二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 二十二話

 凪とディアドラ。

 二人の間に横たわるのは比較することも烏滸がましい厳然たる戦力差だ。

 吸血鬼によらず、すべてに於いて積み重ねた時間はそれだけで力を得る。固有堆積時間と魔術の世界では呼ぶそれは、意味のある時間の積み重ねが強大な魔力を生成する力の源となる不変の真理を指す。

 肉体的に脆弱な吸血鬼が数多いる魔族の中で最強と呼ばれるのもここに起因する。

 吸血鬼の主要な武器にして最大火力を誇るのは眷獣だ。眷獣を召喚すれば、莫大な魔力を消費する。魔力は生命力そのものであり、不死の呪いを受けて無限の魔力を有する吸血鬼でなければ眷獣は扱えない。

 ただ、眷獣といってもその能力はピンキリだ。

 いかに無限の魔力を持とうとも、一度に扱える魔力の量には個体差がある。

 固有堆積時間が多ければ多いほど、一度に扱える魔力の総量も増加する。吸血鬼が個体としてのポテンシャルが高まっていけば、眷獣も強大になる。

 吸血鬼に限らず、長く生きれば生きるほど、固有堆積時間は積み重なって、魔力面では強化されていく。しかし、その一方で時間経過は生物に老化という名の劣化をもたらす。不死ならざる生物には、固有堆積時間をどれだけ積もうとしても寿命という壁を超えることはできない。

 吸血鬼はその点に於いて半永久的に若い姿を維持できるという点で優れている。世界の法則に対する最適解を得た生物と言えるだろう。

 固有堆積時間を理論上は無限に積み重ねていける。

 ただ存在し、息をしているだけで吸血鬼の肉体は上限なく強くなる。故に最強の種族と呼ばれるのだ。

 凪が対峙するディアドラは、そんな吸血鬼の中でも旧き世代と呼ばれるカテゴリーにいる。厳密な定義こそないが、百年以上を生きた吸血鬼がそう呼ばれる傾向にある。一般に強力な吸血鬼として認識されているのは、この旧き世代かあるいは高位の吸血鬼を親に持つ――――真祖等の二世である。

 ディアドラは六百年を数える吸血鬼だ。

 それも、安穏と生きてきたわけではなく多くの修羅場を潜り抜けてきた猛者である。

 見た目の艶やかな女性性とは裏腹に彼女が流してきた血の量は文字通り桁が違う。人権意識のない中世を生きた吸血鬼は、過酷で陰惨な戦争をその身で経験し、乗り越えてきた。

 凪は十五年しか生きていない。

 霊能者としては一流の素養があっても、何かの間違いで眷獣を身に宿し、吸血鬼に近い体質になったとしても六百年の歴史を上回るような手札はない。

 今では攻魔師と呼ばれるような対魔族戦特化の人間も飽きるほど殺してきたし、吸血鬼同士の戦いでも同じく飽きるほどに殺してきた。

 脆弱な人間が操る脆弱な眷獣など歯牙にもかける必要のない相手だ。

「どうしたの、その程度でシノちゃんの王子様やろうって? 全然、なってないんじゃあないの?」

 氷の槍を振り回して、ディアドラは凪を追い立てる。

 ディアドラの動きを先読みし、黒剣で刺突を凌ぐ。辛うじてだ。ディアドラは本気を出していない。地面がそこかしこで凍結している。ディアドラの氷の槍は貫いたものを氷漬けにする単純ながら強力な能力を持っている。

 ディアドラは高い身体能力だけでなく、槍術も習得しているらしい。

「あまりがっかりさせないでよ。もうちょっとシノちゃんに希望を持たせるような戦い方をしてくれないと、ね」

 氷の槍が幾重にも軌跡を重ねる。空気中の水分と捉えて凍結させて、無数の刃を作り出す。

不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)ッ」

 力を振り絞って放たれた氷刃を弾き返した。斥力場を発生させて、数えきれない刃を纏めてあらぬ方向に逸らしたのだ。

 力場を生成すれば、数は問題にならないのがこの防御方法の利点だ。

 不出来な黒剣の形成する斥力場の中に踏み入ったあらゆる物は、凪を捉えることなく進路変更を余儀なくされる。

「それ、これはどうかな!?」

 ディアドラが笑みを浮かべて跳ぶ。凄まじい魔力が槍の穂先に集中しているのが見て取れる。視覚化するほど濃厚な凍結の魔力が渦を巻いて槍を包んでいる。

 ディアドラは氷の槍を逆手に構えて、凪に向けて投じる。

「黒雷ッ」

 全身を強化して、猛然と凪は駆ける。あの槍を正面から受け止めるのは不可能だ。霊感に従って安全地帯にいち早く退避するしかない。

 氷の槍の着弾で地面が揺れ、ひび割れる。逆棘状に土が盛り上がって凍結し、冷たい風が四方に暴風のように吹き荒れる。凪は風に身体を持って行かれそうになったが、辛うじて直撃を免れた。

小さな黄金(タイニー・アウルム)ッ」

 呼び出したのは黄金の豹――――今はなぜか獅子になっているが――――である。雷光の肉体は少しばかり筋肉質になって巨大化したとしても相変わらずの高速移動を可能とする。

