二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 春休みも後半に入り、いよいよ入学式が近づいてきていた。

 このところ天気のよい日が続いていて、ビルの間から見える空は真っ青だ。全国的に高気圧に覆われて雲一つない晴天となっている。風もそよ風程度で、気温も高くない。比較的涼しい心地良い春の一日であった。春うららとはこういった気候を言うのだろう。出不精の凪であっても、こうも心地よい日は国立自然公園にでも散策に行きたくなってくる。以前住んでいたマンションからなら歩いても行けるくらいの場所にあった広大な自然公園は、今も多数の親子連れで賑わっていることだろう。

 もっとも、今日の凪の目的地は自然公園とは正反対の場所だ。中央行政区と第一北地区の境目の地域だ。自宅最寄りの駅からモノレールで六駅ほど離れた桜庭駅で下車し、幹線道路に背を向けてオフィス街の真っただ中に向かう。

 桜庭地区は、暁の帝国が誇るビジネスマンの街の一つだ。凪の暮らしている地域が行政機能を集約した政治の街である一方こちらは様々な企業の事務所が軒を連ねるビジネスの街であった。煌びやかな高層ビルが立ち並び、春休み中ではあるが学生の姿は少ない。凪自身、ここに来るのは久しぶりだ。普段はまったく用事のない地域だけに、土地勘がないと言っていいくらいだ。

 暁の帝国に生まれ育って十五年。凪が足を伸ばした地域は、実のところあまりにも狭い範囲でしかないのであった。

「昔一度だけ来たことがあったけど、忘れちゃったな」

 ビルとビルの間を抜けていく。手荷物は筆記用具を入れたリュックサックとスマホだけである。スマホのナビに従って駅から歩くこと十五分。途中、曲がるところを間違えて余計に時間を食ってしまったものの、遅刻せずに目的地にたどり着くことができた。

 見上げるビルにはいくつもの看板がかかっている。飲み屋の看板が二つ。エステサロンの看板が一つ。IT関連会社と思われる看板が一つ。そして、民間の攻魔業者の看板が一つだ。凪はこのうち、攻魔業者に用事があってやってきた。

 事務所はビルの五階にある。個人経営の事務所なので、大きくはないが確かな実力と実績を重ねてきた業界の有名どころだ。

 エレベーターで五階に上がり、事務所のドアを開ける。

「失礼します。今度お世話になる、昏月で――――」

「超必殺秘儀、十王滅却キぃぃック!!」

 舌足らずな高い声とともに何かが凪の顔面に向けて飛んできた。

 放物線を描く何かを凪の動体視力は瞬時に見て取った。それはまだ小さい女の子で、これを避けると地面に真っ逆さまになるであろう。

「ぬおおッ」

 避けることは簡単でも避けてはならないと判断した凪は、受け止める決心をした。

 体重は十五キロ前後だろう。それが、勢いをつけて飛んで来たのだから、想像以上の衝撃だ。受け止めはしたがそのままひっくり返って尻もちをついてしまった。

「んぎゃ」

 カエルがつぶれたような声が腹の上でした。

「お、誰?」

「こ、こんにちは」

 ぱっちりとした大きな黒目の女の子だ。凪の顔を覗き込んで小首を傾げている。

「え、あ、ちょ……何してんの優香!?」

 事務所の奥の方から女性の悲鳴染みた声が聞こえてきた。

 

 

 

 ■

 

 

 

