ウェストミンスターチャイムが校内に鳴り響く。一日の終わりを告げる鐘の音とともに、教室の空気は一気に弛緩する。この最後の授業となった六時間目の化学は、考え得る限り最も楽かつ退屈な授業だ。何せ、問題を解きもせず、只管に教科書を読み進めるだけなのだ。テストには不安があるものの、授業中に居眠りをしていても指摘されることがないという、授業内容は化学専門ではない教師のやらされている感も手伝って、授業という体を為しているとは思えないものになっていた。
それでも、やる気のない生徒にとってはちょうどよい休憩時間だ。部活のための体力温存を図るものもいれば、無我の境地で窓の外を眺めている者もいる。凪はというと、ほぼ後者だ。二年生の文理選択では、間違いなく文系に行く。化学を学ぶ機会は一年生だけだが、どの道受験でも使わないので、まったくやる気にならないのであった。
「昏月、いるか?」
帰り際、生徒指導の柳葉教諭が教室の入り口から凪を呼んだ。
「昏月、何したんだよ?」
「え、何かやったの?」
「やってねーよ」
凪はあらぬ疑いをかけて茶化してくる友人にデコピンしてから柳葉の下に行く。
生徒指導の柳葉は、細身で背の高い30代の倫理教師だ。凪のクラスを担当していないので、わざわざやって来て呼び出すのならば、生徒指導だと思われるのも無理ないだろう。とはいえ、中学時代にはサボり癖のあった凪だが、高校に入ってからは無遅刻無欠席を貫いている。自分は置いておくにしても空菜の評判を傷付けるのはよくないという意識があるからだ。そういうこともあって、凪は生徒指導を受けるような悪いことをした覚えはまったくないのだった。
「悪いな。今日、バイトあったか?」
「そうですね。六時から」
「じゃあ、できるだけ手短に話すな。ちょっと来てくれ」
そういう柳葉教諭に連れて行かれたのは、三階の隅にある資料室だった。こぢんまりとした部屋に、机は一つだけ。左右の壁は本棚で隠れていて、分厚い本で埋まっている。部屋の中は古い本の臭いで満ちていて、昼間でも薄暗い。
生徒が使うことはない。ここは教師が授業を構成する上で必要な参考資料を集めた部屋だ。
「初めて入りました」
「だろう。教師でも俺くらいしかここは使わない。今は資料といっても電子化してるからな」
「じゃあ、先生はなんでここ使うんですか?」
「静かだからな。集中できるんだ。それに、電子化といっても端末が壊れたりしたら、その時は使えないし、ある程度は紙で残すことも必要だ」
電子化の進む暁の帝国ではあるが、停電や機器の故障まで無縁になったわけではない。万が一に備えて、必要な情報を書き出しておくのは間違いではない。それは呪術を扱う凪にはよく理解できた。電子化にはリスクがある。例えば、呪術を記した書物などは電子化が禁止されている場合がある。知るだけでも危険な知識というのが呪術の世界には普通に転がっているのだ。
「それで、先生。俺を呼んだのは……」
「ああ、ちょっと相談があってな。攻魔師としての意見が欲しい」
「相談」
「まあ、俺ではないが、ちょっと待ってくれ。そろそろ来るはずだ」
凪はめでたく攻魔師資格を取得し、この四月から民間の攻魔師事務所で攻魔師のアルバイトをしている。昨年からの実績があるとはいえ、まだ高校生だ。本格的に仕事を任せてもらっているわけではなく、経理や資料整理などの事務仕事が今のメインだ。
あえて、攻魔師の意見が欲しいということは、呪術絡みの相談だろう。
気軽に引き受けるというのも、仕事として活動している以上よくないのだが、友人や教師からの頼みくらいなら聞いても問題ないだろう。
資料室のドアがノックされたのは、そのときだ。入ってきたのは、学級委員長の坂木
「お、来たな」
「すいません、遅くなりました」
どうやら、待っていたのは恵美のことだったらしい。
凪のクラスの学級委員長。それ以上の情報は凪にはない。入学して二ヶ月経つが、彼女との接点は今のところ同じクラスということ以上にはない。
背は平均よりも低め。黒髪のショートボブで、童顔だが整った顔立ちをしている。空菜の登場で隠れているが、男子からの評判は頗る良好だ。
「ええと、昏月君、ごめんね。忙しいのに」
と、恵美が言う。
「まだ、何も話を聞いてないんだけど……」
「あれ? あ、そうなんだ」
