二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 十三話

 チョコ合戦では、チョコレートをぶつけ合う。どこかの国ではトマトをぶつけ合うというが、それに近い奇祭で、参加者は頭からチョコレートを被って全身が茶色く、甘くなってしまう。会場も一面チョコレート塗れになる。毎年、この祭に参加している東雲は、どんな祭なのかを肌で感じているし、どんな準備が必要なのかも熟知している。水着で参加するのなら、汚れてもいい水着で参加しないと後で大変だというのも実体験として把握していた。

 自室で東雲は姿見と向き合っていた。

 自分におかしなところはないか、最終チェックをしている。

 シンプルな三角ビキニである。明るいグリーンは、若々しく健康的で明るい印象を与える。ビキニなので肌の露出は多いが、しかし性を必要以上に強調しない雰囲気を醸し出す。見る角度にとっては虹色に輝く東雲の金髪にもよく馴染んだ色彩だ。

「あ、それにしたんですか?」

 と、部屋に入ってきたアカネが言う。

「なんか変?」

「いえ、よくお似合いですよ。去年買ったヤツですよね? 結局、一回しか着なかったと思いますけど」

「だから、着るんだよ。海では別の着るし」

「たった二回で廃棄されるなんてかわいそうなビキニですね」

「廃棄するって決まったわけじゃないし。チョコついても洗えば綺麗になるかもしれないし」

「いやいや、捨てましょう。チョコ合戦の水着は使い捨てですよ、基本」

 液体チョコレートが繊維の奥まで浸透すれば、そう簡単には落ちないだろう。洗濯をするのは東雲ではなくアカネの仕事でもある。アカネとしては何も考えずに廃棄処分にしてくれた方が仕事の手間が減って楽なのだ。

「それにしても、昨年新調した水着を今年も着ることができるというのは」

「何が言いたいのかな?」

「特に成長がなかったということかな、と」

「……なんでそんな酷いこと言うの?」

 表情の抜け落ちたような顔をする東雲。

 実際、自分でもショックだったのだ。東雲は十六歳。ちょうど成長期だ。身長の伸びは昨年がピークで今年は二ミリしか伸びていなかった。これは誤差の範疇で、午前と午後に測定して結果が変わるとかその程度の差異でしかない。一年の間に縦には伸びなかったのだ。不幸中の幸いか、横に膨らむこともなかったが、それは胸部も同じようなものだった。

 東雲自身気にしていることであって、自分なりに調べて自分なりに努力はしていた。どれも眉唾ものの説ばかりで信ぴょう性のないものばかりだったが、何もしないよりはマシだと思って頑張った結果、昨年のビキニが特に問題なく着用できるという結果をもたらした。一年間の努力は水泡に帰したのだ。

「体脂肪率がほとんど変わらなかったというだけ、よかったと思えばいいのでは?」

「く……そういうアカネはどうなのよ」

「まあ、わたしも変わりはありませんよ。年齢的にも成長期、そろそろ終わりですし」

 東雲よりも年上のアカネは、自分の成長に期待はしていない。身体作りに余念がないのは東雲と同じだが、その目的も現状維持であって、東雲のように高みを目指すものではない。アカネの目標数値は概ね達成されており、現状に不満はないのだった。

「それで、何しに来たの?」

「手荷物の確認です。後で不足があると悪いので」

「なんか持ってくのあった? 会場には持ち込めないでしょ?」

「会場に持ち込めなくても、貴重品以外にもロッカーに入れておくものはあります。薬とかね」

「いるかなぁ」

 チョコ合戦の会場は手荷物の持ち込みが強く規制される。物を投げ合うという成立上、ちょっとした物が凶器になり得るからである。

 そのため、貴重品は会場周辺に設置されている簡易ロッカーに仕舞うか、そもそも持ってこないかという対応が必要になる。

「薬とか、わたしたちにいる?」

「体調崩したばかりのシノ様がそう言うのはどうかと。また座薬しますか?」

「それはヤだけど」

 不老不死、致命傷でも魔力があればすぐに回復できる吸血鬼でも、体調不良に陥ることは珍しくない。不死力の根幹である魔力の循環が乱れれば調子が悪くなるし、風邪を引くこともある。精神面は他の魔族や人間と変わらないので、心の病も近年増加中だ。吸血鬼だからといって常に健康健全でいられるわけではない。

