二十年後の半端者   作:山中 一

67 / 92
第五部 二十話

 真っ暗な部屋に閉じ込められてからどれくらいの時間が経ったのか分からない。

 身動き一つとれないまま、ずいぶんと長い時間拘束されている。

 東雲がいる部屋は、城の地下に設けられた培養室の一つである。ディアドラがホムンクルスの制作研究を行うための場所であり、かつてはディアドラ配下の研究員が詰めていた。

 今は余計な人員は一人もいない。ある程度の成果が出た時点で用済みだったからだ。ディアドラは表向きには極普通の公務員であり、領主であった。人柄にも素行にも目立った問題はなく、有事の際には率先して戦場に出た実績を数多く作っている信頼される吸血鬼の一人であった。 

 しかし、その裏ではこうして研究施設で違法かつ非人道的な実験を行っていた。研究員たちも非合法で集められたものばかりだ。表には出ず、この城で一生を終えることを強要された者たちである。ゆえに、処分も迅速であった。そして、その死は一つ残らず有意義に再利用された。エレディアという魔物を構成する死霊の一つとして取り込まれ、永遠に凍え続けることにされたのである。

 そんな研究員たちの長年に渡る研究成果の一つが、ここに残されている。

 巨大な大木と見紛う植物である。

 草丈十メートル余りで、無数の細長い葉を持っていて、一枚一枚に数えきれないほどの繊毛が生えている。繊毛の先端からは粘液が分泌されていて、これで獲物を絡め取るのである。

 食虫植物の一種であるナガバモウセンゴケによく似た魔草である。混沌界域の中でディアドラが領有するこの熱帯雨林の奥地でしか確認されていない新種の魔草を、改良したものである。野生では野生動物や魔獣を捕らえて血肉を溶かして食らうが、このモウセンゴケは魔力を吸い取るように設計されている。さらに分泌液は獲物の脳に作用する毒液にもなっている。まず四肢の動きを麻痺させて抵抗できなくした後で、快楽中枢に刺激して「今が幸せである」と誤認させる。幸福感を自ら捨て去る生き物はいないので、大抵の獲物はこれで大人しくなり、魔力を吸い尽くされて息絶えるまで自分から魔草に囚われることを望むようになる。

 東雲もまた魔草に囚われの身になった。もともとディアドラからの度重なる責め苦で抵抗の意思を弱められていたので、東雲からの抵抗は少なかった。

 吸血鬼は魔力の塊だ。魔力を食う魔草にとって吸血鬼というのはご馳走であり、東雲が与えられた瞬間から喜んで彼女の身体を葉で包み込んだ。

「あ……う……」

 びくびく、と東雲の身体を震える。瞳は茫洋として何も映してはいない。繊毛の動きが肌を刺激して、小さく声が漏れてしまっただけで、今の東雲は何にも反応を示さない。ねっとりと巻き付く葉の繊毛が、魔力を吸収している。

 真っ暗な部屋で魔草に囚われていた東雲の下に光が差し込んだ。入口のドアが開いたのである。東雲の反応は光に対して反射的に瞳孔の大きさを変えるくらいだ。

「焔、光の瞳、見つけた、ぞ」

 入ってきたのは、ぼろきれのローブを身に着けたドウメキだった。

 首都でテロを引き起こした実行犯の一人である。

 零菜の眼球を奪い損ねた後で、地下排水路に逃亡したドウメキであったが、どうしたのかこの城に辿り着いていたのだ。

 ドウメキは東雲に歩み寄り、その粘液に塗れた顔を覗き込む。

 東雲の反応等、どうでもいい。ドウメキが求めてやまなかったのは彼女の瞳である。世界に第四真祖しか持ちえない焔光の瞳と呼ばれる輝く目。眼球コレクターであるドウメキにとって、これは喉から手が出るほどに欲しい代物だ。

