二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 四話

 凪にとって、その日は人生の大一番であった。

 区立中央高校の特色入試の当日である。午前九時から筆記試験と面接が立て続けに行われ、正午にはすべてが終わる。暁の帝国の高校の中でも、中央高校はそれなりに高い偏差値の学校だ。中央行政区にある公立校では、上の中くらいにはなるだろう。

 もし、合格できれば、モノレールかバスで学校に通うことになるだろう。通学時間は三十分から四十分程度。交通状況によっては一時間は見たほうがいいかもしれない。

 この中央高校は、十年前までは定時制の学校だったらしい。その当時は、あまり勉強できないはぐれ者たちの巣窟だったというが、今はそんな面影はまったくない。偏差値、進学率共に急上昇していて、中央行政区の公立校ではトップ3に数えられるまでになった。

 ちなみに、偏差値第一位は、区立暁第一高等学校。凪の自宅から自転車でも行けるところにある名門校だ。もともと勉強のできる生徒だけが集まるので、良くも悪くも放任主義だという。勝手に勉強して、勝手に学力を向上させる。教師はそのためのレールを敷くだけという校風だ。そのため、本当に自分で勉強するという志のある生徒だけが受験するしやっていける。人に言われてやるような生徒は、落ち零れるか、大変苦労しながらついていくことになる。

 偏差値第二位は、国立帝暁大学付属高等学校。言わずと知れた大学付属。暁の帝国では唯一の公立の中高一貫校である。大学付属なのに、エスカレーター式ではないので必死に勉強する。中学の頃から勉強する習慣を叩き込まれた生徒が通っていて、ここの生徒は、他の学校の生徒から見て「なんかこう、どこがというと説明に困るけど、なんか変」といった印象を受けることが多々あるという。浮世離れした生徒が育つ、そんな学校である。もちろん、凪の選択肢には入らない。

 凪が選んだ中央高校は、上位二校に比べると親しみやすい校風だ。

 勉強が大変という話はもちろんある。課題が多いとか、夏休みにも講習があるとかは説明会でも言っていたことだ。しかし、何よりも「やればできる」生徒には手厚いというのが一番だろう。

 この学校は、暁第一高校に追いつき追い越せを標榜して授業している。そのため、勉強についていけない生徒への対応が手厚い上に進学指導にも力を入れている。

 よって、トップクラスではないにしても、準トップクラスでのびしろのある生徒は、この学校と相性がいい。そして、何よりも攻魔師や芸能活動といった学校外の活動にも理解があるというのが大きかった。

 攻魔師として活躍するだけならば、中卒でもいい。Cカードがあれば、攻魔師にはなれるのだ。しかし、結局はどこも学歴社会だ。本物の実力者ならば、自分の力一つでなりあがることもできるだろうが、そう甘い世の中ではないのが実状だ。将来のことを考えれば、大卒資格は取っていて損はないし、多くの攻魔師が今は大卒である。人手不足の業界だが、だからといって敢て中卒を使う理由がない。学歴は重要ではないとテレビやネットで声を大にする人がいるが、それは「学歴がなくてもやっていけるだけの実力や運があった人」の台詞であって、実際には学歴が足りないことを理由にチャンスすら与えられない人が大半だ。同じ仕事をするのなら、わざわざ低学歴の人を雇う理由が、雇用主側にはないのだから当然である。そういう社会の現実を、凪は中学生ながらに知っている。攻魔官候補生として現場に顔を出す機会があって、そこで一緒に仕事をする先達から注意喚起されていたのだ。

 幸い、凪は勉強はそこそこできる。

 呪術を幼い頃から学んできた凪にとって、勉強は苦ではないのだ。

 日本由来の古い呪術には、古文や漢文の知識が必要だし、錬金術系は科学的な知識もいる。風水は地質学や天文学に触れなければならないといった具合だ。

 体系化された呪術はそれ自体が学問であり、その内容は学校の勉強と重なる部分が多々ある。

 例えば、古文漢文で凪が常に成績上位者に名を連ねているのは、幼少期からの積み重ねの結果であって、その知識を活かせば、出席日数の割りに成績が維持されているのも不思議なことではないのだった。

