二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 十九話

 寒い。

 ひたすらに寒い。

 呼吸すると肺が凍る。息ができない。あれほど熱かった血潮が凍結して心臓が悲鳴を上げている。死ねと誰かが言った。一緒に来いと誰かが言う。言葉は分からないが意味は分かった。見えない手が自分の手を掴んで、引っ張っている。足が重い。そんなに早く歩けない。筋肉も骨も凍っている。歩くだけで肌がひび割れて凍った血が零れ出ている。もう動けないし、どこにも行けない――――。それはダメだと誰かが言う。身体が痛い。全身が炎に焙られている。突き刺されている。切り刻まれている。苦悶と苦痛、名誉も誇りも命までも奪われて、冥府の門をくぐることすら許されず、今もこうして凍えながら彷徨っている。

 一人は辛い。仲間が欲しい。もっと、たくさんの仲間が欲しい。

 生きているものが妬ましい。暖かい世界が愛おしい。苦しい。ただ苦しい。だから、お前も一緒に来い――――。

 

 

「あ、起きた」

 パチクリ、と大きな瞳が凪の眼前にあった。コバルトブルーの透き通った瞳はサファイアを嵌め込んだように美しい。

「おーい、こやつ、起きたぞ」

 それは年端も行かない少女だった。

 パタパタとせわしなく走っていく後ろ姿から、十歳かそこらの年齢だろうと推測した。少なくとも人間の見た目に合わせれば、であるが。

 一枚布から成る貫頭衣を着て、肩にかかるくらいの金髪を自然に任せている。足元は裸足だ。

「どこだ、ここ」

 凪は自分がどこにいるのか分からなかった。

 とりあえずは生きているらしい。

 倒れる直前の記憶は、自信はないが明瞭だ。蜘蛛の大群に囲まれて、あわやというときに誰かの眷獣が間に入って助けてくれたのだ。

 身体が重く、酷い疲労感がある。どれくらい眠っていたのだろうか。

「洞窟、これが本物の」

 テレビでしか見たことのない自然の形。流水や地盤の隆起、あるいは土砂崩れ等で長い年月をかけて、またあるいは唐突に生まれる巨大な穴。それは、自然を知らない凪にとっては浪漫の対象でもあって、秘密基地めいた神秘的な空間に子どもの頃は大層惹かれたものだったが、まさか今になって洞窟の中に寝そべることになるとは。

 背中に痛みはない。

 木の枝を組んだ簡易的なベッドに木の皮を敷いているようだ。

「昏月様、よかった。意識が戻りましたね」

「アカネさん。すみません、俺、倒れたみたいで」

「無理もないです。相当の消耗でしたから」

 先ほどの少女に呼ばれたアカネは慌てた様子で洞窟に入ってきた。

「俺、どれくらい寝てました?」

「丸一日以上、三十二時間と少しですね。このまま目覚めなければどうしようかと思ってました」

「三十二時間って、痛ッ……」

 飛び起きるように身体を越した凪に鈍痛が走った。どこがどう痛いと表現できないのがまた辛いところだ。

「寝すぎて身体がバキバキだ」

「動かせますか? 正直、今の昏月様の身体がどうなっているのか、わたしには何とも言えないんです。その手のこともありますし」

「……これか」

 ぶらり、と垂れ下がった左手は相変わらず真っ白なままだ。感覚がないのも変わりない。とりあえず、包帯か何かで固定して邪魔にならないようにしておこうと思った。

「こうしてみると、呪いっぽいですね」

「呪い、ですか。見た感じ、確かにそうですけど」

「専門じゃないので何とも言えないですが……魔術とは別なのは確かです」

 魔術ならば効果を発揮させるために、術式が存在する。よって、術式を逆算することで解呪することもできる。しかし、この呪いは極めて原始的だ。術式が存在せず、魔力で凪の身体に張り付いているような状態である。手っ取り早いのは力技での解呪。強い魔力なり霊力なりで洗い流すのが一番だが、もともとの呪詛が強力なのと、今の凪の手持ちでそれを可能とする物がないというので選べない選択肢だ。当面、この呪詛については対症療法しかない。進行を抑えて、無事に帰ることができたら専門家に診てもらうというのが確実な対処法であった。

