温度を感じることもできないような超高温の漆黒の炎に雷光の豹が飲み込まれた。凪の眷獣は決して強い部類ではない。積み重ねた年月が吸血鬼の戦闘能力に大きく作用するのだから、十五年程度の固有堆積時間しかない上、生来の吸血鬼ではなく偶然力を手にしただけの凪の眷獣では、六百年を数えるという旧き世代の吸血鬼には到底及ばない。力の差は歴然で、
逃げる場所のない密室で解き放たれた業火から逃れる術はなく、本来ならばそのまま凪とアカネは焼き尽くされていたはずだった。
「く……あッ」
強い衝撃を肩に受けて、訳も分からないまま視界が回る。冷たい感触を背中が捉え、視界いっぱいに煌めく星空が広がっていた。
風で木々がそよぐ音がする。湿度の高い空気はねっとりとして息苦しい。周囲には木々が生い茂っていて、ここは薄暗い森の中にある開けた場所という感じだ。ここが外だということを認識するのに、凪は思いのほか時間を必要とした。
「何が……」
迂闊ながらも凪は茫然としてしまう。
凪を現実に引き戻したのは、アカネの声であった。
「凪様、ご無事ですか?」
「アカネさん? 俺は大丈夫、みたいです。何が……というかここは?」
「分かりません。ですが、脱出はうまくいったみたいです」
と、アカネは言う。倒れていたのは彼女も同じようだった。立ち上がって衣服についた泥と草を払う。
「アカネさん、何かしたんですか? いや、もしかして転移を?」
「はい」
アカネは頷く。
「ただ、いつでも自由にというわけではないので、次はないと思ってください」
「あ、はい。でも、武器を呼び出すだけじゃなくて、移動もできるっていうのは……」
「できるというよりも暴走させているって感じなので、使えているわけではないといいますか。わたしは魔術師でも魔女でもないんで」
転移魔術は超高等魔術である。超一流の魔術師ですら、ろくに使いこなせない。事前準備をきちんとした上で行う大魔術であり、戦闘で使えるのは空隙の魔女の異名を持つ那月くらいのものだ。それも、強大な悪魔に人生を捧げるような代償を支払って手に入れた力である。余人には真似できないものだ。
「しかし、ディアドラ様……いえ、ディアドラがこんなことをするとは思いませんでした」
「今回の蜘蛛も、あの人が手引きしてたのかな……理由が分からないけど」
社会的地位のあるディアドラが、何を思ってテロ事件を起こしたのか。凪にもアカネにも全く想像はできなかった。
「……シノ様をお助けしないとなりません。すぐにでも」
と、アカネは言う。
「そうだ。東雲……ディアドラのところにまだいるのか」
ここに逃れたのは凪とアカネだけだ。東雲はまだディアドラの下にいるはずだ。
「思うに、ディアドラの目的はシノ様だったのではと。あの人、わたしと凪様をあえてシノ様から引き離して攻撃してきましたから」
「……確かに。でも、理由は?」
「さあ、そこまでは。ただ、シノ様の立場やお身体のことを考えれば……どんな理由でも考えられます」
「……ッ」
凪は隠し切れぬ苛立ちが湧き上がってくるのを感じた。
東雲は第四真祖の子である。それも古城とアヴローラの血を引いている。第四真祖の子どもの中でも最も吸血鬼としての純度が高い。本人はそれを誇りに思っている節があるし、能力も突出している。有史以来、血族を持たなかった第四真祖の子どもというだけで狙われる可能性はあるし、暁の帝国を敵視する国や組織は残念ながら存在している。そういった手合いは、東雲の身柄を喉から手が出るほど欲しがるだろう。
もしも、東雲が吸血鬼に人権を認めないような者たちに引き渡されるようなことがあれば、彼女の先行きは極めて壮絶なものとなるだろう。
「助けに行かないと」
凪は呟く。
不思議なことに、魔力が湧き上がってくるような気がした。
「……しかし、どうやって? 相手は旧き世代の吸血鬼の中でも長く戦場を経験した歴戦の猛者ですよ? 勝ち目があるとは思いません。今だって、逃げるのが精いっぱいだったじゃないですか。助けに行くことは賛成ですけど」
