年度が変わり四月になると、いよいよそこはかとなく落ち着きがなくなってくる。春休みの終わりが見えてくるからである。
暁の帝国は日本と同じく四月から新学期である。始業式は概ね第二週の月曜日からなので、春休みは残すところ七日である。
そして、暁萌葱にとっても待ちに待った完全なる長期休暇である。
というのも、彩海学園の春期補講が三月末まで継続していたからである。これは萌葱の成績が悪いということではなく、進学校らしく受験対策に春休み中も午前中だけ授業があるのである。
受験を特別意識していない時期にこれをされても、嬉しいはずもなく、傍迷惑に感じているばかりであった。
ともあれ、春休みとは名ばかりの補講期間がやっと終わり、萌葱は晴れて春休みを満喫できるようになった。
たった七日しかない自由時間。それが終わればまた代わり映えのない学校生活が始まる。学校は嫌いではないが、めんどくさいと思うのもまた事実。春休みの特別感を短い間に味わいつくすにはどうするべきか。有意義で後悔のない使い方をしたい。
夏にも冬にも大きなトラブルがあり、悪いことがたくさんあった一年だったのだ。春休みくらいは何事もなく普通に安心して楽しみたい。
鼻を突くのは消毒液の匂いだろうか。
不快ではないが、どことなく病院を思わせる匂いは清潔さのアピールだろうか。
綺麗に整頓された室内には、汚れがなく毎日のように掃除されているのが分かる。
実際、ここはかなり清潔に保たれているという印象だ。
部屋の中には大きな液晶モニターがあり、円形のガラステーブルとゆったりとしたソファが鎮座している。壁紙は目にも鮮やかな花柄で、全体的に綺麗に纏っているものの落ち着きがないという雰囲気であった。
蛍光灯が十分に明るいので困る事はないが、部屋に窓はなく外の様子は分からない。しかし、時折聞こえてくる大きな雷鳴やビルを震わす風の音を聞く限り外は大荒れのようだった。
萌葱は一人、ソファに腰掛けて盛大にため息をついた。
頭にはタオルを巻いていて、身体にはバスローブを羽織っている。水が滴る衣服は、クローゼットにかけて魔術を使って乾かしている最中である。
落ち着かないのは部屋の内装だけでない。萌葱自身もそうである。キッチンがないだけで、それ以外の機能はすべて網羅しているとばかりに快適な部屋だ。室温は少し寒いくらいだが、空調は自由に調整できるので気にならない。
なるほど確かに休憩するには快適な空間だ。人目を気にしなくていいと言うのも悪くはない。とても清潔感があるというのもポイントが高い。
ベッド脇に当たり前のように置いてあるコンドームの袋や玩具の自販機に目を背ければ、普通のホテルといってもよかった。
「はあ……なんで、また」
どうしてこんなところに来てしまったのだろうと萌葱は頭を抱えた。
何を隠そう、ここは男女交際の果てに辿り着く聖地であり欲望の集積地ラブホテル。暁の帝国がかつて絃神島と呼ばれていた時代から続く正真正銘のピンク街にある老舗ホテルの一室であった。
萌葱はこの部屋に入ってからずっとソファに座っている。
部屋の角にはガラス張りの浴室があって、シャワーの音が聞こえてくる。ガラスは曇って中は見えにくい。これもラブホテル独特の構造だ。
すぐに、シャワーの音が止まった。
そして、ドアを開いて、中から暖気と共に少女が出てきた。
「おーし、上がったよ。萌ちゃん、その格好寒くないの?」
頭をタオルでゴシゴシと擦って水気を取りつつ、尋ねてきたのは東雲だ。
透き通るような白い肌はシャワーで火照ってそこはかとなく朱に染まっている。実年齢より幼く見られるのが嫌だという顔立ちも、中南米の基準の話であって、暁の帝国ではそこまででもないだろう。平均より低い背丈という点は変わらないものの、概ね歳相応ではないだろうか。
「はーぁ」
「人を見るなりため息つくのは失礼では?」
「別に東雲がどうってことじゃないわよ。ただ、世の不条理を嘆いてんのよ。なんで、初ラブホが妹と一緒なんだってね」
「こっちの台詞ですけど」
萌葱もそうだが、東雲もこういった施設には縁がなかった。萌葱にとっての初体験は東雲にとっても初体験になるのだ。
