白銀に煌めく魔力光が乱舞する。空菜が白刃を振るうたびに、漆黒の呪詛が焼き払われ、跡形もなく消失していく。
全身を怨念の魔力で構成する猫鬼にとっては、これ以上ない天敵だ。なにせ、空菜の眷獣はあらゆる魔力を消滅させる。猫鬼の攻撃の一切が、斬り払われて届かない。隙を見て恵美を狙おうとしても、空菜は先んじて猫鬼の移動先に刃を振るう。一手も二手も先を読まれている。本能に任せて牙を剥く猫鬼ではあったが、その本能が自身の不利を訴えている。
普通の生き物ならば、ここで逃走しているだろう。自分よりも強い相手に挑んでも死ぬ確率を高めるだけだ。よほど戦わなければならない事態でなければ、逃げるのが自然だ。
しかし、猫鬼は空菜から距離を取りはしても、決して諦めるそぶりは見せない。それは、この猫鬼が強烈な怨念に突き動かされている蠱毒だからだ。理性も本能も、怨念が勝る。敗北の可能性など関係なく、自身の呪詛を達成するための式神だからだ。生存は考慮していないし、できない。
猫鬼の実情を視て取って、空菜は恐怖しない。この程度の敵は脅威ではないからだ。それよりも、そのあり方を哀れに思った。
空菜もまたある目的を達成するために製造された人造の生物だ。紆余曲折のすえに、昏月家に拾われたに過ぎない。自分のオリジナルに当たる零菜と争ったことは、蠱毒に似ている。実際、吸血鬼同士の闘争は蠱毒に近い。倒した相手から血を啜り、その全存在を奪い取る
猫鬼は、フェイントを交えて空菜を攻める。運動能力は猫鬼が上だ。三次元的な動きをする猫鬼は、飄々と家具の上に飛び乗り、壁を蹴り、人間ではあり得ない角度から攻撃してくる。猫鬼は空菜から見て左側の壁に着地するや、雄叫びを上げて呪詛の波を叩き付けてくる。空菜は左手の小太刀を真横に薙いで、呪詛の波を斬り払う。小太刀を振るい胴体ががら空きになったところをカーペットの下に潜ませた尾が狙い撃つ。実体のない猫鬼は、身体を伸縮させることもできるのだ。鋭く伸び上がった呪詛の尾は空菜の鳩尾に吸い込まれるその瞬間、膨大な魔力が吹き荒れて光り輝く壁が実体化する。
「
空菜の眷獣の一部、光り輝く巨人の腕だ。家の中で実体化するには本体が大きすぎるので、収まるサイズで部分的に召喚した形になる。それでも、猫鬼の攻撃力ではこの強固な眷獣を突破することはできない。
もともと、猫鬼は呪詛の塊であって、物理的な破壊力に特化しているわけではない。
「ぎぎぎぎぎぎいいいいいいいいいッ」
苦痛という概念が呪詛にあるかは不明だが、猫鬼が苦しそうな呻き声を上げた。黄金の腕を持つ者に触れた尾が溶けて消えていく。黄金の腕を持つ者の能力は魔力の吸収だ。全身を魔力で構成した猫鬼にとっては刃の白銀に並ぶ天敵である。
「出ていけ」
空菜の静かな呟きに反した、強烈な巨人の拳が猫鬼を殴り飛ばした。声もなく、猫鬼は家の外に殴り飛ばされた。空中に投げ出された猫鬼は、如何にも猫といった風に身体を回転させて、中空に着地するが、黄金の腕を持つ者にごっそりと身体を構成する魔力を削り取られ、朧な陽炎のように揺らめいている。
「ただの魔力の塊にしては、しぶといですね」
眷獣ほどの力のない、魔力の塊でしかない猫鬼は、本来ならば黄金の腕を持つ者に触れるだけで存在を維持できなくなる。それにも関わらず、猫鬼は依然として明瞭な怨念を空菜の背後に向けている。
眷獣ですら身体の半分を失えば実体を維持できずに消えてしまうというのに。
その疑問はすぐに解消された。突如、猫鬼の身体が黒い炎に包まれて、失った部位を修復したのである。
「ずいぶんと潤沢な魔力をお持ちで」
空菜が呆れたように呟く。
猫鬼の身体はすべてが魔力であり、魔力さえあればいくらでも復活できるようだ。猫鬼はどこかから大量の魔力を吸い上げて、肉体を再生させたのだ。これでは空菜がいくら猫鬼の魔力を吸収したり、消滅させたりしても、その都度回復されてしまう。完全ないたちごっこだ。持久戦の様相を呈してきた時、地上から猫鬼に向けて青白い弾丸が放たれた。
