二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 七話

 薬のおかげか、熱は下がり、喉の痛みも引いた。少しだるさは残っているが、朝方に比べて体調はずいぶんと回復したと言えるだろう。

 東雲は自分の額に手を当てて、治ったと心の中で呟いた。

 吸血鬼の回復力は伊達ではないというところだろうか。せっかく凪と空菜が遊びに来てくれているのに、一人で寝ているだけというのはなんとも味気がない。ソーシャルゲームも漫画も小説も、いつもは時間を忘れて熱中できるのに、今日ばかりは不思議と手につかなかった。凪と空菜は何をしているのだろうとか、とにかく暇だと心の中で呟いていたりと、気持ちばかりがあっちへふらふらこっちへふらふらしていた。何かを始めようとすると、別のことが気になって結局暇を持て余していながらベッドの上でゴロゴロするだけとなってしまう。これ以上時間を無駄にすることが他にあるだろうか――――などと思いながらも、ちゃっかり昼寝はできてしまう。一時間ほど意識を遠のかせ、覚醒して漫画や小説やゲームに手を伸ばし、それからうだうだゴロゴロしてまた眠るを繰り返し、気づけば夕方になっている。

 凪と空菜は昼過ぎにこの家にやって来た。それからそこそこ時間が経ったが、二人ともまだ東雲に会いに来ていないというのが不満ではあった。

 一応、この家の家主ではあるし、病人でもあるので、挨拶と様子見に来てくれてもいいじゃないかと思うのだ。

 部屋のドアがノックされたのは、そのときだった。やって来たのはアカネだった。

「なんだアカネかー」

「どうかしましたか?」

「別に、何でも」

「そうですか。それで、お身体の具合は如何ですか?」

「大分よくなったよ。熱も引いたみたいだし、もう大丈夫かな」

 ベッドの上で胡坐をかいて座る。

 行儀がいいとはいえないが、気心の知れたアカネしかいない状況だ。自分のプライベートな空間で気を張る意味はないのだ。

 アカネはお盆にガラスの水差しとグラスを乗せている。

「あと一時間ほどでお食事の用意ができますので、食前の薬をお持ちしました」

「薬……」

 東雲は警戒感を強めた。

 今朝は酷い目にあった。近年希に見る屈辱を味わったのだ。

「そう警戒しなくても、今回は普通の飲み薬ですよ?」

「あ、そう。ならいいんだけど」

 警戒を解いた東雲は、アカネからグラスを受け取った。並々と注がれた冷たい水で、二錠の風邪薬を胃に流し込む。

 ひんやりとした水が火照った身体を冷やしてくれる。寝汗をかいたのでちょうどよい水分補給になった。

「あの二人は、今どうしてるの?」

「凪様と空菜様でしたら、今は地下で使用人講習を受講されてます」

「使用人講習? そんなの受けてるの?」

「南宮様からの要望もありまして。凪様にとっても大切なことであると伺ってます」

「攻魔官目指してるって話だし、まあ……でも、別に今日しなくてもいいのに」

「むしろ、今日から始めなければスケジュール的に厳しいですよ。地下で時間圧縮しなければ単位が足りなくなりますから」

「うわ……そこまで詰め込んでるの?」

 凪が到着してから数時間しか経っていないが、時間圧縮をしているとなれば、凪と空菜はもっと長い時間を地下で過ごしていることになる。

 暁の帝国からはるばる混沌界域までやってきて、初日から講習を詰め込まれるというのは何とも世知辛い。

「現実時間では三時間ほどですので、そろそろ終わる頃ですね」

「実際は何時間やってるの?」

「一日九時間を予定しています。それが三日で、二十七時間ですね」

「それじゃあ、二人とも全然休めないじゃん」

 東雲が三時間ベッドの上で転がっている間に、凪と空菜は九時間も地下で講習という名のスパルタ教育を受けていたのだ。その前に長時間の飛行機での移動があったはずで、二人の身体には相当の負荷がかかっているのは間違いない。

 時間圧縮というのは、現実時間と圧縮時間との差の分を得するための魔術だが、身体にかかる負担が大きいのだ。

 それは単純に一日の活動可能時間の問題だ。

 人間も魔族も休みなく活動を続けられるわけではない。それぞれに適切な活動時間があって、それを超えると心身に強烈な負荷がかかるというのは言うまでもないことだ。

 時間を圧縮して得をした分を別の活動に費やすというのは、その分だけ睡眠時間を削っているというのも同然なのだ。

「そこは、大丈夫です。お休みになる時も、地下シェルターを使う予定です」

「……なる、ほど。それ、大丈夫?」

 確かに、寝るときにも時間圧縮を行えば、睡眠時間を確保することはできるだろう。表で三時間しか経っていなくても、九時間は睡眠時間を確保できる。

 ただし、時間操作の魔術は身体への負荷が大きいという欠点がある。

「そこは、きちんと計算されていますから大丈夫です。少なくとも数日程度の利用なら、身体への影響は最小限とのことですよ」

 もちろん、この使用人講習に大物の講師が来ていることからも上のほうは、根回しをきちんとしていたのだろう。凪にも空菜にも、そして東雲にも伝えられていなかったのは、抜き打ちであることに意味があるからなのだろうか。

「シノ様、お食事前にシャワーを浴びられたほうがいいですね」

「……わたし、臭い?」

「いえ、シノ様の香りであれば、臭いなどありえませんが、汗をかいていますよね? 軽く流して、さっぱりとしたほうがいいと思います。今日は、男性の目もあるのですから」

「そうだね。そうだ、そうだ」

 熱が引いたので、シャワーを浴びてもいいだろう。寝汗でシャツが肌に張り付いている。思っていたよりもずっと、汗をかいているらしい。言われるまで、気がつかなかった。熱いこの国では汗をかくのは日常茶飯事だが、空調の効いた屋内で、汗に濡れたままというのは身体に悪い。