 葉と繊毛、そして滲み出る粘液に浸された身体には見向きもしない。ドウメキは顔に絡みつく葉を剥がして、しっかりと顔を見えるようにした。

「ここに、ある、宝石のようだ……これが、焔光の瞳、本物、だ」

 第四真祖以外に持つ者のいないとされる焔光の瞳。その輝きにドウメキは虜になる。それは天上の星々よりも輝きに満ちていて、眺めているだけでうっとりとしてしまう。まさに人生最大の喜びに溢れていて、この瞳が手の届くところにあるというだけで絶頂してしまいそうだった。

 ドウメキは高鳴る鼓動に任せて右手に力を込める。手の平にある目蓋が開き、空っぽの眼窩が露になる。零菜の空色の瞳は手に入らなかったが、それに比しても焔光の瞳が手に入るのなら、何の痛手にもならない。

「やっと、手に入る……この瞳、を、この手に……ッ」

 灼熱の刃がどこからともなく現れて、ドウメキの腕を斬り飛ばしたのはその直後だった。

「ギ、ィァアアアアアッ」

 噴水のように血を流しながら、ドウメキは崩れ落ちた。宙を舞った右腕が情けなく床に落ちる。

「ひ、ぎ、貴様、よく、も」

「ふふ、まさか、城主に挨拶もなしに、お客様に手を出すなんて、日本出身の割には礼儀がなってないんじゃないかしら」

「ディア、ドラ……ッ」

 ディアドラが入口に立っていた。

 魔力を陽炎のように立ち上らせて、ゆったりと笑っている。

「焔光の瞳は、シノちゃんが手に入ったら生産してあげるって約束したと思いましたけど?」

「叶う、ものか。立場を捨てた貴様の、先等、あってないようなもの。それに、所詮作り物など、オリジナルには、及ばぬ」

「なるほど、同感ね」

 所詮は、一時の同盟に過ぎない。他者の眼球を奪うことにしか興味のないドウメキは、焔光の瞳を手に入れるまでの共闘ということでディアドラと接点を持っていただけだ。

「この城まで辿り着けたのは……聞くまでもないわね。あなたの身体のどこかに、転移(そういう)目があったってだけ」

 メラメラと黒い炎が溢れ出て、一匹の蛇になる。

 ドウメキもただ黙っているだけではない。全身の眼球を光らせて、ディアドラに対抗する。拘束の魔眼をぎらつかせディアドラの動きを束縛する。

 しかし、縛られたはずのディアドラは笑みを崩さない。鋭い牙を笑みの下から覗かせて、瞳を紅く染め上げる。

「エレディアが帰ってくるまで暇だったし、いいわ、ちょっとした運動……付き合ってあげます」

 黒炎が密度を増して、噴火のように魔力が炸裂する。ドウメキの束縛は一瞬で焼き切られ、巨漢はあえなく尻もちをついた。

「うぐ、く、あ」

「逃がしません。いずれはバレるにしても、まだまだシノちゃんで遊び足りませんからね。外に情報を漏らすのは、あり得ません」

 力での戦いはドウメキに勝ち目がない。そもそも勝負になるはずもなく、逃げに徹するしかないのだ。ドウメキは準備していた転移の魔眼を解放する、が遅きに失した。眷獣の猛烈な魔力に隠れてディアドラ本人の接近に気づかなかった。黒い蛇を待機させたまま、ディアドラがドウメキの胸の中央に埋め込まれて青い瞳に指を刺し込んだ。

「あ、ああああッ」

 転移の魔眼が潰されたドウメキは、逃げる術を失った。ディアドラに蹴り飛ばされて部屋の片隅にまで転がっていく。

「あ、が……ま、て……約束、を……は、ぐ……オリジナルには、手を、出さぬ、から、ま、待てッ」

 ドウメキの命乞いにディアドラは聞く耳を持たなかった。

 興味も関心もないとばかりに、黒い蛇に捕食を命じた。

 灼熱の蛇がドウメキの身体に大顎を開けて食らい付く。悲鳴すらも上げる間もなく、ドウメキは黒い炎に飲み込まれていった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 凪たちが野営地に選んだ洞窟は、小高い丘の上の中腹にある。奥行きは十メートルくらいだろう。幅が広く、奥に行くにつれて上向きになっているので雨水が中に入りにくい。野営するのならもってこいの洞窟である。