 もちろん、呪術とは関係のない部分の勉強はそこそこで、その差がトップクラスの偏差値に今一つ届かない理由でもあった。

 

 

 緊張は前日の夜からあったが、当日は思いのほか落ち着いて迎えることができた。

 命の危機を何度も乗り越えてきた凪は、土壇場には強いらしい。

 筆記試験で頭が真っ白になることはなく、面接試験でもそつなく受け答えをすることができた。

 那月教官の冷ややかな視線に比べれば、面接官の先生方は優しい部類だ。虎と猫くらい違う。見た目とは正反対である。

 そんな本人に知られたらどんな報復を受けるか分からないことを考えていると、ばったりと会ってしまった。コンビニ前で、ゴスロリドレスに身を包んだ、中学生一年生くらいの見た目の恐ろしい大魔女に。

「……なんだ、お前か」

 怪訝そうな顔をした那月は、凪の顔を見た後で腕時計に視線を落とした。

「そうか。そういえば、今日だったな」

「受験ですか?」

「ああ」

 那月は頷いて、

「どうだ、手応えは」

 と、尋ねてくる。

「まあまあですね」

 凪は当たり障りのない返事をした。

 実際、明確に失敗したという感想はない。筆記試験で解けなかった問題はあるが、それは少数に留まっている。過去問を解いた感じと比較しても、点数は悪くないはずだった。

「受けたのは中央だったか?」

「そうですね」

「そして、私立は彩海、だけか?」

「はい。一応、その二校ですね」

「そうか。だとすると、中央を落とすと大変だな」

「はい?」

「彩海は残念だったからな」

「……はい?」

 聞き逃せない言葉に凪は固まった。

 那月は、彩海学園の教師でもある。その那月が残念だったということは、つまり――――、

 色々と困惑気味に思案する凪を見て、那月は僅かに相好を緩めた。

「冗談だ、気にするな」

「気にしますよッ! 受験生にしていい冗談じゃないですッ!」

 思わず素で文句をつける凪。

 受験生にとって受験結果は重大だ。那月の立場でそれを冗談めかして言われれば、声を荒げたくもなる。

「すまなかったな。確かに、少々毒が強かった」

 と、那月は非を認める。

 少々どころではない。凪の第一志望が彩海学園だったら、目の前が真っ暗になっていた。

「で、教官はこんなところで何をやってるんですか?」

「ただの買出しだ。それこそ、うちは合格発表を明日に控えているからな。試験担当の教師は、朝から準備に追われているし、差し入れの一つでも持っていかなければな」

「教官は?」

「わたしは、そういった雑務はしない」

「そうですか」

 那月は彩海学園の教師であると同時に国を代表する攻魔官でもある。そのため、学校の雑務は一切行わず、攻魔官としての仕事を優先するようになっている。

 魔族特区の頃から、各校には攻魔官の資格を有する教師を配置することが義務付けられているのだが、そういった攻魔官と兼任している教師の手をその他の雑務で煩わせるわけにはいかないという風潮があるのだ。