「よく狙え! 速いぞ!」
近くで配備に就いていた特区警備隊の隊員だ。凪の通報を受けたのだろうか。駆けつけてきたのは三人だけだが、今は貴重な戦力だ。
構える拳銃は、対魔獣用の魔弾を装填した特区警備隊の基本装備の一つだ。持ち主の霊力を弾頭に変換した非実体弾は、破壊力に乏しい反面、その殺傷力の低さから住宅街等の人口密集地での使用に適している。そして、霊力を打ち込むということから霊体にも有効だ。
隊員が拳銃の引き金を引き、弾丸は青白い光跡を残して夜を斬り裂く。鬱陶しそうに、猫鬼はマンションやアパートの壁や屋根を飛び周り、隊員のうちの二人がこの後を追って街路樹とアパートの屋根に登る。
「しゃあッ」
街路樹を登った隊員に向けて猫鬼が前足を伸ばした。鋭い爪を剥き出しにした前足は、まるで鞭のように撓って、十メートル以上の距離を隔てた隊員を襲う。隊員は背中を反らして爪を躱すが、体勢を崩して枝の上から真っ逆さまに転落する。そのまま、頭からアスファルトに激突するかに思われたが、隊員は足を枝に絡ませて身体を固定すると、枝にぶら下がったまま拳銃を抜いて、猫鬼の額に三発の魔弾を撃ち込んだ。
このような反撃が来るとは想像もできなかった猫鬼は、防御姿勢を取るまもなく眉間と両目を撃ち抜かれた。
味方の芸術的な射撃に目もくれず、アパートの屋根に飛び移った女性隊員は左右の手に一挺ずつ拳銃を握り、青く澄んだ魔弾の輝きを容赦なく猫鬼に放つ。
二方向からの射撃を受けて、猫鬼の動きが鈍る。反撃しようにも撃ち込まれる魔弾が猫鬼の身体を揺らがせる。致命的なダメージを与えるには至らないが、動きを止めるだけの効果はあるようだ。
隊員二人が猫鬼を抑えている間に、壊れたベランダからもう一人の隊員が入ってきた。ポニーテールの若い女性隊員だった。
「遅くなって申し訳ありません。特区警備隊の朝倉支部第四分隊の荒木です。お怪我はありませんか?」
硬い表情をしたまま荒木は空菜と恵美に話しかける。
幸いなことに空菜も恵美も怪我はしていない。
「大丈夫です。あの、ただこの子が」
恵美は抱きかかえていた虎吉に視線を向けた。空菜が魔力を与えた後も意識が戻らない。息はあるが、専門知識のない恵美には状態が分からず不安が募るばかりだ。
「猫又? ずいぶんと消耗しているようですね」
「だ、大丈夫ですか?」
「すみません。わたしは魔獣医ではないので、はっきりしたことは分かりません。ただ、この子の霊力は安定しているように見えます。そこだけを見ると、すぐに危うい状況にはならないのではと思います」
「そうですか、ありがとうございます」
一先ず安心した恵美は眠る虎吉の頭をそっと撫でた。
「あなたは吸血鬼、ですか?」
「はい。昏月空菜といいます」
「昏月、さん……あれ? あの、何というか」
「何ですか?」
「いえ、すいません。知ってる人に似ていたもので」
「よく言われます」
表情を変えずに空菜は答えた。美形の空菜が無表情で呟くように言葉を紡ぐと、それだけで妙な威圧感が生まれる。けっして、空菜本人が圧をかけているわけではないが、荒木は心に引っかかるものがあったので、勝手に圧を感じてしまった。
荒木は、空菜をパッと見たとき、彼女のかつての師の面影を見た。
対魔族戦闘のエキスパートであり、第四真祖の寵姫の一人でもある暁雪菜やその娘の零菜によく似ていると思ったのだが、口にする前に思いとどまった。他人のそら似はよくあることだ。下手な発言で地雷を踏むかもしれないとは口が裂けても言えないが、とりあえず口を閉じた。
「お怪我がないようで、何よりです」
荒木は、話題を逸らすように当たり障りのない言葉を選んだ。
「火力不足ですね」
