二十年後の半端者   作:山中 一

62 / 92
第五部 十五話

 立ち上る水煙。響き渡る悲鳴と怒号。突然地面が大きく陥没し、その下から大量の巨大な蜘蛛が出てきたら、どうなるか。そんな三流ホラー映画も顔負けな状況が眼前で発生していた。巨大な蜘蛛の魔獣に対し、会場に集った人の大半は無力だ。ただの人間には無手で魔獣と戦う術はない。獣人と吸血鬼ならば、あの程度はどうとでもなるが、それは戦闘経験を積んでパニックにならなかった一部だけの話であって、その一部ですら逃げ惑う数千人もの一般人がいては自由な身動きなど取れるはずもない。頼りになるはずの軍警察も、突然の出来事に指揮系統が混乱しているのか動きは鈍い。無論、大量の魔獣が突如地面から出てくるという状況が想定できるはずもないし、想定できたとして対応できるかというと困難だろう。

 崩落した道路は十五メートル四方で深さは三十メートルにもなる。巻き込まれた人がどれくらいか想像もできないが、ただの人間ならば十中八九命はないだろう。

 パニックになった人の波は当然だが、崩落現場から離れようと一気に流れ出す。自分がどれだけ正常な判断力を持っていようと、多くの人が一斉に動き出してしまえば抗いようがない。

 ただの崩落事故ならばまだいいが、蜘蛛の魔獣が大量発生しているとなると、ここを一刻も早くこの場を脱出し、安全圏に逃げなければならない。

 凪は、人波に完全に飲まれる前に咄嗟にすぐ近くにいた東雲の手を取った。とにかく安全確保が最優先だ。止まっていては、押し寄せる群衆に踏みつぶされてしまう。

「凪君ッ……!? みんなはッ!?」

「今は走れッ!!」

 凪とて、零菜も麻夜も萌葱も紗葵も空菜も心配だ。すぐに引き返して、全員の無事を確かめたいし、全員で行動したい。しかし、状況がそれを許さないのだ。すでに引き離されている。人の流れに逆らえば、重大な事故を引き起こしかねない。

 どこかで銃声が響き、どこかで悲鳴が上がる。どこかで何かが壊れる音がする。視界の隅に、糸に巻き取られて攫われる誰かの姿が映った。蜘蛛が群衆の中に飛び込んで、何人も跳ね飛ばし、粘性のある糸で拘束している。転んだ人が誰かにぶつかり、倒れてドミノ倒しになっているところもある。

「くそ……ッ」

 この半年余りの間にそこそこの修羅場を経験したので、凪の頭は比較的落ち着いている。あまり思い出したくない経験ではあるが、こんな時に役に立つというのは不幸中の幸いだろうか。

 東雲の手を離さないように握りしめて、凪は人波を掻き分けてビルの壁沿いに進むようにした。こうすれば、人の動きにある程度対応できる上、蜘蛛の襲撃方向を制限できる。

「こっちッ!」

 不意に伸びてきた手が凪の襟首を掴んで引っ張った。

 凪と東雲が引きずり込まれたのは、ビルとビルの間の僅かなデッドスペースだった。

「二人とも、無事でしたか」

 安堵の吐息を漏らしたのは、アカネだった。凪と東雲をこの場に引っ張り込んだ人物である。

「あ、アカネ。アカネ、よかったぁ」

「シノ様も、お怪我もないようで」

 ひし、としがみ付く東雲の背中を摩りながら、アカネは東雲が怪我をしていないか確認しているようだった。

「凪様、シノ様をお連れしていただいて、ありがとうございます」

「いえ、とんでもないです。……咄嗟に手が届いたのが東雲だけだったので……」

 凪の手がもっとあれば、全員の手を掴めた。あるいはあの場に踏み止まっていればよかったのか。前者はともなく、後者も状況からして、選べる選択肢ではない。

「アカネさんもよく俺たちが見つけられましたね」

「そりゃ、わたしはシノ様付きですから。シノ様の身の安全を確保するためにあの手この手を使うのが仕事です。このくらいの人混み、わけないですよ」

 笑みを浮かべてアカネは言う。

 混沌界域のメイドは主人を守る護衛役を兼ねる。東雲に大事が起こらないように、傍で見守り、時に身を挺して戦うのが使命だ。アカネはそれを実行したに過ぎず、特別なことをしたつもりはないのだ。

「そうだ、みんな……みんなを助けないと!」

 アカネと合流し落ち着いた東雲は、思い出したように顔を上げた。

「落ち着いてください、シノ様。皆様には、暁の帝国から護衛が派遣されているじゃないですか。彼らもプロでしょう。ここは護衛の皆さんに任せて、まずはシノ様の安全を確保しないとダメです」