「方法は分からない、けど。乗り込んでいって、戦える相手じゃないことも分かってる。だけど、放っておくこともできませんよ。とにかく、今のままじゃダメだ」
凪はディアドラをよく知らないが戦闘能力は極めて高いのは実感した。悔しいが凪程度ではまったく相手にならない。象にアリが挑むようなものだ。
「まず、他の皆さんと連絡を取る方法を考えましょう。ディアドラの犯行をジャーダ様が容認しているとは思いません。暁の帝国と事を構える利点がまったくないわけですし、もしかしたら、すでに動いているかもしれません。ディアドラの一連の行動は、まったく隠す気がありませんでしたから」
「そうですね。俺たちを自宅に連れ込んでからのこれですからね。いくらあの人が警備の責任者だっていっても、隠蔽できることには限度があるでしょうし」
「後は、外部と連絡をどうやって取るかです。凪様、気づいてますか? ここ、明らかにわたしたちがいた場所とは違いますよ」
「……何となく、そんな気はしてました」
事実を認めたくなかったので、今まで指摘はしなかった。
単純にマンションの外に逃げたというわけではないらしい。
「アカネさんの転移はそんなに遠くまでいけるものですか?」
「まさか。力いっぱい暴走させて、精々が二、三キロ圏内のどこかといったところです。移動先は指定できないので、右も左も分かりません。そして、あのマンションの周囲にこんな森はありません」
「混沌界域の最大都市の真ん中にいたはずですからね」
チョコ祭の会場は混沌界域の首都。それも王宮の真ん前のメインストリートである。自然豊かな混沌界域と言うが、さすがに首都となれば世界有数の大都市のひとつである。大きめの公園に木々はあるが、視界を塞ぐほど鬱蒼とした森はない。
「あの感覚……リビングに入った時の妙な魔術……まさか転移か。あの時点で、俺たちはずいぶんと遠くまで連れ去られていたってことか?」
考えられることはただ一つだけだ。
凪とアカネは、いつの間にか転移魔術で拉致されていたということだ。
タイミングはリビングに入った時の魔術の気配であろう。ディアドラはセキュリティのためと言っていたが、もはや信用はできない。あれが転移魔術の発動であれば辻褄は合う。
「そんなことが可能ですか? わたしが言うのもあれですけど、転移魔術はそう簡単ではないはずですよ。まして、わたしたちを纏めてなんて」
「どうでしょう。ディアドラの引き出しが分からないので何とも言えませんが、可能性はあります。例えば、移動元と移動先でまったく同じレイアウトの部屋を用意して、お互いの空間を紐づけして、任意のタイミングで空間ごと入れ替えるとか。細かい条件指定がない分、事前準備だけで効果はあるような気がする」
この方法はかなり難易度が高い反面、自室に仕掛ける時間はいくらでもある上に魔術そのものは相手の身体に直接かけるわけではないので弾かれにくいという性質がある。油断していた凪たちならば、転移に巻き込むことはできるだろう。
「……わたしの転送と同じような原理ですね、それ。A地点とB地点を移動することにだけ特化させるわけですか。端から拉致を目的にするなら、それで十分。それでも難しいはずですけど」
「吸血鬼に時間はいくらでもありますし。まして、ディアドラは金もあったはずだし」
事前準備はいくらでもできた。転移魔術の難度を跳ね上げているのは、転移先の条件指定だ。気象条件や地脈の流れ、人の流れ、そういった様々な条件を計算しなければならない。普通の人間では満足に使えないというのは、計算能力の限界を優に超えてしまうからだ。しかし、転移元と転移先を事前に決めておいて、「計算式」の構築に必要な条件を予め設定できたとすると難度は大きく低下するだろう。
ディアドラが初めから東雲狙いで計画していたとすると、本来は凪とアカネがディアドラの家に来る予定はなかったのではないか。転移にしても空間ごと行う必要があるから凪とアカネを外すことができなかったのだとすると転移の理屈については納得はできる。その上で凪とアカネは東雲についてきた邪魔者なので、不意打ちで始末しようとしたということだろうか。
