二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 二十一話

 東雲と連絡がつかなくなって、三日が過ぎた。いよいよ、暁の帝国側もしびれを切らして当局に度重なる問い合わせを始めていた。

 市内に現れた大量のセグロオオヒゲクモや避難した市民対応で多忙を極めているのは分かってはいるが、一国の皇女が行方不明になって三日も音信不通であるというのは異常事態であり、それも東雲については混沌界域側が「監視者」がいたはずである。

 それは国内に滞在する強力な外国の魔族が良からぬことをたくらまないように監視する業務に従事する者であり、最近ではそこから護衛の意味合いも生まれているのだが、それを東雲にも混沌界域はつけていた。それがディアドラを始めとする警備部の職員である。責任者はディアドラであり、そのディアドラとも連絡が途絶しているのであった。

 ディアドラ不在のまま警備部はなんとか体制を立て直してはいるが、セグロオオヒゲクモが市街地に大量に流入した後始末もあり、東雲とディアドラの捜索に割ける人員は限られている。

 軍警察も魔獣退治を優先せざるを得ない。戦闘力のある職員は、総じて討伐任務に駆り出され、特に地下排水路は市内の地下に蜘蛛の目状に張り巡らされた迷路も同然の規模であり、これに巣食った魔獣を退治するためには、相当数の人員で当たる必要があった。そのため、どこに魔獣が潜んでいるか分からない上に、被害がどこまで広がっているのかも分からず、体制そのものも機能不全を起こしていた混沌界域は、早急な捜索ができなかったのである。

 そんな混沌界域も、第三真祖が率先して動きだしてからは体制の立て直しも早く、東雲とディアドラの捜索の優先順位が最上位に上げられたことで事態が大きく動き出した。

「ディアドラっていう人が東雲ちゃんと一緒にいるかもしれないって?」

「そのようです」

「凪君も?」

「はい。マンションの監視カメラの映像に映っていたのが最後の記録ですが、その時点では一緒にいらしたようです」

 零菜は須藤から報告を受けて、胸を撫で下ろした。

 これまで、東雲と凪の所在は全くの不明だった。どこにいるかもわからず、連絡もつかない。これだけの事件が起きた後で三日も音信不通ならば、何かあったのではないかと思ってしまう。それこそ、最悪の事態も予測できる。

「それじゃ、そのディアドラって人は?」

「警備部の部長を務める旧き世代の吸血鬼です。歴戦の猛者で、長年警備部に籍を置く優秀な方と聞いています。ディアドラさんと一緒にいるのなら、大丈夫だろうというのが、わたしに連絡をくれた方の意見でした。もっとも、そのディアドラさんとも連絡がつかないのですが」

「それじゃ、ダメじゃん。ディアドラさんのマンションに逃げ込んだんですよね? その後は?」

「その後は混沌界域側も掴んでいないということです。あまりにも不自然ですが、ディアドラさんのお宅を確認しても、誰もいなかったようです」

「不自然過ぎる、それ、おかしくない?」

「そうですね。しかし、現時点ではこれ以上の情報はいただけていません。もしかしたら、あちらは別に情報を掴んでいるかもしれませんし、確認は続けます」

 ここは混沌界域だ。暁の帝国ではない。独自に動こうとも外交問題に発展する可能性もあって、行動には制限がかかる。相手が捜査をしているというのなら、連携もせずに行動すれば却って混沌界域側の動きを妨げることにもなりかねない。

 今分かっていることは、テロ発生当日、東雲と凪、そしてアカネはディアドラに救出されて彼女の自宅マンションに避難したということだけだ。その後の足取りは依然として不明であり、ディアドラの行方も杳として知れない。

 少なくとも、混沌界域側はディアドラの人となりを承知している。高い戦闘能力からディアドラが蜘蛛の魔獣如きに倒される可能性は低い。東雲が眷獣を召喚したという気配もない。ディアドラも含めて四人が行方不明というのは異常事態ではあるが、ディアドラの力を知る混沌界域側は、ディアドラたち四名が何かしらの事件に巻き込まれたとしつつ、ディアドラを容疑者には数えていないのだった。