「ということで、念には念を、いくつか薬を見繕っておきました」

 と、アカネはショルダーポーチから薬の箱を取り出してテーブルの上に並べる。中にはすでに開封してあるのもあり、東雲やアカネが日常的に使っている風邪薬や整腸薬がほとんどだった。

「消毒薬とかいる?」

「凪様に使うことがあるかもしれませんよ。あの方、普通の人より回復が早いと言っても吸血鬼ほどではないんですよね?」

「あ、そっか。今、どんなもんなんだろ」

 凪の身体はクリスマスを境に急激に吸血鬼に近しい能力を備え始めている。生まれついての能力を封印していたのだが、那月によって解除されたのである。完全な吸血鬼にはなれないが、迫ることはできる。凪の回復力がどの程度になっているのか、東雲は知らないし、凪もすべてを把握しているわけではない。

「お腹の薬と……頭痛薬? こっちは車の酔い止め、虫刺されのも持ってく?」

「虫刺されはわたし用です。シノ様たちにはいらないでしょう」

「まあ、そうだね」

 吸血鬼は蚊に刺されない。吸血鬼が発する魔力を摂取して無事でいられる虫は、それこそ魔獣の類になるだろう。

「これ何?」

 並んでいる薬の中にピンク色の四角い小さな袋を見つけた。

「コンドームです。知りませんでしたか?」

「コン、……えッ、何で?」

「念には念を、です。何が起こるか分かりませんし、もしもに備えるのは大事でしょう。いざ、となったときに手元にこれがないとよくないですから」

「いざって何よ、これ使うの前提って」

「いくら吸血鬼の出生率が最低レベルとはいえ、避妊具なしは危ないですよ? 吸血鬼の皆さんは、軽い気持ちで避妊しないでしちゃうことが多いみたいですけど、病気もあるかもしれませんし。シノ様のことですから、迫られたら断らないでしょう」

「え、迫られたらって、そりゃ、まあ……いや、そういう話をしてるんじゃないけど。別にわたし、こんなん使う相手いないし、しないし、いらないし」

「相手ができるかもしれないですよ。何せお祭なんですから。浮かれた気分で何かが起こる。そんな可能性も否定できませんよ」

「ないって。わたし、これでもお姫様だし」

 暁の帝国では、基本的に恋愛は自由だ。誰と結ばれようと、相手が人として問題がなければ問題視はしない――――というスタンスではある。少なくとも、東雲たちを政略結婚に使うような話は皆無で、そういった話は全力で上が拒否しているらしい。

 当の本人たちは気楽でいいのだが、同時に自分の立場を意識もしている。好意を抱く相手がいたとして、自分たちの事情に巻き込んでしまっていいのだろうか、と気後れする。子どものときのように無邪気に振る舞うことが、年々できなくなってきているのは厳然たる事実だった。凪と自分の関係性に絞ってみても、家族、親戚、友達、皇族と一般人と、どうにも、線引きが難しい。どこかで線を引かなければならないのか、それともあくまでも家族として身内の範疇で捉え続けて大丈夫なのか。中途半端な現状をいつまで続けていられるのかは不透明なままだ。

 凪に対して好意を抱いているのも事実。姉妹の誰もが、少なからず好意的だ。その方向性や強度に違いはあっても、凪を嫌っている者は一人としていないだろう。

 だからこそ、行動一つで関係性が大幅に変わる恐れがあった。東雲に今までの関係性を変えてまで、行動を起こす勇気はなく、しかし同時に誰かが行動を起こすのを恐れてはいる。東雲にとっての一番は、誰も何もしないことだ。