「ごめんねー、昏月君。うちの娘、最近ヒーローものに嵌っちゃって」

「いや、大丈夫です。怪我もなかったみたいですし」

 事務所に上がった凪はソファに腰かけた。

 向かいに座るのは、この事務所の所長夫人、宮住優乃である。獣人ではあるが、完全な獣化ができない体質らしく、常に獣耳だけが頭の上にちょこんと乗っている。

 そして、先ほど凪に飛び掛かって来たのが、優乃の一人娘である宮住優香。今年で四歳になる彼女は、瞳や夏穂と同じ保育園に通っているらしい。

 今日は、本当は事務所が定休日ということで娘が事務所を遊び場にしていたのである。

 さすがに獣人の血を引くだけあって身体能力が高く、飛び跳ねていたところに凪が顔を出してしまったのだ。

 もっとも、凪がいなければドアに激突するコースだっただけに、凪のおかげで修繕費が出なくて済んだと優乃はほっとしていた。

「今日、琉威さんは?」

「所長は家。昨日の夜から今朝まで出ずっぱりだったからね」

「夜勤ですか。大変ですね」

「魔獣は夜に動くことも多いからね。あなたも本格的にこの業界でやるんなら、カレンダー通りの休みは取れないかもしれないってことを覚悟しないといけないよ」

 攻魔師として働くには中卒資格が攻魔師免許とは別に必要だ。四月から高校生になる凪は、無事に攻魔師として活動することが認められるわけである。

 そこで、凪は昔から付き合いのある宮住家が経営する事務所でアルバイトをするべく試験を受けたのだった。

 人形遊びを始めた娘を離れたところに置いて、優乃は書類を凪の前に並べ始める。契約書と誓約書だ。

「ここに名前と印鑑。後、一番下に給与の振込先ね。契約内容は今のうちきっちり読んで、疑問があったら聞いてね」

「はい」

「あ、そうそう。こっちもいるんだった。攻魔業保険、入ってもらわないと」

「やっぱ、そういうのあるんですね」

「もちろん。義務じゃないけど、危険を伴う仕事だからね。普通はみんな入ってるし、うちだったら全員に義務付けてる。保険料は半分は事務所負担で残り半分は給与天引きだから気を付けてね」

「なるほど。つまり、出勤しないと……」

「赤字だね」

「あるんですか、そういうの」

「昏月君の保険料だと、そんなにしないから普通はないよ。月に二日以上出てくれれば、計算上は給料だせるはずだし。まあ、すぐ退職したりすれば別だけど」

「ちなみに赤字になった場合はどうなるんですか?」

「こっちから昏月君に請求しなくちゃいけなくなるかな」

「仕事で出てるのに請求されることもあるんですね。速攻で辞める人が悪いとはいえ」

「そういうこともあるから、すぐに仕事を辞めると損することもあるんだよね……と、話が逸れた。昏月君は、最初は簡単な事務をしてもらうから、あまり気負わなくていいよ」

「むしろ、事務のほうが経験少なくて緊張するくらいです」

「その歳で実戦経験豊富なのは頼り甲斐があるんだけど、手放しに喜んじゃいけないことなんだろうね。……ともかく、まずは事務からだから。将来、攻魔師やるにしても、事務知らないと苦労するよ。殴り合うだけが仕事じゃないからね」

「はい。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくね」

 必要書類を提出して、凪は事務所を出た。

 契約は四月一日からである。

 凪としては、このまま仕事の触りだけでも経験させてもらいたかったが、それはできない相談だった。

この前、中学校を卒業した終えたとはいえ、制度上は三月三十一日まで中学生なので、就労はできないのだ。

 宮住攻魔師事務所を出ると、ちょうどお昼時になっていた。道行くサラリーマンも、足早に近くのコンビニやラーメン店に駆け込んでいる。

 土地勘のないこの場所で店を探してもいいがサラリーマン軍団に交じる気はなかった凪は、三駅離れた絃神島北駅近辺を散策することにした。この辺りは桜庭と異なり世代を問わず多くの人々が行き交う煌びやかな電気街だ。

 複合ビルの中には多くの家電量販店やゲーム、アニメの専門店が入っていて、さらに劇場や博物館、水族館などなど観光施設もひしめき合っている暁の帝国随一の観光地である。

 観光をするもよし、安くていい物を探して買い物をするもよしの賑やかな街である。

 ここなら食べ物にも困らない。

 せっかく外に出たのだし、新生活に向けた大きな第一歩を踏み出したのだからと少しだけ気分が高揚していた。多少、値の張る物を食べても罰は当たらないだろうと思って、この人混みの中に足を踏み入れたのだ。

 結果的にそれは少し誤りだったかもしれない。

 なるほど、確かにこの街には多くの飲食店が出店している。より取り見取りで、一日ですべてを回りきるのは困難だろう。

 しかし、そんな飲食店も多くが春休みを謳歌する学生たちによって埋め尽くされていた。大抵が仲の良い友人と連れ立ってのもので、独り身はほとんどいない。こうした中に入っていくのは少しばかり気が滅入る。第一、並ぶのが面倒だ。ここまで来たはいいが、結局はコンビニで済ませるのが一番楽なのかもしれないと思い至ったところで、

