攻魔師見習いとしては、破格の活躍をした凪であったが、普段は公立中学校に通う極普通の学生だ。凪が通う学校は、公立校の中では規模の大きいほうで、一学年七クラス、部活動が盛んでサッカー部と野球部は全国大会への出場経験もある。日本でプロサッカー選手になった先輩もいるらしい。勉強の評判も悪くない。卒業後、進学校とされる高校に進む比率は毎年高く、中央行政区にある公立中学校の中では全体的に高評価を受けている学校であった。
凪は、そんな学校の中では良くも悪くも目立つ存在であった。
身体が弱く、入退院を繰り返していたという過去があるので多めに見てもらっているが、遅刻癖は周知の事実であり、あまり真面目な生徒という印象は持たれておらず、攻魔官見習いとして現場に出ることもあるというレアケースでもあるので、教師たちからは扱いにくい生徒という認識であった。
凪自身も学校をあまり重視した生活をしていないので、余計にそういった認識に拍車をかけている悪循環となっていた。
そんな凪の生活態度は、この半年と少しの間に改善されていた。
その理由の一端を担うのが、「離れて暮らしていた」妹との同居であった。
一人暮らしで乱れた生活は、同居人が現れたことで正さざるを得なくなった。おまけに、その同居人は同じ学校に転校してきたのだ。結局、一緒に学校に通うことになるので、サボるにサボれなくなったのであった。
一月末の時点で、凪は一ヶ月間無遅刻無欠席の快挙を成し遂げていた。これは、実は中学入学以来初めてのことである。身体を壊したり、サボったりを繰り返したので、欠席数は不登校の生徒を除けばトップクラスだったのだ。それを思えば、なかなかの成長と言えるだろう。
「はー、だるい」
授業の合間の十分間の休憩時間だ。チャイムと共に各々が羽を伸ばし出す。教師は教材を持って教室を出て行き、日直が黒板に書きなぐられた数式を消す。数分前まで誰一人言葉を発しなかった教室内は、一気に息を吹き返してガヤガヤと賑やかになった。
昼食まで、あと少し。次の国語が終われば、晴れて昼休みだ。凪は、国語の教科書とノートを机の上に置いて、シャーペンの芯を入れる。
凪の席は窓際から二列目の後ろから三番目だ。南国の暁の帝国では、直射日光が厳しいので、凪としては外れである。
「凪、芯くれ」
と、唐突に話しかけてきたのは前の席のヨシオカだった。夏までは坊主頭だった元野球部員は、今はほどほどに髪が伸びて毬栗のような髪になっていた。もともと固い髪質なのだろう。彼の頭は、棘棘した毬藻もようであった。
「0.5でいいか?」
「おう、あんがとよ」
シャーペンの芯をなくしたらしいヨシオカに、芯を渡す。
「後で返すぜ」
「いらんよ、そんなん」
シャーペンの芯一本程度、返してもらったところで何になるというのか。いちいち返せと言っていたら、凪のほうがけち臭いと揶揄されるだろう。
「そーいや、凪さ、高校はどこ行くんだっけ?」
「中央か彩海。まあ、公立が第一志望だなぁ」
中央高校は、中央行政区の南端にある公立高校で、進学校と呼ばれる部類だ。凪が自宅から通える範囲内の公立高校では、上から二、三番目くらいの学力があるだろう。目安は定期テストで五百点満点中、四百二十点から四百五十点くらいを取れることらしい。例年、それくらいの点数を取っている先輩たちの多くが合格している聞かされた。
家計の負担を考えると、私立高校に行くよりは公立高校に進学したかったし、それなりの偏差値の高校に入りたい。
彩海学園は言わずもがな、第四真祖の出身校ということで名を上げ、今もその子女が通学している。かつては中堅どころの私立高校だったが、今となっては帝国屈指の進学校かつ高級志向の学校と化していた。基本的に中学からの持ち上がりなので、高校から入学する者は少数派だ。凪自身、彩海学園への進学希望は強くない。所謂、祈念受験である。すでに願書は提出済みで、私立高校の受験はちょうど七日後であった。
「ヨシオカは、北高だったっけ? 推薦組は気楽でいいよな」
「はっはっは、ここで高みの見物させてもらってますぜ」
と、ヨシオカは憎らしい笑みを浮かべる。
