二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 暁の帝国の新学期は四月第二周の月曜日から始まる。

 今日は、第一週の土曜日である。つまり、明後日からついに高校の入学式となるのだ。約一ヶ月もの長期間の春休みは、しかし、いざ振り返ってみると、特に何もないままだらだら過ごしてしまったという事実だけが横たわっている。

 通院と訓練以外の外出はほとんどなかった。かといって、何かしたいことがあるかというとそうでもなく、このまま高校に入学しても、おそらくは同じような日々を過ごすことになるのではないかと凪は思う。

 とはいえ、高校に入学したら凪はすでに内定している攻魔師事務所でのアルバイトが始まる。今までよりも、外に出る機会が増えることになるので、完全に今までのような生活と同一ではなくなるだろう。

 部活ではなくバイトに精を出す高校生活になるのだろう。

 後は、勉強について行けるかということが不安ではあった。

 凪は充電を終えたスマートフォンを取り上げた。何かの通知が来ている。ロック画面を解除してメッセージアプリを起動すると、零菜の自撮り写真だった。

『昨日買ったヤツ。どうかな?』

 とのこと。

 春物の薄い桃色のカーディガンのことを言っているのだろう。高校の制服のワイシャツの上から着ている。スカートの青色とともに爽やかな春の到来を印象づける。零菜はもともとの素材がいいので、よほど奇抜なものでもなければ、大抵似合うのだ。

 五枚目になる零菜の写真をフォルダに保存し、少ない語彙を駆使して感想を伝える。

 いつも同じ感じになってしまうのが悩みどころだ。しかし、あまり長々書いても、むしろ気持ち悪いのではないかと思ってしまう。

 凪は続いてスマートフォンで、スケジュールを眺める。カレンダーの多くは真っ白で、入っているのは入学式と最初の出勤日だけだ。

 そこで、凪はふと机の引き出しを開けた。

「ノートがないな」 

 電子化が進んだ世の中だが、学校の授業は紙の教科書と紙のノートで行われている。中学時代のノートをそのまま使い続けるわけにも行かず、手元には予備のノートがない。

「めんどいなぁ」

 と、ぼやきながらカーテンの隙間から外を眺めた。晴れ渡った空だ。燦々と輝く太陽は初夏の日差しだ。しかし、これが明日になれば天気が崩れて、雨になるらしい。今買いに行くか、明日買いに行くかの違いはかなり大きなものになる。

 いっそ外に出るのなら、新生活に向けていろいろと身の回りの品を買い換えてみるのもいいかもしれない。

 凪が学校で使うシャーペンは、三年前に購入したものだし、ペンケースも新しくしたい。

 さほど大きな買い物でもない。

 凪は財布を綿パンの後ろポケットに押し込んで、玄関を出た。

「うわ、びっくりした」

 と、開けたドアの向こうで声がする。

 ドアを閉めると、金色の髪が並んでいた。東雲と萌葱であった。陽光を浴びてキラキラと輝く金と虹の髪が東雲で、もともと色素の薄めの髪をブロンドに染めてサイトテールにしているのが萌葱である。