 普通の教師ですら多忙を極めているのだ。いざという時に攻魔教師が対応できないという事態は避けなければ、学校の管理責任が問われることになるだろう。

 実際、過去にも魔族が学校で事件を起こした際には、その学校に所属している攻魔教師の対応が問題視されてきた。

 彩海学園は伝統的に魔族の生徒を多く抱えているので、余計に攻魔教師を重視している。特に世界最高峰の実力を持つ那月の扱いは、VIPクラスだ。

「つーか、そうか。明日っすか」

「今のうちに気持ちの整理をつけておけ。まあ、うちに受かっても、お前は中央を優先するのだろうがな」

「まあ、そうですね」

「問題児を抱えなくて済む分、わたしは楽でいい」

「もうちょっと言い方ないんですかね」

「自分の体質を考えろ。うちには魔族の学生が比較的多い。中央のほうが、余計なトラブルが少なくなるんじゃないか?」

「……言うほどでもないと思いますけど」

 と、自信なさげに凪は言う。

 自分が、魔族を惹き付ける体質なのは、散々言われてきたことだ。特に吸血鬼の吸血衝動を喚起してしまうので、吸血鬼との関わりには注意が必要だった。

 とはいえ、それも我を失うほどの強烈な吸血衝動を呼び起こすわけではない。

 問題があるとすれば、吸血衝動が性欲と結びつきやすいという点だろう。自分の吸血衝動を恋愛感情と誤認してしまう可能性は否定できないし、もともと凪に好意を抱いている相手だと、さらに効果を増してしまう。感情に作用する能力や体質というのは、扱いが非情にシビアなのだ。

それを別にしても、凪が彩海学園に通うとなれば、気苦労も多いだろう。

 身分や立場を明かすか否か。空菜の存在をどのように説明するか。色々と政治が絡む問題も出てくる。今でこそ、空菜はお姫様のそっくりさんで通っているが、同じ学校に通ってしまうと他人の空似とも言えなくなる。――――同じマンションに暮らすようになったので、その当たりは覚悟の上ではあるが、学生のコミュニティは大人には見えないものだ。どのような反応が広がるか、想像できない。

「お前が背中から刺されんとも限らんしな」

「さらっと怖いことを言わないでください」

 げんなりした凪だが、那月が言わんとすることも分かる。

 零菜や麻夜と同じクラスになる可能性もある。二人の人気から、凪が妬み嫉みを受けるのは想像に難くない。二人から吸血されている等と広まったら、困ったことになる。

 予想できるトラブルを避けるという点でも、彩海学園はあまりいい選択肢ではなかった。それでも、彩海学園を滑り止めに選んだのは、優秀な攻魔官を多く排出する学校だったからだ。その方面への理解が深い学校というのは、将来を選択する上で重要な要素だ。

「ま、終わるだけ終わったのだから、しばらくは息抜きか。まだ、一般入試も残っていたか」

「明日の合格発表次第ですね。私立落ちてたら、公立落とせないんで、また頑張りますよ」

 もしも、私立も特色入試もダメなら、他の受験生と同じく一般入試で戦うしかないので、受験勉強を続けなくてはならない。二月の最終週まで、気の抜けない戦いが続く。それは、避けたいというのが本音だ。勉強は苦手ではないし、嫌いでもないが、だからといって毎日あくせく机に向かい続ける生活をしたいかというとノーだ。

「ん……立ち話が過ぎたな。わたしは戻る。結果が悪くても腐るなよ」

「結果の悪さを連想させないでもらえます?」

 呆れた物言いに苦情を言う凪。

 那月の言い方の悪さは昔からだ。もちろん、相手を選んでいるのは言うまでもない。那月がいくら傲岸な性格でも空気を読むくらいはする。

 那月は言いたいことを言って、そのまま去っていった。

 採点にこそ関わっていないが、それ以外にも仕事は山ほどあるだろう。学校の先生だって、土日に仕事がないわけではない。公立校の先生ですら、夏休みを取ったことにして出勤していたりする業界だ。