「じゃあ、お言葉に甘えてシャワーしてくる。食事には間に合わせるから」

「分かりました。脱衣所にお着替えをお持ちしますね」

「うん、ありがとう」

 

 

 この屋敷には三つのシャワールームがある。使用人用と東雲用、そして来客用で、どれもこの国では珍しい浴槽を備えている。

 暁の帝国が日本から派生した国家であり、日本の文化を受け継いでいるという証であった。

 普段、東雲は三十分は風呂に時間を使う。シャワーだけで済ませることが多い混沌界域では稀有な時間の使い方である。しかし、今日は体調不良や夕食前ということもあって、久しぶりにシャワーだけで済ませてしまおうという気持ちになった。

 頭からシャワーのお湯を被ると、寝起きでぼんやりとした頭が冴えてくる。何度も寝たり起きたりを繰り返したせいか、身体のほうが寝たままになっていたが、これもしゃっきりした。

 寝ることと風呂に入ること。この二つは東雲の日々の楽しみで、たとえシャワーだけであっても、リフレッシュには十分だ。

 湯水が肌から一日の汚れを洗い流していくと、あたかも生まれ変わったかのような気分になれる。

 我ながら現金なことだと思う。

 曇った鏡にシャワーをかける。輝きを取り戻した鏡に映るのは、見飽きるくらいに見慣れた女の身体だ。日焼け止めを念入りに使った肌は、赤道近くの混沌界域にあって純白を維持している。肌の白さは北欧に暮らすクロエに近いと自負しているくらいだ。

 何とか母を追い抜いたものの、姉妹の中では低いほうの身長のせいで実年齢よりも若く見られて侮られることも多いのが最近の悩みだ。昨年から一センチも背が伸びていないのが、絶望感を加速させる。自分の周囲にいる友人たちが軒並み高身長なせいで、並んで歩くのが嫌になってきた今日この頃である。容貌と眷獣勝負なら、同年代に負けない自信があると密かに思っていたりもする。事実、東雲は飛び切りの美少女と言っても過言ではない。目鼻立ちがはっきりとしている整った顔に、虹を溶かし込んだ金色の髪は、唯一無二の輝きがある。そして、焔光の瞳と称される魔眼は、第四真祖の特性の一つであり、姉妹の中では東雲だけに発現している。東雲の密かな自慢の一つであった。

 基本的に楽観的で吸血鬼としても、この歳で旧き世代に迫る完成度を誇る東雲だが、うら若き乙女として悩みもある。

 母親譲りの低身長と童顔が最たるもので、胸の膨らみも気になるところだ。

 自分の周囲には、背の高いグラマラスな同級生が多くいる。彼女たちと並んでいると、一気に女性としての自信がなくなってしまうのだ。

 アジア人は幼く見えると言う人もいる。アジア人の要素が入っているから、尚の事子どもっぽく見えるのかもしれないが、同級生に比べて二、三歳年下に見られるのが腹立たしいし情けない。おまけに、同級生からはそれをネタにからかわれる始末だ。

 まだ吸血もしたことはない。されたことはあるが、それはそれ。もっと大人になるには、やはり吸血が必要かもしれない。

「今日こそ、凪ちゃんから」

 凪から血を吸う。

 それは、東雲の一つの目標だった。

 年末年始は、目標倒れに終わった。

 理由はどうあれキスしたし、吸血されたりもした。それはそれでいい思い出だ。しかし、やはり東雲は吸血鬼だ。現第四真祖と前第四真祖の娘なのだ。未だに一度も吸血経験がないというのは、遅れていると言われても仕方がない。聞けば妹たちは凪から頻繁に血を吸っているらしい。とりわけ、空菜は身体の都合もあり、吸血頻度がやたら高いと言う。このままでは、どんどん差を付けられてしまう。

 吸血鬼との相性のいい凪の血を日常的に摂取していれば、能力も徐々に強化されていくに違いない。

 零菜たちが混沌界域に来る前に、最低でも一度は血を吸わなければ、また機会を逃してしまう。

 しかし、どう言い出そうか。

 吸血は多分に性の分野に関わる行為だ。血を吸うのは相手の身体に口を付けるので、よほどの信頼関係がなければ大問題である。妹たちはいったいどうやって凪から血を吸っているのだろうか。それが、東雲には不思議でならなかった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 叩きのめされたというのが、凪の正直な感想だった。

 使用人協会会長のリカルドは一流の軍人でもあり、一流の教師でもあるというのがよく分かる一日だった。

 身体の節々が痛いし、頭もガンガンする。

 受験前ですら、ここまで真剣に学習に取り組むことはなかった。

 使用人としての技術や知識が、そこまで将来に関わるかと侮っていたが、確かに護衛任務で上流階級の人たちの傍に控えることもありえる。そこで、使用人の知識があれば、アドバンテージになると言われれば、真面目に取り組む気になるというものだ。

 学校の勉強と違い、こちらは将来に直結しうる知識であるということも大きい。先々での知識や技術の用途が明確な分だけ、その必要性の認識も早く行われる。

「疲れた、これは疲れた」

 明日も明後日も、この講習が続くとなるとゲンナリする。

 できれば、事前に教えてもらいたかったものだ。心の準備ができていれば、もう少しましだっただろうに。

 睡眠時間は、あの時間圧縮魔術空間を使うことで確保できるらしい。ありがたいが、民間に普及したらブラック企業も真っ青な勤務体系ができあがりそうだ。

 使用人講習が終わったので、シャワーを浴びて私服に着替えた。激しい運動で大量の汗を流したので、それを洗い流すのは急務であった。紺色のシャツとチノパンというラフな服装に戻ったときの開放感といったら言葉にし尽くせないものがある。堅苦しい服装は慣れないし、息苦しかったのだ。動きやすい服装ではあるが、決して運動しやすいものではなかった。