「アカネよ、捕ってきたのじゃが、これはどうするのじゃ? このまま食っていいのか?」

 洞窟の入り口から幼い声が聞こえてくる。

 先ほどアカネを呼びに行った少女が、大きな魚を抱きかかえていた。淡水に暮らすの古代魚、アロワナの一種であった。

「あれ、誰ですか?」

「わたしたちの命の恩人ですよ」

 少女は巨大魚を抱えながら洞窟の中に入ってくる。

 一メートル弱の巨大魚は、少女よりも少し小さいくらいの大きさで、しかも丸々と肥えている。それを軽々と持ち運んでいるので、相当筋力があるようだ。

「凪君はお目覚めのようじゃが、食欲はあるのか?」

「腹ペコだけど、まず君のことを教えて欲しいんだけど」

「ん? ほう、我のことか。ほうほう、そうか、我のことが知りたいか。ふふふ、凪君はやはり気が多いな。いくら我が美少女とはいえ、初対面で口説こうとは」

「口説いてないし、この状況で初対面だから教えてくれって言ってるんだけど。あと、気が多いとか言うな」

 美少女という点には同意するが、凪は見た目小学校低学年から中学年の子どもは性的関心の対象外だ。

「むー、反応がつまらぬな。せっかく、初めての会話なのだから、もうちっとノリよく話しようではないか」

 頬を膨らませて不満を口にする少女。どことなく尊大な物言いが、身体にまったく合っていないのが一周回って面白いとは思った。

「まあ、よい。自己紹介じゃな。我が名はゲヘナ。深淵より現れし、火と硫黄の王にして永久の炎の番人、そして汝の命の恩人なるぞ、敬え」

 胸を張ってゲヘナは言い放つ。

 自信満々で実に得意げだ。

「凪です」

「知っておるぞ」

 無駄な自己紹介を省いた凪は、とりあえずゲヘナと名乗る少女と握手をした。

「で、結局何者なんだ?」

「聞いておらなんだか? 我が名誉ある名を二度も名乗らせようとは図が高いにもほどがあろう。だが、まあよい。我が名は……」

「ゲヘナちゃんなのは分かったから」

「ちゃんはいらんぞ」

 凪はゆっくりと立ち上がった。

 まだふらつきがあるし、両足は痺れている。左手の自由が利かないのも問題だが、足の踏ん張りが利かないかもしれないというのは、戦闘だけでなく移動にも影響が出る。特にここは足場が悪く、乗り越えなければならない障害物も数知れない。

「お二人とも、魚、焼けましたよ」

 ゲヘナの自己紹介が一段落したところで、アカネが声をかけてきた。

 天然の焼きアロワナだ。

 巨大なので三人で分け合ってもすべてを食べきることができない。大きな葉を皿にして、切り分けた白身を食す。

「少し泥臭い」

「しかたないです。こんな川に棲んでるんですから」

 白身は味気なく、泥の味がする。それでも食べないよりはましだ。エネルギー補給は必要だ。体力が著しく低下した凪はなおのこと。少し無理をしてでも胃に食料を届けなければならない。