幼少期から野球ばかりやっていたこの男は、野球のスポーツ推薦で早々に進路を決めていた。十一月には結果が出ていて、それ以来ろくに勉強もせず遊んでばかりいる。ヨシオカに限らないが、推薦合格を決めた連中は、受験に向けて追い込みをかけなければならないこの時期にその必要がないため、かなり自由を謳歌している。
私立の受験を目の前にしてはいるものの、教室の空気はそれまでと大きくは変わらない。授業の多くでは教科書の内容がほぼ終わっているので、専ら試験対策ばかりで、これから始まる国語にしても、恐らくは過去問をひたすら解いていくことになるのだろう。
それを考えれば、すでに受験を終えている推薦組は退屈だろう。彼等にしてみれば、もう学校で授業を受ける意味がない。
大して、凪は曲がりなりにも受験生だ。
この時期ばかりは、きちんと机に向かって勉強をしている。幸い、同居人の空菜は学校の勉強はほぼほぼ問題なく解ける。「初めから知っている」という空菜の特性上、教え方は上手くないが、聞いたことに端的に答えてくれるのでありがたいのだった。
六時間目の体育は、中学最後の体育だった。
受験という至上命題に向かって三年生は突き進んでいる。
体育に限らず、美術科や家庭科といった受験とは関係のない授業は一月ですべて終わることになる。
最後の体育はソフトボールであった。一月とはいえ、暁の帝国は常夏の島だ。太陽光は強く、女子は全員が日焼け止めを使っていたし、外気温は二十度前後と多少涼しさを感じつつも、少し動けばすぐに汗ばむ陽気である。
スポーツが大好きだという女子以外には体育は不評だ。汗をかくというのが、そもそも敬遠される理由で、いつもブツブツと文句がそこかしこから聞こえてくる。
体育が六時間目にあるのは、そうした汗をかきたくない女子からは割りと好評ではある。何せ、この後の授業がない。このまま家に帰るなり、街に繰り出すなりすればいいのだ。汗の臭いを気にしながら、男子たちと時間を共にする必要がないので気が楽なのだ。
異性の視線に無頓着だった空菜も、この半年で成長した。
日焼け止めクリームを外出時には塗るようになったし、制汗剤が常にバッグの中にあるようになった。
それは、偏に周囲がそうするべきだと言い含めたからではあるが、当初は浮いていた空菜も、今では普通にクラスに溶け込んでいた。
「これで、中学の体育も終わりかー」
「感慨深いわぁ」
「何それ、じじ臭い」
更衣室で、各々が駄弁っている。
中学最後の体育が終わって、やっとその実感がやってきた。
これで、もうこの学校の体操服で授業を受けることがないと思うと、それはそれで寂しい。そんな気持ちがどことなく皆に漂っている。
残念ながら、空菜にはそういった感想はない。
三年生の半ばにこの学校に「転校」してきた空菜には、周囲の友人たちほどこの学校への思い入れはない。体育も、一つのカリキュラムとしか捉えておらず、終わったのなら次のステップに進むだけだと冷めた思いではあった。
あるいは、一年生から皆と過ごしていれば、彼女たちのような思いを抱けたのだろうか。
ホムンクルスを初めとする人工生命体にも感情はある。個体によってまちまちだが、それは人間と変わらないだろう。
更衣室の中で吹き荒れる制汗剤の嵐。多種多様な匂いがそこかしこから漂ってくる。
「んん……」
空菜は咽そうになる喉を押さえる。
人間以上の嗅覚のある空菜にとっては、更衣室のこの一瞬はなかなか辛いのだ。
単独ではいい匂いでも、それが何種類も折り重なって漂っているとなると、それは臭気の地獄である。フローラルな香りのオードブル。いや、闇鍋か。女子生徒たちが何気なく使う制汗剤の香りは、空気中で混ざり合い、空菜の嗅覚を混乱させる。
空菜が使う制汗剤のような、匂いを抑えた物だけを使って欲しいところである。
「鼻が痛い」
と、空菜は呟く。
「結局、最後まで慣れなかったねー」
と、空菜の隣を歩く女子――――高原紬が笑みを零した。物静かな空菜は、自然といつもいる面子が偏るのだ。その外見から多くの人目を集める彼女ではあるが、多人数で騒ぐタイプではないため、お近付きになれたのはごく一部の緩い友達だけだ。
「わたしは臭いに敏感なんです」