「あ、凪ちゃん」

 何となく廊下を見て回っていると、曲がり角を曲がってきた東雲とばったり出くわした。

 ほのかに香るシャンプーの香りとしっとりとした髪艶を見ると、彼女が風呂上りなのだと分かる。

「東雲、体調悪いって聞いたけど、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。熱ももうないし。風邪なんて初めてで焦ったよ」

 少し頬が紅いのは、風呂上りだからだろう。

 熱もないというのなら、安心だ。吸血鬼の回復力は伊達ではないということか。羨ましい限りだ。凪は度々倒れて入院騒ぎになったことがあるので、健康で病に強い身体には憧れる。

「凪ちゃんのほうは大変だったね。なんか、ごめんね。せっかく、来てくれたのに」

「東雲が謝ることじゃないだろう。それもこれも教官が裏で糸を引いてたのが悪いんだ。確かに、攻魔官の先進国だし勉強できることもあるとは思ってたけどさ」

「リカルドさんなんだって? 講師に来たの」

「知ってる人?」

「こっちじゃ有名人だよ。わたしも晩餐会で何回か一緒したことあるよ。北のほうと戦争してたときから最前線で戦ってた人だからね。混沌界域だと、戦争の英雄でもあるの」

「へえ……そうなんだ」

 詳しい来歴までは知らなかったが、優れた軍人というのは間違いなかったようだ。

 真祖を頂点に戴く混沌界域は、長らく北方に位置するアメリカ連合国と抗争を繰り広げていた。聖域条約にも加入していないアメリカ連合国は、夜の帝国にとって不倶戴天の敵でもある。現状、世の中の流れからもアメリカ連合国は取り残されていて、経済と軍事の両面で圧倒的に混沌界域が優勢ではある。

「戦争の英雄が執事って不思議なもんだけど」

「吸血鬼は長く生きてると多芸になるんじゃないかな。それに、あの人はもともとジャーダの側近もしてたみたいだし、その流れかも」

「東雲も将来はそういう道に進むかもな……いや、東雲は使う側かな」

「わたし? どうかな。正直、先のことって全然分かんないよ。わたしがどうしたらいいのかなんて全然だよ、全然」

「そうか?」

「そうだよ。皇族って言っても、別に跡を継ぐわけじゃあないしね。眷獣を活かして軍属かなぁ」

「東雲が軍属ってのも、あまり想像できないな」

 東雲の眷獣がとてつもなく強力であるというのは知っている。凪の眷獣とは比較にならない圧倒的な力を持っている。クリスマスのテロ事件でも、その片鱗を見せたが、とても十代の吸血鬼が振るう力ではなかった。東雲は生まれついての天才児なのだ。

 東雲がこのまま成長して年月を重ね、力を蓄えれば、真祖に匹敵する眷獣を操ることになるだろう。吸血鬼の力は時間を重ねれば重ねるほど強くなっていく。文字通り時間の問題なのである。ただ解き放つだけで天災とも思える破壊を撒き散らす。それが、東雲の眷獣たちだ。

 東雲が経験を積んで軍属になれば、暁の帝国の軍事力は大幅に強化される。

 暁の帝国以外の夜の帝国は、吸血鬼の眷獣に軍事力の要を任せているところが多い。科学大国である暁の帝国は、例外ではあるが、そのうち吸血鬼の軍属が増えていくのは目に見えている。

「あまり、軍ってのもな」

「変?」

「変じゃないけど」

 と、凪は言い澱む。言葉を途切れさせた凪の顔を東雲は不思議そうに見上げた。

「変じゃないけど、何?」

「……まあ、あれだ。心配はするだろ。軍って、危ないだろ」

「えぇ?」

 ポカンとする東雲。

 凪の返答が意外過ぎて、一瞬唖然とした。

「心配、するの?」

「そりゃ、するだろ。しちゃ、おかしいか?」

「え、いや、だってわたし強いし。まあ、経験はそんなにあるわけじゃないけどさ」

「知ってる。けど、それとこれとは別問題だろ。誰だって、自分の家族が軍に行くって言ったら、心配にもなる。百パー安全じゃないんだからさ」

「あ、うん、そう……」

 東雲の眷獣なら軍でも最前線に立てる。具体的に戦場をイメージしているわけではないが、「常識的」にも強力な眷獣の活躍の場は戦場以外にないのだ。眷獣は意思を持つ兵器だ。萌葱の眷獣のような特殊能力でもない限り、戦うこと以外に使い道がない。軍というのは吸血鬼の就職先としては最適解である。生まれ持った才能を一番活かせる場所が軍というのも、どうかと思うが、常に戦争の危険に曝される国ではこれが重宝される。平和を享受して長い国だと軍の存在意義そのものが否定され、軍縮の流れになるが、暁の帝国を初め夜の帝国は未だに種族問題から紛争の種を抱えている。治安維持組織の軍事力は欠かせない。

 それに、吸血鬼は軍縮の影響を受けにくい。

 兵器のように廃棄することができないし、軍属から民間に移っても有事の際に呼び戻せばすぐに戦力に数えられる。だからこそ、吸血鬼は夜の帝国の軍事力の要として、科学が発達した現代でもその中枢に位置し続けている。