「ゲヘナ様は、お気に召したようで」

「ん? そうでもないが、魚を食すのは初めて故」

 がつがつと魚肉を食べるゲヘナ。

「改めてだけど、このゲヘナちゃんが俺たちの命の恩人、つまりあの眷獣の宿主ってことでいいんですか?」

「なぜ我に聞かぬ?」

「そりゃ、なんか会話にならなそう」

「何と生意気な小僧じゃ。暗き深淵より来たりし我が炎、その目に焼き付けたであろうに。敬え」

「それ口癖か?」

 魚を頬張って、紅の頬がぷっくり膨れてリスみたいになっている幼女をどう敬えというのか。

「ちなみに我は吸血鬼ではなく眷獣である、敬え」

「敬えはいいんだけど……眷獣?」

「如何にも」

 むふーと自慢げに小さな胸を張る。

 よくよく見ればどこかで見覚えのある顔立ちである。まさかと思うが、いや、この場にいる以上は何かしら東雲に縁がある者であろう。

「東雲と関係があるのか?」

「というか、我は東雲の眷獣であるぞ。目覚めたのはつい何日か前であるが」

「どういうこと?」

 にわかには信じがたいことをゲヘナは言う。アカネに目配せすると、アカネはもう聞いていたのだろう、口を開いた。

「どうも、その方はシノ様の血に宿る眷獣、ゲヘナ様本人のようです」

「……聞いたことない眷獣だけど」

 東雲の眷獣は氷でできたサイの骸骨であるシバルバーと白装束の女性の骸骨であるヨミの二体が記録されている。凪も新しい眷獣が目覚めたという話は聞いていない。

「凪様、この前シノ様に血を吸われたでしょう?」

「……まあ、はい。聞いてました?」

「ええ、もちろん。報告を受けてます。まあ、本来であれば微に入り細を穿って聞き取りたいところなのですが、それは置いといて、その時にこの方がお目覚めになったということのようです」

「あの時に?」

 東雲が一世一代の土下座をして凪の血を吸ったときに、このゲヘナは目覚めたのである。吸血鬼の眷獣は初めからすべて揃っているわけではない。思春期に入ったころから徐々に目覚め出す。特に吸血によって力を増すと、それを呼び水にして新たな眷獣が目を覚ますことはよくある話だった。

 東雲ほど強大な才に恵まれた吸血鬼の眷獣が二体だけというはずもなく、待機状態だったゲヘナは凪の優れた霊媒の血で覚醒したのだった。

「んく、うむ、左様。我は汝の血を啜り目覚めた眷獣である。我に血を献上せし汝は、特に目をかけてやらんでもないぞ」

「眷獣がこうして出歩いてるのはどういうわけで?」

「この身は眷獣の器というヤツよ。ディアドラが禁を犯して作り上げた東雲の紛い物よ」

「作ったって、そりゃ」

 凪は絶句した。

 吸血鬼のクローニングは今の科学力では不可能とされる。唯一の成功例は空菜だが、その技術は失われている。

 ホムンクルスであっても不死の呪いまでは再現できない。

 魔術でも吸血鬼の完全再現はできないのである。

 ただし、歴史を紐解けばそれに近しい技術は存在していた。

 太古の時代に生み出された第四真祖は、まさに人工的に生み出された吸血鬼であり、その第四真祖を十二分割して封印した際に作られた眷獣の器もまた人工吸血鬼である。

 東雲はその人工吸血鬼であるアヴローラ・フロレスティーナの娘である。それを思えば、なるほど東雲の身体にどれほどの価値があるのか計り知れない。

「眷獣の器を再現するって言ったって生半可なもんじゃないだろう?」

「無論、この身は不出来に過ぎる。我を収めるには小さすぎる器よ。見よ、この手足の短さ。ここに来るまでにずいぶんと苦労したものよ」

「そういうことじゃなくてだな」

「うむ、分かっておる。我が身は吸血鬼には程遠い。我を納めはしたが、この身はそう長くは持つまいよ」

「やっぱり、か」

「そのような顔をするでない。我はゲヘナ。この身が失われたところで、東雲の血に帰るのじゃから、何の問題もあるまいよ。むしろ、清々するわ。今は、ちょいと窮屈に過ぎるのでな」

 ゲヘナは東雲の眷獣だという。東雲の血に宿る強大な眷獣は、少女の身体に押し込まれて封印されている。

「ディアドラが眷獣の器を用意した目的は、東雲の無力化か」

「察しがよいな、左様じゃ。ディアドラなる吸血鬼は、これと同じ物をいくつか用意しておった。それらに東雲を襲わせ、血を吸い、眷獣を奪い取ったのじゃ。まあ、かくいう我もその一体なんじゃがな」

 ゲヘナはもくもくと魚を食べながらも、自分の素性を語った。

 眷獣の器として生み出された肉体は当初は自我がなく、東雲の血を吸い眷獣を奪い取ったことで、奪い取った眷獣の意識が表面化したというのだ。

 眷獣は意思を持っている。だからこそ、無色透明だった器に自らの意識を表出させることができた。

「ということは、他の器の皆様はどうされたのでしょう」

「我が同胞はディアドラの手中に置かれておる。ディアドラめが生み出したのは器のみにあらず。人工的に眷獣まで作り出しておる。それも、みな精神干渉系の能力を持つ眷獣ばかりじゃ」