 少し風がある。数分前まで煌々と夜の熱帯雨林を照らしていた月はいつの間にか見えなくなって、立ち込める暗雲から雨が降ってくる。

 大粒の雨だった。

 前が見えないくらいの豪雨である。暁の帝国ならば、それこそ台風の直撃を受けた時くらいの猛烈な雨で、記録的短時間大雨情報が発令されるであろうことは明白。それくらいの大雨だった。この辺りの年間総雨量は二千ミリを当然のように超えている。このような猛烈な雨も決して珍しい現象ではない。絶え間なく続く雨音は、暴力的なまでの轟音で、まるで滝の傍にいるかのようだった。

 凪とアカネとゲヘナは、静かにその時を待った。

 凪たちの居場所は敵に知られている。

 理屈は分からないが、エレディアは凪たちをすぐに発見し攻撃してきた。凪たちを探す方法を持っているということだ。

 そして、今は凪の左手が呪われている。

 この呪詛を残した張本人が、この場所を特定できないはずもない。

 呪詛は今の凪をじっくりと侵している。浸食を食い止めているのは凪の魔力と霊力――――正負の生命力であり、より有効な手段として左腕全体にきつく巻き付けた包帯であった。

 この包帯はそれそのものは市販品でありアカネが転送した物資の一つでしかないが、そこにびっしりと凪がとある文言を書き込んだ。

 紗矢華直伝の仏頂尊勝陀羅尼である。

 百鬼夜行避けの霊験あらたかな陀羅尼である。歴史上の著名人もこのおかげで百鬼夜行の害を逃れ、命脈を繋いだという古伝もある。

 暁の帝国の魔術は、獅子王機関伝来のものが主体であり、それはつまり日本伝統の魔術体系を引き継いでいることを意味している。

 対死霊戦闘の経験は日本も千年以上を誇る。相手が魔族ではなく、魔獣でもなく、死霊というカテゴリーに属するのなら、それに相応しい戦い方をするまでだ。

 この半日、凪は黙々と陀羅尼を書き続けた。アカネとゲヘナの分の包帯も用意して、それを身体に巻かせている。

 簡易的な耳なし芳一のような状態だが、死霊からの精神的な圧迫を防ぐ効果が期待できる。

 火を消して、見つからないようにするというのは、意味がなかった。だからこそ、あえて火を焚いていた。体力をギリギリまで消耗しないように、温かくするためだ。

「ッ……!」

 左手がひりついた。

 呪詛を受けて白くなった左手は、呪詛をかけたエレディアと結びついている。この呪詛は徐々に凪の身体を侵食し、やがて心臓に達して死に至らしめるものだ。凍えて止まった心臓は、そのまま呪詛をまき散らす亡者の核として機能する。解呪せずに放置すれば、凪は遠からずエレディアの仲間に引きずり込まれるということだ。

 死霊は、本来単独ではそれほどの力を発揮しない。生きている人間の方が死霊よりもずっと強いからだ。もしも、死霊は所詮は死んだ者の残留思念か残留魔力でしかない。残り滓なのだ。それが人に災いするだけの力を持つはずがない。できて体調不良にするくらいだろう。しかし、それでも時には強力な思念を残す者がいる。可視化するほどの強力な魔力を帯びた死霊は、そういった強烈な個性の残滓だ。もっともエレディアのような例は極めて稀だろう。何百年も彷徨う悪霊。死者の想念の集合体というだけあって、別格中の別格だ。

 ただそこにいるだけで死を振りまき、命を凍えさせる。死後の世界があるとして、それが灼熱の世界なのか極寒の世界なのかは分からないが、エレディアの死の効果圏内はまさに死の世界と表現するに足るものだろう。