と、空菜が戦闘状況を眺めて言う。
隊員たちが放つ魔弾は、幾度も猫鬼を撃ち抜いている。それでも、猫鬼は活動を続けている。隊員たちが与えるダメージが、猫鬼の回復速度を上回れないのだ。
とはいえ、駆けつけてきた隊員たちはプロの攻魔師だ。二人で連携し、猫鬼の動きを的確に封殺している。
彼らの装備は今使用している非実体弾の拳銃と警棒、呪符くらいのものだった。この通常装備でも、普通の魔導犯罪者や怪異が相手なら十分に制圧できるのだが、運の悪いことに今相手にしている猫鬼は、普通の相手ではなかった。
それでも、普通ではない相手であっても、その場の判断で膠着状態に持ち込んでいるのは、日頃の訓練の賜物と言えるのだろう。
「想像以上の回復能力です。正直、今の装備ではあれを祓うのは難しいでしょう。応援の要請をしましたので、それまで何としてでも食い止めます」
「わたしの眷獣なら相性もいいですし、あの猫鬼を倒すことはできると思います」
「あなたは学生でしょう?」
「わたしの眷獣が、今は一番効果的です」
刃の白銀にしても、黄金の腕を持つ者にしても、純粋な魔力の塊である猫鬼の天敵となる能力を有している。
あの回復力さえ何とかできれば、十分に勝機がある。
いずれにしても、隊員たちだけでは火力不足であるのは荒木も認めるところであり、難敵を相手に吸血鬼の眷獣というのは心強い。
「回復力をどうにかすると言っても……何か案はあるんですか?」
「さきほど、猫鬼の魔力を吸った後で、龍支脈から猫鬼に霊力が流れ込んだのが感じられました。あれは、龍支脈と霊的に繋がっているはずです」
「そんな馬鹿な……」
荒木は絶句した。
龍支脈から直接霊力を得ているとなると、あの猫鬼のエネルギーは事実上無制限だ。一度に使える魔力こそ、そこまで多くはないが、成長すれば真祖の眷獣にも匹敵する力を持つ可能性すらある。大自然の力をそのまま利用できることを考えると、あるいはそれ以上の怪物になることも理論上はあり得るのだ。
これから先、猫鬼が強くなることはあっても弱くなることはない。
しかし、そんなことが可能なのかという疑問はある。龍支脈から直接霊力をくみ上げるのは、容易なことではないのだ。
確かに、龍支脈の恩恵を受けていない人はこの国にはいない。大規模な呪術実験をするのも、大自然のエネルギーを活用すれば楽に大がかりな儀式が行える。とはいえ、大規模呪術はしかるべき準備をした上で執り行うもので個人レベルで行うことは想定しないし、必要な施設も大がかりなものになる。個人で受ける恩恵は、ささやかなお零れに過ぎない。個人レベルの龍脈の利用というのは、言うなれば川の支流からさらに用水路に水を引き、そこからコップ一杯の水を汲むという程度が関の山なのだ。直接、何の加工も設備もなしに龍支脈から霊力を吸い上げるなど、自殺行為だ。
「からくりはまだ分かりませんけど、事実は事実です。あれと龍支脈の繋がりを切り離せれば、後はわたしで仕留められます」
「結界に隔離すれば、龍支脈と切り離すことはできるはずです。それは、こちらで請け負いますよ」
荒木が胸元の無線機を使って、戦闘中の二人に連絡した。
外部から魔力なり霊力なりを得て、自らを強化する方法は、呪術に携わる者ならばごく普通に選択するありふれた手段の一つだ。当然、魔導犯罪者も機械なり魔術なりで自分を強化するので、特区警備隊はそうした外部からの魔力供給を遮断する術を心得ている。
隊員の連携で猫鬼は、坂木家から三十メートルほどの距離を隔てたところから、口惜しそうに呻くばかりだ。
猫鬼からすれば、特区警備隊員も空菜も目障りな障害物でしかなく、本命はあくまでも恵美だ。それ以外は眼中にない。自分を傷付ける相手にも、関心が向かない。それは、猫鬼が呪詛の塊であり、呪詛する相手を「設定」されているからだ。恵美をあくまでも優先するのであれば、それ以外の第三者は邪魔者ではあっても、優先的に排除する相手ではない。
