二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 九話

 二月十四日、バレンタインデーと呼ばれる「祭日」は、男女を問わず特別な意味のある日である。西洋においては失われた神話の聖人に肖って贈り物を渡し合う日であり、日本においてはチョコレートを渡す日である。とりわけ、女性から男性に対して好意をチョコレートともに伝える日というのが、ここ数十年の間に醸成された日本の独自文化であり、それを色濃く受け継ぐ暁の帝国でも同様であった。もっとも、女性から男性へチョコレートを贈るというのはこの祭日の一面に過ぎない。お菓子メーカーの策略に乗ってたまるかと強がってみても意識せざるを得ず、何となく女性は男性にチョコレートを贈らなければならないのではないかという強迫観念染みた環境が昨今の若者にとっては大きな負担となっているのも否めない。恋愛を絡めない友チョコや義理チョコといった方向性が強くなってきたのも自然な流れではあるのだろう。ともあれ、日本並びに暁の帝国は、一月の末から二月十四日まではチョコレートを中心に軽めの贈答品の売れ行きが好調になるし、学校ではどこも浮ついた雰囲気が漂うことになるのである。

 そして、その文化に目を付けたのが混沌界域であった。

 カカオの生産量世界トップをひた走るこの国は、当然の帰結としてチョコレートの生産量も世界トップであり、最大の輸出国が日本と暁の帝国であった。とにかく混沌界域産のカカオとチョコレートは高級品として知られていて、バレンタインデーにチョコレートを大量消費する文化に目を付けないわけがなかった。

 二月十四日にチョコレートを大量消費する。輸出だけでなく内需を拡大するという狙いで始まったチョコ祭りは、今年で十年目の節目を迎え、予算も例年比の三割増しで計上されている力の入れようだ。

 政府と国内のお菓子メーカーがタッグを組んでアピールしただけあって、混沌界域でも二月十四日はチョコレートの日だと社会が受け入れている。

 テレビをつけても広告が目白押しだ。この記念日に合わせて、様々な企業が多種多様な戦略を練って新商品を送り出している。

 国内外の客を迎え入れる国家の玄関である空港の磨き抜かれた廊下で佇みながら、吊り下げられた大型ディスプレイから流れるチョコレートの宣伝を眺めている。

「零菜、あと三十分くらいかかるって」

 早足でやってきた萌葱に声をかけられた零菜は、視線を姉に向ける。

「けっこう待つんだ」

「さすがに時期が時期だからね。祭りの前日だから渋滞も酷いみたい」

「やっぱ、そうだよね。一日早く来れればよかったんだけど」

 零菜たちが混沌界域の入国手続きを終えたのはつい先ほどのことだった。生まれて初めての混沌界域に心躍らないはずもないが、言葉の通じない他国というのは緊張する。スマホの翻訳アプリを使えば、何とでもなるというが、使いこなせるかどうかはぶっつけ本番なのでなんとも言えないのであった。

「紗葵たちは店ぶらつくって。零菜は?」

「わたしも行く」

「ん、あっちだって」

 ガラガラと青いスーツケースを引っ張って、零菜は萌葱についていく。

 空港ターミナルビルは多くの観光客でごった返していた。

 世界有数の祭りを明日に控えて、外国からの旅行客が多数集まっている時間帯だ。地上五階のビルに入居するテナントの多くが混沌界域のお土産を取り扱っているが、食料品を扱う店では軒並みチョコレートが並んでいた。

「どこもかしこもチョコだらけ……暁の帝国(うち)よりも気合入ってない?」

「市場規模だけなら、もう日本も超えてるんじゃないかって言うからね、この時期の混沌界域は……ま、政府が予算組んで、チョコ祭り用に買い上げてるってのもあるみたいだけど」

 もともと、人口は混沌界域のほうが暁の帝国よりも多い。そこで、政府を挙げたキャンペーンを実施すれば、自然と暁の帝国以上のチョコレートの消費量になるだろう。こちらのほうが物価も安い。外国からの輸入に頼る暁の帝国はどうしてもチョコレートは高くなりがちだ。

「今年はクラスでチョコを配らなくていい分楽だね」

 と、萌葱は言う。

 いわゆる義理チョコと友チョコである。仲良くしている友人には、チョコレートを贈る。それが、強要されているような雰囲気を感じてしまうのが、このイベントの悪いところだ。チョコレートの良し悪しでマウントを取るような連中もいるし、人間関係がこじれることもあり得る。特に女子はその手の話題で何かと優位性を主張したがる生き物だ。 