「あんたが『行こうぜ』みたいなノリだったじゃん」
「萌ちゃんだって断わらなかったじゃん」
東雲は備え付けのバスローブを身体に巻きつけて、ベッドに座った。
「そりゃ、わたしだってちゃんとした機会に来たかったけどさ。この辺、ほかに何もないじゃん。コンビニでもあれば、よかったけどさ。そうすれば、傘だって買えたし」
萌葱と東雲がいかがわしいホテルに入ったのは、互いにその気があったというわけでもなく偶発的な事故のようなものだ。
今日の午前中、萌葱と東雲は揃って事件後の経過観察のために病院を受診していた。主治医は深森なので気がねすることがない。
予約していても、時間通りに受診できないのが大病院の常である。思いのほか長引いた検査を終えて、春の麗らかな陽気に当てられて郊外の公園で開かれているイベントを見に来たのが運のつきだった。
「まさか、こんな雨が来るとは思わないっての」
「まあね」
萌葱は呻き、東雲は苦笑する。
突如、湧き上がった暗雲がもたらした風雨に、何も準備していなかった二人はずぶ濡れになった。ちょうど近道しようとしていかがわしいホテルのある裏路地に入ったところだったので、そのままの流れでこの部屋に逃げ込んでしまったのだった。
「あーあ、これから、こういうとこに来るたびに萌ちゃんと来たのが頭を過ぎるんだろうなー」
「そういうこと言うの止めてよ。てか、あんたのほうがノリノリだったじゃないの」
「そりゃ、まあ、ほら、興味本位というかね。友達はよく使ってたって言ってたし。なんだかんだで萌ちゃんだって興味があったからついて来たんでしょ?」
「べ、別に興味とかそんなの……」
萌葱はさっと視線を逃がしたが、その先にあったのは玩具の自動販売機だ。
「何、あれに興味あるの?」
「ないわよ!」
東雲のからかい混じりの笑みにかちんと来る。
「あんたはさっさと髪を乾かして来なさいよ。風邪引くでしょ」
「分かってるよ。ドライヤーまであるんだから、本当に泊まろうと思えば普通に宿泊できるんだね」
洗面所に備えつきのドライヤーで東雲は髪を乾かし始める。
萌葱は脱いだ衣服の乾燥具合を確かめ、カバンから取り出したオレンジジュースで喉を潤した。
確かに東雲の言うとおり、風呂もトイレも空調もしっかりしているし、ルームサービスまであるという充実ぶりで、ただの宿泊目的でも困らない作りだ。
場所によってはビジネスホテルよりも安く泊まれるところもあるようだし、面倒なチェックインの手続きも必要ないので、楽に使える。旅行で宿泊費を安く抑えたい時に、使うことがあると聞いたこともあるが、これなら納得ではある。
強いて言えば窓がなく、外の光を取り込めないのが難点だが、それはこのホテルの用途を考えれば当然の構造だ。
テレビも大型の液晶テレビだ。二、三年前に登場したモデルである。このホテルはそれなりに儲けがあるのかもしれない。
そう思いつつ、萌葱はリモコンを手に取りテレビをつけた。
髪の手入れは面倒だが、人は第一印象が七割だとよく言う。とりわけ、顔は重要であって、というのも人間の目線の高さがまさに顔のある位置にあるからである。他人を区別するときに、顔を見ない人はまずいない。そして、髪というのはまさに顔を印象付ける重要な部位であり、同時に一番手を加えやすい部位であるとも言える。
メイクを変えなくても髪型一つで印象は変わる。
東雲は姉妹の中で唯一、生まれた時から金色の髪を持っている。その上、この髪はアヴローラに由来する特異な色合いで、薄らと虹のように輝くのだ。
東雲はあまり自分の身体には自信がない。背は低いし、童顔で、恐らくは今後大きく変わることはないだろう。頑張っているが、こればかりは仕方のないことだ。胸も零菜のように明確に大きいと言えるほどではない。しかし、この髪だけは別。東雲だけの綺麗な色合いで、内心で自慢に思っているのだ。
肩に毛先が届くくらいの長さに揃えているのは手入れのしやすさと見た目を天秤にかけた結果だ。長いと手入れが大変になるが、短いとどうしても童顔が強調されてしまう。今が自分としてはちょうどいい長さであった。
「ちょっと、パーマしてみようかな」
毛先を見ながら東雲は呟く。