猫鬼の思考は単純だ。優先順位を更新するだけの知能、というより自由がないのだろう。
その性質を逆手に取って、特区警備隊員は安定した戦いぶりを見せていた。
それでも戦況が一進一退なのは、偏に猫鬼に対する決定打を与えられないからだ。
魔弾を撃ち込んでも、すぐに回復してしまう。隊員の攻撃は、猫鬼を退かせることはできても、倒すには至らない。並の魔獣ならばとうの昔に原型を止めないほど破壊されているはずの攻撃を受けて、猫鬼は未だに健在だ。糠に釘を打っているような、途方もない徒労感を覚えていたところで、荒木が持ちかけた提案は、光明とも言えた。突破口が見えれば、そこに向かっていくだけだ。
「右から回れ。追い込むぞ」
「承知しました」
左右に展開して猫鬼を追い立てる。
三人一組で三方向から敵の移動を制限しつつ、自分たちに有利な場を作る。対魔獣戦闘の基本だ。
「荒木!」
「はい!」
坂木家から出た荒木が前面に結界を張った。魔除けの結界だ。それが、猫鬼の進路を塞ぐ壁となる。
前を塞がれて動きを止めた猫鬼を左右から隊員たちが魔術の鎖で縛る。不動金縛りは、日本にルーツを持つ暁の帝国でもポピュラーな魔術だ。
「抑えた。結界を……!」
金縛りが成功し、もがく猫鬼を隔離するべく霊力を高める隊員たち。金縛りを維持しながら結界を構築するという高い練度を求められる魔術の平行使用だからか、金縛りの術式に若干の乱れがあった。生存本能のなせる技か、猫鬼はそれを見逃さず、強引に身体をねじ曲げて金縛りから抜け出した。
「何!?」
同時に、驚愕に目を剥いた隊員の一人を鞭のように撓る尾で打ち払う。不意を打たれた隊員は咄嗟に防御姿勢を取ったものの、衝撃を殺しきれずに跳ね飛ばされて、三階建てのアパートの給水塔に叩き付けられた。
「大野木さん!」
「大丈夫だ! 前!」
思わぬ反撃に動揺した別の隊員に猫鬼が襲いかかった。猫鬼の身体が
およそ想定することの不可能な動きに隊員は対応できずに固まってしまう。
漆黒の猫鬼が隊員に躍りかかる寸前、横殴りの電撃が猫鬼の上半身を焼き払った。黄金に輝く小さな獅子の眷獣
空菜が猫鬼と戦闘していると察した凪は、そこでタクシーを降りた。タクシーを戦闘に巻き込む訳にはいかないからだ。いぶかしむ運転手に事情を説明して来た道を引き換えしてもらうと、凪は大急ぎで坂木家まで走った。
特区警備隊の隊員を交えた魔術戦の気配を感じながら、はやる気持ちを抑えて走る足に力を込める。そうして戦況が見えるところまでやって来て、特区警備隊に加勢するため最速の眷獣を走らせた。結果的にそれが功を奏し、今にも猫鬼が隊員に飛びつこうかという寸前に間に合った。
猫鬼の首に食いついた小さな黄金は、雄叫びを上げながらその首を噛み砕き、電熱で猫鬼の身体の半分を消し炭にしたのだ。
「凪さん!」
「空菜、大丈夫か?」
壊れたベランダの上から顔を出す空菜に凪は尋ねた。
坂木家のベランダは崩壊し、窓も砕けている。まるで大型のトラックが突っ込んだかのような惨状だ。他の階への影響も皆無ではないだろう。魔獣が市街地で暴れている時、住民が取るべき行動はひたすら家の中で嵐が過ぎ去るのを待つことだ。迂闊に外に出れば戦いに巻き込まれるし、魔獣にも狙われる。家の中が最も安全なのだ。それでも、自分の周囲で魔獣が暴れて魔術戦になっているとなれば、心中穏やかではいられないはずだ。恵美のためだけでなく、この地域のためにも早期に猫鬼を倒す必要がある。
「あなたも吸血鬼ですか?」
猫鬼が近づけないように結界を張っている荒木が走ってきた凪に尋ねた。
「そこにいる空菜の兄です。Cカード持ってます」