「……もしかして、みんな操られてる?」

「うむ。我は精神支配を逃れて、こうして自由を得たが我が同胞は総じて囚われの身である。嘆かわしき事よな」

「君だけ精神支配を免れた理由は?」

「我は一人にあらず。ゲヘナは一にして全、全にして一を成す焔であるがゆえに幻術如きで支配できぬものであるぞ」

「群体系の眷獣ってことね」

 独特な言葉回しにも慣れ、凪はゲヘナの特性の一端を理解した。

 意識を手放す直前に見た炎の剣士たちは、すべてがゲヘナだった。特殊な眷獣だが、複数の身体を持つ眷獣は時折報告される。武器の姿をした眷獣もいるように、眷獣の姿かたちや在り様は千差万別だ。群の中の一体を操ったとしても他の身体が支配されていなければ、精神支配は限定的なものとなる。

「幻術を逃れた君は、あの城から何とか脱出して、俺たちに合流してくれたと」

「如何にも。ディアドラめは東雲が手に入って有頂天であったからな。抜け出すこと自体は簡単じゃった。後は、汝らを探して森を彷徨っておったら、良からぬ魔力が感じられたので、すっ飛んで来たわけじゃ」

「俺たちのこと探してたんだ」

「汝ら以外にこの窮地をどうにかできる者もおらぬからな。エレディアがあれほどとは思わなんだが」

「エレディア?」

「汝の左手を貫いた魔人のことじゃ。ディアドラはそう呼んでおった」

「それがあいつの名前なのか」

 凪は未だに感覚のない左手を見た。

 氷のように冷たい刃に侵された左手は、一日二日で自由を取り戻すことはないだろう。

「昏月様、エレディアですか。あの幽鬼に最後の方は渡り合えていたように見えましたが、何か分かったのですか?」

「え、あ、ああ。あれは、イチかバチかだったんですけど、あれの正体に見当がついたので」

「正体?」

「はい。あれは、まず間違いなく死霊の類です。俺もあそこまで強いのは初めて見るんですけど、間違いないですね」

「死霊? あれは、なるほど、確かに……」

「ネクロマンシーが大本にあるのは確実です。数えきれないくらいの人の死霊を寄せ集めて形作った怪物ですよ、あれは」

 死霊を操る魔術は古今東西どこにでも存在する一般的な魔術と言える。死者に対するスタンスが各地の民族性や信仰によって違うので、内容までは一様ではないが、死者へのアプローチは原始的な魔術の一種であり、信仰の一つでもある。

「死者の魂の集合体? すみません、やはりわたしには理解が及ばない分野です」

「魔術的には残留思念とか言ったりしますけど、死んだ人に残された魔力だったりも利用しますか。術式によって違います。自然発生する場合もありますし。まあ、あれは、別格でしょう。ネクロマンシーの範疇を明らかに超えてますよ」

「あれがネクロマンシーによる死霊の塊として、それは分かりました。対処法は? 銃弾がまったく効かなかった以上、蹴っても殴ってもダメなのでしょう?」

 生き物でないのなら、生き物を殺す方法は通じないのが道理だ。鉛弾を何万発撃ち込もうが、依り代の死体を破壊できても、その本質にはまったく影響を与えられない。

 あれほど強力な死霊ならば、専用の装備と人員を揃えて計画をきちんと練って討伐に当たらなければならない相手とするのが普通だ。そもそも数百年も前から存在する死霊等、聞いたこともない。この密林の奥地でずっと身を潜めていたのだろうか。

「ちなみに聞くけど、ゲヘナ」

「ん?」

「君のあの眷獣は何度も使えるもの?」

「ああ、我のか。ま、使えんでもない。この身が機能停止するまでの間じゃがな」

「やっぱり、身体の寿命はあるか」

「使うべき時には使うぞ。現世はなんというか窮屈じゃしな。かといって、今の東雲の下には帰りとうないしな。ディアドラに上書きされては堪らぬ。あの変態に吸収されるのは、我でもお断りぞ」

「……東雲の今の状況、聞いてなかったな」

 聞き逃せない言葉があったので、凪は声のトーンを落としてゲヘナに尋ねた。

「東雲の近況か? 我が城を飛び出す前までじゃが、泣いておったな」

「そうか」

 拉致監禁されたのだから、そういう反応になるのは自然だろう。

「ディアドラはなぜシノ様を誘拐しようとしたんでしょうか? わたしにはそれが不可解です。あの方ほどの立場ある人が、シノ様を攫う理由が思い当たりません。ゲヘナ様はご存知ですか?」