不幸中の幸いだったのはアカネにも転移魔術があって、辛うじて脱出できたということだろう。
「アカネさんの転移は、そう遠くまでいけるものじゃない。とすれば、東雲からそんなに離れたわけじゃないな……」
それも不幸中の幸いと言えるだろうか。
位置関係が分からないが、東雲まで歩いて行ける範囲ではあるようだ。
残る問題は場所の特定だ。
右も左も分からない中で闇雲に動けば、結果的に東雲から遠ざかることにもなりかねない。方角は月や星の動きから推測はできるし、日が昇ればより分かりやすい。それに、凪にはささやかながらも魔術がある。適当にちぎった広葉樹の葉に呪文をかけて、蝶に変化させる。呪符の類を持ち合わせていないので、出来がいいとは言えないが、物見の代わりはしてくれる。これを空に放った。ひらひらと舞い上がった蝶は、重苦しい夜気の中で冴える月光を浴びて煌めいている。
「どうですか?」
アカネは魔術が使えない。
一応の知識はあるが、こればかりは生まれ持った才能に依存する領域だ。アカネは魔術を学んではいるが、実践できるほどに習得はできていない。
「……ちょっと、これは」
凪が絶句している。
蝶を通して見た光景が彼を圧倒しているのだ。
「アカネさん、今、映します」
凪は次いで地面に水たまりを作った。三十センチ四方の水たまりの表面が青白く発光して、蝶を通して上空からの映像を映し出した。
そこに映し出された光景を見て、アカネもまた絶句する。
「森しかない」
四方に広がる大森林。地平線の彼方まで、人工物はまったくない。助けを呼ぼうにも、歩いて行ける範囲に人家はない。無線や携帯を持っていたとしても、通信できなかっただろう。
「どこだよ、ここ」
「わたしにも、さっぱり……」
混沌界域の広大な国土は、その多くが熱帯雨林が占めている。人と魔族は、森を切り開いて文明を広げてきたが、未だに人跡未踏の地は広く存在しているし、歴史の中で忘れられた土地も多くある。過去に人が住んでいたことがあったとしても、現代では魔獣や森の獣の住処になった無名の遺跡群もどこかにはあるだろう。そういう地図に載っていない魔境が現代も各地に存在している。生物多様性に秀でた熱帯雨林のど真ん中だ。どんな魔物が潜んでいるか分からない。
「東雲がいるのは、あそこか」
目的地だけは明確だった。
隠されているわけでもなく、堂々と佇む中世ヨーロッパ風の石の城。アカネに可能な転移範囲の中にある人工物はこれしかない。
ここから、直線距離でおよそ二キロといったところだろうか。
大きな城というわけでもない。屋敷にしては大きいという程度の小城である。もちろん、一個人で所有するというのであれば極めて規模の大きな建物ではあるが、ディアドラが貴族に名を連ね、現在でも領主として土地を持っていることを考えれば、城を持っていること自体はおかしなものではない。
月明りに照らされる黒い森の中に建つ城。その城の窓のいくつかから明かりが漏れ出ている。人がいるとなれば、それは東雲かディアドラであろう。使用人もいるかもしれない。あの城の中にどれくらいの人がいて、東雲がどの部屋にいるのか、今のところ情報はまったくない。
東雲を助けるのであれば、ディアドラとの戦闘をどれだけ避けることができるのかということが重要になる。
凪とアカネの目的は東雲の救出である。ディアドラの相手をする必要はない。しかし、ディアドラに気づかれずに東雲を救出するとなると、ディアドラと東雲の位置関係を把握しなければならないし、あの城の構造や人員も知る必要があるだろう。そういった情報がない現状では、迂闊な手出しはできないし、もしもこのまま戦うしかないというのならば、それは成功率の極めて低い、それも失敗すればその時点で命を失うと言うハイリスクな戦いにならざるを得ない。
「行くっきゃないか」
「そうですね」
とにもかくにも、通報のしようがない。このまま何もしないで時間が過ぎるのを待つべきか、それともディアドラを出し抜いて東雲を救出し、そして逃避行をするのか。