 さすがに、第四真祖の娘を相手にして、チョコレート一つでちょっかいをかけてくるような輩はいないが、立場上友人をないがしろにしているという風聞を立てるわけにはいかないのが辛いところである。萌葱はチョコレートを配って最低限の人間関係を保証できるのなら、むしろ得だと思うことにしている。 

 しかし、それも例年の話だ。

 今年は、バレンタインデーを海外で過ごすことになった。よって、チョコレートを用意しなくてもいいという名分が立つ。いつもつるんでいるような本当に仲のいい友人にだけ、事前にそれとなく渡しているが義理チョコの類を教室に持ち込まなくてよかった分だけ今年の負担は小さくなった。

 萌葱の意見に零菜も同意する。零菜たちからの義理チョコを楽しみにしている勢力も一定数いるのだが、今年はそういった面々とも顔を合わせなくて済む。これは大きな負担軽減であった。

「あ、いたいた、あそこだ」

 萌葱が指さしたのは、民芸品を取り扱う店の中だ。

 木彫りのお面や数珠のような何か、色のついた石の珠といったどこにでもありそうな商品が並んでいて、お面を手に取って興味深そうに眺めている瞳とその横で虚空を眺めている夏穂がいて、二人の幼女を左右で見守っている紗葵と麻夜がいる。

「零菜ちゃん、気に入ったものはありましたか?」

「うわッ」

 不意に背後から声をかけられて、零菜は飛び退いた。

「ごめんなさいでした。驚かせてしまいました」

「あ、かのねぇ。ううん、別に大丈夫」

 麦藁帽を被った銀髪の女性――――夏音は、穏やかに微笑んでいる。時々何を考えているのか分からない不思議な気配のする彼女は一児の母なのだが、雪菜と同様に血の従者となっているので見た目は零菜と同じくらいか少し上くらいに見えなくもない。

 銀色の髪とサファイアのように青く澄んだ瞳はアルディギア王族の血に由来し、佇んでいるだけで高貴さが滲み出しているようですらあった。

「零菜ちゃんは、何か買いましたか?」

「ううん、まだ何も。今、ここに来たばかりだから」

「そうでしたか。出発まで時間がありますから、ゆっくり選んで……と」

 夏音が言葉を途切れさせたのは、彼女の娘が駆け寄ってきたからだ。

 最年少の夏穂が、紅い包装紙に包まれた箱を片手にやってくる。

「ママ、これ」

「はい、それにしましたか。じゃあ、お金を払わないとダメでした」

 夏音は財布からお札を取り出して、夏穂に渡す。自分でレジに持っていき、支払うようにと言い含めて、その様子を見守った。

「自分で買わせるんだね」

「大事なことでした。それに、しっかり者のお姉さんたちもいますから」

「まあ、ね」

 夏音は決して放任しているわけではない。萌葱や紗葵が、何かと面倒を見てくれているから安心して任せていられるし、だからこそ、この機会に体験させられることをさせている。皇女だ何だと言って、甘やかして育てるつもりは毛頭ない。実は、それなりに厳しい母親でもあるのかもしれない。

「零菜ちゃんは、もうチョコレートはあげましたか?」

「え? あ、全然まだ、だってまだ会ってもいないし!」

「お父さんのことでした」

「ッ……あ、わ、渡してきたよ。ああ、うん、古城君だよね、うん」

 カッと頬が熱くなるのを感じる。

 嵌められた、と一瞬思ったが、夏音は穏やかに微笑むばかりで零菜をからかおうという意思は感じられない。零菜が勝手に勘違いをして自爆しただけだ。それも、自爆した事実に夏音が気づいているかどうかも分からない。

 こういう時の夏音は妙に怖いのだ。何かしら得体のしれないものを感じることがある。天然気質でありながら、本質を突然突いてくる。何かと鈍い母に比べてずっと隠し事のできない相手だと感じていた。

「かのねえは、古城君に渡してきたんだよね?」

「はい。毎年のことでしたが、喜んでもらえて何よりでした」

 どんなチョコレートを渡したのか気になるところだったが、夏音のことだから無難と極端を足して二で割ったようなチョコレートだったのではないだろうか。時折、常人とはかけ離れた感性を披露するのも夏音の特徴だった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 地下シェルターの時間操作魔術によって大幅な短縮を実現し、短時間で使用人講習をクリアするのに必要な単位数を獲得した凪と空菜は、やっとのことで自由な時間を手に入れた。