 目下の容疑者は百目鬼と思われる魔人である。犯行声明は今もなく、その目的は不明なままで、捜索を続けている。

 

 

 

 ■

 

 

 

 やはり、ディアドラはついていた。

 三日が経っても混沌界域はディアドラがこの事件の主犯格であるとは想像もしていなかった。ディアドラと連絡がつかないのは、連絡できない事情があるからだ、ということまでは考えても、それがまさか東雲を拉致して姿を隠しているとまでは頭が回らなかった。

 ディアドラは自分の趣味のことは内々に処理して外部には一切知らせていないし、表向きの彼女は人となりも能力も非常に好評で部下の信頼も厚い。よって、まさかディアドラがこれほどの被害を出してまで東雲を拉致し暴行を加えているとは、思わなかったし、だからこそ捜査は鈍重を極めていた。

 ディアドラはこの事件で自分が社会的に終わると覚悟していたし、その果てに命を失っても構わないというほどに思いつめてはいたが、だからといって何の対策もしていないわけではなかった。

 転移の魔法陣は使い捨てで、転移先が特定できないようにしていたし、そもそも転移した事実を残してもいない。ディアドラの部屋を捜査しても、そこに転移魔術がかけられていたとは誰も気づかないだろう。

 ディアドラを追いかけようにも、逃げた先を特定するのにさらに時間がかかる。

 ディアドラが拠点に定めた屋敷があるのは、彼女の領地の中でも僻地の僻地である。人跡未踏の熱帯雨林は、林業等で活用はされていても生活拠点にはされていない。まして、どんな魔獣が潜んでいるかも分からない熱帯雨林の奥深くには立ち入る者もなく、道もないのだ。命知らずの冒険者が道なき道を進むか、あるいは航空機で空から攻めるか。ディアドラの屋敷に来るにはこれくらいしか方法はなく、当然ながら居場所の特定は困難というほかない。

 つまり、まだまだディアドラには余裕がある。混沌界域がこの場を特定し、特殊部隊を投入してくるまでは時間がある。それまでに、思う存分東雲という最後の玩具を味わい尽くす。

「ふふふ、シノちゃん……可愛いわ。すごく可愛い」

 うっとりとした表情でディアドラは囁く。

 東雲は黒いゴシックロリータのドレスを着せられていた。

 痛みに痛みを重ねるような激しい呪詛の応酬、気が狂いそうになる快感で身体が燃えてしまいそうになった植物による粘液責めを経て、拍子抜けなくらい何もない着せ替え人形の扱いを受けている。

「それが一番かしら。いや、まだいいのがたくさんあるわ。今度、どれにしようかしらね」

 東雲の意見を聞く素振りは見せない。

 自分が見繕った服をせて楽しむ。ただそれだけの行為に二時間も付き合わされている。その間、痛みも快感もなかった。東雲に着せる服は見た目が突飛であったり、非常に性的であったりと表を歩けないようなデザインばかりであったが、それを除けば普通の布やナイロン製であって、何かしらの呪詛が込められているようなものではなかった。

 ディアドラが勧める服を東雲は大人しく着た。

 逆らえば、それを理由にディアドラは喜んで東雲を辱めるだろう。それが苦痛か快感かは分からないが、どちらにしても東雲を責め苛むのだ。ディアドラは東雲を愛でることをよしとする。その一方で、東雲を大事にするという発想はない。刹那的な快感を求める彼女は、東雲を壊してしまうことも厭わないだろう。そういったディアドラの狂気を三日間で味わった東雲は、すでにディアドラに逆らう気力を失っている。