 左手の異常はエレディアの到来を知らせるものだ。

 ひと際冷たい風が洞窟に吹き込んできて、焚火を吹き消した。

「お出ましだ」

 深呼吸して気持ちを落ち着ける。死霊を相手に気持ちを揺るがせれば、瞬く間に付け込まれる。病は気から。この世ならぬ者を相手にするのであれば、まずは自己を明確に維持するのがセオリーだ。

 アカネと目配せして、凪は洞窟の外に出た。

 雨が止んで、音が消える。立ち込める冷気が薄っすらと霧を生み出して、木々が凍えていくのが感じられた。

 霜が付いた葉が次々と落ちてくる。雨粒は凍り、足元の泥も固く締まる。

「まるで、火の玉だな」

 闇の中に浮かび上がる青白い炎を見て凪は呟く。幼いころに読みふけった昔話に出てくる怪異を連想したのだ。

「Uuuuuuuuuuuuuu……」

 夜気を凍らせる呼吸に合わせて火の粉が舞う。

 青白く燃える死霊の騎士が、地面を凍らせながらゆっくりと歩いてくる。

「奔れ、小さな黄金(タイニー・アウルム)!」

 夜闇を切り裂く雷光が駆け抜ける。

 エレディアが剣を抜く。冷たい風が刃のように吹き荒れる。小さな黄金の高速移動。それをエレディアは流麗な体捌きで受け流す。

 小さな黄金が少し大きくなったような気がする――――。

 見た目も派手に、その姿は豹というよりも雄々しい獅子に似て、鬣を振り乱して吠え立てている。

 力強い雷撃の獅子は凪の魔力を食らいながらエレディアを格闘する。あの獅子をして、エレディアの剣は危険だ。

 死霊の剣は呪いの魔力を秘めている。ただの剣ならばまだしも、エレディアの剣ともなると眷獣を両断するだけの魔力がある。

「く……なんだこれ、重い」

 小さな黄金の姿が変わっただけではない。どうも消費魔力そのものも増大している。いつもの感覚で呼んでみたら、全く違った。

 小さな黄金から伝わってくる感情は怒りである。凪の胸に湧き上がる感情とリンクして、激情の炎に身を任せているのか。

「あいつ、暴走してるのか……ッ」

 どうも小さな黄金はエレディアしか見えていないようだ。

 とにかく目の前の敵を討ち果たしてやるという意気込みは伝わってくるが、繰り出すのはあまりにも乱雑な攻撃だ。爪も牙もエレディアを捕え切れていない。無残に打ち砕かれるのは、岩であり地面であり木々であり、つまりは自然物だけがひたすらに破壊されている。

「そんな無茶苦茶なやりかたで……俺のプランとか台無しだろ」

 小さな黄金は凪の制御を振り切ってエレディアに飛び掛かっている。紫電が四方八方に飛び散って、木々に火を放つ。このままでは大火災になってしまうが、皮肉にもそれを押し留めたのはエレディアが放つ冥府の冷気だった。

「Syuaaaaaaaaaaaaaaaaa……」

 エレディアの首狙いの剣を小さな黄金は頭を逸らして躱した。閃電のような剣も、電光そのものの小さな黄金を捉えることはできない。その直後、ひらりと舞うように剣が振り下ろされた。最初の一撃はあくまでもフェイク。囮に過ぎない。本命はこの一太刀であり、獅子の首は椿の花が落ちるようにはかなく地に落ちて、直前まで振るった猛威が嘘のように消滅していった。

「くそ、何だったんだ、く、ぐ……」

 左手は死ぬほど冷たいのに、心臓が異様に熱い。全身をかける血潮が加速して、魔力をどんどん精製している。

 戦え、倒せ、眷獣たちが訴えている。

 凪の頬から血が滴った。身体のそこかしこであざができてくる。毛細血管が魔力で破れた証拠だ。このままだと戦わずして戦闘不能だ。

「昏月様、何が?」

「汝、ちょいと様子がおかしいぞ?」

 凪の変化にアカネもゲヘナも気づいた。小さな黄金が通常と違う姿なのも、凪から魔力が漏れ出ているのも異常でしかない。

「大丈夫」

 と、凪は言った。

 今となってはそう言うほかないのだ。

「はあ、く……ふう……」

 大きな深呼吸。

(大丈夫)