「あれ、凪君じゃん」

 と、声をかけられた。

「麻夜?」

「おっす、こんなとこで何してるの? 今日は宮住さんのとこに行くんじゃなかったっけ?」

 凪と同じ時間に家を出た麻夜とは、三時間ぶりの再会である。今日、宮住攻魔師事務所に行くのも伝えていたので、不思議がっている。

「宮住さんのところには、今行ってきたとこ」

「そうなんだ。で、それが終わってここに来たと。誰かと待ち合わせかな?」

「残念ながら。昼飯どうしようかと思ってぶらついてたところ」

「へえ、そう」

 麻夜は頤に手を当てて考え込む素振りを見せる。

 細身のジーンズを愛用する麻夜は、身長こそ平均よりも少し高いという程度ではあるが、すらりとした長い脚を強調しているせいか実際よりも高身長に見える。

「麻夜は何か買い物?」

「ん? ああ、僕は本を探しに。通販でもいいけど、自分の足で探すと思わぬ発見があったりするからね」

「ああ、それは分かる。収穫はあった?」

「まあまあ。井口ゆうこのまさかの新作にうっかり手を伸ばしそうになっちゃったくらい」

「聞いたことある名前だ。何だっけ。少女漫画の人だったような」

「そうそう。ネットでもよく話題になるよ。詳しくは自分で調べて。井口ゆうこ、ゲテモノで検索すると一発だから」

「ゲテモノ……?」

 およそ少女漫画とは繋がらないワードにいぶかしむ凪ではあるが、井口ゆうこの名は暁の帝国のみならず日本でも有名だ。

 十年余り前に発売した漫画があまりにも衝撃的過ぎてネット上がお祭状態になった。多くの女児が性癖を拗らせるきっかけになったといい、今でも「性癖返して」とか「性癖盛り過ぎおばさん」などとコメントされている。

 とりわけ、悪名高い『あにぃも』は、兄と妹の禁断の恋を謳った迷作である。兄に恋する妹が紆余曲折の末にその想いを遂げる前編と突如現れた弟が変身したイカに兄を寝取られる後編で評価が大きく変わる。子ども向けの少女漫画でそんなものを出してしまうものだから、多くの女児が被害を受けた。漫画を取りそろえる図書館ですら、後編のみ閲覧禁止にするくらいである。「前編で終わっていれば名作だった」という意見が多数を占める中、近年、そのぶっ飛んだ内容がネタとして定着し、再評価が進んでいる。

「ま、それはそれとして。凪君もお昼はまだなんでしょ?」

「そう。これから」

「なら、ちょうどいい。僕と一緒に来ない? 行きたいところがあったんだけど、一人だと入りづらくてさ」

「そういうことなら」

 断る理由もない。

 凪も一人だと入りにくいと若者でごった返す飲食店に入るのに二の足を踏んでいたところだったのだ。

「で、どこ行くんだ?」

「黒猫堂」

「それって前に行かなかったっけ?」

「あれの二号店が、最近オープンしたんだよ。ちょうど、そこの角を曲がったとこにね」

「ああ、そうなの」

 黒猫堂は、六月に麻夜と一緒に行った店である。カップル限定を謳ったパフェを麻夜が食べるために、凪がついて行ったのである。

 流行り廃りの激しい飲食業界ではあるが、二号店を出すまでになるということは、それなりの儲けがあるのだろう。

 凪が麻夜に連れられて向かったのは、大型ショッピングセンターのダナエーである。その一階に、黒猫堂の二号店が出店していた。

 黒い看板に黒猫堂二号店と白字で書いてある。

 到着したとき、お昼時を僅かに過ぎていたからか、ちょうどよく並ばずに席に着くことができた。

 麻夜は初めから何を注文するか決めていたようだ。メニュー表を眺めたのは、確認のためである。

「そしたら、僕はこのパンケーキにするよ。黒猫ベリー全乗せで。君は?」

「……オールスターにする」

「量はそんなでもないよ、それ」

「米も欲しい気分。腹減った」

 凪のオールスターは、ライスとサラダに小さなパンケーキがついたランチメニューの一つだ。もともと、女性客を意識したメニューが多く、育ち盛りの凪が満腹感を得るには物足りないところはある。