 痛くされないのなら、他に何もされないのなら着せ替え人形に甘んじるくらいは喜んでするし、身体を弄られるくらいならば何とも思わなくなった。

 一人になると感覚が徐々に麻痺してディアドラの行為を受け入れつつある自分に恐怖している。

 心も身体も限界に近く、すでに屈している。それどころか、この苦しみが長く続くのであれば、いっそのこと一思いに壊してほしいとすら思っている。

 ディアドラは、東雲を壊さない。どれだけ痛めつけられても身体は再生してしまうし、心は壊れる寸前まで追い込まれても最後の一線だけは超えていない。

 東雲は、ディアドラの欲望を満たす道具に過ぎない。

 そして、ディアドラは東雲が自分から堕落することを望んでいるのだろう。

「う……ぅ」

 唇を引き結ぶ。

 夜通し魔草に絡め取られた身体に余韻が残っている。こうして、ディアドラの着せ替え人形にされている今も、魔草の粘液に浸された身体の熱に苛まれる。

 強制的に幸福感を与えるという粘液を浴び続けた東雲は、魔草から引き離された今、強い不安を抱えていた。

 薬効によるものと分かっていても、身体と脳が偽物の幸福を覚えている。気をしっかり持たないと、自分から魔草の下に向かってしまいそうだった。

 ディアドラもそれを分かっているから、完全に堕ちる前に引き離したのだろう。

 ディアドラは東雲を堕落させるためにあれこれと手を尽くしているが、すぐに堕落させるつもりもない。じわじわと甚振りながら、肉体的にも精神的にもディアドラに依存させるつもりだ。そうなる過程を楽しんでいる。だから、一思いに楽にさせてくれないのだ。

 心が折れるとか、堕落するとかそれがどういうことなのか東雲には想像もつかない。そうなる未来が近いということだけが実感としてある。

 ディアドラに唯一付き従っている吸血鬼がいる。

 何となく、彼女も東雲と似たような境遇だったのだろうと想像できる。

 自分もああなってしまうのだろうか。

 何も考えず、ディアドラの要求を喜んで受け入れるだけの存在になってしまうのか。

 それは怖い。怖いのだが、今となってはそれでもいいという考えが頭の片隅に浮かんでしまう。この苦しみが長く続くのなら、そうして楽になる道を選ぶのも悪くはない。

「じゃあ、今度はこの服にしましょうかぁ」

 うきうきしたディアドラが手に取ったのは、いわゆるチャイナドレスであった。

 東雲を自由にできるのが相当嬉しいらしい。

 こうしている分には、妹の面倒を見る気のいいお姉さんというようにも見える。

 ディアドラもどこかで精神が捩じれてしまったのだろう。

 この屋敷には狂った吸血鬼しかいない。そして、数日後には東雲もその仲間に入っているのだろう。

 

 

 

 ■

 

 

 

 朝日が、こんなにも心地よいものだったとは知らなかった。

 戦いですり減った心身が癒されていくようだった。 

 死霊の騎士たちを迎え撃った洞窟の前でアカネは生きていることのすばらしさを実感していた。

 凪が死霊の主を倒したおかげで、アカネとゲヘナが対峙していた死霊たちは消滅した。

 エレディアが滅び、追手から逃れた凪たちはやっとのことで落ち着いて身体を休めることができたのだ。

 アカネは三人の中では比較的元気なほうだ。

 精神的にすり減ってはいるが、基本的にクロスボウの引き金を引いていただけである。それに比べてゲヘナは眷獣を酷使して魔力を使い果たし、凪に至ってはいつ倒れてもおかしくないくらいに疲弊していた。

 単なる魔力切れではなく、もっと心身の深いところで取り返しのつかない怪我をしているのではないか。冷たく凍えた左手は、二の腕まで色が抜けていた。

 エレディアを倒したのに、呪詛が抜けていない。それどころか進行しているようにも見える。アカネは慌てたが、凪はこれでいいと言った。魔術に疎いアカネでは理解できない何かがあるのかもしれない。

「おはようございます」

 と、呑気な声が洞窟の奥から聞こえる。

「おはようございます。お身体の具合はどうですか?」

「はい、問題なく」

 起きてきた凪の顔色は悪くない。呪詛で色白になった左手だけは不安ではあるが。

「腕の調子はどうですか?」

「見た目はこんなですけど、大丈夫です。動きますよ」

 凪は左手を握って開く。まったく動かすこともできなかった昨日からすれば、驚くほど状態が改善している。

「その見た目で問題ないのは、本当に大丈夫ですか?」

「今だけですから。これが終わったら、多分元に戻りますし、気にしないでください」

「気にしないのは無理ですよ。でも、まあ、何を言ったところで詮ないことですね」

 今となっては、何を言ったところで無駄だ。

 凪の腕を治療できる者はいないし、凪の状態を正しく判断できる者もいない。唯一、魔術への理解がある凪が大丈夫だとこれだけ言っているのだから、アカネがとやかく言うものでもない。