 凪は思う。

 眷獣たちに語り掛けるように。

 彼らの想いは理解した。

 エレディアの呪詛のおかげかもしれない。少しだけ凪は現世から外れたところに身を置いている。そのせいか眷獣といつも以上に結び付いている――――のかもしれない。

 少しずつ興奮状態の眷獣を落ち着かせる。小さな黄金があえなく倒れたのも、眷獣たちに冷静さを取り戻させる一因だっただろう。小さな黄金はしばらく休憩だ。血潮の向こうで反省していればいい。次に出てこれるようになったころには、エレディアは倒れているのだから。

 エレディアが剣の切っ先を地面に引きずりながら、歩み寄ってくる。眷獣を一体屠った直後ではあるが、目立った疲労も怪我もない。

不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)

 静かに凪は呼びかけた。

 右手に漆黒の魔力が集い、一振りの剣が出現する。ずっしりと重い長剣も少しばかり見た目が変わっていた。柄が独鈷杵になった独鈷剣だ。その意匠はどこか古城の眷獣を連想させる。

 剣を持った凪にまるで騎士の礼でもするようにエレディアが剣先を天に向けた。そして、冷気を纏いながら歩み寄ってくる。

「昏月様ッ」

「来るぞッ」

 心胆寒からしめる魔の彷徨。耳をつんざく悲鳴のような叫びとともに、幽鬼が凪に斬りかかる。

 エレディアは剣の達人だ。道を外れた外道の剣術ではあるが、殺人技巧として比類なく、本来ならば凪程度が技量で対抗するような相手ではない。眷獣を向かわせて、遠距離から戦うべきではあるが、一撃で首を落とさんとするエレディアの刃を凪の黒剣が見事に弾いて見せる。

「このまま、任せるぞ」

 黒剣は右手に吸い付いたようであって、片手でこれを軽々と振るう。足取りは軽やかにそして振り下ろす剣は超重量級。一撃一撃が強烈な魔力を火花と散らす。

 凪にとって黒剣は自分の分身にも等しく重さを感じるものではない。重量を自由に変化させることもできるので片手で振り回しても十分な威力を発揮できる。剣と剣が触れあった瞬間に超重量にすることで、単純に運動エネルギーを増大させ、エレディアの剣を弾き返すのだ。剣を振るう速度に変わりはなくとも、重量が増せば威力も増す。単純ながら近接戦においてこれは大きなアドバンテージとなる。

 左手が動かないのでバランスがとりにくい。しかし、それを差し引いても凪はうまく立ち回っている。達人級の殺人剣を相手にして何とか拮抗状態を作り出している。それは偏に不出来な黒剣に対応を任せているからだった。

 身体が勝手に動くような感覚すら覚える。意思疎通を密にして、黒剣のしたいように身体を動かすことで凪はエレディアの剣を躱し、いなし、そして隙を見つけて斬りかかることができている。

 対するエレディアの動きもすさまじいの一言だ。僅かな気持ちの緩みが死に直結する。剣の呪詛を受ければ忽ちに身動きが取れなくなるだろう。

 泥に塗れ、凍えながら凪は剣を受ける。

「ッ……く」

 まるで、荷物を放り投げるように凪を黒剣ごと押し返したエレディアは、大きく息を吐き出すように火の粉を吐く。

 すると、その背後から半透明な幽鬼がエレディアに付き従うように姿を現した。

「仲間がいるのかよ」

 呼び出された幽鬼の魔物はみな同じ鎧を着ていた。青白い火の粉を鎧の関節部から散らす死霊の騎士は、各々が剣を抜いてエレディアと並び立った。

「冷たき迷い人に煉獄の火をくれてやろうぞ」

 赤黒い炎の剣士が炎熱を纏って現れる。東雲の眷獣、ゲヘナである。凍えた大気を燃え盛る魔風が払う。

「行くぞ、我らが獄炎にて、死霊どもを焼き払ってくれる」

 死霊の剣士と獄炎の剣士が各々の剣を執って斬り合う。

 氷と炎が入り乱れ、戦場となった熱帯雨林のそこかしこで血ではなく燃える魔力が流れ出る。死霊の剣士であれば青白い炎を、ゲヘナであれば赤黒い炎を傷口から滴らせ、壮絶な「戦」を展開する。