凪と恵美の視線が同時に柳葉に向かう。
「よし、じゃあ、まずは座って」
手を叩いた柳葉がパイプ椅子を指し示す。狭い部屋なので細身の三人だけでも圧迫感がある。これが、ガタイのいい担任であれば、むさ苦しさが倍増したことだろう。
「まずだ、昏月のほうもバイトがあるっていうから、簡単に言うと、坂木の相談に乗ってやって欲しい。おそらくは呪術に関する問題なんだが、如何せん俺にも坂木にも知識がないし、誰にどう相談したものかと思ってたんだ」
「はあ……なるほど」
そんなところだろうとは思っていた。
呪術関係の厄介なところは、極めて専門性が高いということだ。それも、対応できるのは霊力や魔力を持つ者だけで、概ね生まれつきの才覚によって支えられている。この業界が万年人手不足なのも、生まれつきの才能に左右される上に、才能があるからといってこの手の仕事を選択するかというとそうでもないという問題があるからだ。
「魔族絡みではなく?」
「それもよく分からない。ただ、面と向かって危害を加えられたというわけじゃない。特区警備隊案件か医者案件かも、判断が付かないんだ。だから、その手のことに詳しそうな昏月に、まずは助言を求めたい」
「そうですか。まあ、俺で分かることなら」
凪の返事を聞いて、安堵したように表情を緩めたのは恵美だった。話を聞く前から、そんな風に期待されると困るのだが、それはそれとして攻魔師としてのそれらしい相談だ。頭ごなしに断るわけにはいかない。
「えと、じゃあ、よろしくお願いします」
どう話していいのか分からなかったのだろう。恵美はなぜか頭を下げる。それから、ブレザーの上着を脱いで、背もたれにかけると、左手の袖を捲った。
「は……?」
と、思わず凪は呟いてしまう。
恵美の腕は包帯でぐるぐる巻きにされていたのだ。二の腕から肘の下まで、まるでミイラのように。
「怪我?」
「うんと……うん、まあ……見苦しくて、ごめんね。これを、見て欲しくて」
恵美は包帯を外していく。日焼けとは無縁そうな白い肌なのだが、違和感がある。おまけに、包帯の下は赤い筋が何本も走っていた。
「切り傷……なんか、ひっかき傷みたいだな」
よく見ると、傷は三本から五本の筋が平行してついている。一本の長さは長いものでも五センチ足らずだが、恵美の腕にはそれが縦横についている。
「やっぱり、そう見える?」
「そうとしか見えないんだけど、ただ、数多いな」
「そうだね。実は身体のほうにも引っかかれてて、人目につくところは大丈夫なんだけどね」
「てことは全身包帯巻いてんの?」
「うん」
困ったねー、と苦笑する恵美だが、事態は思ったよりも深刻そうだった。
「最初は三月の終わりくらいかな。教科書を学校に受け取りにきたときに、二の腕だったかな。赤い筋ができてて、そのときは傷がつくほどじゃなかったんだけど」
「じゃあ、もう三ヶ月近くか」
「うん」
恵美によると、ゴールデンウィークが終わった頃から状況が悪化し始めたらしい。赤い筋程度のものが、血が滲むくらいの切り傷に変わり、さらに身体のほうにまで範囲が広がってきた。一日に最低でも一回は引っかかれる。何が、どうしてこんなことになったのか分からないままで、只管不安だったのだと。
これは確かに判断に迷うところだ。
明確に呪術案件だ。しかし、その原因が何かで相談先が変わる。例えば魔族や魔術師等が能力なり呪術なりで引き起こした魔導犯罪ならば特区警備隊が動くだろうし、霊的な自然現象に引っかかったのであれば、呪術の専門医が相談先になる。とはいえ、素人の恵美や柳葉にその違いは判断できない。「いったいどうしたらいいのだろうか」という不安ばかりが膨らんで、動くに動けなくなったのだ。
呪術が関わらない犯罪でも、被害者がすぐに警察に相談しないということはよくある話だ。何が起こっているのかも分からない呪術案件ならなおさらだ。そもそも、背後に「何者か」がいるのかどうかすらも分からないのだ。
「できることなら解決して欲しいが、そうでなくても相談先とか教えてもらえると助かる」
と、柳葉が言う。
「相談先は、まずは特区警備隊でしょうね。こういう霊障の後ろに引き起こしてる人間がいるのなら魔導犯罪です。相談記録は残すべきですね」
「特区警備隊か。そこまで大事じゃないんじゃないかな」
「大事だと思うけど?」