「それで、シノ様を助けに行くという方針に変わりはない、ということでいいですね?」

「はい、もちろんです」

 これは、三人で話し合って決めたことだ。

 エレディアという直接の脅威を取り除いたことで、当面の身の安全は確保できた。しかし、結局はディアドラをどうにかしない限りは凪にもアカネにも安息は訪れない。東雲が囚われている限り、ゲヘナも眷獣の器の中に納まっているしかない。

 本来ならば軍警察に一任すべき案件だ。

 しかし、凪たちには軍警察がどの程度この問題に動いているのかまったく情報がなかったし、セグロオオヒゲクモの大量出現での混乱を沈めて東雲の居場所を探すというだけでも、相当の時間がかかることは分かる。ましてや、ディアドラが保有する領地の奥地に位置する熱帯雨林にいる等と予想できるはずもない。

 救援がいつになるか分からないし、ディアドラは保安組織の長であった。混沌界域の混乱は想像に難くない。

 一部門のトップがトラブル対応中に忽然と姿を消せば、当然その配下は右往左往するし、満足な仕事など期待できなくなる。

 一日二日でこの場を特定して東雲救出に軍警察等が投入されるというのは、考えられなかった。

 凪もアカネも今はまだ大丈夫だ。ゲヘナは身体そのものが特殊なために、今後のことはまったく分からない。とにかく言えることは「今は」大丈夫ということだ。慣れない熱帯雨林でのサバイバル生活が、どこまで続けられるか、また、東雲を助けるために必要な戦闘能力をどこまで維持できるか。

 食料が安定的に確保できるわけでもなく、感染症に倒れる可能性もある。時間は凪たちに味方をしないのだ。

 城とも見える屋敷に篭り自由に生活しているディアドラとサバイバル生活を余儀なくされている凪たちでは心身への負担の度合いが全く違う。強大な吸血鬼であるディアドラに何の策もなく挑めば返り討ちに遭い、高確率で殺害されるのは目に見えているが、だからといって時間を置いたとしても事態が打開できるわけでもなかった。

 東雲を見捨てて熱帯雨林の中で救助をひたすら待ち続けるか、それとも戦えるうちに戦いを挑むか。選べるのは二つに一つ。そして、凪は後者を選ぶ以外に道はない。

 使える物はすべて使う。

 衣服の下には陀羅尼を書き込んだ包帯を隙間なく巻き付けているし、手首にも足首にもルーンを刻んだ木片を糸でミサンガで結び付けていた。

 吸血鬼の眷獣を完全に防ぐことはできないだろうが、ないよりはマシだ。護身術にも限界があるが、とにかく重ねて守りを固めた。ディアドラを相手にするには、雀の涙ほどの効果であっても、それが勝敗を分かつこともあり得る。

 ディアドラの城までの道のりは、見た目以上に長く険しいものであった。

 入り組んだ小川や倒れた大木が行く手を阻む。時に魔獣に遭遇することもあった。しかし、どう進めば早くたどり着けるかは凪には手に取るように分かった。

 エレディアに牙を突き立てて、その血の記憶を引き継いだ凪は、この周囲の地形についての情報を得ていた。それだけでなく城の内部構造も東雲がいるであろう部屋の位置も手に取るように分かった。吸血によりその血に宿る情報を得ることも、吸血鬼の能力の一つだ。エレディアは死霊であって、厳密には血を啜ったわけではないが、凪の霊力がエレディアからの情報取得を容易にした。吸血はあくまでも導入であって、情報を得るというプロセスにおいて重要な役割を果たしたのは凪沙から受け継いだ霊能力であった。

