二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 検査の結果は問題なし。ただし、経過観察は必要という主治医の意見付きだった。結局、凪の身体については分からないことが多く、はっきりと今後の見通しを立てることができないままだ。人間の身体としては問題はなくとも、霊的な部分で何かしらの障害を抱えている可能性は否定できない。それは目で見えないし、理屈で分かるものでもないので手の打ちようがなく、確認の術もない。とどのつまりは先のことは分からないというのが結論であって、それは他の普通に生きている人たちと何ら変わりのないことであった。

 検査の結果、すぐに治療をしなければならないものは見つからなかったというのが最大の成果だろう。第四真祖の眷獣を完全な形で召喚した影響は、今のところ現れていないし、呪詛を受けた左手は順調に回復している。日常生活への悪影響はほぼない。若干の痺れがあるくらいだ。

 恐らくはこれまでの人生の中で最も濃密だった年度が終わりを告げようとしていた。

 暁の帝国としても重大事案が多数発生した一年で、凪はその多くに巻き込まれている。自ら望んで鉄火場に飛び込んだわけではないが、トラブルが向こうからやってくるのだからどうにもならない。もとより、運がいい方ではないと思っているが、それでも巻き込まれた事件の大きさが大きさだけに無事に生き抜いてこれたのは幸運だったと言えるのだろうか――――。

 凪の退院を翌日に控えたその日、暁家はバタバタと人が出入りする喧噪の中にあった。

 大きな段ボール箱が次々と五十一階の空き部屋に運び込まれているのだ。

 高度なセキュリティに守られたタワーマンションの五十一階には、引っ越し業者であっても簡単に出入りはできない。荷物の搬入出作業ですら事前の打ち合わせが必要で、その上で認められた数人だけが実際に作業に当たることになるのである。

 大がかりな作業は必要ない。 

 生活必需品は揃っているので、それが使えるかどうかの確認と最新機器への更新が必要なものだけを選択して入れ替えるのみだ。この日、外から持ち込まれたのは冷蔵庫とテレビ、本棚だけで力自慢の獣人によるスピーディな搬入作業で午前のうちには部屋の中は物置状態から生活空間に整えられた。

「おー、いいじゃん。テレビ、ピカピカだし羨ましいなぁ」

 と、感嘆の声を上げたのは零菜だった。

 東雲が混沌界域から帰ってくるとなって、そのための生活空間を確保するための引っ越しだ。大きな荷物は業者が搬入するとしても、小物類は最終的には東雲が開封して整理しなければならない。そのため、家族で東雲の引っ越しを手伝っているのである。

 とはいえ、今日は平日の昼間である。

 大人たちは仕事で外に出ている。

 春休みの中学三年生二人と萌葱の三人が、手を貸すことのできる最低限の人員であった。

 物置として使っていた部屋だが、それはあくまでも一部だけだ。ここは、もともと五年ほど前までは東雲が起居していた部屋である。東雲が帰省した日には、寝泊まりできるようにしていたし、その程度の荷物しか置いていなかったのである。

「引っ越しってめんどくさいな、ホントに。これ、どうしよっかな」

 開けた段ボール箱の中から地球儀を取り出して東雲は首を傾げた。

「なんでそんなの持ってきたの?」

 段ボール箱を覗き込んだ萌葱が尋ねた。

「いや、なんとなく」

「余計なもんは持ってこなくてよかったじゃないの」

「そうかもしんないけどさ。何が余計かって、実のところよく分かんないなって。ほら、生活するだけなら、寝床と冷蔵庫があればいいわけだし?」

「だからって地球儀はいらんでしょ。いるならこっちで買ったっていいわけだし。あ、ほら、これも……ナニコレ?」

「それは、お守り」

「趣味悪くない?」

「旅行した時のお土産だから。現地の魔除けだって」

 金の鎖のペンダントだった。円形に形を整えた黒曜石に恐ろしい、それでいて剽軽な怪物の顔が正面を向いて描いてある。

「ゴルゴネイオンの仲間かなって。まあ、免税店で買ったヤツだから、ご利益はないんだけどね。なんか旅行とかするとさ、変なお土産買っちゃわない?」

「後から何でこんなんに金払ったんだろうって思うヤツね。分かる」

 お土産屋を巡った時の何とも言えない高揚感は経験した者でなければ分からないだろう。とりあえず何か買っておかないともったいないという焦燥感だったり、物珍しさに突き動かされて財布のひもが緩くなる。家に帰ってから後悔するが、旅の思い出の一つなので軽々しく捨てるのも気が引ける。しかし、だからといって普段から見て眺めることもしないので、机の引き出しの奥に眠ってしまうのである。また、それが忘れた頃に出てくると懐かしくなって捨てるに捨てられない悪循環を生み出す。東雲が混沌界域から持ってきたペンダントもその手の物だった。