「え、うん……」
恵美は口ごもる。何か話していないことがある、という雰囲気だ。
「大事にはしたくないって感じ?」
「え、まあ……」
曖昧に笑ってみせる恵美。彼女のこういう表情は初めて見る。
「坂木、身体にまで傷がついてるんだぞ。昏月も言っているとおり、これは大事だ。特区警備隊が相談先だっていうのなら、ちゃんと相談しないと。姉さんにも、説明して」
「母さんには黙っててって言ったじゃん」
「そうは言っても、ここまで来たら隠し通せないだろう」
「それは、そうだけど」
柳葉と恵美の会話が少しずつヒートアップしてくる。心配する柳葉に対して妙に親しげな口調で反論する恵美。年頃の娘の反抗に手を焼く父親のようにも見えた。
「あの、もしかして親戚かなんか?」
と、口論に凪が割って入る。
「あ……ええと……」
恥ずかしげに恵美は視線を逸らす。答えたのは柳葉だった。
「ああ、これはオフレコにしてもらいたいんだが、実は姪なんだ」
「そうなんですか。同じ学校ってアリなんですね」
「ダメではないぞ。配慮は必要だけどな。俺は坂木の成績にも進路にも指導にも極力関わらないし、授業も持たない。本来は別の学年を担当するべきなんだが、そこまで縛ると人手が足りなくなるからな」
教師と生徒が親戚というのは、在らぬ疑いをかけられることもあるから、できるだけ他言しない。
この話を柳葉が凪に持ってきたのは、恵美からプライベートで柳葉に相談が行ったからなのだろう。
「お母さんには、このことを伝えてない?」
「うん、まだ言ってない」
「それは、あー」
恵美はこのことを大事にしたくない上に母親にも知られたくないという。複雑な家庭環境なのかもしれないと思ってしまうと、踏み込んだことが聞けない。そんな凪の配慮を感じ取ったのか、恵美は慌てて手を振って否定した。
「別に母さんと仲が悪いとか、そういうのがあるわけじゃないよ。ただ、まあ、その……」
「心配をかけたくないとか?」
「それもあるけど……」
恵美の態度は煮え切らない。
特区警備隊への相談も母親への報告も凪が強制できるものではない。
恵美の希望を叶える最善手は、凪が骨を折ることだろう。おそらくは、彼女はそれを期待している節もある。
「とりあえず、その傷、もう少し見せてもらってもいい?」
「あ、うん、いいよ」
左腕は痛々しいくらいに赤い線が走っている。解いた包帯にも血が滲んでいるくらいで、ここ一ヶ月の間に恵美に加えられた陰湿な「攻撃」のほどが窺える。
目的は不明ながらも、なかなか強力な怨念を感じざるを得ない。
「ちなみに、人に恨まれる何かした覚えある?」
「ない」
「だよね」
凪の知らない裏の顔がある可能性もあるが、今のところ恵美に悪い噂は聞かない。凪のアンテナは信用ならないが、交友関係の広い上浜からも評判がいいので、まず恵美が原因ではないだろう。とはいえ、目立たないところに傷を付ける陰湿さには一定の意思を感じる。それも、怨念の類だ。
凪は恵美の手首近くの傷に触れる。その途端、ピリリとした感覚が走って手を引いた。
「痛ッ……」
凪の手の甲に、ひっかき傷ができていた。
「昏月君!?」
「くっそ、やられた。やっぱり、猫か」
恵美の手に触れた瞬間、目に見えない一撃が凪を襲った。その一瞬の交錯を凪の霊視は見逃さなかった。
白い猫が、凪の手に爪を立てたのだ。霊的な攻撃なので、視る力を持たなければ分からない。
「昏月君、傷!」
「いや、大丈夫。これくらい、すぐ治る」
薄い切り傷だ。傷と呼べないくらいのもので、撫でているうちに塞がる。一応、名目上は凪は魔族の一員になったのだ。
「猫って言ったか、昏月」
「ええ、まあ。白い猫の手だと思います」
凪が視たことを柳葉に報告すると、柳葉が身を乗り出した。
「白猫、やっぱりか!」
「違う、そんなはずない!」
同時に恵美が大声で否定する。必死の声音には鬼気迫るものがあった。
「坂木? どうした?」
「あ……ぅ……」
また、恵美は視線を逸らして口ごもる。
「なあ、坂木。もしかして、心当たりがあるんじゃないのか?」
「心当たりなんて……別に」
恵美は嘘をつけない性格らしい。もともと、この件には不安を強く感じていることもあって、如実に心当たりがあると明言しているも同然の態度を取ってしまっている。
「昏月、実はな」
「叔父さん」