「あのお城の中なら、通信設備はあるでしょう。いくら何でも外部と全く繋がりを持たないなんてことはないでしょうし」
「助けを呼ぶためには、敵地の真ん中に飛び込まなくちゃいけないってことですね。どの道、東雲を助けることにも繋がると」
広大極まりない熱帯雨林の真ん中に建つ小城だ。このような僻地に城を建てる意義は分からないが、生活に必要な物資を運び込むために人里との繋がりは必要になるだろう。それはつまり連絡手段があの城の中には備わっているはずだということでもある。
熱帯雨林の中を当てもなく彷徨っても、待っているのは死だけだ。空腹か脱水か、あるいは森の獣に襲撃されるか。いずれにしても未来はない。
ディアドラをどう出し抜くか――――それが重要なのだが、どう考えても不可能だ。地の利も戦闘能力も、何もかもが凪たちを上回った相手だ。これを出し抜くのは並大抵の幸運では実現できないだろう。それでも、他に選択肢は存在しない。
「あれ、何か……」
水面に映る目的地。石の城の門がゆっくりと開いたのである。固く閉ざされているべき城門を、こんな深夜に開く理由はすぐに分かった。白く光る何かが門から外に出てきたのである。それはどこからか現れた手綱を付けた巨大蜘蛛の背に乗ると、まるで馬を乗り回すかのように蜘蛛を走らせる。
「今のは、いったい……」
「……まあ、追手ってヤツかな」
「……ですよね」
よくない予感は二人にあった。
ディアドラが凪とアカネが逃走したと気づいて、どう行動するか。何もしない可能性も低くはなかった。この僻地だ。助けを呼べる環境にないのだから、放っておいてもどこかで野垂れ時ぬだろうと。向かってきても脅威になるほどの力のない二人だから、放置するという選択もあるだろう。
だが、もしも、脅威度の高低に関わらず始末をつけるというのであれば、追手を放つことも十分に考えられた。
「できる限り隠れながら進みましょう」
「はい」
敵の能力は未知数だ。
ディアドラ子飼いの追手ならば、相当の危険人物ではあるのだろう。この森のどこかに潜む凪とアカネを探し出して、その命を刈り取るに相応しい実力を有するのは確かだ。
せめて相手の能力が分かっていればよかったのだが、ない物ねだりをしても仕方がない。可能な限り気配を消し、魔術を使って身を隠しながらゆっくりと進む以外に方法はなかった。
■
部屋の中は真っ暗だった。窓がなく電気もつけていないので、光源となるものは何一つとして存在しない。自然の夜であっても、星々の光があり、完全な暗闇というのは珍しいくらいである。東雲は都会育ちなので猶更、本当の暗黒に身を浸す経験は少ない。おまけに、この部屋は東雲を拉致監禁した女の用意した部屋であり、この状況に置かれることを強要されているのである。
のっぺりとした闇の中で、部屋の全貌を見ることは難しい。夜目が利くと豪語する者であっても、僅かの光もなければ暗闇を見通すことはできない。この闇を見透かすのであれば、赤外線を始めとする光以外の情報源に頼る必要があり、魔力すら満足に使えなくなった東雲にそれは土台無理な話であった。
普段から目に頼った生活をしているために、目で情報が得られないときの不安感は極めて大きくなる。身体は自然と視力以外で情報を収集しようとし、感覚が研ぎ澄まされていく。
明かりを灯せば、この部屋の不可思議なレイアウトに気づくだろう。
四方を囲む壁も天井も床もすべてが真っ白な石灰岩で作られている。汚れ一つなく蛍光灯は市販品である。窓は初めからなく、調度品の類もまったく用意されていなかった。あるのは部屋の中央に置かれた大きなベッドだけで東雲はそこに寝かされていた。
東雲はここに至るまでに半ば強引に様々な衣服を試着させられた。それはあたかも着せ替え人形のような扱いだったが、自前の服を破り捨てられた東雲は宛がわれた服を着るしかない。二十着は試されただろうか。それだけ着せ替えていながら、結局今の東雲は黒いレースのパンツを履かせてもらっているだけで、他は一糸纏わぬ姿である。空調が利いているためか、少し肌寒いと思えるくらいだった。