凪は自分のCカードを提示する。攻魔師ならば、魔導犯罪や魔獣との戦いに関わっても、問題は生じにくい。たとえ民間人であっても、攻魔師資格は希少な資格なので、特区警備隊が作戦の中で援軍として活用するのは容認されるのが一般的だ。
「まだ学生なのに、すごいですね。ですが、助かります。手を貸してもらえますか?」
「もちろんです」
軽やかにアパートの屋根に飛び移った猫鬼は、凪が校舎で対峙したときよりも大型化している。小さな黄金で頭から胴体まで焼き払ったというのに、すでに再生しているところを見ると、弱点らしい弱点はなさそうだ。物理的な破壊は不可能と思ったほうがいい。
「凪さん、あれの動きを止めてください」
壊れたベランダの奥から顔を出した空菜に頼まれた凪は、二つ返事で了承した。
凪は三次元的に駆け回る魔猫の気配を追いながら、魔力を練り上げる。
規格外に強力な猫鬼に即席の破魔の霊術が効かないのは特区警備隊の苦戦ぶりを見れば分かる。物理的な拘束は意味を成さない魔力の塊に対して、動きを止めるというのはなかなか困難なミッションだ。
おまけに相手は疲れを知らず、傷も負わないと来れば、攻撃によって弱低下させるという一般的な魔獣対応は取れない。
猫鬼は、緩急を付けた動きで特区警備隊員を手玉に取っている。一度崩れた連携を立て直す時間は素早く軽やかに移動する猫鬼を前にしてはあまりにも長すぎるし、猫鬼も確実に獲物を仕留めるために、特区警備隊という障害に囚われないように必死だ。
「小さな黄金。追い立てろ!」
速さには迅さで勝負する。中空を蹴る小さな獅子が、雷光の速度で猫鬼に追いすがる。
猫鬼を遥かに上回る移動速度。常人ならば、空中に紫電を飛び交っているようにしか見えないだろう。雷撃の眷獣の猛追を受けて猫鬼が呻く。その頭を、鋭い爪が打ち砕く。さすがに吸血鬼の眷獣は相手が悪い。猫鬼の力では、小さな黄金と組み討ちすることはできないのだ。
しかし、それでも再生は止まらない。消し飛ばされた頭を次の瞬間には再生し、小さな黄金の頭上を飛び越える。
倒したと思った相手が一瞬にして復活したのは、小さな黄金にとって驚くべきことだったらしい。慌てて猫鬼を追いかけて、今度は背後から首根っこに食らいつく。強靱な顎で猫鬼の首を焼き砕くと、勝利の雄叫びを上げる。その真横を、復活した猫鬼がすり抜けていく。小さな黄金は、飛び退る猫鬼を見るや今度は怒りに打ち震えてこれを追いかける。そうして、小さな黄金は速度と力で猫鬼をモグラ叩きのように倒しては追いかけるを繰り返した。
「倒さなくていいんだよ、こっちに追い込め!」
凪は小さな黄金に指示を飛ばす。
以前よりも強い魔力を帯びた小さな黄金は、扱いが一層難しくなってきている。それを御すだけの力を経験を凪は積んでいるのだが、このまま小さな黄金が猫鬼を追い回して夜の住宅街を走り回っていたら、凪のほうが先に参ってしまう。
相手は持久戦に強いのだ。早い内に片付けなければならない。
空中で小さな黄金と猫鬼が交錯する。幾重にも折り重なる黒と金色の魔力光の乱舞が、夜空に光り輝く。猫鬼がまき散らす呪詛の尽くを焼き払い、猛然と猫鬼を追う小さな黄金への魔力供給を凪が停止した。不意に訪れた静寂は追い立てられていた猫鬼ですら予想外だったようで動きを止めた。来る小さな黄金の攻撃への対応への備えが無駄になり、動きを止めたその一瞬で凪は新たな眷獣を呼び出していた。
「
夜闇よりもなお暗い、あらゆる光を飲み込む黒の剣が凪の右手で鈍く魔力稼働させる。
不出来な黒剣の能力は重力操作。
魔力で生み出した小規模な超重力の結界が猫鬼を捕らえる。
「しゃあッ!」
猫鬼が脱走を試みるが、超重力空間は猫鬼を路面に叩き付けたまま逃がさない。魔力による拘束は、猫鬼にも有効。不出来な黒剣が生み出す重力空間は、猫鬼を捕らえる不可視の檻として、その性能を存分に発揮していた。
「今のうちに!」
「了解しました! こちらも準備はすでにできています!」