「ま、とりあえず捨てないんなら机に仕舞うしかないでしょ」

「だよね。……いや、いいや。もういっそ捨てよ」

 うん、と一人で頷いてゴルゴネイオンをゴミ箱に投げ込む東雲。結局捨てるのかと萌葱は嘆息した。昔の意味不明なお土産の扱いは冷静になってみるとこんなものである。

「東雲姉さん、この本ってどこに置く? リビング? 寝室?」

「それ、リビングの本棚に適当に並べといて」

「了解」

 麻夜の声に東雲が答えた。

 東雲の持ち物の多くは小物と漫画本だ。暁の帝国では電子化が主流になりつつある出版業界だが、混沌界域は旧来からの紙ベースの本がまだまだ主流である。電子化もしているが、広まっていない。よって、混沌界域で育ってきた東雲も基本的には紙の本に目を通してきた。

「本って嵩張るよね。この機に電子化したら? そういうサービスあったと思うよ」

 と、麻夜は言う。

 紙の本を電子化するサービスを提供する業者も存在している。

 このサービスは意外にも需要があって、紙を電子化することで場所を取らずに情報を保存できるうえに、半永久的に管理できるということで歴史資料等にも利用されている技術だ。

「紙ってのがいいのに。分かってないな、君たち」

「紙のよさが分からないってわけじゃないけどさ、これを見てるとちょっとね」

 東雲が持ち込んだ漫画本はざっと二百冊はくだらない。大きめの本棚を用意していたが、あっという間に埋まっていく。

 段ボールを運ぶだけでも重労働なのに、そこから本棚に本を移し替えるのも大変な作業だった。

「どうせ何年も読んでないのもあるでしょ、これだけあれば」

「まあ、それはそれ」

 東雲は手を止めて、新品も同然にピカピカのキッチンに向かった。

 小一時間ほど前に設置された家庭用の冷蔵庫を開いて、中からペットボトルのお茶を取り出す。

「ねえ、ちょっと休憩にしない?」

 と、三人に東雲は声をかける。

「今日は緑茶しかないけど」

 東雲はグラスに四人分の緑茶を注いでテーブルに並べた。

「みんな、ごめんね。休みだってのに、わざわざ手伝ってもらっちゃって」

「いいよ、そんな改まってお礼なんて」

「そうそう。どうせ、することなんて大してないんだしね」

 零菜と麻夜が席に着きながら答える。

「することがないってのも、いいんだか悪いんだか。青春らしさがないわよね」

「僕は一応バスケしてるから青春してるっちゃしてるよ。今日も午後に練習あるし」

「今日あるの?」

「あるよ。高等部との合同練習が五時まで」

「お疲れー。この暑い中でやるよ。あたしは無理だわ」

 萌葱が心底嫌そうに言う。

 母と違って運動が得意ではない萌葱は、体育会系のノリにはついて行けない。身体を動かすことにも、特に達成感を感じないし、楽しいとも思えないのだ。何よりも汗をかくし臭う。これは運動嫌いでおしゃれ優先の女子は大抵理由に挙げるだろう。