 こうして並んでいると同じ金髪でも、光の反射の仕方や色の濃さが違うのが面白い。

「凪君、お出かけ?」

 東雲は凪の格好を見て尋ねた。

 ショルダーバッグを肩にぶら下げているだけのラフな格好だ。

「ちょっと、買い物。文房具とか、足りないことに気づいてさ」

「明後日だもんね、入学式。課題とかあるんじゃないの? 終わった?」

「一応ね。最初のテストは、まあ適当に」

 入学式の後に行われる課題テスト。国数英の三科目が対象なのだが、あまりやる気が起きないのだった。

「そっちは?」

「ん?」

「出かけるのかって」

「んー……」

 東雲は視線を泳がせて、萌葱を見る。

「……何?」

 萌葱は、首を傾げる。

 疑問符を浮かべる萌葱に対して東雲は何やらひらめいたように相好を崩す。

「わたしは別に外に用事ないけど、萌ちゃんは新学期の準備は大丈夫?」

「え、あたし? あたしも別に……ぃ」

 萌葱は顔を歪めてよろめく。東雲が脇腹を抓ったのだ。

「な、何すんのよ!」

「確か萌ちゃん、さっき学校始まる前に用意する物があるって言ってたよね?」

 東雲は、萌葱の抗議を無視した。

「え、えーと……あ、新しいマザーボード、ぃうッ!?」

 萌葱が飛び上がる。

 今度は東雲が萌葱の尻を抓ったのだ。

「朝から晩まで黙々と機械弄ってばっかでいいの?」

「機械弄って何が悪いってのよ。趣味が合わないからってとやかく言われる筋合いないんですけど」

「わたしだって萌ちゃんの趣味をどうこう言うつもりはないけど、今は違うでしょうに。そんなんだから、何の進展もないんだよ」

 東雲は完璧に上げたセンタリングを完璧に無駄にしそうな萌葱に呆れてしまう。

「凪君、ごめんね。ちょっと待ってて」

 東雲は脱兎の如く自分の部屋に走って一分ほどしてから戻ってきた。

「はい、これ上げる」

 と、凪に渡してきたのはファミレスのクーポン券だった。

「ここ、最近CMしてたとこだな」

「そうそう。この前、空ちゃんを連れて行ってきたんだ。んで、帰りにもらった。明日まで二十パーオフだから。凪君、お昼まだでしょ? 行ってきなよ」

「へー、東雲は?」

「わたし、今日はいろいろとつまみ食いしちゃったから夜までいらんの。このお腹をすかせたお姉ちゃんを何とかしてやって。それ、二人まで使えるから」

 そう言うや東雲は萌葱の背中をバシバシ叩く。

「そっか。悪いな、もらっちゃって」

「気にしない気にしない。クーポン有り余ってるから」

 東雲は暁の帝国に戻ってきてから、時間を見つけては外に出ている。自分が離れて暮らしている間に新しくなったところが自宅周辺にも多々あるのだ。年に一、二回しか帰省できなかったから、四年の空白は意外に大きかったのだ。

 そんなわけで、東雲の手には七件分のクーポン券がある。家族に融通するくらいなんてことないのだった。

「で、萌ちゃんは何買うんだっけ?」

「あ、えーと、新しい眼鏡、買いに行こうかなって」

 東雲の剣幕に押されて、萌葱は頭をフル回転させる。その上で咄嗟にもう一つの趣味を口に出した。眼鏡といっても萌葱の視力が悪いわけではない。お洒落のための眼鏡だ。これを萌葱は十本ほど持っている。

「だそうです、凪君」

「ん、おう……ん? じゃあ、萌葱姉さんとお昼しつつ、必要なものを買うと。東雲は来ないんだな?」

「うん。わたしはいい。今回は遠慮するよ。次ね、次」

「オッケー、了解」

 意外な展開になったが、一日暇を持て余しているくらいだ。クーポンを使える店で安く外食できるのもいい。

「じゃあ、姉さん。行く?」

「うん、行く」

 こくり、と萌葱は頷いた。

 

 

 ■

 

 

 

 太陽がちょうど南の天上にさしかかろうとしている。

 気温は緩やかに上昇していて、外にいるだけで軽く汗ばむ陽気だ。まっすぐに伸びた道路にうっすらと陽炎が発生している。このまま暑苦しい夏に向けて、季節は一直線に進んでいくのだ。

「なんて言うか、ごめんね。変なことになって」

 と、萌葱は言う。

「いや、別に謝んなくてもいいよ。どうせ、時間はいくらでもあるんだし。最初はどこにする?」

「凪君の用事を先に済ませようか。あたしがついてきてるだけなんだし」

「といっても文房具だから、どこでもいいんだよな……姉さんは文房具はどこで買ってるんだ?」

「あたしは、いつもは学校の帰りに寄るから、彩海近くの百均かな。でも、まあ、こういう時に行くんなら、やっぱり矢吹通りだね」

「矢吹通りね。じゃ、その辺にするか」

 矢吹通りは中央行政区の西よりにある若者文化の発信地である。複合ビルが建ち並び、ショッピングモールから映画館、水族館などなど、多彩な娯楽を提供している。

 ここが若者の街になったのは、ここ十年の再開発の結果だ。もともとは古い商業ビルが建ち並び、夜には怪しい客引きが夜のお店の案内のために繰り出されるような治安の悪い地域だったらしい。