特区警備隊員が三人がかりで結界を張った。三方向から猫鬼を取り囲み、三角形の紋様を描く。光り輝く結界が猫鬼を今度こそ絡め取り、龍支脈から流れ込む霊力を大幅に抑制した。頼みの綱のエネルギー源を絶たれた猫鬼が苦悶の声を上げる。猫鬼単体では、自らを維持する魔力を生み出すこともできないのだ。ただ存在するだけで魔力を消費して消えてしまうだろう。
そこに空菜が致命的な一撃を加える。
光り輝く巨人の腕が猫鬼の頭をむんずと掴んで、猫鬼を構成する魔力を根こそぎ奪い取っていく。初めこそ激しく抵抗した猫鬼であったが、もはや回復の術はなく、抵抗そのものにも魔力を使う有様だ。あっという間に魔力を失い、空気に溶けるように消えていった。
猫鬼が消失して、十分ほどが経ち、再生の気配がないことから現場の空気は弛緩した。強い緊張が解けて、自然と関係者に笑みが浮かぶ。とはいえ、これですべてが終わったわけではない。まず、猫鬼は存在そのものが強烈な呪詛の塊だ。それが街中で暴れたのだから周囲を浄化する作業が必要だ。万が一にも、猫鬼が呪詛を巻いていたら大変なことになる。場合によっては第二、第三の蠱毒が自然発生する可能性もあるし、感受性の高い人に「感染」し、新たな霊障を引き起こすこともあり得る。
そのため、特区警備隊は大がかりな土地の浄化作業を夜通し行わなければならなかったし、直接的に悪意を向けられていた恵美は、専門病院に運び込まれて検査を受けることになった。
恵美を襲った猫鬼の存在は、それまで凪以外は確認できていなかった悪質な呪詛の存在を白日の下にさらし、特区警備隊の警戒態勢を引き上げさせることに繋がった。
街中で危険な呪詛が使われ、女子高生が襲われるという事件は、行政としても放置することのできない事件だ。まして、三ヶ月も前から霊障に苦しんでいたとなると、未然に防げなかった特区警備隊への風当たりが強くなる。適切な対応を取らなければ、住民の不安を煽るだけで、事件の解決から遠いてしまう。
一先ずは土地の浄化を急ピッチで行う。幸いなことに空菜が魔力を食らったことで、猫鬼がまき散らした悪性の魔力の多くが消失している。この分なら調査も含めて日の出前には解散できそうだった。
次々に集まってくる特区警備隊の浄化班は、深夜の急な呼び出しにもかかわらず毅然として事態の収束に当たる。
その様子を眺めていた凪に、吉岡が缶コーヒーを渡した。
「いいんですか、公務員がこういうことして」
「これくらいで目くじら立てるヤツは……まあ、いないとも限らないが、いいだろ別に」
そう言って、吉岡は自分の分のコーヒーを啜る。
「で、どうなんだ?」
「急になんですか?」
「今日、猫鬼がここに出るって分かったんだろ? どうやって知った?」
吉岡信二は猫鬼の事件に関わる特区警備隊の隊員だ。学校の調査にも従事していたし、恵美を視てもいた。猫鬼はなぜか学校以外で恵美を襲ったことはなく、学校の外に出ることもなかった。猫鬼の行動範囲は、常に学校の敷地内に限定されており、恵美がいなければ現れることすらない。そういう怪異が、急に恵美の家を襲撃した。そこに凪と空菜が居合わせたのは偶然ではないと推測するのは、真っ当なことだろう。何より、信二に通報し、特区警備隊員の派遣を要請したのは凪本人だ。
「今日、龍支脈の流れが変わったんです」
「ああ、この辺な」
「今まで、坂木さんの上は龍支脈の上にはありませんでしたけど、今回の変動で龍支脈と重なるようになりました。それで、龍支脈を辿っていくと、中央高校があります」
「つまり、猫鬼は龍支脈を辿って移動してるってことか」
「魔力の塊ですから、龍支脈に乗ること自体は可能なんでしょう」
「理論上は、そうかもしれないけどな」
信二は今一納得できないとばかりに頭を掻く。支脈とはいえ龍脈に乗って移動するというのは、呪術が日常に存在する暁の帝国の専門家からしてもファンタジーの領域だ。