 槍を手放したディアドラに猛然と獅子が襲い掛かる。

「イメチェンしたの? いつの間に」

 ディアドラは驚いた風ではあったが、余裕を失ってはいない。ディアドラが小さな黄金を見るのは二度目だ。獅子の姿になったことに驚いている。しかし、力を上昇したとはいえまだまだディアドラを脅かすほどのものではない。

「ベリヌス!」

 雷光の獅子を迎撃したのは黒炎の蛇だった。

 鋭い牙で獅子に食らい付き、そのまま地面に叩き付ける。

「地力が違うのよ、地力が」

「く……ッ」

 ベリヌスは小さな黄金に絡みついて締め上げる。小さな黄金は、牙と爪で応戦するが、ディアドラが言うように力が違い過ぎた。

 コンクリートの壁にボールをぶつけているように、全力を出してもまったく意に介されてない。小さな黄金も歯が立たない。ディアドラの力は圧倒的で、眷獣同士の戦いでは凪は防戦一方だ。それもディアドラが手加減しているからこそであり、彼女が本気で殺しにくれば一溜りもないだろう。

「ほら、どうしたのかな! もっと頑張って! じゃないと、あっさり死んじゃうわよ!」

 ディアドラの身体から溢れた魔力が、巨大狼の姿を象った。体長は六メートル弱くらいで、全身が白銀に輝いている。

 突進してくる巨狼は、凪に正面から牙を剥いた。

落ちた深緋(フェール・ミニウム)!」

 それを迎撃するのは緋色の一角獣だ。

 巨狼の首元を目掛けて、召喚と同時に頭突きをさせる。不意打ちも同然の召喚攻撃に巨狼は大きく仰け反って雄たけびを上げる。

 ユニコーンの角は、巨狼の喉元に確かに刺さっている。

「そのまま、押し切れッ」

 魔力を込めて、ユニコーンは前進する。角の先から衝撃波を放ち、巨狼を内側から砕く。顎を砕かれながらも巨狼は後脚で踏ん張り、前脚の爪でユニコーンを引き裂く。魔力の血を零しながら、ユニコーンは大きく跳躍した。巨狼を貫きながら、突進し、城の壁に叩き付けたのだ。

 ディアドラは驚愕に目を剥く。その瞬間を狙いすましたように鋼の雨が襲う。9mmの弾丸が城外の茂みからディアドラにばら撒かれたのである。この不意打ちは、ディアドラにも防げない。アカネの超能力で強化された銃弾は、通常の拳銃弾とは比較にならない威力でディアドラの身体を引き裂く。これが魔弾であれば、魔力の動きから察することもできただろうが、魔力を帯びていない通常弾は、魔力の多寡で強弱を計る吸血鬼の意識の外にあった。

「く、おぁッ!」

 血肉が舞う。

 離れたところからのバースト射撃だ。弾丸は扇状に広がらざるを得ず、ディアドラを捉えたのは十発程度だった。が、それでも手傷は手傷。胸部と腹部に貫通射創を穿たれたディアドラは苦悶の声を上げて、よろめき、

「ゴグマゴグッ」

 倒れずに新手の眷獣を呼び出した。

 巨大な土くれの巨人だった。巨人は大股で城の外に飛び出して、アカネがいたであろう場所を殴りつける。凄まじい地響きが轟いて、木々がなぎ倒される。

「いつ出てくるのかと思えば、こう来ますか……はあ、この程度でッ」

「黒雷ッ」

 ここが唯一無二の隙だ。

 アカネのことは心配だが、意識は常にディアドラに向ける。残像を置き去りにした突進で、ディアドラに飛び掛かる。

 身体に開いた傷口から血が溢れ出た血濡れの吸血鬼は、アカネに気を取られていたこともあって反応が遅れる。

不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)ッ」

 ディアドラが眷獣を呼び出す前に、凪は黒剣でディアドラを斬り割いた。黒い重力剣の刃は、ディアドラの左肩から脇腹までを両断した。

 肉を斬り割き、骨を断つ嫌な感触が凪の手に伝わる。

 悪を成した吸血鬼とはいえ、命を奪う罪悪感は想像以上のものがあって、凪は吐き気に襲われる。眷獣を斬るのとはわけが違う。それでも、東雲を助けるためであり、生きて帰るために必要だった。