「ま、とりあえず入れときますね。使わなかったら使わないでいいんで」

「いらないんだけどな、ほんとに」

 どうあってもこのメイドは自分に凪と関係を持たせようとしているように思える。他人の恋愛を面白がる前に自分のことをどうにかすればいいのに、と思わなくもない。

「じゃあ、アカネはどうなの?」

「どう?」

「それ使うような相手がいたりするの?」

「今日お休みをいただいていない時点で分かるのでは?」

「ぇと。ごめん」

 妙に強い口調で言われて、東雲はすごすごと引き下がった。反撃は失敗に終わった。言ってくれれば有給休暇は取得できる。アカネには、年間四十日の有給休暇が付与されているのに、あまり取得しようとしないのだ。決まった相手がいれば、もう少し休みを取ることもあるのだろうが、アカネの価値観もあるので、あまり強くは言えない。

「あら、くだらない話をしている間にもう時間になりますね」

「大半があんたが振ってきた話でしょうに」

 アカネの口ぶりに東雲が反論する。話が余計に長くなったのはアカネが変な気の使い方をしたからだ。それも面白半分でだ。

 水着の上から東雲はブラウスを着て、ミニスカートを履いた。ブラウスは水着が透けて見えるとよくないので、黒色にして、スカートは白と黒のチェック柄。全体的に落ち着いたデザインだ。足元は編み上げサンダルを選択する。チョコ合戦といっても、走り回るわけではない。機動力より見た目重視である。無彩色の服装は、明るい髪色を際立たせる。嗜み程度ではあるが、東雲なりに、ファッションの勉強をして組み合わせを選んでいるのだ。

 

 

 

 ■

 

 

 チョコ祭の会場は首都の中心を貫くメインストリートだ。このメインストリートは横幅八十メートル、長さ三キロにもなる直線で、道の真ん中に植えられた街路樹が車線を分けている。道の左右には、商業ビルが立ち並び、終着点には王宮が聳え立っている。

 チョコ祭は、この直線道路のうち二キロを歩行者天国にして、世界各国から集まったお菓子メーカーの宣伝ブースや出店を並べるお菓子の祭典である。そして、それはあくまでもメイン会場の話であって、この話題性ある祭に便乗して全国各地でチョコ祭を模した祭が開催され、二月十四日は、混沌界域はどこもかしこもチョコレート一色になるのだった。

 チョコ合戦の会場は、メインストリートの王宮側の一キロを封鎖して作られる。横幅八十メートルなので、すべてを左右四十メートルで二つの戦場を作り、チョコレートを投げ合うことになる。会場に面した建物は、ビニールシートで覆われて汚れないように守られる。街路樹の左右にはチョコボムの補給用テントが立ち並び、すでに会場入りした大勢の参加者でごった返していた。

「すげえ人……なんだこれ」

 数えきれない人の波に凪は曝されている。

 これでも、入場規制のおかげで動く分には問題ないという程度には抑えられているのだが、チョコボムを投げるとなると工夫が必要そうだ。

 チョコ戦争に参加するのは凪の他、空菜、零菜、萌葱、東雲、麻夜、紗葵である。アカネはメイドの仕事に従事するとして距離を置くようで、瞳と夏穂ら母子は危険なので出店巡りで済ませるようだ。暁の帝国からついてきた各人の護衛を勤める帝国職員も会場に合わせて軽装にしている。

 ざっと会場を見回すと、貴人と思われる人やその護衛らしき人がちらほらいる。お忍びで参加するのは、暁の帝国だけではないらしい。

 水着姿の参加者は思った以上に多い。

 雨合羽を着ている人のほうがずっと多いのだろうと思っていたがそんなことはなかった。

「暑いしな」

 雨合羽の少なさは、このじっとりとした熱帯らしい暑さが原因だろう。立っているだけで息苦しさすら覚えるムシムシとした暑さは、暁の帝国とはまったく異なる気候の表れだ。高い湿度と気温で雨合羽を着ると蒸れて辛いことになる。水着のほうが動きやすく、快適なのだろう。