「隠しても仕方がないだろう。昏月は視たんだから」
「それは……」
ぐっと恵美は言葉を押し殺して俯く。
そして、柳葉が口を開いた。
「実はな、坂木の家には白猫がいる。それも、猫又だ」
「猫又? 魔獣の?」
柳葉は頷いた。
「ちゃんと許可取ってるから大丈夫だから。それに、母さんがこの学校に通ってた頃からいるんだし、今更虎吉が何かするなんて、ありえない」
柳葉に続いて、恵美が言う。
その猫又は虎吉という名前らしい。
猫又は一般には無害な魔獣の代表だ。許可を取れば飼育もできるし、ペットショップでも取り扱われている。普通の猫よりも寿命が長く、百年生きた個体もいる。
猫又は魔獣の中でも特殊な部類で、普通の猫の中から突然変異的に発生する。猫又同士を掛け合わせても、次世代が猫又になる確率は極めて低く、何をきっかけに猫又になるのかは分かっていない。人間が吸血鬼の血の従者になるように、魔力によって生態そのものが変わることは珍しくない。猫の遺伝子の中にそういった変異を引き起こす未知の遺伝情報があり、それが発現することで猫又になるのではないかとされている。
そして、恵美がこの件を大事にしたくないという理由も分かった。
虎吉がひっかき傷に関与しているとなると、それそのものが大事だからだ。
猫又が生物学的に魔獣になるのかは議論の余地があるが、法律上は魔獣だ。その扱いは、普通の動物よりも非常に厳しい。
普通の犬ですら、人を噛めば保健所に連れて行かれる。まして、それが魔獣ならば、厳しい処分は免れない。もしも、虎吉が何らかの理由で恵美を傷付けているのなら、これは行政の専門部隊が動いて虎吉を処分することになるだろう。仮に虎吉の命は助かっても、二度と一緒に暮らすことは叶わない。
「攻魔師の立場から言わせてもらうと、魔獣が人を傷付けるってのは、そもそも見過ごしちゃいけない問題。ただ、現時点だと犯人が虎吉かどうかは分からないので、何とも言い様がないかなと思う」
「虎吉は、悪いことなんてしないよ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。虎吉を視ないことには、断言できないかな。俺は虎吉を知らないから」
「昏月君が虎吉を視れば、虎吉がやってないってことが分かる?」
「そうだな……たぶん、分かる。猫又が何かの能力を使っていれば、痕跡が視えるはずだから」
「じゃあ、視て!」
「え?」
「視て、虎吉の冤罪を晴らして!」
身を乗り出して恵美は言う。思いのほか強い主張に凪のほうが面食らった。
「今日、今から!」
「待て待て、坂木。落ち着け。昏月はこれから攻魔師のバイトがある。いきなり無理を言うのはいかんだろ」
「あ……ご、ごめんなさい。わたし、つい」
恥じ入るようにしゅんとした恵美に凪は思わず笑みを零した。
「わ、笑わないでよ」
「ごめん、つい」
バイトはバイトで外せない。急に休めば迷惑がかかる。せっかく、無理を言って高校生を雇ってもらっているのだ。
とはいえ、恵美のほうは実際に危害を加えられている。本人が特区警備隊への相談を拒否しているのがまた厄介だが、こちらも放置するわけにはいかない。
凪は時計をちらりと確認する。バイトまでは、まだ時間がある。
「とりあえず、虎吉を視るのは分かった。明日であれば、バイトないし時間があるけど」
「うん、分かった。ありがとう」
朗らかに恵美は笑う。期待に添えるかどうかはなんとも言えないが、虎吉に関してだけは恵美の期待通りになるような気がする。
凪を攻撃した猫の手が虎吉の可能性は高い。しかし、それが恵美を傷付けているものと同一かというとそうではない。
彼女の傷からは、ドロドロとした怨念を感じる。よほど強い恨みを抱いているのだろう。その一方で、白猫の爪から感じた感触はもっと温もりがあった。傷の形状はよく似ているが、そこに込められた念が正反対だ。
「そうだ、一つ聞くの忘れてた」
「何?」
「家で引っかかれたことはある?」
「それは虎吉に? それとも、これ?」
恵美は腕の傷を指し示す。
「それ」
「そういえば、ないかも」
「ゴールデンウィーク中は、どうだった」
「なかったと思う」
ゴールデンウィークの後からひっかき傷が深くなるようになった。
家では引っかかれない。となると、やはり虎吉は冤罪のようだ。原因はどちらかというと学校にあるように思う。