 那月に疲労はないから、他の先生よりは大分マシなのだろうと他人事のように思う。

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 凪は、自宅に帰ってきた。

 諸々の覚悟を背負ってマンションを出てから六時間。やっと、ここに戻ってきた。

「おかえりなさい、凪さん。思ったよりも、早いお帰りでしたね」

「受験番号が早かったからな。面接もその分だけ早く終わったんだよ」

 面接が終われば、その時点で帰宅が許される。

 知り合いも多く受験する学校ではあったが、とっとと帰ってしまおうと足早に下校したのである。

 受験生の中には受験が終わった開放感からそのまま仲間内で街に繰り出す者もいるだろうが、凪はそんな気分ではなかったのだ。

「ずっといたのか?」

「はい。特に出る用事もなかったので」

 ポチポチとソシャゲをプレイしている空菜。特に凪のほうを見ようともせず、画面を注視している。壁にかかっている時計は午後三時を示している。土曜日のこの時間帯は主婦向けの番組ばかりで、凪の年代を満足させる番組はあまりない。結局、家に帰って来ても本を読むか、ネットサーフィンをするかという少ない選択肢から選ばなければならないのだった。

 もっとも、それが気楽でいいから、足早に帰ってきたわけだが。

「どーすっか……ま、とりあえず風呂だな」

 今日はもう外出する予定もない。

 真冬であっても、外を歩いてればそれなりに汗をかく。それくらいの気温だったのだ。

 凪はまず風呂を沸かした。

 二十分とかからずバスタブには並々と湯が満ちて、シャワーで汗を流してからゆっくりと湯に浸かった。

 普段は烏の行水と揶揄される程度には短い風呂の時間だが、今日はそれなりに時間をかけた。

 このマンションのバスタブは、全部屋が同一規格のユニットバスだというが、凪の身長で足を伸ばしても反対側まで届かないくらいに広く作ってある。以前暮らしていたマンションでは、ちょっと屈まなければならなかったので、ずいぶんと楽になった。

「消えんなー、さすがに」

 凪は自分の両手を水面から上げた。

 幾重にも伸びた大小様々な傷跡。あたかも茨を巻きつけたかのようなそれは、胸から放射状に広がっている。眷獣召喚の際のフィードバックを受けた証だ。魔力の通り道が、耐え切れずに裂けたものなので、傷ができる場所は毎回同じだ。凪の場合は胸から腕にかけてが一番多い。魔力を放出する際の、銃口としての役割を両腕が担っているのが原因だろう。

 何度も何度も裂けては治るを繰り返した両腕の表面は、すっかり元の色を失いパッチワークのようになっていた。

 クリスマス以降、凪の吸血鬼化が進行した結果、こうした怪我に悩まされることはなくなったが、モザイク状になった肌が綺麗になることはなかったし、今後もこのままだという。それは、たとえ皮膚を移植しても変わることがないとまで言われた。

 不死の呪いが、現状を固定する呪いであるのなら、この傷だらけの身体こそが凪の現状となるのだ。

 正直、気にしている部分はある。

 人の目が気になるというほど、繊細な精神をしているわけではないが、人が見て気持ちのいいものではないというのは理解しているし、それを理由にプール授業を欠席していたりと多少は日常生活への影響もある。事情を理解してくれる友人ばかりではない。心無い陰口や無理解が皆無だったわけでもない。特殊な事情や特別な立ち位置、人と違う活動、これらは学校という狭い枠組みでは爪弾きの対象だ。凪もそうなる可能性はゼロではなかった。