常人以上の嗅覚を持つ空菜にとっては、人間の使う香料がキツいと感じられる場面は多々あった。暁の帝国がいくら
魔族が少々肩身の狭い思いをすることも珍しくはなかった。
制服に着替えて、更衣室を出ると男子の一団がぞろぞろと歩いているところに出くわした。体育を終えて帰ってきた別のクラスの男子達だ。その中には凪も混じっていた。視線を交わして、すれ違う。特に会話をすることはない。
「ねえねえ」
と、紬が袖を引っ張ってくる。
「何です?」
「昏月君と一緒に住んでるんだよね?」
「そうです。まあ、兄妹なので」
「義理なんでしょ? 何かないの? こう、進展は?」
「ないですよ。何です、いきなり」
「えー、義理の兄妹って、話のネタとしては超優良じゃん」
「漫画のネタにされるのは、ちょっと……」
この友人は自分で漫画を描いて、ネットにアップしているらしい。画力の高さは空菜も認めるところだが、肝心の作品は、未だに見せてもらっていない。ネット上の不特定多数に公開しているのに、友人に見せないのは、恥ずかしいからだそうだ。その一方で、描いていること自体を隠してはいない。そうした複雑な人間の心理は、まだ空菜の解せないところではあった。
「まあ、興味を引きやすいのは分かりますけどね」
もう何度もこうしたやり取りをしてきた。
空菜が「転校」したとき、すぐに凪と兄妹であることが知れ渡った。珍しい苗字で、隠しようがなかった。
空菜は見ての通りの美少女だ。
妖精のようなとか人形のようなとか形容される暁雪菜に面差しが似ていることも話題になった。外見では非の打ち所がなく、運動神経、学業ともトップを走っている。そんな超がつく美少女と二人暮らしをしている凪には、自然と様々な視線を向けられた。
とはいえ、実害があったわけではない。
凪は学校ではあまり注目を集めることのない学生だったし、他者と対立するような言動があるわけでもない。友人関係は良好で、クラスの中にいるのは仲のよい友人とほとんど話したことのない他人のどちらかで、仲の悪い知り合いは一人もいないという状況である。好奇の視線を集めても、泰然としていたので、それ以上の追及には繋がらなかった。
そんな凪の対応に空菜は倣い、こうした冷やかしの話題にはあっさりとした対応をしてきた。
「つまらんなあ。もうちょっとこう、イイ感じの話ないん?」
「何がイイ感じなのか分からないのですが、まあ、ご希望に添えるようなものは何もないと思いますよ。最近、家でどういう話をしているか教えましょうか? 主に数学と理科の過去問です」
「ヤメテ、それはわたしに効く。うがー、今日も塾だよ」
「明日は?」
「塾だね」
「明後日も?」
「同じく」
渋い顔をする友人。話を聞く限り、一週間で四日は塾に行っているようだ。彼女の成績は悪くないが、受験を間際に控えた受験生は、日々あらゆる重圧と不安を抱えながら、取り憑かれたように勉強に耽るものらしい。その点、空菜は圧倒的なアドバンテージがある。生まれついて様々な知識を与えられているので、理系と暗記物はほぼ完璧だ。その方面に勉強時間を割く必要はない。躓く可能性があるとすれば、問題作成者の癖が出る国語くらいだろう。
未だに納得できていない先月の統一模試の国語。マークシート式のテストで、空菜は失点した。五つの選択しから一つを選ぶ問題で、正解を選んだ自信があっただけに外れていたので驚いた。解説を見ると、それぞれの選択肢に○が一つ、×が三つ、△が一つついていた。○と×しか見たことのない空菜にしてみれば、△が出てくる意味が分からなかったし、△の選択肢の解説には「間違いとは言い切れないが、状況的に○の選択肢のほうが適しているので、やや間違い」という頭を抱えたくなる説明文が載っていて、珍しく腹が立った。そういうわけで空菜は現代文が嫌いになった。
ちなみに、同じ問題を凪はどちらにしようかなで正しいほうを選んだらしい。
ホームルームでも、担任が受験に向けた心得を話している。
一月の半ばごろから、俄に活気付いてきた受験ムード。世の中も、そうした空気を呼んで受験生向けのセミナーやら験担ぎグッズの販売を推し進めている。