同じクラスにいながら、呪詛に気づかなかったのは不覚だった。如何に自分が周りを見ていないか、見せつけられるようだ。
凪はスクールバッグの中を漁って、呪符を取り出した。
「はいこれ」
「お札?」
「簡易的な魔除け。包帯の下に巻き込むと、多少はマシになるはず」
「こういうの持ち歩いてるんだ」
「攻魔師だからな、こんなんでも」
「ありがとう、試してみるよ」
恵美は受け取った呪符を包帯に巻き込んだ。
低レベルの呪詛や悪霊の類ならば、この呪符だけで十分に効果が期待できる。ただ、今回の相手は行きずりの災厄ではなく、間違いなく明確に恵美を狙っている。一回、二回防いだところで根本的な解決にはならない。近日中に具体的な対処をする必要があった。
■
デスクに腰掛け、ノートパソコンと向かい合う。
凪が処理しているのは、民間攻魔業者への補助金や省庁が示した攻魔業法改正に関するの素案資料だ。
役所の中でも攻魔師関係は忙しい部署として有名だ。特区警備隊の親元であり、軍備とも深く関わるので動く金も大きい。人手不足に装備の更新、凶悪犯罪への対処など様々な案件が降りかかっていて、福祉、徴税と並び不人気部署だという話だ。もっとも、それはあくまでも事務方の話で、現場で戦う攻魔官は、攻魔師の中でも花形だ。
昨年は大きな魔導犯罪が頻発した。第四真祖の娘が度々渦中に巻き込まれたこともあって、役所の内部は大忙しだ。その煽りを受けた攻魔業法改正で民間攻魔師が使用できる武装に制限が設けられる可能性が高まっているのだ。
「凪君、進捗どう?」
「今、送ります」
凪のバイト先である宮住攻魔師事務所では、所長夫人の優乃が事務を取り仕切っている。夫は所員を連れて現場入りしている。
事務の仕事にも慣れてきた。消耗品の支払いを終えた後、「確認しといて」と言われた攻魔業法改正案の事務所に影響しそうなところをピックアップして優乃に提示する。
「あれー、ヒートスマッシャー規制対象なるの?」
「出力が引っかかります。うちの、結構高出力じゃないですか。アウトみたいです」
「えー、あれ高かったのに」
「規制されるとしたら三年後の四月からみたいですね。買い換えの補助金も、検討してるようですけど」
「うーん、ショックだなー。装備の更新は規制の動きを見てからじゃないとダメだなぁ」
十年以上使っている装備もあり、そろそろ更新を検討すべきものがいくつかある。民間に出回っている装備は、当然ながら特区警備隊の装備を上回るものではないが、それでもいい値段になる。命がけの仕事でもあるので、いろいろと補助金があるにはあるが、愛用の装備が規制対象になると戦略を見直さなければならない場面もあり得るだろう。
民間攻魔師が魔導犯罪者と対峙することはあまりないだろうが、魔獣と関わることはあり得る。装備品次第では命を失うかもしれないことを思えば、規制を喜ぶことはできない。
とはいえ、そういった装備品が魔導犯罪に使われるケースも珍しくなく、世間は目に見える脅威に敏感だ。
攻魔師がいるおかげで魔獣などの脅威に対抗できる一方、道を踏み外した攻魔師が脅威であるということも明白で、攻魔師が置かれている状況はデリケートだ。
「しゃーなし。昏月君、もう時間だし、上がっていいよ」
「あ、はい。お疲れ様でした」
資料を整理していたら、いつの間にか時間が来ていた。攻魔師らしい仕事はまだできていないが、これも下積みだと思って続けている。それにバイト代は悪くない。小遣い稼ぎと思えば、事務仕事も苦にならない。
「あ、そうだ、優乃さん」
「ん、何?」
「ここ、猫又の資料とかありますか?」
「猫又? 何、急に」
「クラスメイトが飼ってるらしく。ちょっと相談されてまして」
「魔獣っちゃ魔獣だからね、あれ。資料は、確かそこの書棚に入ってたよ」
「借りてもいいですか?」
「いいよ。もう五年は見てないし」
「ありますよね、そういうの」
本棚にあっていつでも手に取れる場所に置いている本を、気づけば何年も開いていない。漫画や小説でもそういうことはよくある。まして、魔獣の資料ともなれば必要がなければなかなか開くことはない。
「じゃあ、これ、お借りしますね」
「はい、お疲れ様」
凪は猫又が記された本をバッグに仕舞い、事務所を後にした。
■