 そうした知識の助けを借りながら、身を潜めつつ行動した一行はついに城まで二百メートルの位置にまで近づいていた。

 丸一日がかり、空は橙色に染まっている。途中で見つけた泉で汲んだ水で喉を潤して、じっと城を窺った。

「もう少ししたら最初の結界があります。侵入者を感知したら攻撃してくるはずですが、俺ならすり抜けられるはずです。城の中に潜入して、東雲を助け出します」

 極めて危険な作戦で、とても頭のいい方法とは思えなかったが侵入者を感知する結界を超えられるのが凪だけとなればやむを得ない。

 三人で攻め込んで城の中に入ることもできずに迎撃されるというのは避けるべきだ。

「お気をつけて。いざとなればすぐに知らせてください。わたしも支援します」

「お願いします」

 アカネにも役割がある。ただ凪と東雲が帰ってくるのを祈っているばかりではない。

 城の中にはディアドラの他にもう一人旧き世代の吸血鬼がいるらしい。たったの二人だけだ。ディアドラとその吸血鬼の目を盗んで逃げられる可能性も無きにしも非ずだが、発見されて戦闘になった場合にはアカネが遠距離から支援射撃をする。強大な眷獣を屋内で使用するのは難しい。凪も簡単には倒れないはずで、外壁が崩れて内部が露呈すれば、銃撃は可能だ。

 

 

 

 アカネとゲヘナから離れた凪は夜陰に紛れて城に近づいた。

 さほど大きな城ではないが、東雲が暮らす屋敷よりはやや大きいだろう。白い外壁には蔦が這いあがり、窓に明かりがなければ廃墟も同然の風貌である。

 城壁の類はない。

 この城はそもそもが統治のために用意したものではなく別荘扱いであって、城というのは見た目だけだ。物理的な防御力はそれほどでもない。熱帯雨林の奥深くに佇んでいるというだけで、攻め込まれる可能性は皆無に等しいのだから、城壁まで用意する意味はないのだろう。建造にも維持にも金がかかると考えれば妥当な判断だ。

 その代わり、この城の周囲をいくつもの防御魔術が取り囲んでいる。魔獣除けの結界もあるし、侵入者を検知する結界や迎撃する結界もあった。いくつかは綻んでいるようにも見える。やはり、別荘だけあって普段の管理が行き届いていない。

 凪は姿隠しの術で姿を消しつつ、恐る恐る敷地内に侵入した。もしも、結界の警報に引っかかることがあれば、逃げるか突貫するか迷うところだが、案の定、結界は凪を異物として認識しなかった。

 凪の中にあるエレディアの力を味方と誤認した結果だ。エレディアが凪に敗れたことは、まだディアドラに伝わっていないのだろう。これも、早期決戦を挑んだ理由の一つである。東雲が監禁されているであろう部屋は、三階の中央だ。特徴は窓がないこと。外から見て、窓の並びに不自然な空白がある場所が狙いどころだ。

 できる限り侵入に魔力を使いたくはない。

 せっかく結界をすり抜けたのだから、そのまま相手に侵入を悟られずに東雲の下まで辿り着きたかった。

 いくら城の中に人が少なく、警報をすり抜けられたとしても自分からここにいますと宣言しているのでは元も子もない。

 小規模な身体強化に留めて、壁をよじ登る。石と石の継ぎ目や、経年劣化して生まれたひび割れに指を入れてのボルダリングだ。

 今の凪ならば三階程度の高さから落下してもどうということはないが、慎重によじ登らなければならないのでやり直しとなれば精神的に辛い。いつディアドラに気づかれるかも分からないので気持ちも焦る。焦る気持ちを指先に反映させないように気を付けながら、凪は三階まで登りきる。真っ暗な窓から屋内の様子を探り、無人の部屋へ侵入するために「左手の死霊」の協力を得て鍵を開けた。

「ふう……」

 転がり込んだ先で、とりあえず一息つく。

 那月に叩き込まれたスキルがサバイバルと家屋侵入で輝く。それに、この左手の呪詛。物は使い様というが、今ばかりは便利に使わせてもらう。この家の警戒システムをエレディアの魔力はすり抜けられるのだ。