 ただ、やはり軍に入るとなると流血を連想してしまうものだ。

 他者にとって東雲の力は軍事力そのものだが、凪にとって東雲は家族だ。血の臭いがするところとは無縁でいて欲しいと思うのは、当たり前の感覚ではないか。

 東雲は視線をそらして、右側の髪を指に絡ませる。何か言いたそうにしながらも、言葉を見つけられないでいる。

 会話が途切れてしまい、次の話の端緒を見つけられないという何とも居心地の悪い空気が流れ始めたときに、アカネと空菜が廊下の奥からやって来た。

「シノ様、凪様、お夕飯の支度ができたのでお迎えに上がりました」

「あ、うん、ありがとね、アカネ」

「……お邪魔でしたか?」

「ううん、別に。凪ちゃん、行こ」

 凪の腕を叩いて、東雲は足早にアカネのところに歩いていく。

 凪もそれに従った。

 一階の食堂から、いい香りが漂ってくる。

「凪ちゃんは、高柳さん覚えてる?」

「ん? ああ、昔、出入りしてた料理人さん」

 凪が思い出したのは、人のいい妙齢の女性料理人だ。だいたい十年くらい前になるか。まだ東雲が暁の帝国にいて、凪も暁家と一緒に暮らしていた頃だ。その頃からやはり親たちは忙しく、小学校に上がったばかりの子どもたちの世話を手伝ってくれる人が必要だった。その時に夕ご飯の支度をしてくれていたのが高柳であった。世話になったのは、凡そ二年くらいだろうか。子どもが大きくなったことと社会情勢が落ち着いたことで、親たちも時間にゆとりができたので、使用人の利用を徐々に減らしていった。

 凪は高柳の顔をぼんやりとしか思い出せない。

「もしかして、今いるの?」

「うん」

 と、東雲は頷いた。

「うちでご飯を作ってもらってる」

「はあー、知らなかった。こっちにいたんだ」

「ふふ、そうでしょ。高柳さん、評判いいんだよ。ジャーダも引き抜こうとするくらいだしね」

「美味しかったもんな、実際」

 顔はおぼろげでも料理は思い出せる。何と言うことのない家庭料理でも、とても丁寧に作っていたのが印象的だった。調理しているところを覗き込んだこともある。あの当時は何をしているのかいまいち分からなかったが、今となって振り返れば、味噌汁を作るのに昆布から出汁を取る等一手間をかけていた。夕食を自分で用意するようになって、一手間の大変さと大切さを教えられたものだ。

 そう思えば、廊下に漂う夕食の匂いすら懐かしく感じられる。

 久しぶりに味わう高柳の夕食を楽しみにして、凪は食堂に向かうのだった。

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 夕食の後、凪は一端自室に戻った。

 身体が異様に重いのは、暁の帝国から直行便で混沌界域にやって来て、ろくに休憩も取らないままに九時間も勉強と鍛錬を叩き込まれたからだろう。

 強烈な眠気を凪は感じている。ベッドに寝転んだら、そのまま落ちてしまいそうだ。気力も体力も使い果たした。そもそも、慣れない海外で緊張していたところで、突然の抜き打ち使用人講習だ。内容も濃密で、思い返すと頭がおかしくなりそうだ。

「ヤバイ、疲れた」

 疲れたという言葉だけが頭の中を行き交っている。

 シャワーと食事を終えたので、必要最低限の整理活動は終了している。後は睡眠を取るだけだ。明日から使用人講習の二日目が始まる。地下シェルターでたっぷり睡眠を取らせてもらえることになっているので、寝る前に移動しなければならないのだが、それすら面倒になってきた。

 ベッドの上に胡坐をかいて座り込む。

 このまま倒れこみたいという思いがむくむくと鎌首を挙げてくる。このままでは、寝落ちしてしまうと思った凪はとりあえず音楽を聴こうとスマホを取り出した。

「凪さん、今いいですか?」

「何、空菜? いいぞ」

「はい、お邪魔します」

 ドアが開くくぐもった音がして、空菜が入ってきた。

 学校指定のジャージを着ているのは、一番楽な格好だからだろう。家でも寝る前にはジャージを着ている。

「お疲れですか?」

「それなりに。空菜もだろ?」

「今日は大変でしたね。何と言うか、いろいろと」

「そうだな」

 自宅からここまで凪とほぼ同じスケジュールをこなした空菜だ。肉体的に凪より強くても、疲労の度合いは大して変わりないだろう。彼女の持つ獣人特性がどのくらい疲労に作用するかといった程度だろう。

「今日の夕ご飯は美味しかったですね。あれを作ってるのが、高柳さん、でしたか。凪さんとも旧知の間柄とか」

「昔、うちに来てたからな。ここにいるとは思ってなかったけど」

 高柳には先ほど会って、挨拶だけした。

 十年ぶりの再会に、何か思うところがあったかというとそれはない。そこまで深い関係ではないからだ。ただ、あちらは凪の成長に驚いていた。小学校に上がったくらいの少年が、今は高校生になる。子どもの十年は、とても大きいのだ。まして、当時の凪は入退院を繰り返す体調だったから、高柳としては無事に大きくなったことを喜んだのだ。

「空菜は、身体のほうは大丈夫か?」

「ええ、まあ。筋肉痛まではいかないくらいかなと。適切な処置をすれば、問題なく明日を迎えられます」

 空菜は、肩を回して健在さをアピールする。

 疲労への強さもさることながら、疲労回復能力も高い。獣人特性を持つ吸血鬼の強みだ。肉体的強度も回復能力も人間とは比較にならないのだ。回復能力の高さは、そのまま肉体の発展性の高さに繋がる。筋肉は軽度の損傷と回復によって成長していくのだとすれば、回復速度は筋肉の成長速度に直結する。