寝かされている白いシーツは滑らかで肌触りがよく、最高品質なのだと分かる。無菌室以上に徹底して余計な物を取り去った白い部屋の中にあって、このベッドだけは極めて上質であり、異質さを際立たせていた。
この部屋に監禁されてどれくらいの時間が経ったのか分からない。暗いだけでなく音もない環境は、精神に欠ける負担が激増する。
東雲は身体を起こすことなく、ベッドの上にいる。縛られているわけではない。脱出は不可能だということをすでに否応なく思い知らされたために、逃げようという意欲を失っていた。
生まれた時から感じていた眷獣の存在も今は感じない。東雲は生まれて初めてたった一人で見知らぬ場所に放り込まれた。
魔力すら満足に使えない今の東雲は、ただの人間の少女と変わりがない。
右の手首に巻かれたミサンガは、東雲の体内の魔力の流れを乱し使えなくする拘束具の一つである。引き千切ろうとすれば強烈な痛みが電流のように全身を駆け巡る上に強度は鋼鉄に匹敵する。皮肉にもこのミサンガは暁の帝国の前身である絃神島で開発された魔族登録証の技術を転用したものだった。
東雲の身体ではなく、心を先に縛ってしまう。抵抗の意思を失えば、その後の監禁も楽になる。例えばこの部屋に施された結界もその一つだ。物理的に外に出られなくする結界ではない。ベッドを中心とした半径三メートルの魔法陣であり、東雲がこの外に出た瞬間に、彼女の全身、頭の天辺から足のつま先まで壮絶な痛みを与えるものだ。その痛みは一瞬ではなく、結界の外にいる限り継続する。東雲とて、何も初めから無抵抗だったわけではない。ディアドラが部屋の外に出た隙に脱出を図ったこともある。そして、痛みのあまりに絶叫し、部屋中を転げ回る羽目になった。魔力を制限された東雲には結界の詳細は分からない。半径三メートルというのも、東雲が痛みで転げ回っている中で見出した安全圏である。
東雲は「この範囲にいれば痛くない」ということを自ら学習してしまった。自分で学習した事柄は、他者から教えられるよりもずっと早く身につく。安全圏から出ることを生き物は嫌う。吸血鬼も同様だ。まして、その外に出れば気絶することも許されないほどの猛烈な痛みに曝されると分かっていて外に出る気力が起きるはずもない。
不意に開いたドア。差し込む廊下の光は一瞬だったが、暗闇で夢現の差が分からなくなっていた東雲を現実に引き戻す程度の役には立った。
「起きてる? もう疲れて寝ちゃったかしら?」
入ってきたディアドラは妖艶な笑みを浮かべている。ネグリジェを着て、成熟した大人の色香を存分に漂わせながら、東雲の横たわるベッドまでやってきた。ほんのりと香水が香る。柑橘系の香りだ。
「ふふ、寝心地いいでしょう。あなたのために用意した特注品なのよ」
東雲の耳元でディアドラが囁く。
東雲は何も言わない。黙して語らず、無言でディアドラから顔を背けた。そんな東雲の反応にディアドラは気を悪くすることなく、東雲を抱き枕にするように横に並んで横たわる。
「本当に可愛いわ。肌も綺麗で、髪もさらさら……いい匂いもする」
「ッ……」
東雲の背筋に怖気が走る。
ディアドラが欲情しているのは闇に輝く紅い瞳ではっきり分かってしまう。異性からそれとなく性の対象として見られていると感じることは今までにあっても、こうも明確に欲望を向けられたことはない。曲がりなりにも十代の乙女である東雲にとって、これは余りにも気味の悪いことであった。
東雲の肌をディアドラの手が撫でる。腹から胸までを撫でながら、首筋を甘噛みする。牙の先端が肌を破るか破らないかという力加減だ。血を吸われるのではないかと東雲は身を竦める。そんな東雲の反応に気をよくして、ディアドラは愛撫を継続する。
「き、気持ち悪い……もうやめて、よ」
東雲は思わず口答えする。
「あら、酷い。こんなに愛してるのに……シノちゃんにも早くわたしを愛してほしいのだけど」