 チリチリと左手の上で青白い火の粉が踊った。その火を吹き消して、凪は立ちあがる。青い炎はさすがに目立つ。東雲が監禁されているであろう部屋は、この部屋の隣だ。廊下に明かりはあるものの、物音がない。まるで無人のようだが、規模に反して三人しか今はいないのだからこんなものなのだろう。ディアドラとその従者は一階の応接間にいることが多いらしい。凪にとって最も都合が良いのは東雲を部屋に放置した状態で二人が応接間にいることだ。

 様子見をしたところで仕方がない。

 ここまで来たからにはなるようにしかならないのだ。

 凪は思い切って廊下に出た。

 監視カメラの類があれば、凪の侵入はばっちり映っているだろう。科学の目までは誤魔化せていない。しかし、幸いというかこの城は他者の侵入をそこまで警戒していない。侵入者がいるような土地ではないからだろう。監視カメラもついていないようで、凪にとっては好都合だった。

 窓のない部屋のドアノブに触れる。魔術のトラップはない。どこまでも不用心だ。そっとドアを開けて、部屋の中を窺う。部屋の中は無機質で大きなベッドが置いてあるだけだった。横たわる東雲が差し込む光を見てまぶしそうに目を細めた。

「ぁ……」

 東雲は驚いたように目を見開いた。

 凪は安堵して力が抜けそうになる身体を叱咤する。

 部屋の中に滑り込んでドアを閉める。後は時間の問題だ。

「凪、君? なんで……?」

「東雲、迎えに来たぞ」

 ベッドから身体を起こした東雲。

 なぜかメイド服を着ている。

「アカネさんも無事だ。外で待ってる」

「アカネも、大丈夫?」

「ああ」

 それを聞いて、東雲の大きな瞳から涙が溢れ出した。

「東雲、外に出よう。今なら逃げられる」

「逃げられる? ディアドラさんは?」

「別の部屋にいる。まだ、気づいてないはずだ。夜陰に紛れて、熱帯雨林の中に姿を隠せば、そうそう見つからないはずだ」

「外に、出る……ぁ」

 東雲の瞳が躊躇に揺れる。

「東雲?」

 凪は東雲に手を伸ばした。東雲もその手を取ろうとしたが、手と手が触れる前に東雲は手を引いてしまう。

「ご、ごめん。無理。せっかく来てくれたのに……ごめん……」

「どうした?」

「だって、無理。ここから出れない。わたし、ダメなの……ここから出るの、ダメだって」

 東雲は震えている。

 恐怖に身が竦んでいるようで、

「ディアドラに何かされたのか?」

 東雲は震えてすすり泣くだけで答えない。凪の問いは残酷だった。何もされていないはずがないのだ。尋ねてから失敗したと凪は思った。

「ごめん、気が利かなかった」

 東雲は首を振る。

 東雲はこの数日の間に心身ともに苛め抜かれていた。この部屋を出ることに恐怖するほどに、心が委縮している。

「痛いの」

「東雲?」

「痛いの。ここから出ると、身体が痛いの。だから無理なの。ディアドラさんの許しがないと、ここから出ちゃダメなの。だから無理、なの。凪君、ごめん、本当に……わたし、こんなんだから……早く逃げて、今なら逃げられるんでしょ?」

「馬鹿言え、こんな東雲を放って逃げられるかよ」

 東雲の告白に凪は憤る。

 激高の感情が次々に溢れてきて噴火してしまいそうだ。

 東雲を痛みで縛り付けるという悪逆に、今すぐにディアドラを討ち果たしてしまいたくなる。明瞭な殺意を抱くほどに、ディアドラが憎い。左手が凪の悪意に反応しそうになる。

「凪君、それ、どうしたの?」

「気にすんな。新しい仲間だよ」

 左手を抑えながら、凪は言う。

 吸血鬼である東雲をそこまで強く縛り付けるとなると相当の魔術か魔具だろう。そうと見れば当たりはつけられる。この部屋に敷かれた魔法陣は逃走防止のためのものだ。凪が部屋に入っても反応がない辺り、部屋の内から外に特定の人が出ようとした時だけ発動する魔術だ。その対象を絞っているのが、東雲の手についている腕輪だろう。

「それ、斬るぞ」

「え、これ……でもッ」

朽ちた銀霧(ウィザー・シネレウス)