 旅行気分はすっかり抜けてしまい、外出する気力もないという有り様ではあったが、もう勉強も鍛錬もしなくていいと思うと気が楽だった。

 朝日が昇ったころに講習を終えた証となる修了証明書を受け取り、地下シェルターで睡眠を取った。時間圧縮のおかげで、外の時間にして三時間で十分な睡眠を取ることができたので、体力面では日常生活に問題がないのだが、気力はそうもいかなかった。お昼前、これからというときではあったが、まったく何かしようという気にならないのであった。

 かといって、テレビを見ていても知らない国の言葉で何を言っているのか分からないし、人の家で昼間から寝ているというのも落ち着かない。どうしたものかと思っているところで、空菜と東雲がやってきた。

「ハロー、今、いいかな」

 と、東雲が言う。

 東雲と空菜の手には透明な袋があってその中にはそれぞれクッキーとチョコレートが入っているのが見て取れた。

「ハッピーバレンタインだよ、凪君。どうぞ」

 東雲は凪にクッキーを手渡した。

 円形のココアクッキーとプレーンクッキーでとてもシンプルだ。

「ありがとう」

「味見もしてるから大丈夫なはず。あまり甘くならないようにしてみた。どうせ、凪君はこれからいっぱいもらうだろうしね」

「うん、まあ、ありがたいことにね」

 否定はしない。

 お昼過ぎには零菜たちがここにやってくるだろう。例年通りなら、何かしらもらえるはずで、しばらくは甘いものを購入する必要がない状態が継続する。

「これからチョコ祭りだからね。甘いのいっぱい出てくるから、お口直しに寝る前に食べるといいよ」

「そうか? じゃあ、そうする」

「うん」

 東雲は嬉しそうに笑う。

 一番最初に手渡し、一番最後に食べてもらうことでより強く自分を印象付けようとする策である。例年通りを演出して気軽な挨拶をする感じにしているのも、凪に気負わせないようにするためだ。

 気軽に暁の帝国に帰ることができない東雲は、バレンタインデーに凪に贈り物を手渡しするのは四年ぶりだ。昨年までは古城と凪にそれぞれ郵送していたので、今年は少しばかり力が入っている。

 他の姉妹はいつでも手渡しできるが、東雲はそういうわけにもいかないので、多少の抜け駆けは大目に見てもらってもいいだろうと先手を打ったのであった。

「空菜もありがとうな」

「はい。凪さんが普段よく食べているチョコより、少しばかり苦めにしました」

「おーそうか」

 食べ物を贈るうえで、相手の好みを知ることは大切だ。

 チョコレートは甘いか苦いかで味わいが大きく変わる。苦いチョコレートが好みの相手に、甘いチョコレートを渡すのは悪手である。その点、凪と同居している空菜は、凪が買ってくるお菓子の内訳まで把握していた。チョコレートはカカオ72パーセント以上と苦みを感じるものを購入することが多く、カカオのパーセンテージが複数ある袋詰めのチョコレートの場合も必ず最も苦いチョコレートから食べている。結果、袋の中は最終的に甘いチョコレートばかりが残ることになる。

 日常的に凪を観察し、その嗜好を知る空菜にとって、凪が好む苦みに調整するのは難しいことではなかった。

「空菜のこれは手作り?」

「はい。この辺のお店は勝手が分からないので、シノさんから材料を借りて用意しました」

 地元からチョコレートを持ってくることはしなかった。このイベントの意義をそこまで深く理解しているわけではないのだが、自分もまた凪にチョコレートを贈っておく必要はあると感じてはいた。東雲がちょうどクッキーを作り始めたので、便乗してみたのだった。

「空菜ちゃん、手際が良くてすごかった。手慣れてる感じ」

「お菓子作りは初めてですが、知識はあります。日常的に食事を作る機会もあるので、それなりに」

「わたしはこういう時しか、キッチンに立たないしなー」

 東雲には専属の料理人がいる。昏月家のように凪と空菜のどちらかで食事を用意しなければならない家庭とは事情が違う。

「わたしにとっては初めてのイベントですから勝手が分かりませんでしたが、まあ、こんな感じなんですね」

「あ、そっか。バレンタインなんて言われても、何のことか分からなかったよね」

 拍子抜けしたような口調の空菜に東雲が反応する。

 空菜が生まれたのは半年と少し前だ。前回のバレンタインデーの時にはまだこの世に生を受けていなかった。すべてのイベントが空菜にとっては初めての経験である。

「クリスマスはあんなことになりましたが、今回は突然の講習会を除けばふつうですね」

「一応、乙女としては重要なイベントではあるんだけど」

「好きな人にチョコレートを贈る、ですよね。はい、だから凪さんに贈ったのです」

「んッ」

 東雲は咽そうになりつつ唇を噛んで堪えた。

 なんの衒いもなく好意を口にした空菜に度肝を抜かれたのである。もちろん、凪もである。このように真正面から好きだと言われるのは初めてだ。反応に困り、あれこれと考えてしまう。