「凪君、僕に合わせてくれてる? がっつり食べたいなら、別にそういうのでもいいけど?」

「合わせてないよ。それに昼からがっつり食べるほど、食欲旺盛でもない」

 と、凪は言ってから。

「甘いのも食いたかったし」

 と、付け加えた。

「そう。なら、よかった」

 パンケーキが出てくるまで、十分ほどの時間があった。

 ほぼ毎日顔を合わせている上に、麻夜とは魔術面でもよく話をする。凪にとって魔術は護身術だ。今となっては昔のことだが、かつての凪は病弱で、身体能力で劣っていた。その一方で、やはり魔族や魔獣を惹き付ける体質は今と変わりないので、身を守るために魔術の知識が必要だった。

 麻夜は魔女の子である。悪魔と契約していない麻夜は魔女ではないが、魔女の知識の多くを学んでいる。体系化された魔術ならば悪魔と契約していなくても使うことができるし、話を聞いているだけでも面白い。 

 男女の会話というには色気がないが、何年も前から凪と麻夜は魔術という共通の趣味で会話を成立させてきた。

「そういえば」

 と、麻夜はふと思い出したように凪の左手を見た。

「それ、まだちゃんと治ってないの?」

「ああ、これ。もう少しかかるんじゃないかな」

 凪の左手は、まだ白っぽさを残している。傍から見れば片手だけ日焼けしていないように見えるというくらいには血の気が戻ったが、事情を知る麻夜から見れば、まだ元通りになっていないというのは心配だ。

「一か月経つよね?」

「診てもらってるけどね。紗矢華さん曰く、落ち着いてるから下手に刺激しないで自然と抜けるのを待った方がいいってさ」

「そういうものかな」

「エネルギー切れてるからな、これ。呪詛って言っても、大本はディアドラへの恨みつらみなわけだし。一緒に戦ったからね」

「凪君はむしろ戦友ってこと? 呪う相手がいなくなって、満足しちゃったってわけかな」

「そういうことみたい。俺への害はないよ。他の人にも影響ないし。ほっとけば霧散して、いつの間にか消えてるだろうって」

「紗矢華さんが言うなら、そうなんだろうけどね」

 麻夜が見ても分かるくらいには強力な呪詛だ。

 原始的だが、強烈な恨みの念が籠っている。魔女術にもこういう怨念を使う術は多々あるが、正直、凪の左手の呪詛は薄らいでいるとはいえ、根源的な恐怖を感じてしまう。

 恨みつらみを利用した魔術は多種多様だ。それだけ、怨念は強い力と結びつくのだろう。負の感情の爆発力はすさまじいものがある。

「お待たせしました。こちら、黒猫ベリー全乗せになりまぁす」

 甘ったるい猫なで声の女性店員は、大学生のアルバイトだろうか。

 麻夜の目の前に置かれたプレートの上には三段重ねの薄焼きのパンケーキの上に、たっぷりとイチゴ、ブルーベリー、ラズベリー、カシス、アカスグリの実を並べ、ブルーベリーソースと生クリームもたっぷり使った一品だった。

「そして、こちらがオールスターランチです。ごゆっくりどうぞ」

 麻夜のパンケーキは想像以上にがっつりしたものだった。ランチメニューを頼んだ凪のほうが少食のように見える。

 ごはんと目玉焼きとサラダとわかめスープに小さなチョコソースをかけた二段重ねパンケーキである。

「凪君、それ足りる?」

「腹八分にはちょうどいい。というか、麻夜のほうは結構な量に見えるけど?」

「これくらいなんともないよ。女子の別腹を舐めないでもらいたいな」

 不敵に笑う麻夜はフォークとナイフを手に取ってから、思い出したようにスマホのカメラ機能で写真を撮った。

「おっと、待って凪君。そっちも撮るから」

「好きだね、そういうの」

「情報共有のためにね。ここの店のこれが美味しかったっていうのは、結構話の種としては上等なんだよ。とりあえず、ライムっと」

 ポチポチ画面をタップしてから、麻夜はスマホをカバンに仕舞う。

「さてと、いただきます。あ、いいよ、凪君。もう食べて」

「ん、それじゃ、いただきます」

 凪のそれは簡単に昼食を採るついでにパンケーキを楽しみたい人向けのメニューなので、とりわけ話の種になりそうなものでもない。「普通に美味い」という程度の感想しか抱けないのは、凪が食に拘りがないからか、それとも表現能力が欠如しているからか。