「で、空菜はあれか。血を吸いに来たのか?」

「話が早くて助かります。凪さんもお疲れですし、寝てたらどうしようかと思ってました」

「寝てたらどうするつもりだったんだよ」

「起こすのも悪いので、そのまま血をいただいていたかと」

 何と言うことのないように空菜は言う。

 実際、空菜は隙を見つければ吸血している。凪が昼寝をしている時にそっと首に牙を立てるなど、日常的に行っているのだ。空菜からすれば、隙を見せたほうが悪いという自侭な理屈である。もちろん、凪がそれを知っていながら拒否しないのが一番の原因ではある。

「時間は、いつも通りか」

 空菜の吸血は主に朝一番と夜の九時前後だ。今、掛け時計を見れば九時を回ったところ、時間だけを見ればいつも通りだ。

 頷いた空菜は、瞬きの後に瞳を真紅に染め上げて、

「そうですね。まあ、時差を別にすればですけど。正直、わたし、今けっこう来てます」

「何が?」

「吸血衝動。だって、前回から大分時間が経ってるんですから。こうして面と向かってしゃべってるだけで、喉が渇いて、しまって……ッ」

 バチバチ、と空菜の魔力が弾けている。

 空菜が凪の血を吸ったのは、今朝が最後だ。

「あ……そうか。地下」

 地下シェルターを使った使用人講習。あれは、外の時間で三時間のところを九時間にまで圧縮した。朝晩二回の吸血で回していた空菜の吸血サイクルが、それで大きく乱れたのだ。おまけに、使用人講習では模擬戦闘が度々行われ眷獣まで使った。体力と魔力を使ったので、それだけ吸血衝動が強く喚起されている。

 ただの吸血鬼ならばともかく、空菜は定期的な吸血が生命活動に影響するよう設計されている。不死の呪いが徐々にその制約を壊しているが、まだ完全ではなく、凪からの吸血は趣味であると共に必須の生理活動だ。

 必要なのは平均して一日に二回。体力や魔力を多く消費することがあると、希に三回ほどになる。ほかにも吸血鬼の本能に根付く衝動なので月齢等の影響もあるらしいし、女性なので生理も関わりがあるのだとか。この辺りは本人でないと何ともいえないところで、平日に吸血衝動が現れると、休み時間に凪が保健室に呼び出されることになるのだ。

「もしかして、ずっと我慢してた?」

「うー」

 瞳がギラギラしている。言語能力を喪失し、獣のようになっている――――というと大袈裟だが、相当な飢餓状態だ。何日も前から狩りに失敗し続けたサバンナのライオンのようである。

「あ、もう無理」

 ふっと魂が抜けたような表情を浮かべた空菜。彼女の中で何かが切れた。次の瞬間には空菜は凪に抱きついていた。

「待て待てッ。準備するから、服に血がつくかもしれないから」

「ダメ。無理。待て、ない――――んぐ」

「イッ……ッ」

 ずきり、とした痛みが首に走る。

 空菜の牙が凪の首に食い込んだのだ。そのまま体重をかけて空菜は凪を押し倒す。食い破られた皮膚から血が溢れて、空菜の口内に吸い込まれていく。獲物を捕らえた蟷螂のように、凪の身体を押さえつけて体重をかけて拘束し、深く牙を押し込んでいく。

 噛まれ慣れている凪は痛みをすぐに忘れる。血が抜けて行く感覚を快いと思ってしまうのは、吸血鬼の特性の一つだ。

「ふ、ん、ふぅ……んん」

 参った。

 空菜の香りがする。

 柔らかい空菜の身体が凪の身体に密着しているし、耳元では空菜が血を味わう音がする。

(……色不異空、空不異色、色即是空、空即是色……)

 凪は可能な限り空菜を意識しないように努める。香りと触感と音で攻めてくる空菜に反応しないようにするのは至難の技だ。吸血自体が快楽に直結するのだから、これはある種の拷問である。念仏を唱えつつ、流れ作業として空の心で対応しなければ間違いが起きてしまうかもしれない。凪がもしも空菜に迫ったら、空菜は間違いなく凪を拒絶しない。彼女のホムンクルスとしての認識が凪の要求を全肯定するはずだからだ。だからこそ、凪は自制心を強く持ち続けなければならないのだ。

「……もういいだろ」

「待って、まだ、ダメです。もう少し、もう少しだけ、は、ぁ……ん、ふう……」

 空菜は凪の首に口を当てる。流れる血を啜り、味わい、魔力を身体に取り込んでいる。飢餓状態からご馳走を味わったために、いつも以上に多幸感が溢れてくる。一口二口ではとても足りない。空菜は血の雫を舌の上で転がすようにして味を確かめてから喉に送る。ゆっくりと、しっかりと、一滴も零さないとばかりに血を啜る。牙を口から離してから、噛み痕から滲んだ血もきちんと舐め取った。

「落ち着いた?」

「はい……ふう、何とか。助かりました」

 上気した頬で息を荒げている姿は何とも扇情的だ。直視するのは、目に毒だ。

 空菜はティッシュに消毒液を含ませて凪の首に押し当てる。

「傷、もう治りかけてますね」

 血が付着したティッシュを握り潰し、傷跡を見た空菜が呟く。

「そうか?」

「最初の頃に比べて、ずいぶんと治りが早くなってますね」

「やっぱ、そうなのか」

 凪の身体が吸血鬼に近付いているというのは、クリスマス頃から言われていることだ。もともと、その傾向はあったが、東雲と那月により古城たちから施された原初の封印が解けたためだ。