「そういえば、東雲ちゃん。アカネさんって、これからどうするの?」

 と、零菜は思い出したように言った。

 東雲の世話をするべく、メイドとして雇われていたアカネだが、東雲が暁の帝国に帰国するにあたってその去就が注目されていた。

「一緒にこっちに来ないかって誘ったけど、断られちゃった」

「え、そうなの?」

「うん。これを機に、貯めたお金で大学行くってさ。前々から考えてたらしいよ。わたしが、いつまでも混沌界域にいるわけじゃないってのは分かってたからね」

「ああ、そうなんだ」

「連絡は取れるし、別に寂しくもないけど」

 アカネは孤児だ。

 頼れる親戚はいない。

 アカネにとっても、東雲から離れて独自の道を行くのは大きなチャレンジになる。

 急な話ではあったが、だからこそこの機会を逃しはしないと決心したのだろう。

「アヴローラさんは、どうしてるの? なんか、こっちに来るって話になってなかった?」

「ああ、お母さんは、来月かな。来るの。混沌界域(向こう)にも来てくれたけど、仕事を落ち着けたら、ここに来る方向にはなってるって」

 アヴローラは先代の第四真祖であり、東雲の母親だ。かなり特殊な立場にある女性で、国外での活動を主にしているために、東雲と顔を合わせる機会もここ数年は少なかった。

 彼女は第四真祖がかつて刻んだ戦いの爪痕の調査に長年携わっている。アヴローラ以前の第四真祖の主人格は凪の力の源泉でもある原初(ルート)だ。原初は周囲の人々から固有堆積時間を奪うことで自らの力を底上げし、最強の吸血鬼として振る舞っていた。

 固有堆積時間の喪失は記憶や記録の喪失に繋がる。

 古代から活動の度に固有堆積時間を奪い続けたことで、第四真祖の正体は歴史書から失われ、伝説の存在となっていたのだ。

 第四真祖によって失われた歴史は、第四真祖の破壊の歴史だ。 

 アヴローラは牙城と共同でこれを解き明かし、再確認することで自らの歴史を見つめ直す活動をしている。

「凪が帰ってくるのは、明日か。なんか、そう考えると家族みんなが揃うのは久しぶりだね」

「そうかな? そうか、確かに、一緒に住むってなると五年ぶりなのか。東雲が出てってからだからね」

 萌葱が昔を思い返しながら同意する。

 東雲が家を出て、それから凪も一人暮らしを始めた。

 昔はこのマンションで一緒に暮らしていたのに、それぞれの事情で離れ離れになってしまった。それが、今になって元の形に戻りつつある。

 それは家族として喜ぶべきことだろう。

「テレビ、つけよ。リモコンは?」

「はい、これ」

「ありがと」

 零菜は麻夜からリモコンを受け取って、テレビの電源ボタンを押した。

 平日の正午前だ。

 数十年前のドラマの再放送か、あるいは情報番組くらいしか放送されていない。

「日本はちょうど桜の時期か」

 零菜は羨ましそうに呟く。

 西日本は徐々に桜が咲き始めた頃である。まだ満開には早いが、九州のほうが綺麗な桜が咲き始めている。

 暁の帝国の桜の時期は、もう終わりつつあった。

「ソメイヨシノってヤツが、ずらっと並んでるの一回ちゃんと見て見たくない?」

 と、零菜が言う。

「あれ、暁の帝国(こっち)にはないヤツだっけ?」

「ないよ。ソメイヨシノは相性悪いらしい」

「そうなんだ、知らなかった、なんで?」

「寒い冬がないと花が綺麗に咲かないらしい」

「へえー」

 麻夜は頬杖をついてテレビを眺める。

 暁の帝国にも桜の名所はあるが、日本の有名どころと比較すればずいぶんと小さい。

 最近のホットな話題は桜前線の北上だ。混沌界域のテロ事件は、事件から一か月経ち、犯人グループがほぼ壊滅して終息したこともあって暁の帝国での取り扱いはずいぶんと小さくなった。続報が入らない限りは改めて報道されることもないだろう。

 有名人の熱愛発覚とかコンビニ強盗のほうが大きく取り扱われるくらいには、世間の興味は移り変わっていた。

 東雲にとってはありがたいことではある。

 あの事件とはもう金輪際関わりたくない。事件についての報道も目に入れたくないし、耳にも入れたくない。

 身体に傷は残っていないが、ディアドラに弄られた感覚を忘れたわけではない。肉体的には元通りだ。一見すれば酷い目にあったとは思えないくらいに綺麗な身体になっている。だが、過去が消えるわけではないし、記憶を失うわけでもない。心に刻まれた痛みは今も東雲の奥深くを責め苛んでいる。混沌界域から暁の帝国に戻ってきたのも、東雲を家族の下に連れ帰ると同時に事件現場から遠ざけるためでもあったのだ。

「テレビつまんね」

「ストレートだね」

「ネタがないんかな。こう、どうでもいいような話を何十分もしなくていいよね。政治とか環境の問題とかなら分かるけど、芸能人のスキャンダルとかそこまで力入れなくてよくない? これなんて、その辺にいる一般の変な人の話題だよ? もう十分近くこのネタなんだけど」