「意味分かんない。なんで、そうなるの……? どうして、こんなひどいこと……もうやだ。みんなのところに帰してよ……ん、ふぁ」
ディアドラは強引なキスで東雲の訴えをかき消す。逃れようともがく東雲を抑えつけて、ディアドラはさらに熱い舌を肌の上に這い回らせる。想い焦がれた東雲を手中に収めることができて、ディアドラはご満悦だ。長い人生の中でも最高の気分を味わっていると言ってもいい。戦いにすら飽きたディアドラにとって綺麗で愛らしい乙女をいたぶるのは唯一の楽しみだ。それが高貴な身分であればなおのことだ。
かつて、人権意識の低い中世は今よりももっとよかった。まだ若く命のやり取りを楽しめた時代であり、そして多くの戦利品を獲得できた時代でもあった。部族間の対立は今よりも過激だったし、信仰上生贄等の野蛮な習俗を持つ者たちも多かった。だから、野蛮な方法で戦利品に屈辱を与え屈服させることも珍しいことではなかった。
ディアドラの性的嗜好はそうした経験が長すぎる人生の中で醸成したものと言えた。
東雲はまだ心が折れていない。散々に泣きはらしたし、ディアドラへの恐怖も植え付けられているが、ディアドラへの拒絶の意思は明確だ。どうやってここを折るか。抵抗に抵抗を重ねた東雲がついに屈した瞬間こそがディアドラが心待ちにしている時である。彼女が自らディアドラの支配を受け入れるようにするかを愛撫しながら考えている。堕ちる瞬間は一度しかない。それをどんなシチュエーションで堪能するかは重要だった。
嬲り方は何通りもあるが、最も東雲にふさわしい堕ち方を導けるのはどれなのか。時間を巻き戻して実際に複数の選択肢を試せればいいが、そんな技術はディアドラにはない。だからこそ色々と想像できて楽しいというのもあるのだが。
「そうそう。ちゃんと実験もしないとね。せっかく、シノちゃんが手に入ったんだし」
「じ、実験?」
その不穏な言葉に東雲は身震いする。
「心配しなくてもいいわよ。シノちゃんも不老不死なんだから、死にはしないわ。痛いか気持ちいいかはちょっとわたしにも分からないけれどね」
「何するの? 何? 何して、うぐ……ッ」
ディアドラの右手が触れたのは東雲の臍の下辺りだ。そこにディアドラの魔力が渦を巻いている。
「東洋では、丹田っていうらしいわね。臍下丹田? 下丹田? ちょっとよく分からないけど、まあ、魔力を扱う上で重要な箇所なのは間違いないわね。全身に魔力を行き渡らせる丹田に、ちょっと魔法をかけてあげたわ」
「痛い……何、を?」
丹田は伝統的に「気」を練る重要な部位とされる。魔術的に言えば魔力を効率よく運用するために意識する場所であり、それは洋の東西を問わず認められている。魔力の運用に関わる場所なので、ここを魔術的に侵されると全身に悪影響が及びやすくなる。
「シノちゃん、その歳で結構抵抗力が強いからね。これで、わたしの魔力を通りやすくするの。ふふ、あなたを模したお人形たちだと、ちゃんとした実験にならなかったし、真の眷獣の器を作るためにも、人工眷獣があなたの血に根付くか試してみたいの」
「人工眷獣? 血に根付くって、どういう……」
「あなたのお母さまは遥か古代の天部と三人の真祖が作り出した眷獣の器、強大な第四真祖の眷獣を封印するための棺だった。わたしが焦がれた彼女もそう。ふふ、シノちゃんはシノちゃんで欲しいのだけど、ディセンバーを取り戻すことも諦めてないの。だから、彼女を受け入れるのにふさわしい素体を作らないといけないわけ。シノちゃんはディセンバーの血縁者でもあるからね、悪いのだけど試させて、ね?」
暗闇が不意に払われる。
青白い輝きが東雲の丹田に瞬いて、膨大な魔力が唸りを上げる。
「あ……い、あッ、い、痛い、あああ、痛いぃぃ!」
東雲が苦悶の声を上げた。
ディアドラが強引に紡いだ魔力の経路を通し、主のいない人工眷獣が東雲の良質な血を住処にしようと入り込んでくる。東雲もまた眷獣を失い魔力の安定性を欠いている。眷獣の寄生を東雲の身体は容認できる状態だった。それでも、まったく縁も所縁もない眷獣を受け入れるのは苦痛を伴う。吸血による上書きですら自分を乗っ取られるというリスクを背負う。このような正規の方法ではない強引な寄生がスムーズに行くはずがない。
