けっこう少ないです、うちの学科」

 なんだか世知辛い話をしている。

 零菜にも関わりがある話だろうが、今の零菜には他人事だ。

「はあー、何にしても凪君がいないとなー」

 唐突にテーブルに突っ伏す東雲。

「凪君に、何か用があったの……?」

「ん、いや。用って言うかね。提案? みたいな? プレイの?」

「プレイ……?」

「徹夜明けのテンションで、いつもはちょっと恥ずかしくてできないことしようと思って意気込んできたのにー」

 東雲はこれ見よがしにがっかりしてみせる。

「また、そういうことを言って。さしずめ、その袋は玩具といったところですか。よく、堂々と持って来れましたね」

「人に中が見えるわけじゃないし」

「見ていいですか?」

「んー」

 東雲の適当な返事を了承を受け取った空菜は、東雲が持ってきた黒いビニール袋まで歩いていって、中を覗き込む。

「はあー、これはまた」

 ごそごろと音を立てて、中から箱を取り出す。

 ピンク色の大きめの箱で、首輪のイラストが描いてある。

「え、なにそれ……」

「首輪でしょう。SMプレイ用のゴツイやつですね。……ゴムまであるし、ヤル気満々ですね、シノさん」

 『超薄0.01ミリ』と書かれた小さな箱を東雲に見せ付けるように振る空菜。

「だから徹夜の変なテンションのままに妄想を実現しようとしただけなんだって。なんか、こう、冷静に指摘されると恥ずかしいわ」

「そりゃ、そうでしょ」

「それ、空菜ちゃんにも似合いそうだよね」

「それは、わたしが獣人属性だからですか? だとしたら、その意見は半年遅いですね」

「……え? もしかして、もう経験済み? わたし、聞いてないんだけど」

「それこそ人に言うことじゃないでしょう」

「えー」

 卑猥な話をしている。

 あまり知識のない零菜でも、それははっきりと分かった。空菜が何気なく持っている箱も、噂に聞く避妊具の代表格だ。それくらい中学生の零菜も知っている。学校に持ち込んでいる友人もいたし、知識は身を守るものでもある。

 ともあれ、それを空菜は平然と持っているし、持ち込んだのは東雲だった。おまけにSM用の首輪とか頭が痛くなるワードがポンポン出てくる。

「ともかく、それ、わたしのだから勝手に使わないでね」

「ええ、それは当然。自分のは自分で用意しますよ」

 空菜は二つの箱を袋に入れ直した。

「ふあー……あー、眠い。お風呂入ってちょっと寝よー」

 欠伸をして、東雲は脱衣所に向かって歩いていく。

 取り残された零菜は空菜と二人切りになる。

 頬杖を突いた空菜が、じっと零菜を見てくる。

「……な、何?」

「いえ……何か、いつもと感じが違う気がするんだけど、どうかした?」

「……別に、何でも」

「ふーん……昨日の夜に凪さんと遊びすぎたとか? ゴムなくなったからって、わたしの予備使うのダメだからね」

「つ、使わないし何の話……ッ」

「この前、わたしが置いてった予備一箱、一晩で消費したじゃないの。酒の勢いって言っても限度があるでしょうに」

「そんなこと、言われても……」

「とりあえず、細かいのはいいので千二百円。使った分、返してもらってないよ」

「ぅ、えー……」

 身に覚えのないことで、千二百円という大金(中学生感覚)を請求されている。

 空菜の話は、零菜が空菜のあれこれを勝手に使い切ってしまったということだ。未来の話で、ここにいる零菜自身には関係ない。この身体の本来の持ち主と自分が同一人物だと思いたくなかった。

 零菜側に空菜の主張を否定する材料が一切ない以上、その要求を飲まざるを得ない。

 今の零菜の金ではないので、支払いに躊躇することもなかった。零菜は大人しく「自分」の財布から千二百円を空菜に支払った。

 ――――さっきから、意味分かんないことばっか。頭がどうにかなっちゃいそう。

 理不尽な状況の変化に対して、零菜はグロッキーになっていた。 

 ここが未来だとして、零菜の周囲を取り巻く人間関係がそれぞれ大きく深化している。基本的な関係性は変わっていないようだが、深みが大分違う。

「やっぱり、何か悩んでない?」

 と、じっと空菜が零菜を見つめてくる。

 その瞳に気圧されて零菜は、うっと口を噤む。

「凪さんを血の従者にしておいて、さらに悩み事なんて贅沢な話だと思うけど」

 嫌味ったらしく空菜が言ってくる。

「……凪君が、血の従者? ぇ、わたしの……?」

 かっと顔が紅くなったのを零菜は自覚した。

 きっと、今日で一番の驚きだっただろう。

「……今更、何紅くなってるの?」

 零菜の初心な反応に空菜はさらに疑念を強めて見つめてくる。

「零菜、やっぱりいつもと違うんじゃない? ……ねえ、あなた何か、言わなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」

 空菜の視線は零菜をまっすぐに射止めている。

 からかう様子はなく、ただ純粋に零菜を心配している。そんな空菜の気遣いが感じ取れて、零菜は複雑な気持ちになった。

 少なくとも中学生の頃の――――ここにいる零菜と当時の空菜の関係はこうではなかった。

 外見はどうあれ、今の零菜の精神性は中学三年生のままなのだ。原因は未だ不明。知識を借りるなら、身近な人物に助けを求めるのが道理だ。

 相手が空菜であるというのは、この際棚上げする。ここにいるのは、零菜の知る空菜ではないのだ。

 そうして、零菜は意を決して自分の状況を説明することにしたのだった。




零菜・・・帝国総合大学魔導学部攻魔師養成課程魔導犯罪史専修第二学年在籍。高校生の頃にCカードを取得しているが、大卒で取れる上級職を取得するため本学部に入学した。凪を血の従者とし、暇な大学生らしく自由を謳歌している。何だかんだで学業は優秀。凪とは半同棲状態。

凪・・・零菜と同じ大学の同じ学部の魔導犯罪対策専修に所属する二年生。零菜の血の従者だが、他の姉妹からも関係を求められているハーレム状態。行動の決定権が零菜にあることもあって、事実上暁姉妹に囲われているといってもいい。

東雲・・・高校卒業と同時に暁の帝国に帰国する。零菜と凪の先輩という立場。こちらは理系の最難関魔導科学部に在籍している。週に何度か凪宅を訪れて、あれこれしている。

空菜・・・魔獣学科で魔獣の生態を研究している。人工の大地では魔獣の生息地がそもそもないので将来性はさほどないというのが悩み。四年半でお淑やかな方向に成長した。零菜との関係は良好な模様。

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