「で、でもッ」

「シノ様が戻れば、わたしも凪様も戻ります。シノ様を助けるために、他の誰かも現場に向かわないとダメになるかもしれません。それでもいいんですか?」

「う、ぅ……」

 助けられる立場の者がいる一方で、助けに行かなければならない者もいる。逃げるべき時に素直に逃げていれば、そうした人が死地に赴く必要はなくなる。災害時にも、時折報じられることではある。

「今の状況だと、戻ってみんなと合流するのは難しい。俺もアカネさんに賛成だ。ここを離れて、落ち着ける場所を探そう。零菜たちなら、きっと大丈夫だ」

 凪は東雲にそう語り掛ける。それは他の家族に手を伸ばせなかった自分に言い聞かせているようで、凪の心中を慮って東雲も居た堪れない気持ちになった。

「アカネ、この後、どうするの?」

「さて、どうしますかっていうとこなんです。ここなら、あの蜘蛛の体格では入ってこれませんけど、糸は届きます。完全に安全とまでは言えませんね」

 一息付ける場所ではあるが、もしも蜘蛛がこちらを狙ってきたら糸を吐きかけてくるだろう。強力な粘着力を持つ糸に絡め取られれば、そのままここから引きずり出されることも考えられる。それでも、大型の蜘蛛が入ってこれないデッドスペースは、数少ない安全圏と言えるだろう。ベストではなくともベターな隠れ家であり、ここに籠城するという選択肢もある。

「窓を割ってビルの中に逃げ込めるかな?」

「それもいいですね。そうしますか」

 アカネはすたすたと手近なビルの窓に歩み寄って、中を覗き込んだ。それから徐に足元に転がっている石を拾い上げて、窓に叩き付けた。突然の暴力に窓ガラスはあっさりと屈して、派手に割れた。

「う、わ……ホントにやったよ」

 窓枠に残ったガラス片も石で叩き割り、アカネは素早くビルの中に入ってしまう。

「何してるんです。善は急げ、ですよ」

 声をかけられて、凪と東雲は目を見合わせた。それから、意を決してアカネについてビルの中に入っていった。

 

 

 

 割った窓ガラスは後日弁償するとして、そこは倉庫のようだった。段ボールがうず高く重ねられていて、焦げのついたフライパンや食器などが乱雑に詰め込まれている。

「壁はコンクリだし、あの蜘蛛のガタイならここには入れないな」

「そうだね」

 凪は、窓から身を乗り出して、外の様子を窺った。 

 メインストリートの人はあらかた逃げ散ったようで、爆発音や銃声が激しくなっている。人が減ったチョコ合戦の会場は、本物の合戦場の様相を呈し、軍警察による蜘蛛の駆除が始まっていた。

「人払いの所為で、ビルに逃げ込むっていう発想自体、普通の人にはないんだな」

「やっぱり、そうなんだね。どうも、静かすぎると思ったんだよね。もっと、逃げ込んできてもいいはずなのに」

 大規模なイベントで魔術を使った交通規制をするのは珍しいことではない。チョコ祭は世界に発信される混沌界域最大のイベントに成長している。祭に乗じて窃盗に入られることがないように近郊のビルはわざわざ国が補助を出して人払いの結界を敷いているし、路地やビルとビルの間の狭いスペースにも一般人は注意を向けることもできないようにしていた。

「防犯上の対策ですけど、見直しが必要かもしれないですね。まあ、狭いところだったり、運営側が予期していないところに逃げ込むと、後が大変なので、ある程度避難経路は定められてしかるべきではありますけど」

「さすがにこれは想定外、だよね」

 アカネの言葉に東雲は頷いた。

「ああ、それとシノ様、こちらをどうぞ」

 アカネが東雲に衣服の上下を差し出した。

「わたしのなので、少し大きいかもしれませんが、その格好でいつまでもいるわけにはいかないでしょうし」

「いいの?」

「はい」

 東雲はいまだにビキニ姿だ。服を取りに行く余裕がなかったのだから仕方がない。アカネが渡したベージュのブラウスと細身のジーンズを水着の上から着て、急場を凌ぐことにした。

「そういえば、アカネさんもそのスーツどこから取ってきたんですか?」

 アカネはどこからかスーツを取り出して着用していた。

「転送魔術で取り寄せました。凪様もよろしければどうぞ、お身体に合うのは、この執事服しかありませんが」

「ありがとうございます……転送魔術ってかなり高度な魔術なのでは?」

 アカネの手の平から零れる魔力が魔法陣を描いて、執事服が一着現れた。

「理屈はわたしも分かってないですよ。わたしは魔術についてはさほど得意ではないですからね。でも、まあ、ちょっとした裏技があって、事前にマーキングした物なら呼び出せるんです」