「生活に必要のない情報ではあるね。ただ、受けはいいんでしょ。視聴率取れるネタじゃないとね。スポンサー厳しいからね。今はもうネットもあるし」

 萌葱はテレビには目もくれない。手元の携帯端末を弄っている。情報取得という点ではネットから情報を吸い上げるほうがいいというのが萌葱の判断だ。萌葱はインターネット上のあらゆる情報をかき集めることができる眷獣を持つ。真偽不明の情報が入り乱れるネット上で萌葱の解析能力は大きなアドバンテージになる。

「お、このドラマ見たことあるよ。懐かしいな」

 チャンネルを変えているとドラマの再放送に行きついた。

 姉妹が小学生の頃に放送していた人気ドラマだ。今見返すと、メイクや髪型が時代を感じさせる。

「あ、ここ覚えてる。見てた見てた、犬養の濡れ場」

「濡れ場とか言うなって」

 麻夜の明け透けな言い回しに萌葱が指摘する。

 犬養はドラマのヒロインだ。

 吸血鬼の主人公と人間のヒロインのオフィスラブを描いたドラマである。鈍感な主人公と素直になれない強気なヒロインという数十年前から使い続けられたありふれた関係性が「結局最後はくっつくんだろ」という安心感を最初から漂わせつつ、若干の山を設けて綺麗に十話で完結させたのでとても見やすいドラマだった。

 今では薄味に思えるが小学生だった当時の零菜たちにとっては、ちょっとしたラブシーンが刺激的だったのを覚えている。

 そして、まさに今テレビで再放送されているシーンは主人公とヒロインが結ばれた直後の吸血シーンであった。

「あー、懐かしい、これ。なんか、話題になったよね。この夜景をバックにした吸血」

「今見ると何てことないなって思うけどね。うーん、まあ血を吸うなら、こういうのもやっぱアリ?」

 主人公の自宅マンション。煌びやかな夜景からの吸血、そしてベッドシーンへの流れは当時大きな反響を呼んだらしい。それまでのじれったい関係性があったので、このシーンのクライマックス感は大きかった。

「今でも吸血シーンって言ったらこれだよね。よく特番で特集されてるみたいじゃん」

 東雲が暁の帝国に帰省するのは、季節の節目節目である。時期的にテレビは特番を組むことが多く、東雲は暁の帝国に帰ってくると決まって何かしらの特番を目にしていた。

 ドラマのラブシーンの人気投票では、この吸血シーンが上位に入っていることは珍しくない。

「この二、三話前くらいから血を吸ってもいい雰囲気だったよね」

 と、麻夜は言う。

「この二人は付き合うまでそういうの全然なかったからね。だからこそ、ここでやっと血を吸ったかってなるので、それまでにちょこちょこ血を吸ってたら台無し」

 と、萌葱が麻夜に重ねる。

「確かさ、この前の回で物置に閉じ込められるシーンがあったよね。そこで血を吸ってもよかったんじゃないかと思ったりもする。僕ならそうするかも」

「その時点では付き合ってないからね」

「付き合ってなくても、あの時点でイイ感じだったし。そこはもうガッといっていいんじゃないかと」

「そこは行ったらダメなんだよ。我慢して我慢して結ばれてからの吸血ってのが、ストーリーを盛り上げるんだから」

 麻夜と萌葱では見解の相違があるらしい。二人が議論している間にドラマはエンドロールに入っている。次回が最終回で、四月からは別のドラマの再放送になるようだ。

「機会が大事ってのは分かるな。やっぱ、血を吸うんなら、こう自然なタイミングって大事じゃない? せっかく吸血するんなら、分かり合ってるって感じでしたいじゃん」

「東雲いいこと言う。そうだよね。せっかくの吸血だもんね」

 萌葱が東雲の言に同意して頷く。

「零菜も麻夜も吸血経験者だし、その辺は一家言あるのかもしれないけど。吸血鬼なんだから、吸血シチュにはもうちょっと拘っていいんじゃないかと。ねえ、東雲」

「うん、ドキドキ感があるといいよね。まあ、夜景をバックに吸血なんて、うちらの中じゃ空菜ちゃんくらいしかしてないんじゃない?」

「空菜は毎日してるから」

 零菜が複雑そうな表情で言う。

 空菜は体質的に吸血が必須だ。凪と一緒に暮らし、凪から毎日血を吸っているのだから、「夜景をバック」に吸血するのは日常茶飯事だろう。ここは地上五十一階。暁の帝国の中心地だ。