「だから、それは、甘い……ッ」

「ッ……!?」

 バチン、と紫電が舞った。凪の身体は気付けば空中にあって、背中から地面に叩きつけられた。

 衝撃で呼吸が止まる。どこかの骨が折れたのかもしれないが、痛みを感じない。疲労と脳内麻薬の過剰分泌のせいだろう。

「ああ、まったく、詰めが甘い。普通の吸血鬼ならともなく、このわたしが両断されただけで即死するとでも?」

 ディアドラは血を吐きながら、起き上がった。斬り割かれた肉は盛り上がり、修復を始めていた。

「心臓まで一緒に斬ったはず」 

「保険くらいは用意するものよ。まさか、使うことになるとは思わなかったけれど」

 口元を拭ったディアドラは、嫣然と微笑む。

「期待以上だったわ、昏月君。わたしは警備部の部長としての立場であれば、引き抜きたいくらい。でも、まあ、ここまでね」

 電撃が迸る。

 眷獣の力を抽出して放っているのだ。凪を閃電が打ちのめした。

「ディアドラに土をつけたことを誇りとして、あの世に行きなさいな。あなたの死体は防腐処理して、シノちゃんの前に飾ってあげるわ」

「悪趣味、な」

「ふふ、わたしの世代からすれば、これくらいは別によくある話だったけどね」

「今はそんな時代じゃないっての」

「面白味がなくなっちゃって困るわ」

 ディアドラの周囲に魔力が陽炎のように揺らめいている。いつでも眷獣を召喚できるように準備がされているのだ。

 凪は内心で舌打ちをした。

 最大の好機を逃したのは痛手だった。

 チャンスを逃すと後はジリ貧になる。それまで優勢だった流れが変わり、次第に劣勢になってしまうというのは、よくある話だ。決められるときに勝負を決めなければならない状況で、ディアドラを仕留められなかったのは勝敗を分かつ大きな分岐点となったかもしれない。

 凪の甘さと言われれば、反論の余地はない。ディアドラを両断した後で、首を刎ねるなり、頭を潰すなりして止めを刺していればよかった。ディアドラの再生能力を甘く見たというだけでなく、殺傷することに対する忌避感が目を曇らせた。

 凪の勝利はディアドラの油断に付け込むしかないのだ。ディアドラが自分に手傷を与えた凪に、これまでのような甘い対応をしてくれるとは思えない。

 凪の眷獣もどういうわけか強化されているとはいえ、ディアドラとは天と地ほども差がある。このまま戦いを続けても、けっして凪が優勢になれるはずもなく、ただ逃げれば東雲は今度こそ悲劇を迎えることになるだろう。

 ディアドラがこれほどの騒ぎを起こした凪を許すはずもなく、東雲もまた何らかの理由をつけては拷問をされるだろう。それは、絶対に許すことはできない。闘志だけで凪は立ちあがる。怒りを糧にして、踏ん張り続ける。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 電撃と炎が凪を追い詰めている。繰り返される激烈な魔力は、凪を追い立て、跳ね飛ばし、血みどろにしている。

 凪の身体は傷ついて、火傷を負い、内側までボロボロになっているのが見て取れた。

 東雲は凪が甚振られる様をまざまざと見せつけられた。

 外壁に開いた大穴から顔を出して、戦況を見守ることしかできない。眷獣を奪われ心を半ば折られた東雲には、戦場に割って入る力など皆無だった。ディアドラの魔力を感じるだけで手足が震えて、心が萎えていく。

「よく頑張りますね、あの子」

 と、東雲の隣で表情もなく呟いたのはマリアだった。

「十五歳の人間にしては、よく持ってます。ええ、それだけでもう十分でしょうに。東雲様を救うために、ディアドラ様に挑むという愚行……本当に愚かです。このまま、無為に死んでいくのでしょう」

「……ぁ、く」

 東雲はマリアを睨みつけるが、反論することができなかった。

 ディアドラの圧倒的な力は目に見えて明らかだった。旧き世代の中でも戦闘経験を重ねた吸血鬼だ。凪がどれだけ頑張ったところで覆せない力の差がそこには横たわっている。

 時間を重ねた吸血鬼のほうが強い。それは世界の法則だ。凪は眷獣を用いて戦うしかないが、眷獣同士の戦いではどうあっても上位の吸血鬼が優位に立つ。つまり、多くの場合吸血鬼同士の戦いは同格の相手としか成立せず、ジャイアントキリングなど期待するだけ無駄なのだ。

 もっとしっかりとした準備を整えていれば話は別だっただろう。

 眷獣勝負ではなく対魔族用の武装を整えて、軍警察と連携すればディアドラを倒すこともできたかもしれない。いや、できただろう。旧き世代の吸血鬼はディアドラだけでないのだ。彼らがディアドラ討伐に動けば、ディアドラ単独での生存は危うい。外部に助けを求めるという選択肢が取れなかったのは、状況が状況だけに仕方がないが、現状を見れば無策に突貫してきただけにしか思えないし、その程度の襲撃者に後れを取るようならディアドラは六百年も生き永らえていない。

 熱波が顔にかかり、髪を巻き上げる。

 黒い炎が凪を追い回しているのだ。凪は眷獣を使い、上手く避けているがディアドラは一歩も動かず、じりじりと凪を追い詰めている。

 ディアドラは結果よりも過程を楽しむタイプのサディストだ。

 凪をひと思いに殺さないのも、凪を甚振ることを楽しんでいるからだ。甘さではなく、油断でもなく、これは強者の余裕だ。

「あなたも、そうそうに諦めたほうがいいですよ。ディアドラ様のご寵愛、刹那の悦楽に身を浸せば、楽になります」

「……お断りです」

「そうですか」

 マリアの意図は分からない。東雲を憐れんでいるのだろうか。ディアドラに心から従えば、確かに楽にはなる。しかし、それは凪とアカネの命がけの戦いを無駄にし、自分のために戦ってくれている彼らを見殺しにすることを許容することになる。