 何でもないことのようにアカネは言うが、それは簡単に言えるほど楽なものではない。空間制御魔術は扱いがかなり難しい超高難度の魔術だ。有名どころの転移魔術となると、それこそ大規模な演算装置の補助を受けたり、高位の魔女クラスの技術が必要になる。それを小さな物品だけとはいえ、事もなげに扱うとはどういう裏技なのか、とても興味が惹かれる。

「ふふ、企業秘密ですよ?」

「分かってます、残念ですけど」

 魔術にだって特許はある。それに、家系で伝えてきた秘術等もあるし、体質に関わるものもある。他者の魔術を無遠慮に覗くのはマナー違反だ。

「アカネさん、携帯とか持ってませんか?」

「ありますが、電波が入ってません」

「入ってない?」

「はい」

 アカネは頷いて、自分のスマホを凪と東雲に見せた。確かに、電波が入っていない。そのうえ、ネット回線にも繋がっていないようだった。

「この辺の基地局が全部やられたってことはないだろうし、衛星にも繋がっていない? 人為的な妨害かな」

 機械に詳しいというわけではない三人だが、こうもあからさまに通信ができない状況が作られると作為的なものを疑わざるを得ない。

 情報自体が極めて少ないので断言はできないが、蜘蛛の魔獣が出現した光景を見れば、誰かが裏で糸を引いていると思うのは自然なことだった。

「中の様子、ちょっと見ますね」

 アカネはドアのほうに歩いていき、息を潜めながらドアを開けた。

 凪たちがいるのは、七階建てのビルの一階部分の一室だ。

 平時、このビルの一階はブティックや飲食店がテナントとして借りていて、二階以上は法律事務所や建築会社のオフィスが入っている。今日は、休日でチョコ祭もある。その影響なのか、どこも閉まっているようだ。

「警備員くらいはいるかもと思いましたけど、考えてみれば入口は強化ビニールシートで塞がれてましたね」

 廊下を覗き見たアカネはそんなことを呟いた。

 チョコ爆弾が直撃してもいいように、チョコ合戦の会場沿いの建物の外壁や窓は特殊なビニールシートで覆われていた。表から人が出入りするのは、そもそもできないのだ。

「裏口から外に出られますけど、あえて危険を冒す必要はなさそうですね」

「こういう時の鉄則は動かないで救助を待つ、ですよね。サバイバルじゃないですけど」

 凪は、アカネの意見に同意する。

 外にはどれだけの蜘蛛がいるか分からない。一匹だけなら凪でもどうにかなる相手だが、それが数を成して襲ってくるとなれば話は変わる。凪はあくまでも個に過ぎず、一人で一群を相手にできるような戦闘能力は持ち合わせていない。東雲ならばどうにかなるだろうが、街中で大規模破壊を得意とする眷獣を解放するわけにもいかない。戦えば大なり小なり危険を伴う。蜘蛛との戦いを避けて安全を確保するのなら、動かないのがベストだ。嵐が過ぎ去るのを待ち、無事に脱出しているであろう零菜たちと合流する機会を窺うのだ。

 ビルの中に逃げ込んで二十分が過ぎた。

 銃声は鳴りやまない。それどころか徐々に大きくなっていて、時折地響きのような振動を伴う爆発音が響いて、ぱらぱらと天井の埃が舞い落ちる。怖気のする魔力の渦が、先ほどまで笑顔に満ちていた祭の会場に吹き荒れているのを感じる。

 かなり強力な力を持つ吸血鬼が投入されたのだろう。

 一般人が逃げていなくなれば、吸血鬼の眷獣を解き放つのに支障はない。古代から続く夜の帝国である混沌界域には暁の帝国とは比較にならない数の吸血鬼が軍に属している。

 個体で見れば脆弱な部類に入るセグロオオヒゲグモは、眷獣の攻撃が掠めただけで重症を負うであろう。纏めて薙ぎ払うのも難しくはない。軍警察が吸血鬼の職員を戦場に投入したのなら、本格的な掃討作戦が開始したと見ていいだろう。

「せめて、みんなと連絡が取れればいいんだけど」

 と、不安そうな東雲が言う。

「式神飛ばしても、どこにいるか分からんとな」

 凪も手を拱いていたわけではない。

 簡易的に作成した式神を飛ばして零菜たちを捜索していた。何とか接触し、安否確認を取りたかった。しかし、今の凪には式神を作る道具がない。専用の呪符もなく、何とか逃げ込んだこの部屋に置いてあったコピー用紙を使って作成した式神の精度はお世辞にもいいとは言えなかった。