「萌葱姉さんが言うほど、僕は経験豊富じゃないよ。必要に迫られて血を吸ったのは何回かあるけど、プライベートではしてないし」

「わたしはプライベート経験者です」

「何それ、初耳。東雲姉さんいつしたの?」

「みんなが混沌界域に来る前。ほら、時間はあったから」

 東雲のカミングアウトに麻夜は驚いたようだった。

 凪から血を吸ったことを東雲はまだ報告していなかったのだ。それどころではなかったし、混沌界域での一連の事件に触れるのをずっと避けていたからだった。

 あっさりと東雲がカミングアウトしたのは、話の流れもあるが、直接テロの件と関わりのない内容だからだ。

「…………東雲の吸血って上書きしたって奴じゃなくて?」

 萌葱は「???」と頭にクエスチョンマークを浮かべ、東雲に確認する。

「え、うん。凪君から血を貰ったよ。ちょっとだけね。一口だけだよ」

「ぇ、ぁ…………へー…………そ、そう。どんなんだった?」

「え、感想? え、それは……なんか恥ずかしいな」

 頬を朱に染めて視線を彷徨わせる東雲。

 まるでファーストキスの経験を問われたかのように初々しい反応だ。萌葱の声音がいつもよりも平坦なことには気づいていない。

「東雲ちゃん、凪君から吸ったんだ」

「まあ、ね。ほら、わたしだって吸血鬼だし、あの時はそういう雰囲気だったし、自然にね、なるようになったのよ」

 と、零菜の確認に対して東雲は嘯いた。

 嘘である。

 東雲は決して自然に吸血するような雰囲気に持ち込めたわけではない。むしろ、自然に任せていれば今でも血の味を知らないままだっただろう。彼女が吸血を経験できたのは、偏に意地もプライドもかなぐり捨てた全力の土下座外交の成果である。

 吸血は一般的に吸血鬼側が主導権を握っていると思われがちだが、現代において一方的な吸血は犯罪だ。両者合意の上で吸血するのが基本なので、立場はフラットだ。

 だが、稀に凪のように複数の吸血鬼から血を求められる者がいる。その場合、どの吸血鬼に血を吸わせるかの選択は血を吸われる側にある。吸血鬼は一転して選ばれる側になり、血を吸わせてもらうという立ち位置になる。

 それでも、吸血はした。東雲からすれば、吸血できるのなら凪に頭を下げるくらいどうということはない。むしろ、性格的に凪の上には立てないので、それでいいというくらいである。後悔はまったくしていない。過程はどうあれ、東雲は胸を張って吸血経験者だと言えるのだから。

「ぶっちゃけ、A10神経ぶっ飛んだぞ」

「それ、日常生活に戻れないんじゃ?」

 東雲の冗談めかした言葉に麻夜は苦笑する。

 吸血が快の感情を呼び起こすのは周知のとおりだ。麻夜も東雲と同じ血を啜っているのだから、東雲のジョークは盛り過ぎにしても、近しい感覚を知っている。

 吸血は、嵌る人はとことん嵌る。種としての本能が、それを求める。

 妹たちの会話ので笑えない姉が一人。

(嘘、経験ないのあたしだけ……?)

 妹たちの会話がどこか遠くに聞こえる。

 なんだかんだで東雲は仲間だと思っていたのに、蓋を開けてみたらいつの間にか大人になっていたのだ。

 凪と過ごす時間は限れらていたはずの東雲が、凪から血を吸っていたという事実は萌葱にとって衝撃的過ぎた。

(一緒に住んでる妹たちはみんな吸血経験あり? あたし、一番年上なのにみんなの話について行けてない? え、え、え……?)

 もはやショックが大きすぎて言葉が認識できない。

 吸血鬼として一番重要な部分で明らかに出遅れている。周回遅れにされているような気分だ。

 零菜と麻夜と東雲で吸血談義を始めている。それを隣で聞きながら、萌葱は愛想笑いで相槌を打つばかりで、ひたすら気分が沈んでいくのだった。

 




凪「萌葱姉さんがぬとねの区別がつかなそうな顔している」

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