 男女の別なく、水着姿が行き交っている。中には目のやり場に困るような過激な水着を着た女性もいるくらいで、水着を着るイベントとして広く知られているのだろうと思えた。

 それと少数だが、コスプレをしている人もいる。見覚えのあるキャラクターに扮した集団と何度もすれ違っている。

 パタパタと手で顔を仰ぐ。高い湿度は汗の蒸発を妨げて、体温を上昇させる。慣れないと熱中症の危険がある。

 風に乗ってチョコレートの甘い匂いがやってくる。

 二メートルほど先の地面に溶けたチョコレートがぶちまけられている。誰かがチョコボムを落としたのだろう。参加者には最初に一人十個のチョコボムが渡されている。支給される専用の皮ベルトに左右五個ずつぶら下げて持ち運ぶことになっている。人にぶつかるなどで、腰に下げているチョコボムが地面に落ちるのは珍しいことではないようだった。

「あれ、凪君、水着じゃないじゃん」

 と、驚きの声を上げたのは待ち合わせ場所にやってきた萌葱だった。萌葱は上下ともにコバルトブルーのスポーツビキニである。激しく動いても問題ないような装備を整えてきたのが見て取れる。

「一応、水着だよ?」

 と、凪は答える。

 凪の水着はベージュ色のショートパンツで、上半身は黒いTシャツを着ている。水着なのは下だけで、それもランニングで使っても違和感のないショートパンツスタイルなので、水着に見えないと言われても仕方がない。

「えー、水着? それ?」

「水着だって」

「上は?」

「脱がないよ」

「なん……あ、うん、ごめん」

「謝んなくてもいいけどさ」

 こういうことがあるから水着は好きではないのだ。

 凪の身体には無数の傷跡が残っている。同年代で、ここまで傷だらけなのは凪くらいのものだろう。人の目を引くし、見て気持ちのいいものでもない。だから、凪は上半身を人に曝すことはない。プール授業も見学させてもらっているくらいだ。

「風がないし、蒸し暑いな」

「熱帯って感じの夜だね」

「もう汗かいてきた。始まるまでどっかで涼むのダメかな……」

 熱帯の蒸し暑さに文句を言いながら零菜たちが歩いてくる。

「二月に水着になるってのは新鮮だね。ま、今年は結局、学校以外で水着着なかったしね」

 と白い歯を見せて笑う麻夜。モデル顔負けのプロポーションを見せつける黒のビキニである。麻夜がいかに自分の体型に自信があるかを物語っている。事実、麻夜はすらりとしてメリハリのある身体つきをしている。そのため、グラビアモデルもできそうな堂々たる水着姿となっていた。

「どうだい、凪君。男子からの一言待ってるんだけど?」

「みんなすごい似合ってる。文句のつけようがないくらいだね」

 凪はとりあえず当たり障りのない言葉を選ぶ。似合っていると思うのは本気だ。それを正面から褒めるのは恥ずかしいという気持ちがあったが、斜に構えた答えは相手を不快にするだけだということも分かっている。少ない語彙から誉め言葉を捻出するのに、一秒とかからなかったのはそういった要求をされるだろうと身構えていたからでもあった。伊達に女性だらけの環境で育っていない。

「……ぁ、そう」

 麻夜は凪の即答に面食らって次の言葉に詰まった。

 自分から褒めろ、と暗に要求していたが、いざ褒められたら恥ずかしくなってきたのである。正面から衒いなく言われたのも大きかった。凪が率直な返答をしたのが、麻夜の意表を突いたのだ。

「んー、それにしても、こういう水着は露出が多くて違和感がありますね」

 そう言ったのは空菜だった。

 空菜の水着は桃色を基調としてカラフルな花をあしらったビキニである。

「学校指定の水着なら授業で着ましたけど、これは全然着心地違うというか、これ下着と変わらないのでは?」

「布面積で言うと、まあ、そうなんだけど。泳ぎやすい材質っていうのを除くと、他所の人に見られてもいいっていうのではあるから」

 と、東雲が答えにくそうに言う。

 形状も布面積も下着と大差ないという空菜の身もふたもない意見は正しい。水着は見られてよくて、下着は見られるのはダメという基準は、意識や文化の差異でしかないのかもしれない。