「不味い、奥へッ!」

 叫んだのはアカネだった。

 凪が反射的に東雲を引き寄せ、身を伏せて転がった。窓の外から室内に真っ白な糸が吐き出されたのはその直後だった。

「ひぃッ」

 東雲が小さな悲鳴を上げた。真っ赤な目と毛むくじゃらな頭がじっと東雲と凪を見ていた。成虫に比べるとやや小さな幼体で、だからこそ、狭い路地に身体をねじ込むことができたのだろう。緑色の体液を零しているのは、ここに来るまでに戦闘に巻き込まれたからか。肉体が欠損し、体積が小さくなったことも路地に入れた理由の一つだ。

 蜘蛛は魔力に飢えていた。

 魔力を主食とするセグロオオヒゲグモにとって吸血鬼は栄養豊富なサプリメントに等しい。魔力さえあれば、欠損した身体を修復し、成長を加速することもできる。この蜘蛛がここに辿り着いたのは偶然だが、それによって凪と東雲という極上の餌を見つけることができた。命の危機に瀕した「彼」には、もはや狙う獲物の危険度を計る余裕もない。

「窓からもっと離れてくださいッ」

 アカネがどこからかアサルトライフルを取り出した。転送魔術によるものだ。蜘蛛が次の行動に移る前に、アカネは引き金を引いた。

 銃口から立て続けに銃火が舞って、室内を明るく染める。至近距離から放たれる5.56mmの弾丸が三十発、全弾、蜘蛛の顔面に突き刺さる。

「く……ッ」

 しかし、蜘蛛は退かなかった。傷口から体液を流しながら、強引に室内に押し入ろうとしている。長い脚を窓から押し込み、文字通り室内を弄った。段ボール箱の山が倒壊し、派手な音を立てて中に入っていた物品を床にまき散らす。

 アカネの銃撃は蜘蛛に確かな打撃を与えていた。貫通力のある小口径のライフル弾だ。蜘蛛の外骨格を貫通し、損傷は脳に至っている。これが他の魔獣であれば、この時点で駆除ないし逃走に追い込めただろうが、この魔蜘蛛にとっては撤退するほどの怪我ではないのだった。蜘蛛は脳に損傷を受けたとしても、直ちに死に至ることはない。まして、魔力で生きることに特化した魔獣である。体内の魔力を活用し、生存能力を著しく高めている。

落ちた深緋(フェール・ミニウム)!」

 凪が眷獣を繰り出した。緋色に輝く一角獣(ユニコーン)だ。窓に張り付く蜘蛛に向けて、衝撃波を叩き付ける。

 炸裂音とともに蜘蛛の脚は砕け、その身体は反対側のビルの壁面に叩き付けられた。

 緑色の血を流し、ひっくり返って蜘蛛は動かなくなる。落ちた深緋の衝撃波が蜘蛛の全身を隈なく破壊し尽くしたのである。小さな穴程度ならばまだしも、内部までズタズタにされたのでは自慢の生命力も意味を成さない。

「助かりました、凪様」

「いえ、こっちこそ」

 急な襲撃で一気に緊張感が高まった。

「東雲は怪我は?」

「大丈夫……ありがと」

 東雲はぺたんと地面に座り込んでいる。東雲の眷獣は、ビルの中で使うには威力が強すぎる。彼女がもっと眷獣のコントロールを身に着けて、自在に操れるようになればいいが、今はその段階ではない。戦えるのは凪とアカネの二人だけだ。

「この蜘蛛って、仲間を呼んだりしますか?」

「さあ、どうでしょう。わたしも詳しいわけではないので何とも言えませんね」

 凪の質問にアカネは首を横に振る。

 一部の生き物――――有名どころではスズメバチ等には、自分が危害を加えられるとある種のフェロモンを発して仲間に危険を知らせる能力がある。まして、相手は魔力を操る蜘蛛の魔獣である。万が一にもこうした能力を有していると厄介だ。

「移動したほうがいいかもしれませんね」

「そうですね。少なくとも、この部屋から離れましょう」

 杞憂に終われば、それに越したことはない。しかし、万が一にもこの部屋に獲物がいると周囲の蜘蛛に伝達されていたとすれば、非常に困ったことになる。

「シノ様、移動できますか?」

「うん」

 東雲は素直に立ち上がった。移動することに否やはない。守られてばかりというのは癪だが、こればかりは適材適所である。そして何よりも、切断されて体液を垂れ流す蜘蛛の脚が転がる部屋から一刻も早く出たいという気持ちが強かった。

 慎重にドアを開けて、三人は廊下に出た。非常灯が妖しく廊下を照らしている。暗闇で視界は心もとないが、足元を気にする者は一人もいない。暗闇を見通す技術はそれぞれが別ではあるものの所有しているのである。