猫又と人類の歴史は、そのまま猫と人類の歴史でもあった。どのようにして猫から猫又が発生するようになったかは定かではないが、多くの場合危険視される魔獣の中では希有なことに、かなり早い段階から人間との共生関係を築いている。
それは、猫又が人間に対して友好的かつ危険性の低い魔獣だったからだ。体格は普通の猫と変わらず、知性は高いものの攻撃性は低い。外見は親から引き継ぐ。マンチカンから生まれれば二又のマンチカンとなり、スコティッシュフォールドから生まれれば、二又のスコティッシュフォールドになる。
坂木家の猫又は、野良猫から生まれたらしい。当時高校生だった恵美の母が、道ばたで傷ついているところを拾い、坂木家に連れ帰ってからは、すっかり坂木家の一員になった。
そういう来歴を、凪は恵美から聞いた。
会話の大半は猫馬鹿と言えばいいのか、うちの猫又がどれくらい愛らしいのかという自慢話に逸れてしまったが、よほど虎吉のことが好きなのだろう。恵美からは虎吉への一切の疑念が感じられなかったし、身体に刻まれたひっかき傷が虎吉の何らかの能力行使である可能性についても、ありえないというスタンスを崩さない。
坂木家には空菜が付いてくることになった。
これは凪が提案したことだった。空菜の能力は呪術への切り札になる。万が一、強引に事を決する必要に迫られたときには、空菜がいれば心強い。
その凪の提案を、恵美は快く了承した。
「わたしの家、ここ」
恵美の家は、学校からバスで二十分のところにあるマンションの三階だ。もちろん、ペット可の物件である。そのマンションの前で恵美は上の階を指さして言った。
「いよいよ猫又ですね。虎吉でしたか」
「空菜さん、わくわくしてる?」
「テレビで見たことがあって、一度、本物を見てみたかったんです。わたし、猫好きなので」
妙に目を輝かせる空菜。ここに来る前に、虎吉の写真データを恵美から見せてもらっているが、可愛い可愛いと褒めてばかりだ。
「ふふふ、本物はもっと可愛いから。わたしの写真技術が下手なだけ」
「エレベータを待つ時間も惜しいくらいですよ」
初めのうちは恵美は空菜と話しにくそうにしていたが、猫の話で盛り上がった今ではすっかり打ち解けていた。たったの二十分の間に凪の存在感は大いに薄れてしまった。
「ただいま」
三階の自宅の鍵を開けて、恵美が中に入る。
「どうぞ、上がってください」
「お邪魔します」
凪と空菜が恵美に続いて家に上がる。
「母さんは夜まで帰ってこないから、楽にして。今、お茶持ってくるね」
西日が差し込むリビングは、生活感を出しつつもしっかりと整理整頓されている。余計な物が床に置いてあったり、洗い物が出しっぱなしになっていたりはしない。
「坂木さんは兄弟とかいないのか?」
「一人っ子だよ。父さんは単身赴任で日本にいるし、母さんは介護の仕事だから家にいるかはまちまち。今日は夜まで仕事に行ってる」
「じゃあ、この時間はあまり家に人はいないのか」
「うん。でも寂しくないよ。虎吉いるし、おじさんも時々顔出してくれるしね」
麦茶を入れたグラスを持ってきてテーブルに並べる恵美は、和室に視線を向けた。そろそろと出てきたのは、白猫だった。尻尾が根元で二つに分かれた猫又だ。
「お、おおー、猫又だ。本物。可愛い。撮っていいですか?」
「可愛く撮って」
空菜がスマホを向けて、写真撮影を始める。至近距離まで空菜が近づいていくが、虎吉は逃げるそぶりを見せない。
「大人しい猫又だな」
「そうなの。偉いでしょ。人なつっこいわけじゃないけど、人を怖がったりもしないの」
空菜に写真を撮られているのを分かっているのか、空菜の前に座り込んでカメラ目線を向けている。その余裕にはふてぶてしさすら感じる。
「意外といえば、空菜さんも意外だったな。わたし、空菜さんとこういう風に話せるとは思ってなかったよ」
「それは、俺も意外ではあった」
「……?」
空菜がこのように感情を露わにするのは珍しいことだ。いくら猫が好きとはいえ、ここまであからさまに振る舞うことはあまりなかったことだ。
「可愛い」という感情を抱き、表現するだけの成長をしたということだろうか。空菜は出自からして、情緒面の成長に不安があっただけに、こういう変化は好ましい。
「今日は怪我はした?」