 麻夜は言うに及ばず、空菜もスタイルがいい。そのため着るものを選ばず、何でも似合ってしまう。体型を強調するような水着を選んでも、何の違和感もない。

「ん、ん……」

 零菜と視線が合うと、零菜は恥ずかし気に視線を逸らした。

 零菜と遺伝的に近い空菜も当然そうなのだが、やはり胸に目が行ってしまう。服の上からでも分かるバストサイズだ。水着になると、俄然視線を集める。空菜はまったく気にしていないが、零菜はそれを人目を気にしてか、布面積の大きめのワンピース型の水着であった。ただし、腹部はメッシュ状になっているので、ビキニとワンピースの中間という感じだった。

 大人しめで淑やかさを演出する水着だが、それでも隠し切れない巨乳とのミスマッチさがエロティシズムを掻き立てる――――という評価をすると、どんな目で見られるか分からないので凪はとりあえず黙る。

 東雲は明るいグリーンのビキニで腰にパレオを巻いている。華やかな南国のビーチによく映える水着を選択している。

 紗葵はタンキニタイプの水着である。まだビキニの年齢ではない、と凪は失礼なことを考える。紗葵のタンキニは黒地に白い南国植物のイラストを散らしたシンプルなデザインだ。場所を選ばず、同行者も選ばず、いつでも着られる水着というのは長所と言えるだろう。

「その水着って汚れてもいいのか? みんなガチのヤツなんじゃないの?」

「大丈夫、大丈夫。ストックはあるからね」

 何でもないように麻夜は言う。

「空菜はあんの?」

「凪沙さんに買ってもらったので、大丈夫です」

「いつの間に……」

 空菜に水着を買ってあげるのなら、自分にも何か買ってくれればいいのにと不満に思う。空菜はもともと何も持っていなかったので、必要な物を買い与えるのは仕方がないにしても息子をないがしろにするのは如何なものか。もっとも、今欲しい物と言われても思いつかない。目についた漫画を買うために、現金で貰えるとありがたいという程度だ。

「ねえ、そんでどうすんの?」

 萌葱が東雲に尋ねる。

「もう始まるんじゃないかな? 時間、なってるし」

 腕時計を見ながら、東雲が言う。

 チョコ合戦の予定時刻は午後八時。時計を見ると、ちょうど八時になったところだった。

 ちょうど、そこでチャイムが響いた。

「あ、始まるって。この次のブザーで開始。みんな、爆弾持った?」

「持った」

 そろぞれ両手にチョコ爆弾。見た目は暁の帝国や日本の縁日で見られる水風船と同じだ。どうも、それを参考にして作ったもののようである。チョコ爆弾の中にはたっぷりとチョコレートが封入されている。思っていたよりも重量があって、ずっしりとしている。どのチョコ爆弾にも衝撃を緩和する魔術がかかっていて、安全対策に万全を期しているのが見て取れる。

 放送が終わった。

 じっとりとした緊張感が会場を包み込む。熱帯夜に、人の熱気が色を加える。十秒前からカウントダウンが始まって、一秒一秒が異様に長く感じられる中、誰もが口を閉ざして開始のブザーを待つ。そして、静かに嵐を待つ会場に開戦を告げるブザーが響き渡った。

「しゃあ、行くぞぉ!」

 いの一番に声を上げたのは東雲だ。祭の常連である東雲はむんずと掴んだチョコ爆弾を持って人の列を掻き分け最前列に躍り出て、狙いもつけずに全力投球する。放物線を描いたチョコ爆弾は、反対側の集団の中に消えた。続けて二つ、三つと投げていく。東雲に倣って、皆、チョコ爆弾を投げ始める。開始と同時に人の列は前進し、彼我の距離を十メートルほどにしている。この距離が大会に認められた最近接距離だ。前に出れば、子どもでも相手方にチョコ爆弾を投げつけられる。