「上に行きましょう」

 と、アカネが提案する。

 一階の入り口は強化ビニールの幕で塞がっているが、魔獣の侵入を阻止するためのものではないし、入口は窓と違って魔獣が出入りできるだけの大きさがある。

 三階に向かう階段の踊り場で凪は足を止めた。

「待って、ちょっと止まって」

 二人を制止して、一人で三階まで上がった。

「凪君?」

 怪訝な顔をする東雲の眼前で、凪は勢いよくその身を翻した。

 凪が廊下に顔を出した瞬間に、蜘蛛の糸が真横から飛んで来たのである。目視で確認する余裕がなかったが、直感的に危険を察知した。

「いるッ!」

「もう入ってきたんですかッ!?」

 しかも、想定していた一階からの侵入ではなく上階からの侵入である。出入口がどこにあったのか分からないが、セグロオオヒゲクモの巨体を通すだけの窓なりドアなりが上階についていたということだろうか。

 徘徊性の蜘蛛の卓越した身体能力は馬鹿にできない。一瞬にして獲物との距離を詰めて捕食することができる。糸での捕縛に失敗した瞬間に、蜘蛛は猛然とダッシュして凪を追っていた。

 八本の脚で、人間とは全く異なる動きをする蜘蛛は転がるように階段を戻る凪に射程に収めていた。

 凪に向けて糸を吐きかけようとする蜘蛛の脚元が爆発した。衝撃と炎が蜘蛛を真下から襲い、黒煙が上がった。

「は、派手な……」

「眷獣よりは優しいですよ」

 踊り場に戻った凪を待っていたのは、今まさに手榴弾を投げたアカネだった。手榴弾の中には金属片が入っていて、これが爆発と同時に蜘蛛の身体を引き裂いた。アサルトライフルの銃撃に動じなかった蜘蛛であっても、脚と臓器を纏めて抉られればまともに動くことはできなくなる。

「シノ様は伏せててください」

 アカネは次の銃を呼び出した。

 対魔獣用の大口径ショットガンだ。

 蜘蛛を倒すのに必要なのは外骨格を貫通した上で体内の内臓や神経系を引き裂く威力のある攻撃だ。このショットガンなら、狭い廊下での取り回しもよく、蜘蛛に対しても一定の効果を上げられる。

「凪様は上をお願いできますか?」

「分かりました」

 下の階の緑色の非常灯の光を黒い図体が遮った。すかさずアカネが発砲する。散弾の威力は人間の上半身を一瞬で挽肉に変えてしまうほどであり、象すらも一発で撃ち殺せる。蜘蛛の頭胸部に一発。怯んだ隙にさらに一発を叩き込む。流れるように素早く次弾を装填して、銃口を次の蜘蛛に向けつつ、呼び寄せた手榴弾を壁に向かって斜めに投じる。

 壁に当たって廊下の視覚に転がった手榴弾が爆発し、壁に隠れていた蜘蛛に金属片を浴びせかける。飛び出て来た蜘蛛には容赦なく散弾を撃ち込んだ。

「アカネ、わたしにも銃、何か」

「シノ様は銃撃ったことないでしょう? 素人が使うもんじゃないですよ。そこで座っててください」

「う……」

 にべもなく断られて東雲は押し黙った。階段の踊り場で、壁を背にして三人は上下の蜘蛛に挟まれている。しかしながら廊下よりも階段のほうが狭い。おかげで蜘蛛は数を恃みにすることができず、一匹一匹確実に仕留められている。

「行け、小さな黄金(タイニー・アウルム)!!」

 雷光の豹が刃のように蜘蛛の身体を引き裂いた。電熱が体組織を焼き焦がし、神経系を破壊する。この蜘蛛は身体が大きく魔力を扱うとはいえ、魔力攻撃に対する耐性はさほど強くはない。体内を駆け巡る雷撃は極めて有効だった。

「駆け抜けろ小さな黄金!」

 小型で小回りの利く小さな黄金は、屋内での戦闘に秀でている。電光の速度で駆ける小さな黄金は、蜘蛛の運動性能を上回っている。一匹、また一匹と身体から煙を出して痙攣する蜘蛛が続発する。

 銃撃と眷獣により戦線は維持された。蜘蛛は満足に三人に攻撃を届かせることができないままに命を落としていく。

「はあ、はあ……つーか、いい加減しつこいッ」

 バチン、と紫電が駆け抜けて蜘蛛がひっくり返った。

「いくら何でも、俺たちに集中しすぎじゃないか?」

「確かに……といっても、確かめる術はないですし」

 銃口から火を噴いて、蜘蛛の飛び掛かってくる蜘蛛の身体を吹き飛ばした。死体の山を押しのけて、蜘蛛がさらに階段を登ってこようとしている。上の階でも同様だ。死んだ蜘蛛を邪魔とばかりに押しのけて階段を降りようとする。