 東雲にはそんな選択はできない。少なくとも、まだ東雲にはディアドラに屈していない部分が残っている。

 ディアドラもそうと分かっているから凪を甚振っているのだろう。お前の所為で人が死ぬ、と見せつけるためだ。

 凪とアカネという東雲が信頼を寄せる二人を無惨に殺すことは東雲の心を殺すことにも繋がる。自分のために二人が目の前で死んだとなれば、それは東雲には背負いきれない業となる。

 しかし、どうするか。

 このままでは凪を見殺しにすることに変わりはない。

 凪に勝ち目は皆無だ。アカネも殺されてしまうだろう。何もしないで、ここでただ座っていることしかできないでいいのか。東雲は懊悩する。自分のために戦ってくれている凪をこのまま放置して、安易な身の安全に将来を委ねていいのか。

 自問自答の末に導き出した答えは否。

 ディアドラへの恐怖も不安も消えたわけではないが、何もしないままに大事な人たちを失うことは何よりも耐えがたい苦痛だ。ディアドラへの恐怖よりも凪とアカネを見殺しにしてしまうことが恐ろしい。

 身体の震えを押さえつけて、東雲は腰を上げた。

「どこへ行くのです?」

「わたしにもきっとできることがあるから」

「そうですか」

 マリアは悲し気に目を伏せる。

「苦難の道を選ぶのですね。では、少し大人しくて貰うしかないようです」

 パン、と軽い破裂音がして東雲の身体が宙を舞う。

 風の眷獣。その力の一部を東雲に叩き込んだのだ。軽いジャブ程度。しかし、地面に叩きつけられた東雲は震えてしまって動けない。

「今のあなたでは、その程度……眷獣も使えない上にすでに折れた心でどうするのです。こんな、撫でられた程度の痛みで動けなくなるのに」

「う、うるさい」

 瓦礫を掴んで東雲はマリアに投げつける。外壁を構成していた石壁の欠片だ。それをマリアは意に介さず、風で跳ね返す。

「あなたの調教はディアドラ様の愉しみ。わたしが奪うわけにはいかないのです。大人しくしてください」

「助けに来てくれる人がいるのに、戦ってくれてるのに、わたしだけ見てるだけなんて無理だから。あなただって、昔はそうだったんじゃないの?」

「だから、愚行だと言ったのです。勝ち目のない戦いをディアドラ様に挑んで死ぬ。目に見えている結末です。抵抗など無意味、いえ、それ以上にディアドラ様を愉しませるだけです。抵抗の意思を示した人を踏みつけて奴隷にして尊厳を踏みにじるのが、あの方の趣味嗜好なんですから」

「何て、悪質な。それを知っててあなたは……ううん、あなたも同じ」

「不要な過去……です。ですが、あえてアドバイスするのなら、心配はいりません。すべてをディアドラ様に捧げれば、楽になりますから。親兄弟も友人も復讐も何もかも考える必要もありません。悩みも不要。あの方の寵愛をいただけている間は、どんな不安も抱く必要はありません」

「そんなの、お断り」

 マリアも恐らくはかつてディアドラに捕らえられ、東雲と同じように拷問されたのだろう。ディアドラに気に入られ、その配下になるよう強要されたのだ。その過程にどれほど悍ましい調教があったのか。東雲以上の苦悶の日々を送っていたに違いない。東雲はまだ三日。マリアは数百年だ。そのうちに、マリアは自分を捨てディアドラに従う道を選んだ。選ばざるを得なかった。そうしなければ耐えられなかったのだ。けれど、自分はそうではない。そうはなりたくないのだ。そうならないように、今、抗うと決めたのだ。

「もう、知らないからッ」

 その時、東雲の瞳が淡く輝いた。金色の瞳だ。この魔眼に見据えられたマリアは、驚愕のうちに意識を持って行かれる。それはただの魔眼ではなく、目に宿る眷獣だったのだ。東雲には眷獣はないと過信したマリアは、抵抗する間もなくその幻惑に囚われる。

 ディアドラが東雲に拷問目的で植え付けた人工眷獣。まだ赤子で大した力を持たないそれは、本来目覚めることもなく、東雲の中で眠り続けるはずだった。しかし、宿主の窮地に際してそれは目を覚ました。右も左も分からないような状況ではあったが、東雲に危害を加える吸血鬼を敵と認識し、強引に自らの魔力を叩きつけたのである。

 眷獣全体で見れば貧弱極まりない力だ。マリアにとってはそれこそじゃれついてきた子どもの玩具がぶつかったという程度の衝撃でしかなかったが、ディアドラが開発した人工眷獣は悉くが精神支配系能力を有している。東雲の体内に巣食ったサリエルもまた、目と目を合わせた相手を幻覚を見せる能力があった。