 破壊を伴わず、東雲を拘束する腕輪のみを霧に変える。これで、東雲は自由だ。悪意に縛られることもなく、この小さな牢獄に留まる理由もない。

「東雲の痛みはもうないはずだ」

「あ……本当に、出ていいの? わたし、ぃ、痛くない?」

「大丈夫。大丈夫だから」

 と、凪は手を伸ばした。

 つい先ほどまで手首に絡みついていた悪意の結晶が消えて、楽になった手を東雲は逡巡の後に伸ばす。凪の手を取り、ベッドから降りるまさにその瞬間、ドアを粉みじんに砕いて氷の槍が室内に撃ち込まれた。

「逃げられるとでも思った? まさか、エレディアを倒して城に忍び込んでくるなんて、さすがにシノちゃんの王子様ってところかしら」

 壊れたドアの欠片を踏みしめて、ディアドラが入ってくる。

 その姿を見ただけで、東雲の心が凍えてしまう。

 狂気に塗れた笑みはどうしてか蛇を思わせて、東雲はカエルのように竦むしかない。叩き込まれた上下関係は逃げられる状況にあっても、逃げるという選択肢を選ばせない。

「上手く避けたのね、昏月君」

 氷の槍はその切っ先で壁を貫き、大穴を開けていた。

 射線上にいた凪は辛うじてこれを回避して、床を転がっている。

「完全に不意打ちを成功させたと思ったのだけど、なるほどよく鍛えられていると言ったところかしら。その歳で、よくここまでするものね」

「お褒めにあずかり光栄です」

「それで、殺されに来たのかしら? エレディアを倒した後で、そのまま逃げていればいいものを」

「見ての通り、東雲を助けに来ましたよ。このまま連れて帰ります。迎えが来るまで、もう少しかかりますけど、あんたのところに東雲は置いておけないので」

 凪はそう言って立ち上がる。

 砕けた外壁から月光が入ってきて廊下からの人工の光と合わさって真っ暗だった室内を明るく染め上げる。

 ディアドラの身体から熱を伴う殺気が炸裂した。魔力の放射だけで部屋の石壁がひび割れ、凪を城の外に弾き飛ばす。

「ぐッ……!」

 身体中に張り巡らせた防護魔術が全力で叩き付けられる魔力に抵抗したが、一部がすでに焼き切れている。さすがに旧き世代の魔力だ。眷獣召喚に使わなくとも、それだけで並の魔族を叩き潰せる。

 空中で体勢を立て直した凪は重力を操って難なく着地した。

 ディアドラが凪を追って外に出た。

 着地前に不意打ちで使った氷の槍を投じてくる。あれは眷獣であり、意志ある武器(インテリジェンス・ウェポン)の一つだ。凪が振るう不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)と同種の眷獣である。

 旧き世代の眷獣と正面からやり合うのは危険だ。

 凪は迎撃ではなく回避を選択する。大きく後方に跳躍して、着弾点から距離を取った。地響きとともに地面を貫いた氷の槍。めくれ上がった土が瞬時に凍結して、円形の氷の壁を作った。

「すげえな……ッ」

 単純だが威力はかなりのものだ。

 眷獣はどれもが敵に死を押し付けるものではあるが、ディアドラの氷の槍もその例に漏れず凶悪な殺傷能力を有しているのは明らかだった。

「東雲を返してもらうぞ、吸血鬼」

「勝手に人の家に入っておいて、盗人猛々しいにもほどがあるわね」

 氷の槍を手に取ったディアドラが舌なめずりをする。

 ディアドラの立ち振る舞いには余裕がある。当然だろう。これまでの六百年で凪程度の戦士ならば十把一絡げにして屠ってきたのだ。凪が眷獣を使ったとしても、脅威に感じることすらない。少しばかり遊んでやるか、という程度の感覚だ。そして、今の凪に勝機があるとすればその油断を突く他ない。

 怨敵を前にして、凪の全身が震える。恐怖ではない。不思議なことにディアドラと敵対しても恐怖は一切感じなかった。あるのはただ、純然たる戦意のみだ。滾々と湧き立つ魔力に突き動かされるように凪は、不出来な黒剣を構えた。


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