「我が直接聞いたわけではないが、この身が記憶している程度でよいか?」

「はい」

 ゲヘナが器に宿る前から、この器は稼働していた。脳も記憶装置としては機能していたようで、ゲヘナが宿ってからはゲヘナはその記憶を参照することができたのだ。

「東雲を攫った理由は一言で言うと、愛じゃな」

「愛?」

「うむ。あのディアドラとかいう吸血鬼は、どうも東雲に異常な愛情を向けていたようじゃ。ほれ、この器。どうして、東雲に似た顔つきにしていると思う? 眷獣を納めるにはそれが都合が良いから? それもある、がそれは後付けの理由よ。もとはディアドラを満足させるための玩具とすべく生み出されたのが、この身を形作る技術の根幹と聞いたぞ」

「う……あ、え? ちょっと、意味が分からないのですが」

「我も分からん。じゃが、ディアドラは東雲を誰かの手に渡そうとは微塵も思っておらぬ。ただ手元に置いて愛でる。それだけのために、これだけのことを仕出かしたわけじゃ」

「すべてを捨てて、シノ様を強引にでも手に入れる、と? 暁の帝国との戦争すら誘発し兼ねないことを、そのために?」

「らしいぞ」

「信じられない。本当に意味が分からないのですが……?」

 愛のためにすべてを投げ捨てる。

 物語にはよくある題材だが、現実にここまでのことをする者はそうそう出てこない。

 一国の立場ある者が、他国から来た姫に思いを寄せる。そこまではいいだろう。性別の壁も物語としてなら盛り上がる。しかし、現実に実行するというのは理解しがたい行動だ。それもテロを引き起こし、暁の帝国との緊張状態を生み出し、混沌界域からテロの容疑者として追われることになるという巨大極まりないリスクを背負うことになるのにだ。

「東雲を攫った理由が東雲を好きだったからって、そんなストーカー染みた理屈で? あれだけの被害を出したのがそれって。それに、いつまでもここにいられるってわけじゃないだろうに……どの道、混沌界域側からも追手がかかるはずだろ?」

「長く生きた吸血鬼が何を考えているのか分かるものか。自暴自棄になっとるのかもしれんし」

「東雲が危害を加えられる可能性は?」

「今まさに加えられておるじゃろう。我もだからこそ出てきたんじゃし。ディアドラはああ見えて拷問趣味の恐ろしい女じゃ。どうせ死なんからと身体を痛めつけるのは当たり前、心を壊すことなぞ造作もない。そんな輩に囚われて、無事で済むと思うか? 我が主は、あれでまだ十六の小娘じゃぞ?」

「ッ……」

 重苦しい沈黙が洞窟に満ちた。

 自分たちの置かれている状況も危機的状況ではあるが、常にディアドラの下に置かれている東雲はもっと危険な状況である。

 話を聞く限り、ディアドラは殺人も辞さないサディストだ。そういう顔を表に出さないで何百年も生きて来た狡猾な吸血鬼である。

 これだけの騒ぎを起こした以上、ディアドラに再起は不可能だろうが、だからこそやけくそになっているとも言えた。すべてを覚悟して、人生最期の思い出作りをしようとしていると考えられる。人生に飽きた吸血鬼が時折見せる自暴自棄の行動は、娯楽という娯楽を貪り尽くした長命種だからこその厭世観によるもので、ディアドラもその類なのだろう。ただ、彼女の行動によって生じる悪影響は計り知れない。

 混沌界域としてもこの件は放置できない重大事件だ。暁の帝国との関係悪化は、両国の敵を利するだけだ。

 ディアドラが犯人で被害者が東雲だと分かれば、第三真祖も本腰を入れて捜索に当たる。こんな稚拙な誘拐事件が長続きするはずがない、と思いたい。

「東雲は今も苦しんでるのか?」

「今は落ち着いておるな。我は一応、主と繋がっておるから、多少は分かる。ただ、時折激しく心が揺れておるのを感じる。碌な扱いを受けておらんという証左じゃな」

「そうか」

 凪は至らなさに奥歯を噛み締めた。

 可能ならば今すぐにでも東雲の救出に向かいたい。このまま座していても何も始まらず、混沌界域からの救出がいつになるのかも分からない。時間をかければ、東雲の苦痛はさらに積み重なる。いつかは心が壊れてしまうかもしれない。