「死にされせ、こらッ!」

「やりやがったな、この野郎がッ!」

「ヒャッハーッ、顔面いったぜッ!」

 チョコレートとともに一部から怒号が飛び込んでくる。言葉が違うので何を言っているのかまでは判然としないが、チョコ合戦を通して日ごろのうっ憤を叩き込んでいるようだった。チョコレートをぶつけるという手段こそ可愛らしいが、その熱気たるや凄まじいものがある。

「あっぶね」

 顔を反らして眼前に迫ったチョコ爆弾を避けた。後ろにいた誰かに当たったチョコ爆弾が破裂して、甘い匂いをまき散らす。そこかしこでチョコ爆弾が炸裂してチョコレートをぶちまけている。

 放物線を描くチョコ爆弾。頭上から降り注ぐそのすべてを避けるのは困難。それもこれだけ人がたくさんいれば、移動する隙間も少ないし、無理をすれば危険だ。避けられないチョコ爆弾が身体に容赦なく叩き付けられる。開始から一分と経たずに、凪の上半身には三発のチョコ爆弾を直撃していた。

「あはは、チョコだらけだよ、凪君」

 笑いながら、チョコ爆弾の補充をしてきた東雲が言う。

「東雲……いや、そっちも酷いことになってるぞ?」

「いや、ほら、このお祭の醍醐味はチョコのぶつけ合いだからね。避けてたら、ダメなんだよ? ――――ほにゃッ!?」

 そういう東雲の側頭部にチョコ爆弾が直撃し、盛大にチョコレートをぶちまける。

「うお、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。とにかく、反撃……きゃんッ!?」

 パンパンと連続してチョコ爆弾が東雲に叩き付けられる。

「甘、くない……苦い。カカオいくつだこれ、もうッ。こんにゃろー!」

 東雲が全力投球する。

 凪も援護射撃を加える。顔面だけは避けて、後は身体で受け止めた。もう諦めの境地である。そして、それが妙に楽しくなってくる。童心に帰るというか、こういう後先考えずに汚し汚されを楽しむというのは、子どもの頃に何も考えずにしていた泥遊びに近しいものがある。

「匂いが甘ったるいな、ホントに」

 信じられないくらいのチョコレートの匂いだ。無風状態の会場には、チョコレートの匂いが充満していて、咽返りそうだ。

「思った以上に、なんかすごいお祭だね」

 そう言ったのは零菜である。零菜も零菜で、頭からチョコレートに塗れている。頭上から降り注ぐチョコ爆弾。直撃しなかったとしても、地面に落ちたチョコ爆弾がまき散らすチョコレートで足が汚れる。まったく汚れずにやり過ごすのは不可能である。廃棄予定の水着を選んだのは正解だっただろう。

「あいたッ、背中に……う、もうッ」

 苛立ったように反撃する紗葵に続いて零菜もチョコ爆弾を投げる。

 頭上で大きな破裂音がした。同時に大量のチョコレートが雨のように降りかかってくる。

「な、何ッ!?」

「チョコバズーカが空中で破裂したみたいだ」

 一部、抽選で当たった人だけが装備するチョコバズーカの威力はチョコ爆弾の比ではない。一度に放てるチョコレートの量はチョコ爆弾の三倍だ。それが零菜と凪の頭上で炸裂したのだ。

「本当にチョコだらけ。ん、あ、これは甘いヤツ」

 零菜は舌なめずりをして唇についたチョコレートを舐めた。飛んでくるチョコレートはカカオの含有量が違う。甘い物から壮絶に苦い物まで幅広い。頭上で炸裂したチョコバズーカはかなり甘いチョコレートだったようだ。

「ほら、二人とも足止めないで投げる。もう残り少ないよ」

 萌葱が凪と零菜に声をかけた。

 見れば補給テントにあるチョコ爆弾の在庫が少なくなっている。これがなくなった時点でチョコ合戦は終了する。

「いけね、マジだ」

 慌てて凪はチョコ爆弾を取りに走る。反対側から飛んでくるチョコ爆弾を背中に浴びながら、チョコ爆弾を受け取って、再び戦闘部隊の中に飛び込む。投げて食らって、全力で繰り返す。終了のブザーが鳴るまで、我を忘れてチョコ爆弾を投げ続けた。