今まではストレートを通してきたが、その状態を維持したまま毛先だけゆるく内巻きにしてみるのもいいかもしれない。
萌葱行き着けの美容院があったはずなので、後で教えてもらうことにしよう。
混沌界域から暁の帝国に帰ってきたが、東雲にとっては故郷であると同時に未知の環境でもある。五年も離れて暮らしていたので、様々なことが新鮮であった。
東雲はドライヤーを片付けて洗面所を出た。
途端、聞こえてきたのはあられもない声であった。苦しげで、息も絶え絶えという感じ。しかし、どこか媚を売るような響きが妙に大袈裟に表現されている。
「あ、うわ、東雲ッ」
萌葱は飛び上がるようにびくんとして、慌てた様子でリモコンを押した。画面が変わり、毎日放送している見慣れたワイドショーになった。
「……さっきの雨、通り雨みたいだって。もうすぐ晴れるっぽい」
「あ、そうなの。まあ急だったから、そうなんだろうとは思ったけどね」
萌葱は顔を赤らめながら、必死に誤魔化そうとしているが声が上擦っている。
こうも分かりやすいと返って呆れるばかりだ。
一族の長女として肩肘張っているが、こうした話には妙に疎い。というよりも、どうも臆病なところがあるのだ。
妹の模範になろうと努力していて、だからこそ失敗を恐れてしまう。
東雲は萌葱のそういうところは好きだ。ただ、そういった性格なのでチャンスを活かせないまま終わることが時たまあるのが玉に瑕だとは思っている。
それはそれとして、東雲は萌葱に近付いて、リモコンを取り上げた。
「あ、ちょっと」
「えー何見てたのー?」
にやにやにしながら東雲はリモコンのボタンを適当に押す。
「はー、地上波だけじゃなくて衛星もちゃんと入るんだ」
まさかラブホテルで普通にテレビが見られるとは思っていなかったので、これは驚いた。そして、目的のチャンネルに到達する。
「…………その、けっこう過激、だね」
「…………あたしがつけようと思ってつけたチャンネルじゃないからね?」
「分かってるよ、大丈夫大丈夫」
そう言いつつ、東雲は生唾を飲んだ。
大型テレビは大迫力の視覚情報を提供する。画面の中で繰り広げられているのは、「まっとうな」プレイではなく、極めて特殊な嗜好の人向けの演出であった。
「潜入捜査官のくっころモノは、人気あんのかな? 男の人はこういうの好きだったりする?」
「あたしに聞くな。ていうか、いつまでもそんなのつけんな。もどして、元の番組に」
「えー、うん」
「なんでちょっと先が気になるみたいな反応してんのよ、あんた……」
東雲は言われたとおりにチャンネルを変えて、もとのワイドショーに戻した。話題は浄水場に侵入した子猫の捕獲騒動で、三ヶ月前にテロ事件の標的になった国の報道としては実に平和な内容である。
「まあ、こういうのは姉と見るもんじゃないなって」
「当たり前でしょ……」
ベッドの上に寝転がる東雲は、うつ伏せのままで床に置いたバッグを開けた。中から取り出したのは、病院で処方された薬であった。
「それ、いつまで飲むの?」
「さあ? 半年は様子見するみたいだよ」
「そんなにかかるの?」
「まあ、そんなもんじゃないかな。萌ちゃんは?」
「あたしはそういうの特にない。異常なしって結果だから」
萌葱はクリスマスに、東雲はバレンタインデイに拉致されている。
何とか救出され日常生活に戻ることができたとはいえ、そのときの辛い経験はなかったことにはならない。
萌葱にとって幸いだったのは、悪魔と融合した事実そのものが凪の眷獣によって巻き戻されたことであろう。結果的に後遺症が残ることがなかった。一方の東雲は拉致されていた数日の間に多数の薬物を投与されていた。吸血鬼を篭絡するために開発された強力な薬物だ。東雲が第二世代の吸血鬼ということで、効きが悪かったのが奏功したが、それでもまだ完全に薬効が抜け切っていない。
精神安定剤や睡眠薬も手放せないのが現状だ。少しずつよくなって来ているが、油断はできない。発作的に恐怖や不安が膨れ上がって、貧血になってしまうことが時たまある。
半年というのは、治療方針を決めていくための様子を見る期間であって、実際にはさらに長期に渡って影響を見なければならないのだ。