「……ぐ、う」

 急に胸が痛んで、凪は呻いた。

「どうしました?」

「分かりません。急に……くッ」

 身体の奥底がビリビリしている。

「左手ですか?」

「違います。もっと別の、ところからッ」

 少しすると痛みが和らいだ、冷や汗がどっと出てきた。身体の震えは、左手の呪いのせいだけではない。

「大丈夫ですか?」

「はい……何とか。悪い物じゃ、ないと思います」

「顔色をそんなに悪くして、悪い物じゃないっておかしいですよ」

「そうですか。いや、そうかもしれませんけど」

 突然に湧き上がってきたイメージと魔力に身体がついて行かなかっただけだ。今は落ち着いている。脳裏をかすめた感情は怒りと表現するべきなのだろう。ディアドラに対して表現しきれないほどに複雑で重層的な「怒り」を抱いている。

「怪我、もしかして、今ので?」

「これ系は慣れてますから。しばらくすれば止まりますよ」

 そう言いながら凪は右手の二の腕を抑えた。

 肌が避けて、血が滲み出ている。

 ここ最近なかった魔力による自傷現象だった。

「ディアドラの前にエレディアをどうにかせんとな。まだあれの襲撃はないが、ディアドラとあれを同時に相手できるか?」

「無理です」

 アカネは断言した。

 エレディアは間違いなく最悪の敵の一人だ。さらにアカネが主要な武器が何一つ決定打にならない。その時点でアカネが戦力外どころか足手まといになってしまう。ゲヘナの手を借りるにしても、ただの眷獣の器であるゲヘナの身体がどこまで持つか不透明だ。

 死霊であるエレディアに対しては、神官として対死霊戦闘ができる凪が矢面に立つしかない。

「うむ、方針を定めたら、まずは休憩じゃ。エレディアは日が出ているうちには動かぬと聞く。決戦は日没後じゃろう」

「死霊は陽光を嫌うってのは、どこの国も一緒だな」

 まだ日は高く、一般に闇の属性を持つ魔物は動かない。死霊の多くは陰の気を好み、夕暮れから日没後に活動する夜行性だ。

「凪君よ、一眠りする前に我に血を献上せよ」

「血は別にいいとして献上ってなんだよ」

「汝は我の臣であろう?」

「いつからだよ。どうして、そうなる」

「我の宿主は一国の姫で、汝はその臣であろう。ならば、汝は我の臣も同然じゃろ? さあ、血税を納めよ」

「上手いこと言ったつもりか」

 そうは言うものの、血の提供には否やはない。

 凪は献血には抵抗のない性格である。毎日のように血を提供しているので、必要性さえあれば吸血させるのは問題ないと考える。

「素直なのかそうでないのか分からんが、あれじゃ、汝のようなのをツンデレというのじゃろ。我は知っておるぞ」

「違うんじゃないか?」

「お誂え向きに血も出ておるし、もうここでよいぞ」

 尊大な口ぶりのまま凪の右手を手に取った。

 凪の右手の二の腕当たりが出血していた。肌が蜘蛛糸状に裂けているのは、先ほど湧き上がってきた怒りと魔力によるものだった。

 ゲヘナは凪の右腕に口をつけて血を舐め始めた。

 吸血鬼ではないにしても、吸血鬼の眷獣をその身に収めるからには吸血によって力を蓄える性質はあるのだろう。

「幼女に舐めさせるというのは、まあ、傍から見ると犯罪ですね」

「変な言い回ししないでもらえます?」

 アカネのあんまりな物言いに凪は憮然として言った。

「ふあ……もう我はもう寝るぞ」

 と、小さくあくびをしてゲヘナはこてんと胡坐をかく凪の足を枕にして寝息を立て始めた。寝つきのあまりのよさに驚いた。

「疲れていたんでしょう」

 と、アカネは言う。

「昨日もあまり寝られませんでしたからね」

「すいません、なんか俺ばっか寝てたみたいで」

「昏月様は仕方ないですよ。寝てたというより気絶ですからね。それにとやかく言ったら人品を損ないますよ」

 凪はエレディアとの戦いで力を使い果たした。気絶した凪をこの洞窟まで運び、三十時間あまり看病していたのはアカネとゲヘナである。敵の襲撃を受ける可能性もあり、心身が休まらなかっただろう。