 数年もすれば、凪は吸血鬼に非常に近しい存在になるかもしれない。それは凪にとっては都合のいいことかもしれない。眷獣を制限なく使えるのなら、活動の幅が広がる。

 ふと、空菜がドアに目を向けた。それから、唐突に眷獣の腕が伸びる。人工眷獣の腕が器用にドアを開けた。

 開いたドアの向こうから、東雲がたたらを踏んで室内に入ってきた。

「あ、う、わぁッ」

 バランスを崩した東雲が膝を突く。

「東雲? 何してんだ?」

「あ、えーと……その、大丈夫かなって……」

 膝立ちのまま東雲はアタフタと答える。

「シノさん、ずっと見てましたよね」

「ぇあッ!? あ、何をかな?」

「わたしの吸血。そこで、ずっと最初から」

「え、ぅ……気付いてたの?」

「まあ、鼻が利くので」

 東雲の特徴的な能力の一つだ。といっても、別に珍しい力ではなく獣人の多くが人間以上の嗅覚を有する。吸血鬼も人間よりもは敏感な嗅覚を有するが、空菜は嗅覚は獣人よりなのだった。

 東雲は居心地悪そうにもじもじしている。焔光の瞳は紅を帯びていて、吸血衝動の兆候が見られた。

「シノさん、ちょっと」

 と、東雲の下に歩いていった空菜は、東雲を連れて廊下に出て行った。

 

 

 

「空菜ちゃん、何かな?」

「シノさんも凪さんの血を吸いに来たんですか?」

 ストレートに空菜は東雲に尋ねた。

 直球で来た質問に東雲は心臓が止まりそうになった。物怖じしないで核心を突いてくる質問は、心臓に悪い。

「え……あ、いや、そういうわけじゃなくて、たまたま通りかかっただけだよ、ほんと」

 これは事実だ。

 たまたま通りかかった。そこで、空菜が凪の部屋に入っていくのを見かけたのだ。そして、漏れ聞こえる会話から部屋の中で吸血が行われると知り、こっそり中を覗いてしまった。魔術を駆使すれば、薄い扉一枚透視するのに手間は掛からないのだ。姿隠しもきちんとしていたが、臭いでばれているとは思わなかった。

「ご、ごめんね」

「いえ、別に謝らなくてもいいんですけど」

「え? いいの?」

「大したことではないですし。学校とかだと、ちょっと困りますけどシノさんなら問題にはならないですし」

「あ、そうなの?」

 吸血を人に覗かれるのは、恥ずかしいことではないのか。人間で言えばキスに相当するであろう親愛表現なのだ。

「わたしにとって吸血は水分補給みたいなものですから」

 と、空菜は言う。

「そっか、何ていうか、価値観が違うんだね」

 必要に迫られて吸血している空菜と親愛表現として吸血を見ている東雲とは、同じ行為でも意味合いが違うのだ。

 吸血自体が親愛のほか支配や上書き、魔力補給など様々な意味を持っている。そこにどのような意味を見出すのかは個人差がある。年齢や性別、育ってきた環境で吸血に対する価値観は大きく変わるのだ。概ね平和な時代に生まれ育った世代は親愛表現と受け取るし、戦乱の時代に育った世代は魔力補給や支配をイメージする傾向があるという。空菜はまた別で、身体の都合が大きいようだ。

「もちろん、誰彼構わずじゃないですよ。凪さんだからというのもあります。血を吸うのは、特に今の時間帯がオススメです」

「時間で変わるの?」

「はい、全然違いますよ。特に匂いとか舌触りは、時間帯とか運動量で変わります。水分をどれだけ失っているかで舌触りは変わりますし、シャワーの後なのか、運動の後なのかで匂いも変わります。汗の塩辛さの度合いも違います。凪さんの血はいつでもいいんですけど、やっぱり風味がいいときに吸うのが一番味わい深く楽しめるのです。そこで個人的にオススメするのがお風呂上り三時間くらいです。シャツの柔軟剤の匂いと凪さんの匂いのバランスが最高にマッチして、いい具合になるんですよ」

「……なんか、急に饒舌になったね。あと、あなたが匂いフェチなのは分かった」

 空菜の吸血に対する思わぬ拘りを知り、圧倒される。

 東雲もマニアックな性癖を自覚しているが、それはあくまでも妄想の域を出ていない。実際に行動するとなるとハードルが高いのだ。空菜は東雲の想像を遥かに上回るフェティシズムの持ち主だったようだ。好きな物を語るときに無駄に饒舌になるオタクを連想してしまった。

「んん、まあ、凪さんの血を吸って元気になったので、ちょっと舞い上がっていました、すみません。別にシノさんに見られていたからってわけでもないですよ」

「そういうの、いいから」

「吸血には性癖が出るって本に書いてあったので、勘違いされると困るなと思って」

「そうなんだ。吸血の本……?」

「『今更人に聞けない!? 旧き世代に聞く、楽しい吸血のヤリ方』という本です。後で貸しましょうか?」

「マジで? 借りていい?」

「いいですよ。持ってきてるので、今からでもお貸しします」

 吸血は吸血鬼にとって重要な愛情表現の一つだ。お手軽に愛情を示すことができる半面、やはりマンネリ化しやすい一面もある。よって、恋愛技術の一つとして吸血を捉え、若い吸血鬼をターゲットにした吸血ハウツー本が夜の帝国には数多く出版されていて、空菜は数冊、そういった本を購入していた。