「今日は大丈夫だった。多分、引っかかれてないと思うよ。昏月君のお札のおかげかな」
「そりゃ、よかった。今日は、俺のほうも校内を見て回ったけど、それらしい動きはなかった。きっと、警戒してるんだと思う」
「警戒してる……じゃあ、やっぱり誰かがわたしを?」
「そこまでは、まだ分からない。霊障ってヤツには、いろんなパターンがあるからね。人が呪詛することもあるし、自然発生する自然霊なんてのもいる。誰かが坂木さんを狙ったかもしれないし、たまたま坂木さんが行き会っただけかもしれない。それは、きちんと調べる必要がありそうだ」
凪は腰を上げた。猫又撮影会をしている空菜の隣に膝を突いて、虎吉の頭に手を伸ばす。
「虎吉、よろしく」
「ふしゃー」
挨拶とばかりに虎吉の右フックが凪の手を払った。ご丁寧に爪まで出している。
「痛てえ、なんだこいつ」
「こ、こら、虎吉!」
慌てて恵美が駆け寄ってきて虎吉を抱きかかえた。
「ご、ごめんね、昏月君。普段はこんなことしないんだけど。しないんだよ?」
不安げに凪を見つめてくる恵美。心なしか泣きそうだ。それもそうだろう。凪がこの家に来た理由は虎吉が恵美を何らかの能力でひっかいているという冤罪を晴らすためだ。それにも関わらず、凪に攻撃的に振る舞えば、心証を悪くするだけだ。
「凪さん、何かこの子にしたんじゃないですか?」
「今日が初対面だよ」
「不思議ですね、こんなに大人しいのに」
恵美に抱きかかえられている虎吉を空菜が撫でると、これといって反撃はしない。大人しく撫でられるがままにされている。さらに、恵美が空菜に虎吉を渡しても抵抗しない。椅子に腰掛けた空菜の膝の上に、ふてぶてしく座ってゴロゴロ言っている。
「おい、虎吉。せめて、もうちょっと猫らしくしろよ」
安楽椅子にふんぞり返って座る人間のおじさんのような姿勢で空菜の膝を独占する猫又に凪は再度手を伸ばす。
「しゃー」
牙を剥いて威嚇。さらに連続猫パンチを見舞ってくる。来ると分かっていれば対処は容易く、凪はさっと身を引いてこれを躱した。
「こら、本当にもー、どうしたのよ虎吉」
恵美を注意する。
普段虎吉に甘い恵美は、人と猫又の力関係もあって強く言うことができない。しかし、今回は場合によっては虎吉の命を左右する攻魔師が相手だ。できる限りいい子にしてもらわなければ困る。
「あの、ごめんね。ちゃんと言って聞かせるから」
「いや、大丈夫。別に猫パンチなんて、普通の猫でもよくするもんだし。魔力を使って攻撃してきたわけでもないから」
必要以上に不安がる恵美を安心させるように凪は肩を竦めて言う。
「でも、なんで凪さんばかりパンチするんでしょうね。男子だからですか? でも、虎吉君はついてないみたいですね」
「うちに来たときに去勢したって」
「去勢とか言うなよ、男子の前だぞ。それに空菜も、変なとこわさわさするな」
苦言を呈する凪に、恵美は失言に気づいて頬を赤らめ、空菜は指摘に意味が分からないのか首を捻る。成長が見えたかと思ったが、まだまだのようだ。
「まあ、いい。いくつか分かったこともあるし」
「分かったこと?」
「昨日、俺をひっかいたのは間違いなく虎吉」
「え!? でも……!」
「俺の傷に残った魔力とこの子の魔力の波形が一致してる。ま、感覚的にも間違いないと思ったけども。念動力に近い力かな」
「あの、でも、それは……その……!」
呪術に疎い恵美には魔力のことを言われても納得できないし、理解もできない。当然、反論もできない。凪は攻魔師の資格を持ち、魔獣に対処することを公に認められているのだ。
「ただ、坂木さんの傷は虎吉じゃない」
「え?」
「坂木さんの身体についてた傷に残ってた魔力は虎吉のとは違う。呪詛の犯人は別にいる」
「犯人は別?」
「間違いないよ。まあ、初めから虎吉が犯人だとは思ってなかったけどな」
「……よかったぁ!」
心底安堵して、恵美は虎吉に抱きついて頬ずりをする。
「虎吉ぃ、どれだけ心配したと思ってるのよぉ」
背中に空菜、腹部に恵美と女子二人に挟まれて虎吉はどことなくまんざらでもなさそうな雰囲気だ。この猫又は、会話こそできないものの、かなりいい性格をしていそうだ。凪に対しては、そんな状況下でもにらみを利かせている。そんなに睨まれても、と凪のほうが困惑するくらいだ。凪からすれば、虎吉の脅威などその辺の野良猫と大して変わらないのだが、これでも猫は好きな動物最上位に位置している。こうも嫌われるとショックが大きい。