空菜も、その一翼を成す受験生ではあるが、周囲ほど熱が入らないのが実状だった。
勉強、受験、将来、どれも自分とは関わりのない遠い世界の話のようだ。
空菜にとって自分の将来を自分で想像するというのは困難である。そうした自由は、空菜の設計段階から想定されていないからだ。人工生物としての用途が定められていなかったので、自由度の高さがあり、それゆえに日常生活を送れているのだと考えているが、だからといって自分が人間や他の魔族のような「自由」を持っているという実感もない。凪を初めとする家族たちは、空菜の自由を認めている。しかし、空菜自身がそれを受け入れられていないところがある。
好きにすればいいと言われる。では、好きにするというのは具体的にどういった行動を差すのか。それは、他人から教えられるものではないのだろう。
とりあえず、凪についていく。
先々のことを考えるのが苦手な空菜は、凪の行動を自分の行動の指針に据える。凪が受験するのなら、空菜も同じところを受験する。
担任からはもっと上を目指せるとは言われている。
しかし、その意味を空菜は理解していない。だから、凪と同じでいいのだ。
世の中に出て半年と少し。
少しずつ周囲に溶け込んできてはいるものも、まだまだ馴染んだとは言い難い。
午後六時を回って、空菜はマンションに帰ってきた。
バレンタイン目前チョコレートフェアなるチョコの安売りが気になって、駅前のデパートに吸い込まれてしまった。
今の自宅は、一月から引っ越してきた新居なのだが、零菜の家と同じ間取りなので、目新しさはない。近隣住民といっても、基本的に暁家に囲まれているので、特に問題らしい問題もない。すっかり慣れてしまった。
玄関を潜ると、いい匂いがする。
今日の夕飯当番は凪で、すでにキッチンに立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
簡単な挨拶の後、部屋の扉を開けて自分の学生カバンをベッドの上に投げた。
「トマト系の匂いがします。これは、そう、オムライス」
「いや、ただのチキンライスなんだけど」
「オムライス」
「……卵、あったよな」
謎の重圧を感じて、凪は冷蔵庫を開ける。
幸い、卵は買い置きがあった。
チキンライスをオムライスに変更するのは簡単だ。
拘りのある人は、卵の炒め方から気を使うのだろうが、凪はそこまでしない。普通に梳き卵をフライパンの上で広げてチキンライスを投入するだけだ。
昏月家におけるオムライスとチキンライスの違いは、上に乗せる卵の有無以外にないのだった。
テーブルに着いた空菜はキッチンに立つ凪をじっと眺める。
妙な視線にむず痒くなる凪は、盛り付けながら空菜に尋ねる。
「何?」
「いえ、何でも」
「何だよ」
「…………凪さんは、高校に行った後、どうするんです?」
「急だな、ほんと」
苦笑しながら、凪は空菜が先のことを気にかけるのはいいことだと思った。
空菜の変化を最も感じることのできる立ち位置にいる凪は、この半年の間に彼女が少しずつ変わってきたことを理解している。
「高校ね。まあ、はっきりとはしないけど」
「しないけど?」
「最終的には攻魔官になるつもりだからな。今もそのために南宮教官に扱かれてんだし、高校入ったら、本格的にそっち方面のバイトするだろうな」
「あるんですか、そういうの」
「あるよ。民間の攻魔師事務所。古城さんの知り合いが経営している事務所があって、そこでバイトする予定」
「あれ、もう決まってるんですか?」
「一応ね。学業と両立が前提になるけどな」
「そうですか」
聞くだけ聞いて、空菜はまた黙りこくった。
空菜は空菜なりに悩みを持ち始めた。
悩みというのは大切だ。一時的には足を止めることになったとしても、全体を通して見ればその後の前進に繋がるものでもある。
ともかく、中学生活は残り二ヶ月もない。三月の頭には進路が決まっていて、卒業式を迎える。実質学校に通えるのは一ヶ月ほどだ。
先々の悩みは大切だが、まずは受験に集中し、失敗しないようにするのが先決だろう。
受験については、空菜よりも凪のほうが大変だ。人のことを心配している余裕は実のところないのだった。