「どっか部屋の中には入れれば、ここよりは安全だ」

「どうしますか?」

「俺が囮になる」

「何言ってるんですか?」

「もしかしたら、俺が原因かもしれないし。俺は、こういうのに好かれる体質らしい。だったら、上手くすれば惹き付けられるかもしれない」

 凪は吸血鬼の吸血衝動を向上させる特異体質だ。そして、その体質は吸血鬼以外の魔族や魔獣にも「好意的」に捉えらえることがあるとされる。蜘蛛が凪を優先的に狙っている可能性もあり、そうだとすれば、凪がここを離れることで蜘蛛のうちのいくらかをこの場から引き離すことができるかもしれなかった。

「そんなの、ダメ!」

 真っ先に反対したのは東雲だ。

「凪君は、またそんなこと言って……そんなのするんなら、もう、わたしが眷獣出すよッ」

「それも不味いですよ、シノ様。ビルが崩れます。シノ様はともかく、わたしが死にます」

 額に汗を浮かべつつ、アカネは東雲を制止する。

 不老不死の東雲はビルの倒壊に巻き込まれても生き永らえられるかもしれないが、人間であるアカネは十中八九死ぬ。

「眷獣召喚はともかく、凪様が囮になるのは確実性が低いので却下です。下手をすれば戦力が低下しただけになるかもしれないですし」

 凪の言う通りに凪が蜘蛛を引き寄せられたとして、残った蜘蛛が依然として多数いるという状況までは変わらないだろう。安定して蜘蛛を倒せる凪を失うというリスクのほうが大きい。

「このままじゃ、ジリ貧だぞ」

 危機感を露にする凪。

 眷獣も銃弾も無制限に使えるわけではない。そのうち限界が訪れる。そうなったとき、果たして蜘蛛の集団と渡り合うことができるのか。あるいは、本当に東雲が眷獣を解放してビルごと蜘蛛を吹き飛ばすという展開が実現するかもしれない。

 じりじりとした焦りに焙られる中、状況を一変させたのは予期せぬ方向から放たれた強大な魔力の奔流だった。

 右から左へ。

 一階の廊下を舐めるように駆け抜けていった黒い炎が、一瞬にして蜘蛛の大群を炭化させた。

「何……?」

 それは強大な吸血鬼の眷獣だった。

 暴走することもなく、完全に制御された眷獣は余計な破壊をすることもなく用事が済んだらすぐに退去した。

「シノさん、ようやく見つけましたよ」

 落ち付いた、聞きなじみのある声音だった。

 東雲にとっては長い付き合いになる女性。

「ディアドラさん!」

 その姿を認めて、ぱっと東雲の顔が明るくなった。

 旧き世代の吸血鬼の一人で、戦乱の中世を生き抜いた猛者である。これほど心強い救援は他にないだろう。

「ディアドラさん、どうしてここに?」

「このビルに不自然に蜘蛛が入り込んでいるのが見えたので誰か避難者がいるのだろうと思いまして、様子を見に来たんです。わたし一人なら、今みたいに手早く終わるので早く救出できますし」

 と、得意げに話す。

 実際、ディアドラの力は圧倒的だったし、部下を送り込むより自分が戦った方が早いというのは事実だろう。

「実際、蜘蛛と戦闘しているようでしたし、シノさんの魔力も感じたので不味いと思い駆け付けた次第です」

 ディアドラが視線を上に向ける。そこでは依然、凪が雷光の豹を駆り、蜘蛛と対峙していた。

「上にもいますね」

 ディアドラが指を鳴らすと、猛然と現れる黒炎の蛇が三階廊下を焼き払う。

 あれだけ苦労した蜘蛛との戦いをディアドラは片手間で終わらせてしまった。

 これが旧き世代の吸血鬼の力か、と凪は慄然とした。

「ディアドラさん、その、状況は?」

「はっきりしたことは分かっていませんが、何かしらのテロだと思います。犯行声明はまだ出ていませんが、人為的なものなのは、間違いありませんね。これを見抜けなかったのは口惜しい限りです」

 警備部門のトップでもあるディアドラは、この問題に率先して対応しなければならない立場だ。

「抜けてきていいんですか?」

「現場の指揮は軍警察が担当。うちのほうも課長クラスが詰めているから実務上わたしはいなくてもいいのですよ。それに、暁の帝国の要人に何かあればそれこそ大問題です。こっちのほうがむしろ重大事ですよ」