 旧き世代のマリアの魔力は、サリエルの魔力を弾いて余りある。この幻覚も一瞬の白昼夢を作り出すくらいにしかならなかったが、その一瞬が大きな隙となった。

「う……あッ」

 マリアの胸から一振りの刃が生えていた。

 燃える黒い炎の刃だ。

 マリアの背後に現れた炎の剣士がマリアを背後から襲ったのである。

「ふう、はあ……やっと、辿り着いたぞ東雲」

 廊下側から声がした。

 東雲から血を吸った眷獣の器が立っている。

「あ、あなたは」

「おお、待て、我は味方じゃ。凪君とともに汝を助けに来たのじゃ」

「……え?」

「その顔は信じておらぬな? 無理もないが、事情を話す暇はないぞ。そら、勝利のためには手段を選んでいる場合ではない。我が縫い止めておけるのも、そう長くはないぞ」

 串刺しのマリアは、当然ではあるがまだ死んでいない。内部を獄炎で焼かれながらも、不死の呪いはマリアを生かしている。

 何をすべきかは明瞭だった。ディアドラに勝利するために、マリアを倒すだけでは足りないのだ。足りない分は補わなければならない。

「マリアさん、ごめんね」

 幻惑と刺突で未だ意識定かならぬマリアの首に東雲は牙を突き立てた。数百年分の歴史を丸ごと奪い取る。十六年しか積み重ねていない東雲が、旧き世代を上書きするのはリスクが大きすぎるのだが、今回ばかりは状況が違う。

 マリアは初めから心が折れている。諦観の念に凝り固まった彼女は、上書きされようとも抵抗はしない。心臓を炎剣で焼かれ、魔力を消耗していることも手伝って、東雲はマリアの積み重ねた時間を継承することに成功したのだ。

「終わったか。して、念のために聞くが東雲でよかったか?」

「もちろん」

 燃える剣が消えて、物言わぬ骸となったマリアを床に横たえる。

 上書きで手に入れた力は膨大だ。旧き世代の魔力をそっくりそのまま受け継いだのだ。マリアが操る五体の眷獣も東雲の身に宿っているのを感じる。

「あなたたちは、どうするの?」

 東雲から眷獣を奪った眷獣の器たち。シバルバー、ヨミ、ゲヘナの三人が揃っている。操られていたシバルバーとヨミをゲヘナが解放したのだ。ディアドラとマリアの両名が戦いに気を取られている間に潜入したゲヘナが同胞を魔の手から取り戻していた。

「ここの警備もザルじゃった。ま、詮ないことじゃが」

 もともとディアドラは破滅願望に満ちていて、足元を疎かにしていた。自分にとって不利に転がろうとも、それはそれとして楽しむ享楽的な備えであった。何はともあれ楽しめればどうでもいいと意図して不注意を重ねた結果であった。

「この身は窮屈ゆえ、自然のままに帰すとする。我は煉獄の申し子にして、炎の王。このような幼女には過ぎたる眷獣よ」

 パラパラとゲヘナの身体から粉が落ちる。表皮がひび割れて、白い石膏像のように固まっていく。

「では、再びともにあろうぞ、我が宿主。短時間じゃったが、言葉を交わせたことは僥倖じゃったよ」

 にこやかにそして、満足げにゲヘナは言った。後ろのシバルバーとヨミを宿した器も静かに頭を垂れて、砕け散る。ずしん、と身体に重みが増したような気がした。東雲の血の中に、失われた三体の眷獣が帰って来たのだ。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 そこかしこに黒い炎が上がっている。

 ディアドラが信頼を置く眷獣が暴れ、木々に魔力の炎が燃え広がっている。城の周囲は地獄絵図だ。熱帯雨林は砕けて、燃え上がり、城の外壁もひび割れ、崩れている。旧き世代の眷獣がひと暴れすれば、これだけの災厄を振り撒けるのだ。

 凪はそんな災厄の海を乗り越えて、未だに命を繋いでいた。

 持ちうる秘術をすべて使い、眷獣を状況に合わせて使い分けてディアドラの猛攻を凌いでいたのだ。

 ディアドラを相手にして、彼女が遊び半分であったとしてもこれは偉業だ。ディアドラは骨があるとまでは思わなかったが、それでも根性だけは認めるに値すると評価した。

 蟻も同然の意識を特別払う相手ではないと思っていたが、少なくとも犬くらいには評価を上げてもいい。いや、自分の宝物を狙う悪者という点で言えば、ハイエナ辺りがちょうどいいか。ともあれ、脅威度に変更はなくとも、少しばかり手を焼く相手程度には認識を改めた。

 それも、これで終わりだ。

 凪の精神がどれだけ持ちこたえようと、肉体の限界は訪れる。度重なる眷獣召喚は彼の寿命を食らい、魔力を消費させ、力をそぎ落とした。ディアドラの攻撃を避ける体力もすでに尽きている。地面を転がりうつ伏せになったまま、立ち上がろうともがく姿は痛ましいとすら思える。身体を起こす元気もないのでは、ここが終点だ。

「ベリヌス」

 鎌首を擡げる巨大な黒炎の蛇。凪に向けて大きな顎を開いた。

 その灼熱は凪を今度こそ死に至らしめるだろう。焼き払われて炭化した死体に成り果てる。その後は、ディアドラがその死体を好きに使うことだろう。

 凪の未来視が明瞭に死の事実を突きつけてくる。恐怖はない。昔から身の危険を感じる能力は人一倍低かった。凪は本質的に危機には疎い。凪を形成する技術は、もともとは軍事用の都合のいい兵士を作り出すためのものだ。恐怖を感じず、任務を遂行できるように設定されたものだ。その技術を応用した凪は、自分に向かってくるボールを避けることもなかったし、車を脅威に思わないので交通事故寸前に助けられたこともある。そのままでは日常生活にすら支障を来すと那月に身を守る方法を叩き込まれた。それが凪が攻魔師を目指すようになった最初の一歩だった。