いくら魔力の塊とはいえ、まかり間違えば一瞬で押し流されて大自然を流れる霊力の中に霧散することになる。
「あの猫鬼は、半自動的に対象を追尾して呪詛するタイプの式神みたいですから、坂木さんに繋がる道が見えれば強引にでも通ろうとするでしょう。それに
「目に見える部分は使い捨ての身体。本体は別にいるか」
「試行回数は何回でしょうね。何百回もチャレンジして、そのうちの一回が龍支脈を上手く抜け出せたってことかもしれないですね」
呪詛を飛ばす本体が別にあり、それが仮初めの身体を用意して恵美を追わせる。龍支脈に乗り、恵美を襲えれば良し、失敗すればそのまま消失するが、本体にとっては痛くも痒くもない。数え切れないほどの失敗を繰り返しながら、恵美にじわじわと迫っている。それが猫鬼を動かす呪詛の本体だ。
「形を持った呪詛ってのは、厄介だな。そこまで極まってると、終わりがないもんだ」
話し合いで解決できる段階はとうに過ぎている。
相手は自動的に恵美の存在を検知して、攻撃を飛ばすプログラムだ。試行回数が数千数万になったとしても、諦めるということはない。それ以外の機能は、もとより持っていないのだ。
「蠱毒の本体は龍支脈を辿っていった先にいるわけだな」
「だと思います」
「ここの支脈は、全長十五キロはあるぞ。目星はついてるのか?」
「ええ、おそらくですけど」
「マジか。どこだ?」
翌朝、日の出と共に凪は中央行政区の南の外れにある日野坂地区公民館にやって来た。休日でも地域活動で使用する部屋は開設されるのだが、今は早朝で誰もいない。四階建てのコンクリート製の建物は、長年の風雨に汚れて黒ずみ、外壁は所々ひび割れている。年季の入った建造物は、公民館と言うよりもむしろ学校と言った方がしっくりくる風貌だが、それも当然だ。日野坂地区公民館は、中央高校の旧校舎を再利用したものだ。それも立て替えもせず、そのまま地域で活用しているから、使い古した校舎がそのまま残っている。昨今流行のデザイン性を外観に求めず、昔ながらの「学校」をイメージさせる純朴なコンクリートの建物は、残念ながら行政の思惑通りには活用されておらず、校舎の八割は利用者を待ちながら時間の流れに身を任せているような状態だ。
再開発の流れで近くにできた新興住宅地に若い世帯が移り住み、日野坂地区の人口はここ十年で減少の一途を辿っている。かつて五百人の学生が利用した学び舎も、今や日に十数人の高齢者が訪れるだけとなってしまった。
そんな寂れた旧校舎を訪れた凪は、敷地に入った瞬間にもはや間違いようのない猫鬼の悪意を感じ取った。
「ああ、これは確かに俺でも分かる」
と、呟いたのは帯同してきた信二だった。
「ここが元凶で間違いなさそうだ。よし、各班呪物の捜索に当たれ。敷地全部だ。ネズミ一匹逃がさないつもりで探し出せ」
十人の部下を二人一組で散開させる信二。ある班は公民館の外を探し、ある班は中に踏み込んでいく。猫鬼の気配が充満した敷地の中では、何が起こるか分からない。ここは猫鬼の領地も同然だ。
「凪、お前も探せ。得意だろ?」
「そりゃ、まあ、もともとそのつもりですし」
凪がただの素人ならば、特区警備隊に丸投げで全く問題ない。こういった事案に対応するのは、彼らの仕事だ。
しかし、凪は新人とはいえ攻魔師だ。その力を社会に役立てるのは、官民を問わず攻魔師が負う義務である。
人権に厳しい日本ですら、攻魔師は中卒から活動できる。より魔導犯罪リスクの高い暁の帝国ならばなおのことだ。
何より、ここを特定したのは凪だ。言わば、これは凪の手柄であり、最後の一押しに関われる好機をみすみす逃すわけがない。
「じゃ、俺裏手に回りますんで」
「そっちが怪しいのか?」
「何となくです」