「空菜ちゃん、本人がいるけど、そんなんでいいの? あの、ほら、ねえ……?」

「どういうことですか?」

「どうって……好き、とかさあ。あの、それでどうなのって話なんだけど」

「どう? 好きだからチョコ贈るんですよね。嫌いな人に贈る理由はないと思いますけど」

「そうだけどッ、え、う」

 唐突な告白に居合わせた東雲は言葉が続かない。

「空菜が俺を好きか。そうか、うん」

 凪も凪で大きな決断を迫られることとなった。

 凪と空菜は義理の兄妹だ。血縁関係はない。それでも家族としてこの半年間やってきた。親も海外出張中なので、基本的に家には二人きりだ。空菜のような美少女と恋人関係になるというのは魅力的だが、これまで積み重ねてきた関係性を見直し、同居という環境下で間違いが起こらないよう気を張らなければならなくなる。何よりも空菜は生まれたばかりの赤子のようなものだ。兄という立場で長らく接し空菜にあれこれと教えることも多かったが、無垢で無知な少女を引き取って自分の彼女にしてしまうのは、倫理的に如何なものか。まるで光る君のようではないか。

「凪君、どうするの!?」

 と、東雲は興奮気味に尋ねる。

 東雲にはどうすることもできない。

 あえて、この告白を妨害することできるだろう。空菜は凪に好きだと言ったわけだが、付き合ってほしいとは言っていない。揚げ足をとって妨害するなり回答を保留させる方向に話を誘導することはできなくはない。だが、それはしてはならない蛮行だ。人の恋路に差し出口をするのは、許されないことである。煩悶しながらも東雲は事の成り行きを見守る他ない。

「何をそこまで慌てるのです? シノさんだって、凪さんが好きだからクッキーを贈ったんですよね?」

「んんッ」

 突然、思わぬ形で飛び火してきて、東雲は絶句する。

「ば――――なに、急に」

「クッキーでも意味合いは同じなのですよね? なら、そういうことでは?」

「いろいろあるでしょ! ほら、友チョコとか義理チョコとか! 凪君はほらなんていうか家族だし、家族に贈るのも一般的!」

「はあ、だから、わたしもこうして贈ったのですけど……凪さんは一応、兄ですし。これからも血を吸わせてもらうわけですからね」

「ん……?」

 空菜は訳が分からないという表情で東雲を見ている。東雲と凪が何をそんなに慌てふためいているのか理解できていないのである。

「空菜ちゃん、凪君には家族だから贈ったの?」

「はい。日ごろからの感謝を形にして伝える、という意味ではとてもよいイベントです」

「へえ、はあ……ふうん、そう。好きってそういうこと」

 LikeかLoveかの違いというのか、日本語の「好き」が内包するいくつかの意味は受け取り方次第では誤解を招く。

 空菜の感性は成長途上。性に関しては幼稚園か小学校低学年レベルであり、好きと嫌いは、快いか否か、美味しいか不味いか、都合が良いか悪いかという程度の単純さだ。より複雑な感性が育つには、まだあと二、三年はかかるだろう。

「うん、美味い」

 凪は若干の落胆を覚えながら、空菜のチョコレートを口に運ぶ。凪なりに少し期待したところはあったのだ。凪も健全な男子だ。女子から好意を告げられるのは、恥ずかしくはあるが嫌ではない。

 そうだと思ったが、少し期待した分だけダメージも大きい。

「苦いなぁ」

 凪に合わせて少し苦めにしたというチョコレート。そのカカオ含有量は八十パーセントを超えている。苦いというよりは渋いというべきだろうか。ビターチョコレートが好きな凪はこれくらいがちょうどいいのだが、いつも以上に苦く感じるのはなぜだろうか。

「でも、美味い」

「そうですか。よかったです」

 言葉少なにしながらも空菜はほっとした様子だ。

 凪の口に合わせて味を調えたが、実際にどう反応するかは未知数だった。それが好意的に受け止められたので、安心したし、自信にも繋がった。

 空菜の言葉選びに翻弄された東雲はというと、改めて空菜の潜在的なポテンシャルに圧倒されていた。やはり、彼女は天敵。どのように行動するか、その影響がどう出るか全く読めない難敵であると再認識することとなった。


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