「そうですか」

 東雲は表情を曇らせた。

 助けてもらえて嬉しいし安堵して力が抜ける思いだった。それと同時にディアドラが自分のために持ち場を離れなければならなかったことが申し訳ないのである。

 東雲は自分はお姫様だから助けられて当然、と思えるような育ち方をしていない。これは、暁家の教育方針が導いた結果である。

「ディアドラさん」

「どうしましたか、昏月君」

「助けていただいてありがとうございます。この後、どうしたらいいか確認をしたいと思いまして」

「そうですね。時間もありませんし……このままここに留まることはできませんので外に出ます。走る体力はありますか?」

「俺は大丈夫です」

 凪は頷きながら、東雲とアカネを見る。二人とも頷いている。

「そうですか。大丈夫そうですね。では、行きましょう。善は急げというものです。速やかに安全を確保しましょう」

 強大無比な吸血鬼にとってセグロオオヒゲグモ等何の障害にもならない。

 セグロオオヒゲグモは巨大で敏捷性が高く、一流の狩人だ。知能も比較的高いほうで、狩りはそのスピードを活かした高速移動と吐きかける糸で捉える二種類の方法を使い分ける。普段は、糸で形作られた巨大な巣に、通常二十匹近くの成体が暮らしているとされる。

「昔、ずっと昔に、セグロオオヒゲグモの巨大なコロニーが発見されたことがあります。ここから南西に百二十キロほど行ったところにある熱帯雨林の中です。複数の巣が繋がってできたようで、数百匹もの蜘蛛がひしめいていました」

 暗い廊下を歩きながら、ディアドラが昔話を始めた。

「数百匹……」

 東雲がごくりと生唾を飲んだ。

 巨大蜘蛛の大群というだけで背筋が凍るような思いだ。蜘蛛は見た目からして不快感を喚起する不快害虫である。それが巨大で、しかも大群となるともはや言葉にできないほどの恐怖だ。

「小さな村が近くにありましたが、蜘蛛はその村を壊滅させて、しかし数を維持するためにさらに多くの餌が必要になって、さらに離れた人里を襲うようになりました。わたしが討伐命令を受けたのは、その時です」

「じゃあ、あの蜘蛛と戦うのは初めてじゃないんですね?」

「そりゃ、もう。あの蜘蛛とは長い付き合いですよ。あの巨体ですからね。積極的にあれを襲おうという魔獣も魔族もいませんし、生物ピラミッドの最上位にいる種の一つでしたよ。昔は」

「昔は?」

「人里に手を出すようになってからは、それこそ戦争状態でした。あの蜘蛛はわたしたちに目の敵にされて、大規模な駆除の結果、三年ほどで人と関わる地域ではほぼ絶滅しました。今はもう密林の奥地にひっそりと暮らしているくらいの珍しい魔獣になったはずなんですけどね」

「ものすごい数が出てきましたけど」

「そうですね。ま、これが人為的な物なら、誰かが手引きしているんでしょう。それは、今後の捜査で明らかになるはずです」

 非常に珍しい魔獣を大量に繁殖させたのか、あるいは生息地から引き込んだのか。いずれにしても、用意周到な計画があったことを窺わせる。厳重な警戒態勢が引かれていたはずのチョコ祭の会場に、あれほど大量の魔獣を持ち込むなど正気の沙汰ではない。

 一行は飲食店のスタッフルームを通り、ゴミ捨て等で使うであろう裏口の前に来た。

「外に出たらわたしに続いて走ってください。実はここから二百メートルほど行ったところにわたしの家があります」

「ディアドラさんの?」

「はい。分譲マンションですけどね。通勤に便利なので、庁舎近くに買ったんですよ。セグロオオヒゲグモ程度の魔獣なら、あのマンションには手出しできません」

 ディアドラの本拠地は首都から三百キロも離れた海沿いの町を中心としている。彼女は中級貴族なので、領地持ちなのだ。しかし、こうして首都で長らく仕事をしているので領地経営は家臣に任せて、自分は庁舎近くにマンションを買って単身赴任しているというのである。領地を家臣に任せて自分は皇帝の傍で仕事をするというのは、珍しくはない。吸血鬼自身が強大な軍事力である以上、地方の領地に野放しにしておくのは建設的ではない。

「では、行きますよ。しっかりついてきてくださいね」

 言うや否や、ディアドラはドアを開けて飛び出した。躊躇する余裕はない。凪も東雲もアカネもディアドラの背中を追う。

 路地裏を抜けて、通りに出た。チョコ合戦の会場からビルを挟んで反対側だ。そこから東に向かって一直線に走る。道路に車はない。交通規制のおかげで放置された単車が寂しく佇んでいるだけだ。