それでも、普通の人間と異なり東雲は強力な吸血鬼だ。
「お、吸血してる」
テレビのチャンネルを変えていくと、ちょうどお昼のサスペンスドラマの再放送をしているところであった。
「相変わらずの名誉毀損具合ですな」
と、東雲は冗談めかして言う。
吸血鬼を化物として描く作品は多い。人間社会と吸血鬼は、長らく対立していたため、政治的にも人間側は吸血鬼を貶める娯楽作品を好んで製作した時期があった。
数ある創作された吸血鬼の中でもドラキュラは成功したキャラクターの一つだ。
陽光や十字架、流水を嫌い、吸血によって仲間を増やす悪魔のような存在は大本の映画から独立して、一つの怪物像として成立していた。
こうしたドラキュラ映画は魔族差別的として嫌う風潮もあるが、暁の帝国では抵抗感なく娯楽作品として受け入れられている。
「吸血と言えばさあ、東雲、凪君から血ぃ吸ってる?」
「ん、まあ、何回か」
「ふぅん」
「いや、別に変なあれじゃないけど。他の娘もしてるし。空ちゃんなんてバンバンじゃん? わたしは、まだ言うて三回だけだし」
東雲が初めて吸血をしたのがバレンタインデイの直前だった。その後、期間が開いて春休みに二回、軽く吸血している。
吸血は吸血鬼にとってそこそこ重要な行為だが、血を吸われる凪はもうすっかり慣れてしまってあまり抵抗感がなくなっているようだ。それこそ、空菜に対してなどルーチンワークのようになっている。
もっとも、それは信頼関係が出来上がっていて、吸血に対して互いに理解しあっているからこそである。
「萌ちゃん、やっぱり興味ある?」
「いや、まあ、興味って言うか……」
「凪君、噛みたい的なあれ?」
「……最初、どうやった?」
「最初? あー、最初ねぇ」
東雲は一ヵ月半前のことを思い出す。
初めての吸血はとても大切な出来事である。性的な分野に関わるので、初めの一歩を踏み出せない思春期吸血鬼は珍しくない。
その一方で慣れてくれば自然と吸血できるようになる。相手との信頼関係を築いていることが前提だが、萌葱も東雲もその点はクリアしている。
凪は常に受け入れ態勢をとっている。後は吸血する側次第となるだろう。
「最初のときは、まあ、自然になるようになったって感じじゃない? まだみんな着てない頃だったし、一緒にいるうちに、こう、吸血の感じなってったわけ。雰囲気が大事なとこあるし、最後、じゃあ吸血してもいい? みたいな流れになったよ」
「どんな流れよ、それ。抽象的過ぎてまったく想像できないんだけど。てか、この前もそんな言い方だったし、実際どうなのよ」
萌葱は問い質すように尋ねた。一方の東雲は、初めての吸血について話をするのが気恥ずかしいというわけでは、もちろんなかった。
必死になって土下座までして血を吸わせてもらったというのが、恥ずかしいを通り越して情けないと思えたので、人に言いたくないのである。これは、凪と自分だけの秘密なのだ。相手が凪であれば、もういっそいくらでも土下座して構わない。一回したのだから、二回目以降も変わりない。むしろ、そんな情けない自分を楽しめるくらいだが、それはそれ。萌葱に知られるつもりはまったくない。
「こっちからお願いする形にするしかないけど、頼めばできるよ。凪君なら」
「そうかな」
「うん。萌ちゃんなら大丈夫。凪君、断わらないって。だから、一回頼んでみればいいよ。一回、噛ませてって」
「それでいけるもん?」
「いけるいける。相手、凪君でしょ? なら、いけるって」
あまりにも軽い感じで言う東雲に疑いの視線を向ける萌葱。
確かに凪は経験豊富だし、年頃の姉妹の中で萌葱だけが出遅れている感じがある。紅葉は遠方にいるので除外。あれは、なかなか読めない女だ。とにかく、凪の傍にいながら萌葱だけが吸血できていないのは由々しき事態である。これはどうにかしたいと思いながらきっかけが掴めないでいた。
「頼めばいいって、それができないから今の今までずるずる来てたんだけど」
萌葱が凪に吸血を頼めないのは、複雑な感情が入り乱れているからである。
萌葱はずっと凪に対して姉として振る舞ってきた。姉であるということは、萌葱にとってアイデンティティを形成する重要な要素だ。