「うんうん、これいいよ。すごくいいよ。酸味と甘さのバランスが絶妙だね」

「麻夜も好きだね、そういうの」

「何? なんか変?」

「いいや、全然。それ、甘すぎない?」

「むしろ、酸味が勝ってるかも。ベリー押しなだけあってね」

 パクパクと麻夜はパンケーキを口に運ぶ。かなり気に入ったようだ。お姫様の一人が常連になるのなら、この店も安泰だろう。

「凪君のパンケーキはどうなの?」

「甘めのチョコ使ってるよ」

「凪君の苦手なヤツじゃない?」

「苦手じゃないよ。苦いほうが好きってだけ。チョコとして味わうもんでもないでしょ、これは」

「まあ、確かに」

 女性向けメニューというだけあって、少な目だったので凪はそうそうにメインディッシュは食べ終えてしまい、デザートのパンケーキを残すだけとなった。自分だけ食べ終えるのも、麻夜に悪いので、コーヒーを啜りながらペース配分をしていると麻夜の視線が凪のパンケーキにちらちら移っているのに気付いた。

「何、気になるの?」

「え? ああ、それどんなかなって」

「なんだ、麻夜も食うか?」

 凪はフォークでパンケーキを一切れ取って、麻夜に差し出す。チョコソースと生クリームを付けるのも忘れていない。

 麻夜からすれば、自然に、それでいて急に「あーん」をされるのだから戸惑う。心の準備ができていない。

「……君って時々そういうことするよね」

 小さくため息交じりに恨み言を呟いてから、麻夜は口を開けて凪のパンケーキを頬張る。何より麻夜を困らせるのは、こういう行為が嫌いではないということだった。

「ん……美味しい。こっちの酸味の後だからかな。余計に甘さが際立つよ」

「そう? もう一切れ食う?」

「食わない」

 そう言って、麻夜は自分のパンケーキにフォークを突き立てから、凪に向ける。

「はい、お返し」

「ん……?」

「ほら、早く。そして僕の気持ちを味わえ」

 有無を言わさぬ麻夜の口調に凪は気圧されつつ、黒猫ベリー全乗せを口に入れる。途端に広がるベリーの酸味と生クリームの甘さのコントラストに感動すら覚える。甘さを強調した凪のパンケーキに対してこちらは酸味と甘さのバランスを重視している。酸味を強めに出すことで、甘さを苦手とする客でもパンケーキを楽しめるのだ。

「うん、これは美味い。甘すぎないから量があっても行けそうだな」

「でしょ」

「……なんか気恥ずかしいな」

「……だから、僕の気持ちを味わえって」

「悪かったよ」

「まあ、別に、グルメ・デ・フォアグラは人前でするもんだし? 別に恥ずかしくもないけどね」

「もうちょっと別の例えはなかったのか、それ」

 麻夜は白い歯を見せて笑顔を見せる。

 つられて凪も笑ってしまった。

 

 

 糖分多めの昼食を終えて、黒猫堂を出た凪と麻夜は、ともに手持無沙汰になったことに気づく。凪も麻夜もこの日の予定を午前中のうちに終えていたからで、このままモノレールに乗って家に帰れば、一日の仕事は終了だ。しかし、ここは国内でも有数の大型ショッピングセンターダナエーである。ぶらつくだけでも色々と興味を惹かれる物に出会えるのは言うまでもなく、少し見て回ることにした。

 百円均一のアイデア溢れる新商品を眺めたり、小物を眺めてみたり、花屋で観葉植物を見たりもした。とにかく敷地が広く、多様な店が軒を連ねているので出口すら分からなくなりそうだった。

「ねえ、凪君。次、ここ入ろうよ」

「ゲーセン?」

「そう。せっかくだから、二人じゃないとできないことしよう」

 麻夜はそう言うや恐らくはこの辺りで一番賑やかなゲームセンターに入っていく。四方八方から電子音が響く中で、麻夜が向かったのはエアホッケーだった。

「最近、全然してないな、これ」

「うーん、童心に帰っちゃうね。アハハ、懐かしい」

 ゲームセンター自体、凪も麻夜もあまり利用しない。子どもの頃に家族で訪れた時にエアホッケーをみんなで楽しんだことがある。旅行先の温泉旅館に据え置かれているゲームコーナーにも、エアホッケーがあって、寝る前に軽く汗を流したのを思い出す。