 それが十年前に違法に持ち込まれた人工魔獣の暴走で壊滅した。暁の帝国が正式に日本から独立して以来、最大の死傷者数を出した大惨事となった。

 この強力な魔獣は、討伐に出た紗矢華の煌華麟を一時的に使用不能にするなど猛威を振るったが、最終的には紗矢華が繰り出した吹き矢の呪詛によって滅んだ。

 以降、この辺り一帯は地名は矢吹通りと呼ばれるようになり、重点的な再開発により若者の街に生まれ変わったのであった。

 凪はあまり立ち寄らないが、萌葱は当然、この賑やかな地域を庭としている。服を買うにも眼鏡を買うにも、この街での調達が一番だ。

 モノレールに乗って駅二つ分で、最寄り駅となる矢吹駅に到着する。地上四階、地下一階の駅ビルは、帝国内でも上から数えたほうが早い敷地面積を誇り、屋上の緑化公園は人気のデートスポットだ。もちろん、凪も萌葱もそんなところに寄り道をするという選択肢は持ち合わせていない。

「さすがに人が多いな、ここは」

 と、凪は感想を漏らした。

 春休みの終わりを目前にした最後の土曜日である。周囲には多くの若者が溢れかえっている。

「大学まで一斉に月曜からスタートだもんね。今のうちに遊んでおこうっていうリア充な連中よ」

「今のうちに遊ぶってんなら、俺たちも大して変わらないような気が」

 リア充の定義はよく分からない。恋人と面白おかしく過ごしていればリア充なのか、それとも仲のよい友人と他愛のない話をしていればリア充なのか。

 駅ビルの中には多くのテナントが店を構えている。凪の目的を達成するには、ここだけでも十分なのだ。

「じゃあ、とりあえず文房具から。ここにしよう」

 五分ほど歩いて見つけたのは、駅ビルの三階に店を構える文房具店、クレアだ。ごく一般的な文房具を扱っている店で、学生をターゲットにしているだけあって値段も良心的である。全国に十五店舗、日本に出店した店を合わせると五十店舗を越える暁の帝国を代表する文房具店である。その矢吹通り店がこの駅ビルに入っているのだった。

 全国最大規模のクレア矢吹通り店は、この一店舗だけでおおよその需要は満たせると言われるくらいの品揃えを誇る。

 品揃えが多すぎて、目移りしてしまう。必要なのはノートだけなのだが、ついつい他にも手を伸ばしてしまいそうだ。

「凪君、ノートだっけ?」

「そう。明後日からだってのに、ストックがなかった。中学までのをそのまま使うのも、なんか違うなって思ったんだよね」

「せっかう高校デビューなんだから、心機一転したいよね」

「そこまで大それたことじゃないけど。ただのノートだし」

「いやいや、ノートとかシャーペンとか、普段使う物を変えるってのは、気分転換にはなるよ。あ、これなんてどう? 可愛くない?」

「可愛い」

「買う?」

「俺が? 萌葱姉さんじゃなくて? 俺は普通のでいいよ」

 萌葱が手に取ったのはデフォルメにしたカエルのキャラクターを象った消しゴムだった。

 萌葱が使うのなら違和感がないのだが、凪が持ち歩く消しゴムにしては可愛らしすぎる。

「いちいちなくなったら買いに来るってのも面倒だろうし、この機会にまとめ買いしたほうがいいよ。空菜だって使うんでしょ?」

 ノートが五冊で一束になっているのを五束購入することにした。他にもボールペンやシャーペン、シャーペンの芯、水性のカラーペンを黄色、水色、緑色の三色分購入した。

 ただ文房具を買いに来ただけなのに、すでにクレアだけで一時間も使ってしまっていた。

「ちょっと、時間をかけ過ぎちゃったね」

「このまま眼鏡、探しに行こうか。レンズの調整とか、あるんじゃない?」

「それは行ってみてだね。あたしは度が入ってる必要ないから、そこまで時間はかからないと思う」

 そんなことを言いながら、矢吹通りを歩く。

 凪は萌葱の行きつけだという眼鏡店の所在地を知らない。萌葱に先導される形で、道を進んでいく。

「眼鏡、どこで探すんだっけ?」

「ジーニアスって店。デイブレん中にあんの」

「あー、あそこね」

 辞書みたいな名前の眼鏡専門店は、デイブレ――――デイブレークという複合商業施設の四階に入っている。

 凪は入店したことはないが、通りかかったことはあるのですぐにイメージができた。

 エスカレータで四階に上がって、まっすぐにジーニアスに向かった。

 休日の昼間で、店内はそれなりに賑わっている。けっして広いと言えるほどの店舗面積ではない。平均的なコンビニよりも少し広いくらいだろう。その中に十人の先客がいて、その全員がおそらくは同世代で、男女比は男3の女7である。