 

 

 開始から終了までに要した時間は二十分ほどだった。大規模な祭ではあるが、話に聞いていた通りチョコ合戦そのものはとても短時間のイベントだった。

「はあ、なんか疲れた。やり切った感がすごいな」

 頭から足のつま先まで、チョコレートで汚れている。水着の繊維にまでチョコレートが染み込んでいるのではないかと思えた。

 身体は疲れているが、充実した気分だった。大いに笑い走り回ったことでプラスの疲労感を得たのだ。

「いや、酷いねこれは」

 手を振ってチョコレートを払う麻夜は苦笑している。人も道路もすべてチョコレート塗れである。

「べっとべと。でもさ、チョコって肌にいいんでしょ? チョコパックになるかな、これ」

 紗葵はチョコレートを拭うのではなく、肌に刷り込むように塗りたくっている。

 チョコパックは確かに美容でも取り入れられているが、果たしてこのチョコレートでも効果があるのだろうか。美容方面は凪よりも女性陣の方が遥かに詳しいので、口出しはしない。

「チョコの匂い、染みつきそうですね。というか、チョコの匂いしかしないのは、わたしの鼻がおかしくなったのですかね……」

 空菜の嗅覚は獣人並みに鋭い。会場に充満する甘い香りは、凪ですらくらくらするほどだ。空菜にはもっと強烈に効いているだろう。害のあるものではないが、それも過剰になれば考え物だ。

「みんな、ほら、前に出ないとシャワー浴びれないよ!」

 東雲が呼びかける。

 凪たちの頭上には何本もの配管が臨時で設置されている。ここにいくつものスプリンクラーがついていて、終了後に会場を一気に洗い流すのである。チョコレート塗れになった参加者はこのスプリンクラーからの放水で身体についたチョコレートを落とすのである。

 スプリンクラーが一斉に水を放射する。つい数分前までチョコレートが降り注いでいた会場に土砂降りの雨のように水が撒かれた。

 ドドドドド、と滝のような音がする。遠くが放水で霞んでしまうほどの水量である。熱帯夜にはちょうどいいくらいの冷たさで、身体の熱が一気に取り除かれている。

「簡単には落ちないな、これは」

 髪を洗い、身体を擦る。チョコレートは流れていったが肌について油分はなかなか落ちない。屋敷に戻って風呂に入るまでがチョコ合戦だ。

「一気に汚れが流れていくの見るのは気持ちがいいねー」

 全身をびっしょりと濡らしながら、東雲が話しかけてきた。足元を流れる水はチョコレート色に染まっている。大量の水がチョコレートを下水道まで押し流しているのである。常温でも液体の状態を保つという独自開発したチョコレートだからこそ、本来水に溶けないチョコレートを下水道で処理するという荒業ができるのだ。固形化しないチョコレートは、水で流れていく。雨の多い混沌界域らしい豪快な水の使い方で、会場のチョコレートは瞬く間に洗い流されていった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

「今年も無事に終わりましたね」

 と、安堵した様子で言ったのは、運営本部のテントにいる地方公務員の職員だ。二十代半ばで、大学を出て三年目になる。

 チョコ祭は国上げた大事業である。安心安全に一日を終えるように、地方の役所職員も全面的にバックアップする。軍警察が治安維持に当たるのなら、彼ら一般職員は運営面を支援するスタッフである。祭の実行委員会は国の所管だが、現場で汗を流す多くのスタッフは地元自治体の職員であった。暴力を伴わないトラブルは、主に彼らが先頭に立って対応することになる。普段はこういった外に出る部署の仕事は門外漢の彼も、今日は休日返上で応援に駆り出されていたのだった。