 死霊の剣士は総勢七名、対するゲヘナは五名である。数でゲヘナは劣っていて、吸血鬼の眷獣ではあるが歴史も浅い。意気揚々に宣戦布告したゲヘナではあるが、死霊の剣士を圧倒するほどではない。

「Aaaaaaaaaaaaaaaa……」

 死霊の剣士の背中に矢が突き刺さった。

 射手はアカネである。

 大型のクロスボウでゲヘナを援護しているのだ。

「ちょっとは効いてるみたいですね」

 アカネはほっとした。

 彼女の持つ通常兵器では死霊に対して決定打を与えることはできない。それを補うために用意したのがこのクロスボウだ。

 矢の根本に凪が用意した仏頂尊勝陀羅尼を書き込んだ包帯の切れ端を巻き付けている。銃弾を魔弾に加工することはできないが、矢であればこうして簡単に対霊用の武器を用意できる。

「おお、おお、いいではないか、アカネ。その調子じゃ」

「はい、ゲヘナ様」

 続けて放った矢は幽鬼の剣士の肘に当たり、怯んだところをゲヘナの炎剣が背後からこれを貫く。青い炎血を流して幽鬼の剣士が悲鳴を上げる。アカネの破魔矢の効能か、ゲヘナによる攻撃でも幽鬼の剣士に損傷を与えているようだった。

「凪君、こっちの戦は任せい」

 ゲヘナとアカネの援護で、邪魔な取り巻きは抑え込めた。後は凪がエレディアをどうにかするだけだ。

「黒雷ッ」

 霊力を爆発させて、凪は身体能力を劇的に引き上げる。

 重力操作を応用した超加速は、残像すら置き去りにする。体当たりをするように、凪はエレディアを斬り付ける。斬撃の威力は大木を斬り割き、大岩を両断する。その斬撃をエレディアは凪の動きに合わせて後方に跳ぶことで軽減した。さすがに戦い慣れている。

 エレディアは後方に跳躍した後で、大木の幹を蹴って凪を飛び越えて立ち位置を入れ替えた。

 今度はエレディアから凪を攻め立てる番だ。横薙ぎの斬撃は無造作ではあっても刃が纏う冷気が格段に強まっていて、それだけで脅威となる。受け止めた凪は跳ね飛ばされて、バランスを取ろうとしたところを追撃される。無理に抵抗すると致命的な隙となる。凪はそのまま地面を転がり、エレディアの剣先を躱した。

「Usyuaaaaaaaaaaa……」

 吹き荒れる冷気が木々を枯らす。

 三十メートルから五十メートル級の木々が立ち並ぶ熱帯雨林は、下草が生えにくく見通しがいいところが多い。特に今凪がいるところは大きな木々によって日光が遮られるために、ずいぶんと遠くまで視界が広がる。それだけ広い空間なら走り回るのも容易だった。

 樹齢何十年、何百年という大木が立ちどころに呪いの冷気に侵されていく。エレディアがそこにいるだけで、凄まじい環境破壊が起こっているのだ。土中の微生物ですら、殺されているだろう。向こう十年はこの近辺は枯れ果てた死の森になるかもしれない。