「じゃあ、後は今後のことだな」
「今後?」
「虎吉が犯人じゃないと分かったからって、それで終わりじゃないだろ? 問題なのは、坂木さんを傷付けてる真犯人のほうなんだから」
「あ、うん、そうだね。だけど、それは……どうしたら?」
相手は目に見えない何かだ。正直、恵美ではどうにもならない。
「虎吉が犯人じゃないのなら、特区警備隊に相談しても問題ないんだろ?」
「あ、そうだね。確かに。母さんにも相談できるし、そしたら、明日にでも行ってみるよ」
「そうしたほうがいい。それと、学校でひっかかれたときを思い出して欲しいんだけど、どういうところでひっかかれた?」
「どういうところ?」
「教室で、ひっかかれたことはある?」
「ええと、教室はないと思う。そうだね、トイレとか後は、体育倉庫ではやられたかな」
「薄暗いところと水気のあるところは要注意だ。悪い気が溜まりやすい。できるだけ明るいところとか人の目のあるところにいるように心がければ、相手は手を出しにくくなるから」
「そうなんだ。分かった、気をつける」
「それと、呪符を持ってきた。とりあえず数があるに越したことないからな。財布とかポケットとかに入れて手元から離さないようにして」
凪は十枚の呪符を恵美に渡した。
「いいの? その……今更だけど、そこまでしてもらって」
「乗りかかった船だからな」
今、凪が手を引いたところで問題が解決するはずもない。特区警備隊に相談したとしても、彼らがどこまで迅速に対応できるかは分からない。
「今のところ、この家の中は安心だけど、それも絶対じゃないから、これ、置いとく」
凪は円形の薄い石をテーブルの上に置いた。
「これ、何?」
「ルーンを刻んだ石。これも魔除けになる。石に刻めば一ヶ月は効果が持続するはずだから、とりあえずこのテーブルの上に置いといて」
「うん、ありがとう」
「呪詛のほうは、たぶん学校かその周辺がきな臭い感じがする。できれば、しばらくは学校を休んだ方がいいと思う」
「それは、ちょっとどうするか分かんない。学校って言われると怖いし、母さんに話してみる」
学校を休むのは、勇気のいる判断になるだろう。
そもそも呪詛の正体が確定していない。学校での頻度が高いというだけで、学校に原因があるかどうかも定かではないのだ。時間が解決する問題であれば、しばらく身を潜めればいいがそうでないとすれば、根本部分をどうにかしない限り、外出もままならなくなる。
「もしも、相手が坂木さんに執着するのなら、学校に来なくなることで何らかのアクションを起こすかもしれない。場合によっては、かなり強引な手を使う可能性もある。今、用意できる魔除けの術をかけたから、この家の霊的な守りは向上してる。嫌がらせ程度の呪詛なら、入ってくることはできないよ」
強力な呪詛であれば、凪の守りを越えてくることはあり得る。世の中に絶対はない。守りは固めるに越したことはないが、何をしてもマイナスの可能性は残る。
「ところで、最近虎吉、体調崩したりした?」
「よく分かったね。そうなの。先月は、ちょっとぐったりしちゃって、わたしそれも心配で。今はちょっとよくなったかな?」
虎吉の喉を擦りながら、恵美は言う。
ゴロゴロとエンジンを吹かしながら虎吉は気持ちよさそうに目を細めている。
「そのうち、また元気になるでしょ」
「そうかな? そうだといいね」
恵美にとっては一つの前進だった。虎吉が処分される可能性がなくなったので、相談すべき場所にきちんと相談できるようになったのだ。不安がなくなったわけではない。人間関係のトラブルすら、身に覚えのない恵美にとって、こうまで強烈に悪意を向けられるということが信じられないのだ。それも、学校の中でのみひっかかれるということは、犯人が校内にいるかもしれないわけで、そうすると自分の周囲が軒並み怪しく見えてしまう。学校に行くのが怖くなる。登校しないというのも、身を守るための一つの選択肢ではあるだろう。
凪と空菜が帰った後、恵美は今までのことを母に報告した。母は驚くと共に、今まで黙っていたことを叱り、そして気づかなかったことを謝罪した。
翌日、恵美は特区警備隊に被害を相談し、そのまましばらく学校を休むことにした。