萌葱は明るく振る舞っていても、自己評価の低さと不安感を常に抱いている。その感情が努力の原動力にもなっているのだが、姉という唯一無二の要素は萌葱の自己を確立する上で大切な立脚点である。それが吸血によって崩れるかもしれないと思うと、強い不安を感じる。
しかし、いつまでもそうしていられないのも事実だ。すでに、零菜も麻夜も東雲もクロエも吸血を経験しているし、紗葵も凪の血の味を知っている。萌葱だけ取り残されているのもまた、姉の立場がない。
今まで通りの関係性は、破綻しつつある。皆と対等以上でいるためには、凪からの吸血は必要不可欠だ。もっとも、そんな理由で吸血するのは、あまりにも身勝手であるという良識も持ち合わせているし、吸血は軽い気持ちでするものではないという思いもある。
吸血する理由もしない理由も持ち合わせているので、結局は萌葱がどうするかを決めるだけだ。
「ちなみにさ、東雲」
「ん?」
「あんた、仮にだよ。あたしが凪君から血を吸ったとして、それは東雲的にはどうなの?」
「どうって……ああ、そういうこと? 別にいいよ、萌葱ちゃんだし。姉妹以外の誰かだと、嫌だけど」
「そう」
「実際、零菜ちゃんも麻夜ちゃんも吸ってるし、内々の話なら今更だもん。遅れてるってんなら、わたしもそうだし。ただ……」
「ただ?」
「それがきっかけでわたしに血をくれなくなったら、それは困るよ」
東雲はこの一瞬だけ真剣な眼差しを萌葱に送った。まるで牽制するように。
凪が平等に血を与えてくれる状況には文句はない。しかし、誰か一人を選ぶようなことがあれば、その枠は自分に与えられるべき。誰も言わないが、誰もがうすうすそう思っているのだろう。
『みんなで平等に。大事な物は喧嘩をしないように分け合う』という考え方は、ずっと昔に萌葱が言い出したことだ。その考え方が姉妹の中で根付いている。
ちなみに、この考え方の出所は浅葱が何気なく言ったことを萌葱が真に受けた事に端を発するが、結果的に姉妹間の争いはほとんどなくなった。
独占行為に対しては、抑制が働く。ただ、それにも限度がある。将来的にどうなるかは不透明で、流動的だ。
「ん、分かった。春休み中に頑張る」
と、萌葱は宣言した。
「萌ちゃん、そんなこと言って、ほんとにできるの?」
「あたしだってやり方くらい知ってるし、やれば分かるんでしょ?」
「そりゃ、そうだけど」
吸血は本能に根ざした能力だ。
頭で考えてすることではない。生まれたての馬が、教えなくても立ち上がるように。吸血鬼の遺伝子に吸血方法はしっかりと刻まれている。後は上手い下手の問題だが、そこまでを萌葱が意識する必要はないだろう。
「……東雲さあ」
「何かな」
「頼めば何とかなるって言ったじゃん?」
「うん、多分ね」
「頼むの手伝ってもらえないかなぁ?」
「……そこでヘタれるから先に進めないんじゃないの?」
呆れたように東雲は呟く。
萌葱が臆病なのは、長い付き合いだから知っている。
東雲は萌葱を似た者同士だと思っているし、萌葱は自分に不都合だと分かっていながら、回りを立てるためにわざと貧乏くじを引くこともあるくらい調整役としての役割に甘んじてきた。
萌葱は生粋の善人なのだ。
生来のものか後天的なのかは知らないが、ともかく争いが嫌いで悪事ができない性質だ。そういう性格だから、何だかんだで信頼されるのだろう。
「わたしにできるかっていうと分からないけど、まあ、やるだけやってみる?」
東雲だって、凪の血を簡単に吸っているわけではない。最近、やっと慣れてきたという程度だ。萌葱の力になれるかどうか保証はないが、乗りかかった船だ。それくらいなら、手伝ってもいいだろうと受け入れたのだった。
■
「……ここって何時までだっけ?」
「何時までってのはなかったけど、最短は九十分ってことじゃない? 雨も上がったみたいだし」
「そう?」
「雨雲、もうなくなったよ」
萌葱はスマホを弄っている。
気象庁の雨雲レーダーを見ているようだ。
「そろそろ出るか。割り勘ね」
「えーお姉ちゃん奢ってよ」
「嫌よ。こういうときばかり、そんな呼び方するんじゃないっての」
「ぶー」