 萌葱が趣味で集めているというおしゃれ眼鏡。その三割がこの店で購入したものらしい。暁の帝国のお姫様ではあるが、その経済観念はかなり一般家庭の中流家庭に近い。自然とちょっとした贅沢ですら、学生の手の届く範囲になるのだ。

 萌葱は楽しそうに店内を一瞥すると、商品をゆっくり見て回った。凪は何か意見するでもなく萌葱の後ろをついて歩く。

「どれがいいかなー……凪君はどんなのがイイと思う?」

「俺に聞くのか」

「そりゃ、せっかく来てもらったんだし意見は欲しいでしょ」

「まあ、確かに……」

 一緒に来ている以上は何も言わないというのも不自然だ。

 しかし、凪にお洒落は分からない。ファッション誌を読むことはあるが、こだわりがない。特に意識して勉強したこともない。

 もちろん、眼鏡というものが視力矯正のためのものだけでなく、ファッションを考える上で重要な小道具なのは理解している。

 顔は人がまず最初に視認する部位だ。

 それ故に顔を彩る眼鏡は、その人の第一印象を大きく左右する。

 眼鏡は知的なイメージが強い。昔、まだ眼鏡がファッションとして広く受け入れられる前は、視力の低下=ガリ勉=眼鏡着用というような連想もあり、眼鏡は地味で内向的で勉強がよくできるというようなイメージと結びつきやすかった。

 今はそういった旧来のイメージを越えて、様々なスタイルの眼鏡が登場している。眼鏡がファッションとして広まるにつれて、発生した需要を満たすために多様な形状の眼鏡が生まれている。

 眼鏡の形状一つ変えるだけで、その人の印象は大きく変わる。

 知的でクールに見せることも、人なつっこく活動的に見せることもできる。

「姉さん、眼鏡は結構こだわりがあったり?」

「うーん、そうでもないけど……」

 萌葱は手近な一本を取り上げて、眺めている。半透明な水色の眼鏡だ。

「ブルーライトとUVカットは入れたい」

「吸血鬼なんだから、あまり関係ないんじゃない?」

「そうでもないよ。いや、最終的には治るんだけど、その瞬間は影響受けてるから。荷物だって、持ってるときは体力使うでしょ? ま、結局は気持ちの問題なんだけどね」

 おそらくは家族の中でも特にブルーライトを浴びているであろう萌葱だが、吸血鬼である彼女はそれによって目が悪くなるというようなことはない。不死の呪いが、萌葱の身体を正常な状態に維持している。ブルーライトカットもUVカットも結局は気休めでしかない。

「眼鏡って結構大事な戦略物資だと思うのよ」

「戦略物資?」

「または原始的な魔術の触媒的な?」

「どういうこと?」

「人は見た目で判断する生き物って言うでしょ? 何割とかは人それぞれにしてもさ」

「それは、よく聞く話だけど」

「凪君はどう思う?」

「間違ってないんじゃない? 普通の感覚だと思うけど」

「だよね」

 萌葱は水色の眼鏡を元の場所に戻した。

「まあ、中には外見じゃなくて内面が大事とか、揚げ足取りに言う人もいるけど、そういうことじゃないよね」

「内面と外見は関係ないしね。それぞれ別に評価することかなって思うよ」

「そうそう。内面は内面、外見は外見。そして、人が人を評価する最初のポイントはどうしたって外見なわけ。内面なんて時間をかけて見てかなくちゃ分かんないし、外見がダメなら、その後の評価も厳しくなりがち。んで、ここでいう外見ってのは持って生まれた見た目じゃなくて、大抵がファッション。大げさなものじゃなくて、TPOに合った格好なのかってこと」