 凪は森の中を駆ける。エレディアが滑るようにして地面を蹴り、凪を追う。

 漆黒の森の中でエレディアの姿だけが青白く浮かび上がっている。不気味な光景だ。

落ちた深緋(フェール・ミニウム)!」

 現れるのは緋色の一角獣。

 長い角の先から衝撃波をエレディアに放つ。木々に大穴を穿ちながら突き進んだ衝撃波は、エレディアに直撃してこれを跳ね飛ばした。

 続けて二発、三発とエレディアを狙う。

 不可視の衝撃波をエレディアはすれすれで回避する。魔力の流れを読み、砕ける木々で進路を推定する。

 衝撃波が地面や木々を抉る度に地響きが生じる。

 エレディアは冷気を放つことで落ちた深緋に対抗した。凍える魔風と冷気の刃で一角獣を牽制しつつ、本体である凪を狙うつもりでいた。

 吸血鬼の眷獣は強力だ。しかし、その宿主は魔族の中では脆弱な部類である。眷獣と直接戦うよりも、吸血鬼本人を叩いた方がいい。それは相手が凪であっても同じである。

 凪からすれば眷獣を出そうが出すまいが狙われていることには変わりない。僅かでもエレディアの意識が眷獣に向けばそれでよかった。

 その隙に夜闇に紛れて、凪は仏頂尊勝陀羅尼を唱えた。百鬼夜行避けの陀羅尼である。エレディアは、無数の死霊の集合体、すなわち個で百鬼夜行を成している。

 紗矢華ほどの術者であれば、確実な効果を見込める陀羅尼も凪では一瞬のはずである。その一瞬に賭けて、一気にエレディアに突貫する。

 エレディアは、凪を見失った。

 百鬼夜行避けの陀羅尼が、凪の姿を極短時間ながら隠したのである。

「お、あああああああああああッ」

 ガツン、と金属が拉げる音がして、黒剣が深々とエレディアの腹部に突き刺さる。衝撃で二人とも地面に転がり、視界が回り、脳が揺さぶられる。黒剣から手を放した凪は、大きく吹っ飛ばされる。

(まだだッ)

 エレディアに肉体の破損は無意味。これはあくまでも布石の一つに過ぎない。体勢を立て直そうとするエレディアを超重力空間が拘束する。

 凪は腰に差していたサバイバルナイフを抜いた。

 身動きを封じられたエレディアの首元に、ナイフを突き刺す。

S(ソウェル)ッ」

 サバイバルナイフの刃が真っ白に輝く。

「Husyuaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaッ」

 エレディアが明確に苦悶と取れる叫び声を上げた。身を捩るように震えている。ナイフを抜こうとするが、その柄に触れると閃電が走って弾かれる。

 エレディアの足が凪の腹部を蹴り飛ばす。避けられなかった。凪も身体にガタが来ているのだ。

「げ、あ……ッ」

 地面を再び転がる凪。腹部の鈍痛は酷いもので、息ができないし吐きそうになる。しかし、それでも、エレディアの力がかなり衰えているのは確実だった。

「はあ、はあ……どうだよ、魔術もグローバル化してんだ。日本とアルディギアの伝統魔術、こんな森の中に何百年と籠ってたんじゃ、見たこともないだろ」

 口元の血を拭って凪は獰猛に笑う。

 エレディアが具体的にどれくらい前からこの森にいるのかは分からない。もしかしたら、外の世界に目を向けていたのかもしれない。しかし、そうは言っても日本とアルディギアに伝わる古い魔術まで見知っているとは思えない。

 太陽を示すルーン魔術。エレディアが太陽を嫌う死霊であるからこそ、打撃を与えられると踏んで、アカネが用意したナイフに刻んだものだ。一日かけて太陽光を蓄えさせた。エレディアにとっては大嫌いな陽光を体内に流し込まれた形になる。

「Ooooooooooooooooooooooooooッ」

 エレディアが剣を構える。太陽の魔術の操るのは凪である。凪を斬ることで、すべては解決する。エレディアはまだ動く。太陽のルーン一つで動けなくなるほど脆弱ではない。その程度で倒れるのなら、もっと昔に機能停止していたはずだ。

 霊感に従って凪はエレディアから距離を取る。エレディアは自分に突き刺さる黒剣を身体の損傷を気にせずへし折った。眷獣が倒されたことによるフィードバックで凪の魔力が削り取られる。