東雲のブーイングを受け流して、萌葱は乾いた服を着た。着替える東雲から半額分を徴集し、支払いを済ませて、ホテルを出た。
二人で割れば、大した金額ではなかった。
ビルとビルの間に見える空は真っ青だ。本当に一時的な通り雨だったのだ。日が差す路地はそこかしこに水溜りができていて、午後の陽光を反射してる。
周囲に怪しげな看板があるものの、雨上がり独特の匂いは、十分に爽やかさを感じさせた。
「もう完璧に晴れたね」
「ほんと、さっきまでのあれ具合が嘘みたい」
豪雨で濡れた衣服もカバンもすっかり乾いている。おかげで、雨に打たれたとは思えない状態でホテルを出ることができた。
「さて、帰りますか」
と、萌葱は来た道を戻る。そこで、傍と立ち止まる。
「萌葱ちゃ……あ」
となりを歩く東雲も目をまん丸にして止まった。
すぐ目の前に空菜が立っていた。
「え、空ちゃん? なんでここに?」
「駅に行くのに近道になるので」
空菜は買い物帰りなのだろう。リュックサックを背負っている。お洒落よりも実用性を重視した格好なのは、それなりの量の買い物をしたからだろうか。
空菜は二人を不思議そうに眺めてから、ビルに視線を走らせる。
「お二人は、そういう?」
「ち、違うッ、誤解ッ」
「そんなわけないからッ」
「……あ、はい。分かりました」
萌葱と東雲の否定は同時であった。必死の剣幕に空菜は一歩引き下がる。
「ホントに分かった? 大丈夫?」
「はい。大丈夫です。今は、そういったことにも寛容な時代ですし、わたしも理解があるつもりなので」
「だから違うってば!?」
後日、中央高校の屋上にて。
空菜は中学時代からの友人と新たに知り合った友人の計三名で昼食を摂っていた。前者の名は蛍、後者の名は秋葉だ。
「空菜の卵焼き、手作りってマジ?」
と、蛍が言う。
「そうです。冷凍ではないんですよ」
「え、それ自分で作ってるの?」
弁当箱を覗き込む秋葉は驚いたようであった。
「はい。別に難しくはないので」
今日の弁当は空菜の手作りだ。凪の分も空菜が用意している。朝早く起きて、朝食と弁当を用意するのが、空菜の日課になっていた。その代わり、夕飯は凪が作ることが多くなった。一緒に暮らす中で自然と役割分担が成された結果だった。
「そういえば、この前身近な人がラブホから出てきたところに遭遇しました」
思い出したように空菜が口走ったのは、蛍と秋葉の会話の中でホテルの話が出てきたからだ。曰く、三組の誰と誰が、どこに行っていたところを見たとかいう四方山話である。
「面と向かって逢っちゃったの?」
「そうなんです」
「うわー、そりゃ何ていうか、気まずいねぇ」
「ですよね。まして、同性でしたから。そういうことも、今はとやかく言う時代ではないわけですが」
「え……同性なの?」
「そうだったんです。同性でそんなとこに入ることってあるんですね」
「いやいや、そりゃびっくりでしょ。気まずいなんてもんじゃないし……へえ、え? 身近?」
「ん……ハンバーグ、豆腐で嵩増ししすぎて失敗だったかも」
空菜は眉根を寄せてハンバーグの出来に不満を抱く。
そんな空菜を余所目に蛍と秋葉は視線を交わした。
「身近な人が同性とだって」
「空菜みたいな超絶美少女と一つ屋根の下で何もないって、やっぱそうなのかな?」
「あ、でも、身近って言っても、別に確定じゃないし」
「でも、空菜って二人暮らしなんでしょ? それに明言できるもんでもないし」
「あー……」
空菜は水筒に入れてきた味噌汁をカップに注いで、舌鼓を打っている。
今、まさに余計な誤解を生んだことにはなんら気付いていない様子である。
「どうしました?」
「なんでも」
「大丈夫。うん、そういうのもわたしはありだと思う」
「はい?」
空菜は小首をかしげる。
どことなく、空菜を気遣うような態度が奇妙だったが、他人の機微に疎いのは自覚している。生まれて一年ほどしか経っておらず経験がまだまだ足りないのだ。
友人の反応を不思議に思いながら、空菜は残りのおかずを口に運んだ。
水面下で凪が極めて不本意な扱いになってしまったことには終ぞ気がつかなかった。
萌葱と東雲は正反対ながらも似た者同士で気が合う。考え方が違うのに結論が同じになったりする。