 萌葱は、今度は黒縁の眼鏡を手に取った。形状はウェリントンと呼ばれる形状のファンション眼鏡だ。レンズ部分が台形に近く大きめなのが特徴だ。

「あたしは長女だし、人から侮られない格好は最低限しないとダメなんだよね」

 と、萌葱は少しだけ声のトーンを落として呟く。

 第四真祖直系の第二世代の長女である萌葱は、政治的にも背負っているものがある。見た目を気にしなければならない立場という一面もあるのだ。

「で、眼鏡は戦略物資?」

 と、凪は少し暗くなった話題を強引に戻した。

「そうそう。ほら、どう?」

 萌葱はウェリントン型の眼鏡を試着した。

 飴色の太いフレームの眼鏡だ。レンズが台形で大きく、自己主張が強い。

「うーん、ちょっと違う」

「そう、じゃあ、これは?」

 今度は飾り気のないシルバーのハーフリムだ。眼鏡は添えるだけで、萌葱の顔に注目を集める。

「俺はこっちのほうがいいかな。こっちのほうが頭良さそう」

「こらこら、あたしの頭が悪いみたいじゃないの」

「印象の話だから。細めの眼鏡ってそんな感じするし」

「分かるよ。分かるけどね」

 唇を尖らせる萌葱。

「ま、こんな感じで眼鏡ってのは印象を操作する小道具としてはかなりの優れものってこと。自分をどう見せたいかってイメージがあれば、後はそれに合った眼鏡をつけるだけで第一印象を操作できるってわけ。古代から化粧が呪術的な意味合いを持ってんのも似たような理由かもね。状況に合わせてヒーローは色変わるし、ロボットはパーツを付け替えるし、うちらのファッションも、そんな感じの処世術なのさ」

 萌葱はそう言いながら一通りの眼鏡を眺めた後で、眼鏡を二種類に絞り込んだ。

「スクエアとハーフリムはどっちがいいと思う」

「せっかくだから、スクエア」

「ふーむ、そう。確かに、ハーフリムよりはカジュアルよりだし、いいかもねぇ。うん、はい、じゃあこれ」

 不意に萌葱は凪に黒縁のスクエア型の眼鏡を渡してきた。

「え、俺はいいよ」

「一本か二本はあったほうがいいって。ファッションは呪術。侮ったら後悔するよ」

「……そう言われるとなぁ」

 萌葱の言わんとすることも分かる。呪術に絡められると断りにくい。さすがに姉を十六年努めているだけあって、凪のツボをよく心得ている。

 仕方なく凪は黒縁の眼鏡をかけた。

「ああ、へえ、うーん、なかなか似合うね。こう、休日の図書館とか、カフェとかにいそう」

「そう?」

「いいじゃん。こうなると、服も変えたいね。チノパンをブラックにして、上はシンプルに……」

「俺のはいいって。今は萌葱姉さんのを買いに来たんだろ」

「そうだけど、せっかくだからねぇ。よし、あたしのはこれにして、凪君はそれね」

「ん、いや、俺は……」

「遠慮しないで。高校の入学祝いだと思ってさ」

 萌葱は浮かれた様子で話す。

 店内で押し問答するのも恥ずかしく、萌葱がここまで言ってくれるのならと素直に好意に甘えることにした。

 眼鏡のレンズの調整には二時間ほどかかる。最新技術を使ってもブルーライトカットの処理などなどあって、萌葱の要望に応えるためにはそれだけの時間が必要ということだ。

 その時間を凪と萌葱はファミレスで潰した。

 東雲がくれたのは飲み物が一杯無料のサービス券で、凪と萌葱でそれぞれアイスコーヒーとオレンジジュースを注文した。昼食としてボロネーゼと小さなマルゲリータピザを頼んだ。

 

 

 

 ■

 

 

 