「壊さないようにしないとなぁ」

「もちろん。弁償は後味悪いからね」

 子どもの頃とは筋力が違い過ぎる。吸血鬼の筋力で本気を出せば、機材を故障させかねない。楽しむためにも力加減をしなければならないのだ。

 運動能力は麻夜のほうが高い。残念ながら、素の力では凪は麻夜には及ばない。純粋な吸血鬼は、それだけ身体能力が人間よりも秀でているのだ。

 それでも、エアホッケーは力をセーブしなければならない。全力を傾けられないのなら、凪と麻夜の力関係は五分五分になる。後は技術とずる賢さだ。

 三戦して凪が二勝。麻夜は納得いかないと言ってさらに二戦追加し、結果、凪は四勝一敗の好成績だった。

「むぅ……」

「まあ、若干麻夜が不利だったかもしれないけどな」

 むくれる麻夜を励ますように凪は言う。

 セーブしなければならない度合いは麻夜のほうが上だ。麻夜は自分の力を抑えることを意識しすぎて、反応が遅れたというのは間違いではない。もちろん、それは勝敗を分かつポイントの一つでしかない。凪の霊感が優れていて、素早く反応できたという反則もあるし、麻夜の責めが単調だったということもある。

「ああ、後これ」

「何?」

 凪は麻夜は小さな箱を渡した。

「そこのくじ引きで当たったヤツ」

「ああ、さっきの」

 それはゲームセンターに入る前に、偶々引いたくじ引きで当たったものだ。麻夜が黒猫堂でもらった券で引いたもので、四等賞だった。

「もともと、麻夜の券だっただろ」

「そうだけど、これ、シュシュでしょ? 僕、こういうのはあまり使わないんだよね」

 当たったシュシュは有名な織物メーカーが作ったものだ。ベージュの生地をブラックで縁取りするシンプルなバイカラーだ。

「麻夜は、確かにあまり頭に装備しないな」

「装備って言うな。帽子くらいは被る。ただ、髪はほら、こういうのつけて纏めるほど長くはないからね」

 麻夜の髪は暗めの茶髪でショートボブだ。長い髪に比べれば、ヘアアレンジの幅は狭いしセンスを問われる。

 ショートでもシュシュを使うことはできる。ただ、麻夜はそういった技術を今まで遠ざけてきた。

「何ていうか、可愛い系は似合わないと思うし」

 合う合わないは人それぞれだ。麻夜はかっこいい系のファッションを今までしてきた。スポーツを続けるに当たって動きやすい格好を好んだ結果、自然とそういった衣服が集まったのだ。そして、ある程度固定観念が固まってしまうと、そこから抜け出すのに勇気が必要になってくる。

「似合わないってことはないだろ、さすがに」

「……そう? 髪短いけどなぁ。シュシュは長い人のほうがいいと思うけど」

「短くても使えるんじゃないの? それに髪は伸ばしてもいいわけだし」

「伸ばす? 伸ばすかぁ……どうかな」

 麻夜は自分の髪先を弄る。

 可愛い系かかっこいい系かを決めるのは、個々人の自由だ。しかし、同時に似合うかどうかは、似合うように調整すればいいだけの話である。よほど個性的な体格をしていない限りは、あるいはよほど個性的なファッションでない限りは似合わないというような事態にはならない。麻夜の手にあるシュシュはシンプルなデザインなので、使いどころには困らないはずだ。

 結局のところは、麻夜が自分に枷を嵌めているだけなのだ。

「ちなみになんだけど、髪を伸ばすのは凪君的にはアリだと思う?」

「全然アリ」

「そう」

 麻夜はカバンを開けてシュシュの入った箱を仕舞った。

「使う?」

「さあ、分からない」

「そう」

「初めからナシなのはもったいないから、検討はしてみる」

「じゃあ、気長に検討結果を待つよ」

「待たなくてもいいよ、別に」

 麻夜は気恥ずかしそうに頬を赤らめて、そっぽを向いた。

「もう帰ろ。なんか疲れたし」

 と、麻夜は提案する。

 夕暮れにはまだ早い。しかし、歩き疲れたし、することもなくなった。麻夜と連れ立って、凪は駅に向かった。


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