 恐怖はないので反射的に身を守ることもできない。だから那月が仕込んだのは危険を目で見て頭で理解し対応する能力だった。幸いにして凪には強力な霊視がある。未来を読み取る霊視は、凪の弱点を補って余りある能力だった。

 迫りくるベリヌスの顎に、凪は安堵の表情を浮かべた。

 死を前にして気が触れたというわけではなく、この眷獣で死ぬ未来が消えたからだった。

 灼熱の牙が凪を貫く寸前に、割って入った冷気がベリヌスを跳ね飛ばした。地面を踏み鳴らし、炎を吹き消して現れたのは氷で形作られたサイの骨だった。

「シバルバー、そのままやっちゃえ!」

 真横からの攻撃にベリヌスは頭をかち上げられた。

 そのままベリヌスが対応する間を与えず、シバルバーは蛇の身体を踏みつけて、鋭い角を突き刺し、凍える風を叩きつける。

「東雲……!」

「凪君、ごめんね……あと、ありがとう」

 凪の前に立ち、東雲はシバルバーをけしかける。

 シバルバーは東雲の眷獣の中でも突出して高い攻撃能力を持つ眷獣ではあるが、その力が跳ね上がっていた。

 ディアドラの眷獣と正面からぶつかって、押し返せるほどの力を奮っている。

「シノちゃん、あなた……」

「もうあなたの好きなようには、させないから!」

 ベリヌスの身体をシバルバーが踏み抜いた。黒い炎を凍える風が吹き消して、猛然とディアドラに突進する。

 ディアドラは大きく後方に跳躍した。シバルバーの巨体で踏みつければ、ディアドラの身体を粉砕することは難しくない。

「この力、マリアを食ったのね」

「……ッ」

「ふふふ、いいわ。それでこそ、よ。そうやって得た希望を踏み砕く瞬間が一番だもの」

 シバルバーの足元から黒い蛇が襲い掛かった。

 一匹ではなく、何匹も。数えきれない頭を持つ多頭の蛇。その姿は巨大なイソギンチャクにも似て、不気味だった。

 シバルバーの巨体に無数の蛇頭が噛みついて、絡みつき、その動きを封じる。藻掻くシバルバーは蛇を引き千切り、氷漬けにするが砕けた頭は次々に再生してシバルバーの動きを阻害する。

「まだまだ、眷獣はいるんでしょう? ほら、どんどん出して見なさいな!」

 ディアドラは魔力を総動員して眷獣を次々と召喚する。

 金色の鷹であり、岩石のトカゲであり、白銀の巨大な兜であり、三首の獅子であった。

 吸血鬼は他者から眷獣を奪い取ることができる。長く戦場に身を置いたディアドラが実際に何体の眷獣を保有しているのかは、正式な記録も残っていない。現代では法律上届け出が必要となっているが、ディアドラほどに古い吸血鬼が唯々諾々と従っているわけでもない。現にディアドラは、未登録の眷獣を数多く宿していて、総数はディアドラ自身ですら正しく把握はしていない。

「ヨミ、ゲヘナ!」

 白装束の女の骸と数多くの炎の剣士たちを呼び出して、対抗させる。炎の剣士たちはそのままでは力不足なので、すべてを重ねて一体の眷獣として振る舞わせる。シバルバーにすら匹敵する巨躯を持つ、鎧に身を固めた二足歩行の炎の悪魔だ。黒い翼を生やして、ゲヘナは黄金の鷹に剣を振り下ろして、これの首を一撃の下に両断した。

 ヨミは髪を伸ばしてディアドラの眷獣たちを牽制する。岩石のトカゲを拘束し、三首の獅子を下がらせる。

 強力な眷獣のオンパレードで吹き荒れる魔力だけで周囲の木々は枯れてしまうのではないかというほどだが、東雲の額には冷や汗が浮かんでいる。対してディアドラには余裕があった。

 東雲の力には驚いたが、マリアの固有堆積時間を取り込んだのなら納得はできる。東雲は第四真祖の娘だ。単純に血の濃さから言って最強クラスの才能があるのは間違いなく、それが相応の固有堆積時間を得たのだからディアドラに比肩する力を得るのは当然のことだ。

 ただ、それは力を得たというだけで使いこなしているとは言えない。今はまだ身に余る力をとにかく振り回しているというだけだ。

 様々な能力を持つ眷獣の戦いは、力任せだけで乗り切れるものではない。凪のように脆弱ながらうまく力を使って凌ぐタイプもいる。

「残念ね、シノちゃん。戦う前からあなたは負けているのに、今更わたしの前に出てきても、どうにもならないでしょうに」

「うるさい。凪君とアカネを傷つけて、わたしに好き勝手して、そんなの絶対許さないから」

 ゲヘナが東雲の想いに応えて、猛然と吠える。格闘していた三首の獅子を打ちのめし、炎の剣で心臓を貫いて、放り投げた。

 バチバチと東雲の身体から放電する。魔力が可視化して雷のようになっているのだ。

「もうちょっと……このッ」

 魔力を眷獣に注ぎ、力を与える。今の東雲で召喚できるのは同時に三体が限界だ。新たに得た力が戦艦の主砲並の力を持つとして、東雲の身体が扱える魔力は戦車砲クラスが精々だ。時間をかけて身体に力を馴染ませればその限りではないが、手にしたばかりの力を制御しきれていない現状では、眷獣を暴れるに任せるしかなく、自分が従来から引き連れる眷獣以外は召喚することができないのだった。