 できあがった眼鏡を受け取って、本日の予定は概ね終了だ。モノレールに乗って、家に帰るだけである。

 萌葱は凪の袖を引っ張った。

「ちょっと、行きたいとこあるんだけど、いいかな?」

 と、萌葱は言う。

 特に予定のない凪は、二つ返事で了承した。

 何となく、それまでの萌葱の表情とは違う暗い顔をしているのが気になった。

 言葉少なになった萌葱を気に掛けつつ、やって来たのは第三南地区の国営公園だった。

「何でまたこんなとこに?」

 ここはクリスマステロの現場となった公園だ。そこかしこに破壊の痕跡が残っていて、公園内は立ち入りが制限されている。

 アルディギア製の軍事機密の多くがこの園内に散乱していた。優先的に片付けられたが、その兵器たちが残した爪痕を消すには、もうしばらく時間がかかりそうだし、眷獣が引き起こした破壊の中には呪いに近い性質を帯びたものもあるので、さらに長期の復旧計画が必要になるらしい。

「いいから、来て」

 萌葱はずんずんと先に行く。

 園内のすべてが立ち入り禁止になっているわけではない。無事だった遊歩道は一般に開放されている。しかし、あれだけの事件があったのだ。曰く付きの公園に立ち入る人の姿は少ない。

「へー、そうはいってもそこそこ直ってきてるじゃん」

 と、園内を見て回る萌葱は言う。

 倒れた街灯は元通りになっているし、めくれたアスファルトも整えられている。立ち入れる範囲の保修は、とりあえずできているように見える。

「うーん、でも、やっぱり、あっちはまだまだみたいね」

 萌葱が見るのは、遊歩道の奥に見える迎賓館。そちらに向かう道はすべて規制されていて立ち入れない。倒れたり、燃えたり、凍ったりと様々な要因で死に絶えた木々もそのままで、地面は捲れ上がり、陥没し、無残な姿を残している。

「さすがに今年はいろいろあったし、公園は優先度低いんじゃない?」

「ま、そうよね。ぶっちゃけ、あそこ全然使わないしね」

「あの迎賓館、一応普段は会議とか研修とかで国の人が使ってるから」

「あ、そうなの」

「そのための施設も兼ねてるって話」

「むしろ、そっちがメインよね」

 萌葱はじっと迎賓館を眺めてから、意を決したように脇道に入った。

「ちょっと、姉さん!」

「大丈夫、大丈夫。監視カメラとか、その辺は押さえてるから」

「そういうことじゃなくて、ああ、もう」

 先に行く萌葱を追いかけて凪も規制線を越えた。

 公開されている箇所とはまったく違う世界に入り込んだようだった。静寂だ。鳥の声も遠く、漂う陰気な気配は複数の魔力がここでぶつかり合った証だ。それを恐れて、普通の動物は本能的にこの辺りを避けてしまうだ。

 こういうところは、あまりいい環境とは言えない。

 よくない物の溜まり場になりやすいのだ。

 萌葱は壊れた道路を歩いて行き、自動販売機の前で止まった。電気の通っていない自動販売機は、クリスマスからずっと佇んだまま放置されている。

「姉さん?」

「ここ、あたしが捕まったとこ」

「え?」

「あたし、ここで悪魔に捕まったんだよね」

「ここで?」

「そう」

 クリスマスの日、萌葱が大悪魔ベルゼビュートに取り込まれ、凪が身体を張って救出したのは記憶に新しい。

 萌葱にとっては、酷いトラウマを刺激する場所だ。

「姉さん、どうしてこんなところに来たんだ? 大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 萌葱の顔色が見るからに悪い。

 日常生活には支障がないくらいだが、それでも心の傷は治っていない。この公園がそうであるように、萌葱の心身の治癒にも時間がかかる。

「凪君がいてくれるから、大丈夫」

「別に俺は何もしてないぞ」

「そんなことないよ。助けてくれたんだもん。助けてくれた人がいれば、ここに来ても大丈夫って分かった」

 それでも萌葱は少し震えている。

 全然、大丈夫そうには見えなかったが、凪にはかける言葉が見つからなかった。気の利いた言葉を掛けてあげられるほどの語彙力はなかったし、余計なことを言って気を張っている萌葱を傷付けたくもなかった。