 凪はもう一本のナイフを手に取った。アカネが用意したサバイバルナイフは一本だけではない。こちらにも太陽のルーンを刻んでいる。その刃を凪は自分の左手の甲に刺した。エレディアに貫かれた手の甲は、真っ先に呪詛に侵された。ナイフで刺しても痛みはない。動かないので手としてはもう役に立たない。ならばせめて魔術の触媒くらいにはなってもらう。

 太陽のルーンが瞬いて、真っ白な左手を照らす。心なしか暖かさを感じる。そして、

「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaッ」

 エレディアが悶絶して、ついに膝をついた。

「類感魔術と感染魔術、だ。呪詛は返せないけど、ナイフを目印に呪詛を辿らせてもらったぞ」

 エレディアの首に刺さったナイフと凪の手に刺さったナイフ。この二本は共鳴している。送信機と受信機の役割を果たすナイフが、エレディアの内部に新たな太陽を注ぎ込んだのだ。

「ぐ、く……はあ、ぁ」

 凪は胸に走る痛みに顔を歪ませる。

 凪とエレディアはナイフを通じて密接に繋がっている。凪のほうがエレディアに引き込まれる危険性もあるのだ。

 声が聞こえる。

 痛みと苦しみと寒さを訴える声だ。

 生きている者が憎い。自分を傷つける者が憎い。恨みつらみが凝り固まって、多くの憎しみの魔力となった。

 その根本は、きっと、いや間違いなくディアドラへの憎しみのはずだ。

「俺は、これから助けに行かなきゃいけない奴がいるから、お前と一緒に行くことはできない」

 鈍い痛み。

 身体と心に突き刺さって、涙が出そうだ。

 はっきりと、エレディアの「誘い」を拒否する。僅かでも揺らげば、向こう側に引きずり込まれてしまうからだ。死者に悼むことはあっても、引きずられてはならない。対霊戦闘の基本中の基本を、改めてなぞる。言葉にすることで、しっかりと自分の足元を固めるのだ。

 凪は走り出した。

 エレディアまでの距離は目測で十メートル。黒雷を駆使して強化した肉体ならば、一歩で詰められる距離だ。

 エレディアが剣を振り上げた。弱っていても年月を重ねた死霊である。肉体の損傷そのものは気に留めるほどでなく、太陽に焼かれながらも凪の首を刎ねるためにのみ剣を振り上げた。

 一瞬先の未来を読み取って、凪は剣を潜り抜ける。左手に刺さったままのナイフを抜いて、不出来な黒剣が貫いた場所に突き立てる。鎧が抉れたここならば、片手の筋力だけでもナイフは刺さる。太陽のルーンで輝く刃がエレディアの体内に直接埋め込まれたのだ。

「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaッ」

 がたがたと震えて仰け反ったエレディアに凪は躍りかかる。太陽のルーンだけで、この死霊を浄化するのは不可能だ。まだまだ火力が足りない。それこそ旧き世代の吸血鬼が操る眷獣クラスの火力ならば、纏めて焼き払うこともできるが、凪が今利用できる範囲には存在しない。

 エレディアの兜を凪は掴んだ。強引に身体を引き寄せる。エレディアも無抵抗ではない。拳と膝蹴りで凪を強かに打ち上げる。骨が砕けた音がした。脳内麻薬の過剰分泌で痛みがない。ここで退けば死ぬ。痛みで身を守る段階はとうに過ぎた。

「あああああああああああああああッ!」

 凪は倒れない。吹っ飛びそうになる身体を背中から生やした翼が強引に前身させた。黒い蝙蝠にも似た片翼はクリスマスに初めて発現した第四真祖の力の残滓。これを推進力にして、エレディアを押し倒した。

「お前と一緒には行けない。だから、お前が俺と一緒に来い」

 エレディアの鎧で守られていない冷たい首元に、凪は噛みついた。背中の翼が白く青く輝いて、冷たく燃える炎が辺り一帯を眩く照らした。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。