 それでも、東雲の力はディアドラに対抗できるだけのものはある。

 もともと、旧き世代に匹敵すると評判だったのだ。それが、旧き世代に対抗するに相応しいだけの原動力を得たのだから、単純な力勝負でならディアドラにも優勢に戦えるはずだ。

「あなたは、戦う前から負けてるって言ったでしょう」

 東雲の眷獣に押されているかに見えたディアドラだったが、依然として微笑みを消えていない。むしろより深まっている。

 東雲を苦しめることに人生を捧げた女だ。東雲が力を取り戻したことすらも、この後で東雲を凌辱するための過程でしかないのだ。

「何を……うッ」

 ディアドラが何かする前に押し切ろうとした東雲が不意にふらついた。胸を抑えて、苦悶の表情を浮かべる。

「東雲!?」

「う、あッ……ぎ、あッ、ああッ」

 ごぼり、と東雲の口から血が溢れ出た。

 足元がおぼつかず、苦痛に声を上げることも儘ならない。唖然とする凪の前で東雲の身体から血とともに黒い棘が生えた。背中と腹部から二本ずつ。東雲の体内から肉と皮膚を食い破った怪物の正体は、ディアドラの眷獣だった。

「ぐ、あ……がふッ、あぐ……お、あ……」

 血を吐きながら、東雲は力なく膝をつく。

 棘の眷獣が姿を消して、支えを失った身体は糸の切れた人形のように仰向けに倒れた。

「東雲ッ」

 凪が疲弊した身体に鞭打って東雲を抱きとめた。

 主が倒れた眷獣は、力を失い劣勢になっていく。

「おい、東雲、しっかりしろッ」

 自らの血で化粧をした東雲は白皙の美貌をさらに青くして凪の手の中で血を零す。

「ごめんね、凪君……しくじった、は……ぁ」

「いい、しゃべるな。魔力は再生にだけ回せ」

 体内から貫かれた東雲の傷は徐々に塞がってきている。急所は外れていたのか、命を脅かすほどでもないが、力の源である血を失えば一時的にしても能力は著しく低下する。

 眷獣によって臓器を内側から貫かれたのだ。その痛みは想像を絶するものであろう。

「わたしがシノちゃんに何も仕込んでいないわけがないでしょうに。あれだけ身体を弄ってあげたんだもの」

 得意げにディアドラは語る。

 東雲の身体を暴く過程で、事前に眷獣を仕込んでいたというのだ。ディアドラの有する眷獣の中では、発動条件が厳しいものの、相手の体内に仕込まれた後は任意のタイミングで覚醒し、内側から貫く爆弾のように扱えるのだ、と。

 東雲がディアドラに捕らえられている間にどれほど過酷な責め苦がなされたか、凪は想像することもできない。

 東雲の身体についた傷は軒並み再生して、何事もなかったかのように綺麗になっているからだ。凪のように傷が身体に残ることはない。それでも、ディアドラの語り口や彼女の嗜虐性を鑑みれば、東雲が吸血鬼でなければすでに死んでいたとしても不思議ではないし、再びこうして立ち上がれたのは奇跡に近いことだろうということには予想がつく。

「あんた、これから東雲をまた苦しめるつもりか?」

「どうかしら。シノちゃんがそれを楽しく思えるようになればウィンウィンなるんじゃない?」

「ふざけるな。もう、あんたいい加減にしろよ……」

 気を失った東雲を横たえて、凪は立ち上がった。疲弊の極みにある凪は、手についた東雲の血を舐める。強い魔力を湛える東雲の血から魔力を摂取して、もう一度力を高めた。

「あなたの出番はもう十分なんだけど。シノちゃんも気絶しちゃったし。できれば目の前で殺したかったんだけどね」

「できるかよ。あんたなんかに殺されるか」

「ふふ、気合だけでどうにかなるようなら、とっくの昔にわたしを倒せてたでしょう。そんなに疲れ果てた身体で何ができるの?」

 ディアドラは、土の巨人を歩ませる。東雲の眷獣と戦い傷ついた巨人ではあるが、凪を捻り潰すのに力はいらない。この質量ならば撫でるだけで大抵の人間は殺せるだろう。無論、凪もその例に漏れない。

 土の巨人の腕が凪を圧殺する前に、凪の眼前に電光が駆け抜ける。その一撃で、巨人の腕は文字通りの土くれになって砕け散る。

「何……?」

 ディアドラは怪訝そうに眉根を寄せた。

 凪の身体から溢れんばかりに噴き上がる魔力の禍々しさ。つい数分前までディアドラに圧倒されていた凪のそれとは質が違う。

「何をしたのかしら? ……何をしているの、早く潰してしまいなさい!」

 凪を殺す。そうと決めたからには加減の必要はない。東雲を巻き込まないよう注意を払いつつ、凪だけを薙ぎ払うように打ち砕けばいい。横薙ぎに巨人は拳を奮う。その拳を砕いたのは、巨大な雷光の爪だった。