 もちろん、その手の話題はネットにもたくさん転がっているし、混沌界域にも多くある。東雲も手に取ったことがないわけではないが、じっくりと目を通したことはなかった。

「で、シノさんは吸血しなくていいんです?」

「ん?」

「凪さんから、血、吸わなくてもいいんですか? 興味、あるんですよね?」

「……ん、いや、それは、でも……なんかこう、ムードとかあるし」

「クリスマスの時には、シノさんから凪さんに迫ったようですけど……」

「あの時は、勢いがあったから、それに大義名分も」

 東雲が凪に口移しで自分の血を与えたのは、今にして思えばずいぶんと大胆な行動だった。その背景には、テロリズムに遭遇したことによって気分が高揚してしまったことや那月の命令という大義名分があったことがある。とどのつまりはその場の勢いだ。

 無論、うら若き吸血鬼なのだから、吸血はしたい。凪から血を吸うと、数時間前に決心したばかりだ。

「今、血、もらっていいのかな? 大丈夫?」

「凪さんなら大丈夫かと。わたしが吸った分は、もう回復してるころですし」

 と、空菜は答える。

 凪の回復力が向上しているので、一日で吸える血の量も格段に増えているのだ。吸血鬼化が進行すれば、そのうち飲み放題になるかもしれない。

「よし、分かった。やる。わたしはやる」

 東雲は決意を新たにする。

 いつまでも妹たちに先を越されたままでいるわけにはいかない。

 何よりも凪の血は自分にこそ相応しい。原初の力を宿した凪の血は、第四真祖の血を濃厚に受け継ぐ東雲にとって自分の血も同然だ――――そういう感覚を、東雲はずっと感じている。直接顔を合わせて、確信した。凪の力と自分の力は非常に相性がいい。きっと――――いや、間違いなく凪の血を吸えば、東雲の力はかなり強化されるはずだ。

 

 

 

 ■

 

 

 

「吸血させてくださいッ!」

 凪の目の前で東雲が頭を下げている。

 見事な土下座であった。

 廊下での空菜との話し合いを終えて部屋に戻ってきた東雲は、そのまま凪の前にやって来た。スリッパを脱いで、ベッドに上がって来て、凪が何事かと思ったところで額を布団にこすりつけるくらいに頭を下げてきた。鎌倉武士のような清清しい土下座だった。

「吸血ッ、させてくださいッ!」

「東雲、急に、どうした?」

 その勢いに押されて、凪は困惑気味に尋ねた。

「凪ちゃん、お願い。もう、この勢いでやらせて」

「やらせてって、説明を」

「理由なんてないです。強いて言うと吸血をしてみたいだけ。だって、みんなやってるし。わたし、一応上から三番目だよ。なのに、未経験。それに凪ちゃんの血、吸いたい。空菜ちゃんがいいって言った」

 支離滅裂にも聞こえる東雲の返答は、凪をますます困惑させる。しかし、一応言いたいことは分かった。まず、もともと凪の血に関心があった。凪が吸血鬼の吸血衝動を喚起する体質なのは周知の事実である。おかしなことではない。そして、妹たちが凪の血をすでに吸っている事実がある。空菜が血を吸っているところは先ほど東雲に見られたし、零菜や麻夜も凪の血を吸っている。皆、東雲にとっては妹だ。そして、決め手が空菜がいいと言ったところで決心したわけだ。何となく、流れは分かった。

「空菜は勝手に……」

「空菜ちゃんは、相談すればいいって言うと思うくらいしか言ってない」

「そう」

 その空菜は、成り行きを見守るでもなく自室に帰ったらしい。後で地下シェルターに行くことになるので、何を話したのか聞いてみることにするとして、東雲の対応だ。

「まあ、確かに、東雲が吸いたいって言うのなら、吸っていいけど」

「ほんと? そんな簡単に決めていいの?」

「うん、まあ、いいんじゃない?」

「わたしの一世一代の土下座だったのに」

「別に土下座なんてしなくても……」

 勢い勇んで突撃した東雲ではあるが、凪は血を吸われることに慣れ過ぎていた。東雲にとっては重大事な吸血も、凪にとっては日常的に繰り返す活動の一つでしかないのだ。これが赤の他人なら、さすがに許可しないが、東雲なら家族も同然である。「別にいいよ」の一言で片付く。これもまた、吸血鬼とその他の価値観の違いであろうか。

「そう、そうなんだ。え、へへ……じゃあ、ええと、もらうね」

 生唾を飲んだ東雲。

 動悸が激しく、頭の中に心臓があるみたいだ。喉が渇いて焼けるように痛い。凪の血を吸えると思った瞬間に、何かが切り替わった気がした。

「あ、おい、待って」

 凪が急に顔を歪める。

「え? 何? 何か変なことした?」

「そりゃ、いきなり魔眼はナシだろ。そんなことしなくても、逃げないって」

「え、あ、ごめん」

 東雲は無意識のうちに魅了の魔眼を凪に向けてしまった。吸血鬼の基本技能の一つだが、この歳で使えるのは珍しい。姉妹でも東雲の他には零菜と空菜しかきちんと発現できていない。この力を、東雲は本能的に使ってしまったのだ。

 かつては、魅了で相手を骨抜きにした後で血を吸った時代もあったらしい。吸血対象が性愛の対象であると同時に捕食対象だった時代だ。

 凪は東雲の焔光の瞳が煌めいた時に咄嗟にこれをレジストしたのだ。今日の鍛錬がさっそく活きた場面だった。

「あ、そうだ、もう一つ」

「何、かな?」

「俺の呼び方、そろそろ変えてくれない?」

「何か変?」

「変って言うか、ちゃん付けはさすがにね」

「え……可愛いのに」

「可愛い、か? ともかく、ちゃん付けは恥ずかしいから今後はダメ。前から言おうと思ってたんだけど、この機会にね」

「ダメ?」

「血を吸わないなら」

「わ、分かった」

 吸血衝動のスイッチが完全に入った状況で待ったをかけられるのは、想像以上に辛かった。凪がこのタイミングを見越していたとすると相当悪辣だと思えるくらいだ。空菜が凪に飛びかかったのも分かる。あそこまでの衝動ではないにしても、頭がぼうっとするし凪の首から目が離せなくなる。今まで経験したことがないくらいに、「欲しい」という感情が燃え上がっている。どうしても我慢できない欲求がこの世にあることを東雲は初めて実感した。