 凪が学校生活を比較的まともに送れたのは、他人と一定の距離を置きつつ、攻魔師を目指して修行しているということを隠さなかったからだ。

 後ろ暗い背景による怪我ではないと分かってもらえれば、受け入れやすくもなる。那月からアドバイスを受けて、そうして振る舞ってきた。

 仲良くなれる相手とは仲良くなれるものだ。

 他人に不快感を与えないように配慮した生活は、息苦しいと思えることもあったが、大きな問題を引き起こすこともなく今に続いてきた。

 傷の一つや二つで変わることはない、と言いながら、気にしなければ回らない人間関係もある。

 背中をバスタブに預けて、天井を何をするでもなく眺めている。

 ぬくぬくと暖かい風呂に浸かって、受験で疲れた心身を癒す。

 そんなリラックス状態になっていた凪の頭上に強い魔力が渦巻いた。

「な……」

 完全に油断していた凪は対応が遅れた。そもそも、見覚えのある魔法陣であり、知っている魔力だったから初動が遅れたとも言える。

 天井に現れた魔法陣は一瞬だけ明滅し、肌色の物体を落下させる。

 大きな水飛沫が上がって、凪を頭から濡らした。

「あぶ……ゲホッ、何!? 熱ッ、え、何!? 萌葱ちゃん!? どう、ゲホゲホッ!」

 ジャブジャブと溺れた猫のように暴れてから、それが顔を出す。

 深く、艶やかな射干玉の黒髪が雫を滴らせている。白い肌は健康的な朱色を帯びて水を弾いていた。

 激しく水面に叩きつけられた彼女――――零菜は事情が掴めないまま暴れて、体勢を崩して凪に倒れ掛かった。

「ふぎゃ……!」

 潰れたカエルのような声を出し、大量の湯がバスタブの外に掻き出されてしまう。

 事情が分からないのは凪も同じで、いきなり裸の零菜が落ちてきたかと思えば覆いかぶさってきたのだから、頭の中は真っ白だ。見る人が見れば桃源郷なのだが、当事者にしてみれば阿鼻叫喚だ。

 零菜は凪を押し倒し、抱きつくような姿勢になる。凪は押し付けられる柔らかい感触を愉しむ余裕はなく、事態の打開に向けて必死に頭を働かせていたが、土台無理な話ではあった。

「痛ッ、ぁ、んあッ!?」

 零菜はここで初めて凪が自分の真下にいることに気付いたようだ。

 空色の宝石のような瞳をまん丸に見開いて固まっている。超至近距離、吐息すら感じられるほどの近さだった。

「凪、君……?」

 零菜の髪から水滴が滴り、音を立てる。零菜の視線がスッと下に下がって、一瞬で顔が真っ赤に染まった。

「あ、あ、あ、ああ、ひあ、ひあ、ぁ」

 ジャバジャバと水音を立てて下がる零菜。顔も瞳も紅くなって、凪よりも長く湯船に浸かっていたかのようだ。

 距離が取れたので、凪のほうも零菜の全体像が見えてしまった。

 うわ、でけえ……と、口に出さなかったのは、なけなしの理性が働いたおかげではなく、単に状況が飲み込めなかったからである。

 零菜は美人なだけでなく、服の上からでも分かるくらいの巨乳だ。

 凪の同級生の女子で、これだけのものを持っている生徒はいなかった。

 ここ二、三年のうちに、零菜の肉体は傍から見ても分かるくらいに女性らしく発達していた。本人が、それを気にして悩むくらいには艶めかしいボディなのだ。

「うあ、あ……み、見ないでぇ……」

 弱弱しく泣きそうになりながら、零菜は前を隠して後ろを向き、湯船に沈み込んでいく。

「あ、す、すまん……」

 喜ぶべき状況なのかもしれないが、漫画のようにはいかない。実際にこのわけの分からない状況に直面してみると、何をしたらいいのかも分からなくなる。

「ここ、何、お風呂? 凪君の家?」

「そうだよ……風呂に入ってたら、零菜が降ってきたんだ、ぞ……」

「あ、ぅ……ごめん……ぅッ」

 零菜は振り返りかけて、すぐに顔を背けた。

 凪に見られないようにしながら、鼻頭を押さえる。

 少し鼻血が出てしまっていた。鼻を打ったわけではなく、父からの残念な遺伝であった。

 パニックになっていた零菜も、この頃には落ち着いていた。

 問題があるとすれば、その場の勢いで風呂場から退散するといった手が打てなくなってしまったことだろう。凪も零菜もどうしていいか分からない。分からないので、身動きが取れないといった具合である。