「アカネさんは、大丈夫なんですか?」

「わたしは先ほど少し休ませてもらいましたから。ゲヘナ様には、相当の負担をかけてしまいました」

 アカネはただの人間だ。多少、トレーニングを積んでいるとはいえ、魔族に体力では敵わない。想像以上に体力を奪うこの熱帯雨林という環境では休めるときに休まなければすぐに倒れてしまう。

「ゲヘナ様は、このお身体でしょう。実はもうへとへとだったんですよ、きっと。わたしたちと違って、あの城から徒歩でここまで来たわけですしね」

「そうか、確かにそうですね」

 ゲヘナ自身は眷獣だが、その身体は人工的に造られた紛い物の吸血鬼もどき。見た目以上の身体能力があるとは言え、それでも体力が有り余っているようなものではないだろう。仲間が囚われ、東雲も苦しい状況に置かれている中で、ただ一人巡り合えるかも分からない凪たちを探して熱帯雨林を彷徨っていたのだと思うと、これまでの尊大な態度の裏に隠れた孤独があったのだろうと推測してしまう。

「アカネさん」

「アカネさんの転移も、ただの転移じゃないですよね?」

「さすがに分かりますか」

「そりゃ、もう何度も見ましたから」

 アカネは目の前でずいぶんと便利に転移を使っていた。物の行き来しかできないので、転送と言ってもいいかもしれない。高度な魔術ではある。身体を自由に移動させることに比べれば、各段に難易度が低いとはいえ、凪は使えない。

「この際種明かししますと、わたしの身体にそういう術式を刻み込んでます」

「直接?」

「はい。ただ、それだけでは足りないので、わたしのもともとの能力を上乗せして使っている形になります」

過適応能力者(ハイパーアダプター)ですね、アカネさんも」

 過適応能力者。

 先天的に特殊能力を有する者の総称だ。俗な言い方をすると超能力者とも呼ばれる。魔力詠唱も祝詞も必要とせず、魔術的な現象を引き起こすことができる生まれついての才能を持った者たちである。

「わたしの能力は強化。それも物質的な強化に留まらず、概念的な強化も可能とします。本来ならば、転移等発動すらできないわたしでも、転移を使えるのは、この能力で術式を補助しているからです」

「強化能力で術式の強度を上げてるということですか。かなり強引ですけど、概念レベルでの強化なら、無理矢理転移を成立させられるってことですか。危なっかしいと思いますけど」

「はい。慣れです、慣れ」

「ああ、まあ、そうですよね」

 使えないはずの力をリスクを承知で強引に使うのは凪にも当てはまる。

 身体に魔術を刻み込むというのは、相当の苦痛を伴うはずで、慣れと簡単に言うがそこに至るまでにどれだけの苦難があったことだろう。

 凪自身、眷獣の強引な使用を繰り返した結果が身体中の傷跡だ。

「アカネさん、どれだけ武器を用意できますか?」

「まだまだストックはありますから大丈夫です。ロケットランチャーみたいな大型の火器はないですけど、狙撃銃も突撃銃も、まあ、半分は趣味で集めてましたので。こんな形で日の目を見ることになるとは思ってませんでしたけど」

「刃物は、ありますか?」

「もちろん、サバイバル用に取り揃えてます。こんなのとか」

 本当に便利な転送魔術だ。

 アカネは物は試しと大型のサバイバルナイフと三本呼び寄せた。形状はどれも違うが、思い切り振れば、大型の獣の大腿骨を叩き切ることもできそうな分厚い刃だ。

「どうするんですか?」

「このままだと、どうあってもあの化け物と戦う羽目になるので、その準備をしときます。できる限りの準備をしておきたいところですから」

 ナイフを受け取った凪は、炭を使って刃に文字を書き込んだ。刃を魔術の触媒に使うためだ。強大無比な死霊の集合体との戦いは一筋縄ではいかない。できる範囲での準備を整えたとしても、果たしてどこまで食らい付けるか。実力差は明白。しかし、負けたら東雲を助けることはできなくなる。凪たちは、何としてでもエレディアを攻略しなければならないのだ。

 


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