 吸血は血を吸うほうが優位な行動だと思っていたが、そうとも言い切れないようだ。少なくとも今は、凪にイニシアチブを握られている。血を吸うのではなく、血を吸わせてもらうという立場だからだ。

「凪、君の言うとおりにする」

 慣れ親しんだ呼び方を変えるのは、抵抗がある。言い慣れないので言葉が詰まってしまった。

「じゃ、じゃあ、もういいかな?」

「うん」

「それじゃ、するね」

 東雲が凪に身体を寄せる。空菜よりも小さな身体だ。これが、背伸びをするように凪に枝垂れかかって、首を噛んだ。

 鋭い犬歯が凪の皮膚に刺さる。

「ィッ……」

 針で刺されるような痛みが走って凪が顔を歪める。

「あッ、ごめん、痛かった?」

 東雲が驚いて口を離した。

「いや、大丈夫。初めてだし、仕方ないよ」

「う、うん、ごめん」

 恥ずかしくなって東雲は視線を伏せる。

 要するに今のは、噛み方が下手だったということだ。上手い吸血鬼なら痛みなく吸血できるという。

「あ、の、どうしよう……」

 東雲が不安感に苛まれる。自分が噛み付くことで凪に痛みが生じるなら、噛めないと思ってしまう。相手を傷付けてしまうかもしれないということが恐怖に繋がるのだ。直前まであった全能感がまったくなくなって、一気に自信がなくなってしまった。

「大丈夫だって、ゆっくりとやればいいから」

「……ぅ、うん」 

 東雲は深呼吸をして動揺を鎮める。

 それから、凪の肩に顎を乗せるようにして噛み付く場所を探った。今までにないくらい明確に凪の匂いを感じる。体温や息づかいもはっきりと感じ取れる。身体の奥深くから、心地いい緊張感が膨らんできて、全身が捩れてしまいそうだった。

「ん……ぁ、ん」

 そして、東雲はついに凪の首に牙を突き立てた。二つの牙が皮下に食い込んで血を流させる。血の吸い方は、すぐに分かった。息をするのに、いちいち考える必要がないのと同じくらい当たり前の感覚だ。

 傷口から滲む血が東雲の口に入る。舌の上でビリリと弾けた。まさしく雷光のように、それは来た。食べ物とも飲み物とも違う第三の味。

 脳がそれを血の味だと理解したとき、東雲の中で吸血鬼の本能が完全に開花した。

「ん、ふ、ぅ……ん」

 じわり、と広がる苦味は鉄分なのだろうか。

 いずれにしても不快ではない。

 血もそこから得られる魔力もすべてが、身体に浸潤していく感じがする。頭が揺さぶられて、思考がクリアになっていくようでいて、同時に熱病に浮かされたように頭の回転が鈍っているようにも感じられた。ふわふわして気持ちいい。

 ぐっと思わず牙を押し込んで、さらに出血を強いてしまう。

 腕を凪の背に回して、身体がずれないようにしっかりと固定した。

 血を舐めるように味わっていると、身体が熱くなってどんどん次が欲しくなってくる。頭がおかしくなっている。血の味しか分からないし、それ以外は必要ないと思えてしまう。それくらいに、これは強烈な快感を伴って東雲を翻弄している。

 どれくらい、凪に噛み付いていただろうか。一分か、二分か、もっと長くかもしれない。東雲は唇を離して、凪を解放した。

「ふぁー、これ、すごい……あ、何かダメ、嵌るかもぉ」

 うっとりとした東雲は、唇についた血を舐めてぶるぶると身体を震わせた。全身が弛緩しているのに身体の奥深くは緊張しているという奇妙な状態だった。快楽中枢が吹っ飛んだ感じだ。

「凪、君。ありがとう……その、もしよければ、また吸わせて」

「いいよ。減るもんじゃないし」

 血は放っておいても勝手に製造される。コストもない。可愛い女の子がそれで喜ぶのなら、いくらでも献血する。

「んふふー」

「何、急に」

「別に、なんでもないよ」

 急に笑った東雲を怪訝に思う凪。東雲はというと機嫌よくベッドを降りた。東雲から感じる魔力が見るからに増大している。魔力を押さえ込んでいた枷を取り除いたかのようだった。

「力が漲ってくる。吸血って、すごい」

 東雲は自分の手の平を見つめた。 

 体内に渦巻く魔力が体表面から滲み出ている。

 凪の体質もあるし、東雲との相性もあるのだろう。東雲の妄想のとおり、凪の血は東雲の身体に適していたらしい。

 凪は時計を見る。

 空菜と東雲に血を提供している間に、夜が更けた。いよいよ眠らなければ明日が持たない。

「東雲、俺、地下行くから」

「あ、うん、もうそんな時間か」

 少し残念そうな顔をする東雲。

 これから凪は空菜と一緒に地下に下りて、たっぷり休養してから二日目の使用人講習に臨まなければならない。これ以上の夜更かしは禁物だ。

「おやすみ、凪君」

「おやすみ、東雲」

 最後にもう一回、一口血を吸いたいと思ったが東雲は我慢する。凪と東雲は一緒に部屋を出て、それからそれぞれの寝室に向かっていった。


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