「蜘蛛がッ」

 まだまだいる。ビルの壁面に張り付くものもいれば、道路上で目ざとくこちらを見つけたものもいる。軍警察との戦いで身体を欠損している蜘蛛や、あえなく命を落として転がっている死骸もあった。

 道路の先で、大きな虎の眷獣が蜘蛛を引き裂いているのが見えた。氷の槍が蜘蛛を貫き、炎の弾丸が蜘蛛の肉を焼く。魔術と眷獣、そして銃火器がそこかしこで蜘蛛とぶつかっている。

「向かってくる蜘蛛は全部無視してくださいッ」

 ディアドラが叫ぶ。それと同時に猛然と駆け寄ってくる三匹の蜘蛛に、ディアドラは黒炎の蛇を叩き付けた。

 黒炎の蛇は一瞬で蜘蛛を焼き払い。消し炭に変えた。強烈な魔力の放出は一瞬だけだが、その一瞬で勝敗は決した。

 二百メートル弱を真っすぐ駆けて、マンションのロビーに逃げ込んだ。

 大きなシャンデリアに照らされた広いロビー。床は磨き抜かれた大理石である。超高級ホテルもかくやとばかりのマンションは、やはり政府の有力者や上場企業の役員クラスが住民の大半を占めているらしい。それだけにセキュリティも万全で、蜘蛛の魔獣が近くで暴れているという状況にあっても、マンションの中は静かであった。それどころか、ロビーの奥には多くの避難者が逃げ込んでいる。ざっと見て、三十人はいるだろうか。このマンションのセキュリティを知っている地元民が、挙って逃げ込んできたのである。管理者側としても追い返すわけにはいかず、ロビーを自主避難所として提供したのだ。

 ディアドラはこのマンションの住人だ。管理人もそれを承知しているので、駆け込んできても問題なく通してくれたし、その連れである凪たちにも事情を聞こうともしなかった。

「ふう」

 と、ディアドラは呼吸を整える。

「何とかなりましたね」

 ディアドラが微笑む。

 三人は言葉もない。この二百メートルにすべてを出し切ったような気分だった。今までにここまで必死になって二百メートルの距離を走ったことがあっただろうか。

 体力的には余裕があるが、精神的にはぐったりとしてしまう。巨大蜘蛛という生理的不快感を呼び覚ます魔獣の襲撃は、想像以上に精神に負担をかけていたようだ。

「それでは、このままうちに行きましょう。そこなら安全です。通信が回復するのを、そこで待つのが得策です」

「何から何までありがとうございます。わざわざ、駆け付けてくれて……」

「シノ様は暁の帝国と我が国との友好の証でもあります。それに、もう何年も関わっているんですから、これくらいわけないですよ。ここだけの話、シノ様の身の安全は最優先事項なんですから」

 声を潜めてディアドラは言った。

 混沌界域で預かる第四真祖の御子。確かに、何かあれば大問題だ。時に、一般市民の命よりも優先して救出しなければならない存在が東雲でもあるのだ。

「わたしの部屋は二十二階。エレベータはこっちです」

 ディアドラに案内されてエレベータで二十二階まで上がる。

 地上二十二階というだけあって見晴らしがいい。周辺は高層ビルが乱立しているが、このマンションはひと際背が高く突出している。そのおかげで、セグロオオヒゲグモの動きが手に取るように見えた。

 ビルで隠れたメインストリートからは濛々と粉塵が上がっている。崩れ落ちて陥没した道路の穴から、未だに粉塵が上がっているのだろか。黒い粒のようにも見える蜘蛛が四方八方を走り、飛び回り、追い立てる軍警察と死闘を演じている。

「ひどい」

 と、東雲は零した。そうとしか言えない光景だった。ついさっきまで万単位の人が楽しんでいた祭の会場がこの有様だ。セグロオオヒゲグモは命をすぐには奪わないというが、だからといって危害を加えないわけではない。この騒ぎの中で死者が零とはとても思えなかった。

 ディアドラが自宅の鍵を開けた。玄関の電気をつけて、家の中を指し示す。

「どうぞ、こちらに」

「すいません、お邪魔します」

 東雲が最初に玄関に入った。凪とアカネもそれに続き、ディアドラが最後にドアを閉めて鍵をかけた。靴を脱ぐという習慣はない。そのまま廊下を進んで突き当りのリビングに入った。漂ってくるのは上流階級の暮らすマンションには不釣り合いな水と土の匂いだ。奇妙なアロマを焚いているなと凪は思う。閉め切っていたからだろうか、むわっとした熱が渦巻いている。熱帯の熱帯夜となれば、こうも息苦しいものか。

「電気は……」

 呟いたその瞬間に、凪の意識はくるりと回転した。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。