「凪さーん、何か今、妙な魔力を感じましたが大丈夫ですか?」

 と、脱衣所から声をかけてきたのは空菜である。

 緊迫感のない声かけは、彼女が危険性を感じていないからだ。少なくとも、弄っていたソシャゲの必殺技を発動させてから脱衣所にのこのこやって来るという程度の余裕を出していた。

「あわッ、空菜ッ」

 迂闊にも零菜が声を出してしまった。

 他ならぬ空菜が零菜の声を聞き逃すはずもなく、

「何故、零菜がそこにいるんです?」

 冷ややかな声音であった。

 扉の向こうの空菜は、思春期を迎えて距離感の分からなくなった兄の部屋で大人の玩具を見つけた年頃の妹、のような嫌悪と冷たさを視線と声に乗せている。

「これは、これは、その、違くて……事故で……事故、だよ?」

「ふぅん……」

 何とも言えない空気が流れた。

 

 

 その後、風呂を上がってホクホクになった凪と零菜は空菜からの取調べを受けることになった。

「……つまり、蒼の天球(エクリプティカ・サフィルス)を実戦運用できるように練習していたら、うっかりうちのお風呂に転移してしまった……という建前で凪さんのお風呂に突撃したわけですか」

「建前じゃない! 全然、まったく建前じゃない!」

 テーブルを叩いて、零菜は空菜に抗議した。

 事のあらましは単純明快。

 蒼の天球という高度な転移能力を持つ眷獣を、もっと気軽に使えればいいな、と思い立った零菜は萌葱の協力を仰いで、自宅で試運転をしていた。

 零菜の自宅には転移魔術の防止結界が張られているので、蒼の天球の制御を誤っても家の外に飛び出すことはないだろうと思っていたのだ。

 ところが、現実はそう思い通りには行かず、三度目の実験で、本来は三メートルだけ転移するはずが二十メートルも出現位置を誤ってしまい、凪の頭上に跳んでしまったのだった。

 焦ったのは萌葱だ。

 家中どこを探しても、零菜がいないのだ。彼女がいた場所には、バスタオルだけが残されていた。

「まあ、あれじゃん。知らない人じゃないくて、良かったじゃん」

 と、萌葱が言う。

 零菜の転移の魔力を追って、萌葱は昏月家にやってきたのだ。歩いても二十秒と掛からない距離である。追跡は容易かった。

「慰めになってないよぉ。ああああ~~~~!」

 零菜は髪をくしゃくしゃにかき乱してテーブルに突っ伏した。

「男性のお風呂に裸で突撃して鼻血出してるような吸血鬼(ヒト)がわたしのオリジナルかと思うと、悲しくなってきますよ」

 と、空菜は追い討ちをかける。

 心なしか口角が上がっている。

 内心ではにやにやとしているのだろうが、それをあえて堪えている。そんな表情である。

「まあ、あれだ。確かに、萌葱姉さんの言うとおり、その、知らない人とか道路とかに出てたら、不味かったな」

「写メとか撮られても、あたしなら消せるし……ね」

「そのときは相手の記憶も消して」

「さすがに、それは……まあ、できなくもないけど」

 萌葱は否定しようとしてから、考えを改めて頷いた。

 できなくもない、その言葉は嘘ではないのだが、一度やってしまうと取り返しがつかない可能性が高いので、今まで一度も使ったことがない眷獣の使い方だった。未だ、理論上は可能という段階を超えていないが、感覚的にはできると思っている。それができなくもないという回答の真意であった。

「凪君も忘れて!」

「……おう」

 凪は空返事をした。

 視界一杯の肌色を忘れることなど早々できない。もうちょっと冷静になって、ドサクサに紛れて揉んでいればよかったとか不埒なことが頭を過ぎったので、頭を冷やすために零菜から距離を取って自室に戻った。

「うううーーーー」

 零菜も零菜で凪の裸を間近で見てしまっている。

 何とも忘れ難い一枚絵が頭にこびり付いてしまって、零菜はしばらくまともに凪の顔を見れなくなった。

 


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