「そこ、座るか」

「ん」

 凪はすぐそこの青いベンチに萌葱を連れて行った。しばらく歩きづめだったので、腰掛けると足の裏からふくらはぎまでがじんじんした。

「ふー……、新学期前にちょっとだけ前進。区切りとしてはちょうどいいよね」

「姉さん、あまり無理すんなよ」

「うん。心配掛けてごめんね。あと、助けてくれてありがと」

「三ヶ月も前の話だろ」

「三ヶ月しか経ってないよ。まあ、最近も東雲のこともあったし、なんかもう、激動の一年だったよね」

「厄年かな」

「凪君が? うちらが?」

「全員」

「かもね」

 萌葱の相好が崩れる。トラウマで固まり、緊張していた身体がほぐれてきたようだ。

「うん、じゃ、帰ろっか。ここにいるの、誰かに見られるのよくないし」

「そうだな」

 凪が腰を受けた時、萌葱が慌てて袖を引っ張った。

「危なッ、いきなり何?」

 危うくバランスを崩すところだった凪は、尻餅をつくようにベンチに座り直した。

「あ、ごめん」

 萌葱はパッと手を離した。

「何かあった?」

 と、言う凪の問いに萌葱はすぐには答えなかった。

 視線を逸らして、凪と目を合わせようともしない。不安を感じているようにせわしなく、視線を動いている。

 そして、一度大きく息を吸ってから、萌葱は口を開いた。

「ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな。嫌だったら、断ってくれて全然いいんだけど」 

「内容によるけど、そんな改まって何?」

「吸血、してみたいっていうやつなんだけど」

「え? 吸血?」

「え、あ……その、今のなしでいいから! 帰ろうか。もう夕方だしね!」

 萌葱は耳まで真っ赤になった。

 思い切って頼んでみたが、聞き返されてしまった。一度目に勇気を振り絞った萌葱に二度目はない。そもそも、姉が弟にこんなことを頼むのはいかがわしいのではないかという常識的な自制心と意地が萌葱を我に返らせる。

 二人きりの誰もいない環境が、萌葱にアクセルを踏ませた。しかし、想定外の事象に対してブレーキを踏むときは一瞬だ。

「血、吸ってく?」

 凪がわたわたする萌葱にそう提案した。

 吸血されることに慣れている凪にとっては、それは特別なイベントではなかったのだ。

「え、その、いいの? そんなあっさり」

「まあ、慣れてるし」

「……空菜とか毎日吸ってるっていうからね」

「医療行為だけどな」

「知ってる」

 と、萌葱はやや不服そうに呟く。

「でも、急にどうして」

「だって、みんな凪君から吸ったって言ってたし。あたしだって興味はあったの!」

「あ、ああ、そう」

 考えてみれば、凪は零菜に始まり、今年になってから何度も血を吸われる経験をした。暁家以外には血を与えていないが、家の中では頻繁に血を提供している。特に空菜は、体質上まだしばらくは吸血が必要だ。それでも、確かに萌葱には今までに一度も血を吸われていない。

「じゃあ、はい、いいよ」

「何かもう、あっさりしすぎて拍子抜けする……」

 毒気を抜かれた萌葱だったが、血を吸ってもいいというお墨付きを本人からもらったのだ。ここで血を吸わなければ、いつ血を吸うのだ。

 咳払いをして生唾を飲んで、心臓が異様な高鳴りをする。頭の中で血管が何倍にも膨らんだような気がするくらいだった。

「吸わないのか?」

「吸う。吸うから待って!」

 深呼吸をした萌葱は緊張しながらベンチに膝をついた。前傾姿勢になって凪の首元に顎を乗せるようにして体重を掛けた。凪は萌葱の華奢な身体を受け止めて、バランスを保つ。

 今までにないくらい強い吸血衝動に瞳が染まり、犬歯が疼いた。不思議なくらい明確にどうすればいいのか分かった。息をするのと同じくらい当たり前のように、萌葱は凪の首に牙を突き立てた。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 タワーマンションの五十二階に戻ってきたとき、西の空には太陽が沈んでいて、うっすらとオレンジ色が残っていた。それも数分後には消えて夜の帳が下りるだろう。玄関前の電灯がついて廊下を照らす。