しかし、もがき苦しみながらも東雲の身体は壊れない。筋肉も骨も神経系もひび割れて崩れそうになりながら生まれながらに備え持つ不死性が身体を再生させる。
不死性の負の側面。
吸血鬼の肉体は魔族の中では脆弱だ。だが、不死性は突出している。高位の吸血鬼なら心臓や脳が破壊されても復活できるほどだ。それだけ強力な不死性を持っている吸血鬼は、何をしても死なないがゆえに、甚振る際に死なない程度の加減するという手間暇をかける必要がない。
サディストにとって吸血鬼というのは最高のサンドバックだ。
事実、東雲は死ななかった。強引な人工眷獣の寄生実験は、物の数分で終わった。東雲にとっては長く苦しい実験だったが、結果的に東雲は人工眷獣をその血に受け入れることができた。ディアドラにとっても研究結果がいい方向で出たのでご満悦だ。
「やっぱり、頑丈ね、シノちゃん。まだまだ全然壊れてないもの……」
「ひ、い……あ……離れ、て……もうやだ……う、く」
東雲が取り込んだ人工眷獣は東雲の血の中で眠っている。敵対されても困るのでそうなるように仕込んだ。東雲にとっては爆弾を仕込まれたに等しい状況でもあった。
「決めた」
と、ディアドラは言う。
「シノちゃんの壊し方。シノちゃんみたいな可愛い娘にはやっぱり、海より深い絶望が似合うもの」
ディアドラの笑みは妖艶で危険だった。
「昏月君とアカネさん。あの二人、生きてるわ」
「え?」
突然の告白に東雲は耳を疑った。
ディアドラが殺したと思っていた二人だ。
「本当よ。わたしは殺すつもりだったのだけど、わたしの眷獣が直撃する直前にどうやってか逃げ果せたみたいなの。目下、捜索中よ」
凪とアカネが生きていることが分かった途端に、東雲の目に生気が戻った。
今、東雲の現状を知るのは凪とアカネの二人だけだ。東雲が頼りにできる存在であり、東雲をこの苦境から救い出してくれるかもしれない存在でもある。東雲は二人を大事に思っているし、それに輪をかけて助けに来てくれるかもしれないという希望を抱ける相手であった。
この情報を与えれば東雲はきっと気持ちを強く持つだろう。それは分かり切っていた。
「だから、きっちり殺すわ」
「な、なんで? そんなことする意味が分かんない。あの二人に手を出さないで」
「ダメ。ふふ、だってシノちゃんはあの二人がとても大切なんでしょう? それは、わたしからすればとっても不愉快なことだもの」
それは嫉妬と呼ばれる感情の発露だった。東雲に思われている二人に対しては、どろどろとした黒い感情を抑えきれない。あの倉庫で眷獣を放つという雑な対応をしたのも、それが原因だった。
殺すという決定に変わりはない。生かしておく意味がないし、存在しているというだけで不愉快だった。
だから東雲が屈服した後は、凪とアカネのことを東雲の記憶から消すよう精神操作をするつもりだったくらいだ。
しかしながら、殺すことは決定しても殺し方までは決めていなかった。どうせなら、その死を利用して東雲を屈服させたくなった。希望を絶望に変える。上げて落とす。東雲の目の前に二人の首を並べて、ディアドラの物になる宣誓をさせよう。それが、東雲を最も輝かせる堕とし方だ。方向性は定めた。今となっては凪とアカネが逃げてくれたことに感謝するしかない。
差し向けた追手はディアドラの眷獣ではないが、それに匹敵する怪物だ。
ディアドラが長い人生の中で堕とした数多の奴隷たちの魂から作成した死霊の集合体である。ただの人間と眷獣を発現しただけの攻魔師モドキが戦える相手ではない。
二人の首が届くのも時間の問題か。
早ければ朝にでも届けられるだろう。その時を今か今かと待ちわびながら、ディアドラはほくそ笑んだ。
あまり濃厚にやりすぎてR指定になると困るので手元のラノベの描写を柔らかくする感じで……。
最近のラノベはあまり見てないけど、書店で眺めているとR指定食らわないのが不思議なヤツあって戸惑う。