「まだ、終わったわけじゃないぞ」

「あはは、すみません」

 上司に窘められて、青年は頬を掻いた。

 これからがまた忙しい時間帯だ。チョコ合戦の参加者たちが一斉に帰宅する。たくさんの人が移動する中で怪我人が出たり、喧嘩が起きたりする可能性があるし、スリが虎視眈々と隙を狙っているかもしれない。迷子が出るのは、毎年のことだ。

『本日のチョコ合戦は終了しました。お帰りの際は、お忘れ物にご注意ください。小さいお子様をお連れの方は、手を繋ぐなど、お子様が迷子にならないよう、お気を付けください』

 女性職員が放送分を読み上げている。

 ぞろぞろとテントの前を通っていく参加者たち。チョコ祭の出店はもう日付が変わるまでは続くが、終電間際まで居座って食べ歩く人はそう多くない。毎年のことながら、チョコ合戦が終わり、参加者たちが列を成して帰っていくと、チョコ祭が終わったような気持ちになってしまうのだった。

「学生の時は毎年、チョコ投げてたんですけどねえ」

「君が学生の時は、もうこの祭があったんだもんなぁ。私の時にはこんな祭はなかったから、羨ましくはあるな」

 青年と上司の二人は、談笑しつつ人の流れに目を光らせる。困っている人はいないか、落とし物はないか確認している。トラブルが起これば、真っ先に苦情を受けるのは彼らである。というか、大きなトラブルがなかったとしても、休み明けからは苦情対応に追われることになるだろう。それを思うと気が重くなる。

「そうだ、対策本部に定時連絡したか?」

「あ、すみません、忘れてました。すぐします」

 青年が席を立つ。テントの端にある無線ファックスを使い、ここから二百メートル離れた国の庁舎にある実行委員会に定時連絡を入れるためである。

 一時間に一度の定時連絡は、祭が始まってからほとんど内容に変化がない。トラブルが起きなければ、チェック項目へのチェックすら不要である。送付用のコピー用紙を青年が手に取った時、不意に地面が揺れた。

「え?」

 地震かと思った。揺れは大きく、突き上げるような振動だった。その直後、マンホールの蓋が跳ね飛んだ。一番高くて三十メートルは飛んだだろうか。ひらひらと舞うように鉄の塊は落下して、運営本部のテントを直撃した。

「うわああああああああああッ」

 悲鳴が誰の物かも分からない。テントを支える骨はマンホールの蓋が落下したときの衝撃で真ん中から真っ二つに折れていた。長テーブルがひっくり返り、機材が路面に落ちてしまう。

「大丈夫か!? 怪我は!?」

「こっちは大丈夫です!」

「こっちも、何とか!」

「無事です!」

 幸いなことにマンホールの蓋がぶつかった場所には人がいなかった。テントが倒れて下敷きになったが、テントそのものの重量は大したことはない。倒れたテントの下からスタッフが這うように外に出た。定時連絡をしようとした青年もまた、転がるように外に出た。

 マンホールの蓋は鉄の塊だ。何が起こったのか分からないが、直撃していたら頭が砕けて死んでいた。魔族ではない人間の青年は、即死するだろう。背筋が凍りつくような気持ちになった。

「何が……起こったんだ?」

 立ち上がって前を見る。

 一方向に進んでいた人の波が滅茶苦茶になっている。悲鳴が上がり、怒号が響き、パニックを起こしていた。脳が理解を拒むということを、青年は初めて経験した。

 道路の一部が崩れて大きな穴が開いていた。多くの人がその穴の中に落下したことだろう。地下三十メートルに埋没している巨大な排水路がそこにはあって、ぱっくりと巨大な口を広げていた。

「何だ、これ……何なんだこいつ等はッ!?」

 排水路から現れたのは、巨大な蜘蛛だった。それも何匹もいる。一匹の大きさは五メートルに届くくらいだが、足を広げると足の先から足の先までで十メートルを超えるだろう。おぞましい蜘蛛の魔獣が、地下から地上へ這いあがってくる。地獄のような光景に、青年は意識を手放しそうになった。


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