「あ、帰ってきた。ずいぶん遅かったね、二人とも」

 廊下でぼうっと突っ立っていたのは東雲だった。髪が少し湿っている。風呂上がりだったようだ。

「あんた、なんつー女子力の欠片もない格好してんのよ」

 萌葱が指摘した東雲の格好は、灰色のジャージにビーチサンダルという私生活感丸出しの格好だ。

「う、うるさいな。涼みに出てるだけなんだから、そんな気張った格好しないでしょ。あ、でも凪君はちょっとあっち向いて」

 萌葱に食ってかかった東雲だが、異性の目はやはり気になるのか最後には気弱になった。

 改装してガラス張りになったかつての外廊下は、風が通らず涼しさは以前ほどではない。だが、家の外というだけで気分は違うのだろう。

「で、戦果、は……?」

 東雲はふと凪を見て固まる。

 凪は萌葱が選んだ眼鏡をかけていた。せっかく買ったのだからと萌葱にせがまれて付けさせられていたのだ。

「こはッ……なん、それ。凪君が眼鏡つけてる、なんで!?」

 東雲は駆け寄ってきてまじまじと凪を眺める。

「近い近い、恥ずいから止めろ」

 凪は、東雲を押し戻す。

「あたしがプレゼントしたの。凪君もこういうの、たまにはいいでしょってね。ちなみにあたしはこのシルバー」

 萌葱も眼鏡をかけている。シルバーの眼鏡は、凪の感性に合わせたスクエア型だ。シルバーのフレームは萌葱の顔立ちを邪魔せず、その魅力を引き立てる。眼鏡は主役にはならず、引き立て役に徹しているのだが、萌葱の新しい眼鏡には、東雲は特に関心がない様子だ。

「そっか、こういうのアリなんだ。なるほど、これはヤバい。ちょっと、イイかも」

「ねえ、似合ってるよね、凪君」

「うん。いいね。たまにはこういうのも、すごくいいね」

 東雲からも高評価だ。あまりお洒落で褒められることがないので、こうも手放しに褒められると嬉しくなる。この眼鏡を選んだのは萌葱だし、眼鏡を掛けただけで他には何も手を加えていない。お洒落と言えるほどの変化でもないが、萌葱が言った通り、眼鏡は人の印象を変える最も簡単で効果的な武器の一つだ。今までの凪しか知らない東雲は、眼鏡をかけた凪の新しい印象にキュンと来た。

「ほらね、凪君も高校に入るんだし、たまにはこういうのも気に掛けて損はないよ」

 萌葱はアドバイスしてくれる。

 いい評価をもらうと続けたくなる。

 凪は乗せられていることを自覚しつつ、まあ少しくらいならと前向きに検討することにした。

 凪が自分の家に入っていった後、東雲は萌葱の服の裾を掴んだ。

「ちょっと、服が伸びるんだけど」

「萌ちゃん、今日の報告。せっかくお膳立てしたのに何もなかったなんてないでしょ。凪君の鬼畜眼鏡コーデ以外にもあったんでしょ?」

「そりゃ、まあ……鬼畜眼鏡コーデってなんだ。そんなんした覚えないよ」

「え、あれはもうそうでしょ。そうとしか見えない」

「なんでよ。あれは、どっちかっていうとおとなしめな印象を意識してるの。文系男子的な。凪君は身体鍛えてるし、体格も悪くないからそのギャップを利用して、敢えて地味系にしたんだっての。鬼畜ってどっから来たのよ?」

「そりゃもう、地味系眼鏡の裏に狼の本性を隠してるなんてのは王道だし、凪君がマジでそんな感じに見えてゾクゾクしちゃった」

 頬を染めてうっとりと言う東雲。眼鏡をかけた凪が、かなりタイプだったらしい。普段とのギャップに萌えたという点は萌葱の狙い通りだ。しかし、その受け止め方は斜め上を行った。

「解釈違いにもほどがあるんですけど。感性のアンテナから腐ってるんじゃないの」

「そんなことないよ、普通だよ」

「絶対普通じゃない」

 萌葱は自宅についてくる東雲をやむなく上げた。まだ遅い時間というわけでもない。しばらくは東雲に一日の報告をさせられるのだろう。そう思うとげんなりする。とはいえ、萌葱は今日大きな進歩をしたのだ。吸血未経験という長年の懸念材料を取り払うことに成功した。一皮むけて、生まれ変わったような気分だ。なので、少し癖の強い妹に付き合うくらいはまったく負担にならない。それくらい気分が高揚していたのだった。


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