「そこを退け」

 力が溢れてくる。

 凪の魔力が紫電となって巨人の胸を撃ち抜いた。五つの電撃は刃であり、巨人の身体を一撃で削り滓に変えた。

「それが、あなたの本当の力ってわけ?」

「違う」

 と、凪は否定する。

「俺の力なんかじゃない」

 じわじわと凪の表皮が傷ついている。流れた血がすぐに蒸発して、いずこかに消える。何かが凪の血を食っているのだ。

「俺は人間だ。出自はどうあれ……眷獣を自然に身に宿すことは、ありえない」

 今、この瞬間に理解する。

 自分の力の正体を。

 どうして、眷獣が使えるようになったのか。厳密には、凪は眷獣を使っていたわけでも、宿していたわけでもなかった。ただ、助けてもらっていただけだったのだ。

「俺はいつだって全力だ。東雲を助けるために、あんたに全部の力を見せていた。俺があんたに勝てなかったのは、皆が俺を心配していたからだ。本気を出せば、俺の身体が持たないんじゃないかってな。だから、ずっと皆が手加減をしてくれた。俺の命を食い尽くさないように、力を何百万分の一にも削って貸してくれただけだった」

 電撃が四方に流れる。ディアドラの眷獣が軒並み押し戻されている。凄まじい魔力は凪のこれまでの力とは格が違う。

 凪が使ってきた眷獣は凪に宿る眷獣ではない。凪の吸血鬼の力はあくまでも原初(ルート)の残滓だけだ。

 それ以外の眷獣は後付けのものでしかない。

 五年近く前、零菜に血を吸われた時がすべての発端だった。凪はその時のショックで倒れ、運び込まれた病院で古城からの輸血を受けた。血の従者になることも辞さない治療はしかし、凪を延命させることに成功したものの血の従者にはできなかった。

 凪の体質が吸血鬼に近づいたのも、眷獣召喚能力を発現したのもその後である。

 すべては原初の力が原因だった。封印された原初の力は、零菜に血を吸われたときに封印の一部が破れて力が漏出した。吸血鬼にとって血を吸われるというのは、上書きの危険があるということだ。原初は身を守るために零菜の力に抵抗し、人間だった凪はその「アレルギー反応」に倒れたのだ。そして、同様に原初は第四真祖の中核を成した力だったために輸血程度では血の従者にもなれなかった。

 それでも、そこで原初の力は大きく失われ、代わりに第四真祖との間に不可逆的な魔力の繋がりが生まれた。

 それは血の従者が主の眷獣を召喚できる現象にもよく似ていて、凪は古城の眷獣とも縁を結んでいたのである。

 凪が召喚する眷獣は、どれも本来の姿とはかけ離れていて脆弱かつ中途半端だった。それが凪の身体でできる限界であり、眷獣たちが凪の身体を壊さないように最小限の出力にしてくれていたからでもある。

 凪沙の息子は殺せないが、助けを求めるのなら力を貸す。それが眷獣たちのスタンスだったわけだ。

 凪は左手の包帯を引き千切る。

 真っ白に染まった手は未だ強力な呪詛に侵されていることの証左だった。左手から陽炎が立ち上る。冷気が忽ちの内に純粋な魔力に変わっていく。

「エレディアッ。そこにいたの!?」

 ディアドラの驚愕も無理はない。倒されたと思っていたエレディアが、未だに凪の左手の中に残っていたからだ。

 死神にも等しい死霊の集合体。凪の左手を呪った魔物は、凪とともにそこにいた。陀羅尼経で押さえつけていた死の魔力――――膨大極まりない無数の怨念が、今、眷獣に捧げられている。ディアドラを倒すという一点に於いて、凪とエレディアは同志だ。霊的感受性の高さを利用してエレディアと交信した凪は、彼の恨みを晴らすために彼との共闘を約した。死霊を守護霊として自分の力にする術式。日本の御霊信仰を下敷きにした禁断の契約の賜物だった。

「魔力を回す。もう何も気にすることはないッ」

 膨大な魔力が雷光となって、ディアドラの眷獣の内、三体を一撃のもとに屠り去る。眷獣が纏めて砕かれたことで、フィードバックを受けたディアドラがよろめいた。

 凄まじい力に全身の血液が沸騰するようだった。

 古城の眷獣の力を知らないわけではないが、こうして自分の身体を通して使うとその圧倒的な力に怖気が走る。恐怖を感じないはずの心が竦むような思いだった。

 東雲が危害を加えられたと聞いた時から不意に湧き上がる強烈な怒りの正体も、今ならば理解できる。あれは、眷獣たちの怒りだ。第四真祖の眷獣たちにとって、東雲は宝だ。希望そのものである。自分たちと同一存在であるアヴローラの娘なのだ。危害を加えられて黙っていられるはずがなかった。それが、目の前で東雲が血塗れにされたとなれば、もはや我慢の限界だ。

疾く在れ(きやがれ)ッ、獅子の黄金(レグルス・アウルム)ッ!」

 


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