呪術の歴史は人類の歴史と同等とも言われており、世界各国で様々な形に変化している。当然、それを扱う攻魔師にも得意不得意がある。凪が得意とするのは、霊体への干渉だ。古くは巫女や神官などが習得した技術で、母から受け継いだ強力な霊媒能力は世界的にも希有な才能であった。
人に見えないモノを視て、感じて、時に対話すら行う。それを可能とする凪の霊感の鋭さは、同年代でも図抜けている。
空菜を連れて、勘任せに歩を進める。
油断はできないが日が昇り始めたことで、呪詛の苦手な日差しが公民館にかかる。長い夜が終わり、朝の安寧が訪れたのだ。
公民館として使われているのはコの字型の建物の西側の一階と二階だけで、他に今も使われているのは体育館だけだ。残りは手つかずのまま放置されている状況である。一階と二階の窓にはベニヤ板が張られていて、中の様子は外からでは分からない。
「こっちは何年ほったらかしにされてるんでしょうかね」
「萌葱姉さんからもらった資料だと、中央高校が移転したのは十年前だって話だから、その時からだろうな」
「もったいない」
建物の東棟は、売却されるも買い手が付かず、地域での有効活用も為されないままなのだ。グラウンドも結局は管理されず、固く絞まっていたはずの地面に背の高い雑草が生い茂っている。
「土なんですね、このグラウンド」
「昔の学校は土のところもあったみたいだな。日本時代の方針らしいぞ」
暁の帝国は、人工島なので土がない。今、国の中にある土はすべて余所から持ってきたものだ。自然の植物が育つ余地は、そもそもないのだが、時折こうして昔土を敷いた土地が放置された結果、雑草が繁茂する光景が生まれることがある。
「嫌な感じが、さっきからしますね」
「ああ、そうだな」
空菜が不快感に顔を歪める。負の魔力を扱う吸血鬼でも、じっとりとした呪詛の魔力は不快以外の何物でもない。
「この辺だな」
凪が感じる違和感の発生源は、プール脇の桜の木の近くだ。すっかり廃れたプールには水がなく、廃タイヤや自転車が投げ込まれて朽ちるに任せた状態だ。その周囲を取り囲むように、桜や梅の木が植えられている。外からプールの中が見えないように木々で覆い隠すためだったのだろうか。管理者不在のまま放置された十年間で、雑草が繁茂し、木々は剪定されることなく枝葉を好きに伸ばしている。結果、プール周辺はより一層人目が入りにくくなった。おまけに一日の大半が日陰で、水気が多い。
ガサガサと音がしたので顔を上げると、反対側から回り込んできた特区警備隊の隊員と目が合った。
「君たちもこの辺に目を付けたのかい?」
「はい、ちょうどここが怪しそうだと思ったところです」
「うーん、確かにジメジメしてて嫌な感じだ」
凪が指さしたのは、桜と梅の間だ。降り積もった落ち葉が分解されて、柔らかい土で盛り上がっている。水の流れがほとんどないので、表土が流出することもないまま十年分堆積しているのだろう。人間が見ていないところで自然が勝手に土壌を作り出していると考えると神秘的だが、残念なことにこの土は呪毒に汚染されているようだ。そのまま自然に帰すわけにはいかない危険物だ。
「よし、ここを掘り返してみよう」
何が起こるか分からないので慎重に土をスコップで掘り返す。見た目は普通の湿った土だが、掘り返すと強い瘴気が滲み出てくる。普通の人間ならば、ここにいるだけで嘔吐やめまいに襲われただろう。
「これは、なかなかキツいな」
と、凪は呟く。
エレディアから呪詛を受けたときほどではないが、ねっとりとした毒性の空気で気分が悪くなる。
「いっそのこと、わたしの眷獣で掘りますか?」
という提案を空菜がしたが、却下した。
呪詛の大本を消してしまえば、事件が解決するかというとそうではない。呪詛があるということは、それを仕掛けた誰かがいるということなのだ。空菜の眷獣は、そこに至る手がかりすらも消してしまいかねない。
仕方なくスコップを使い手作業で掘り返す。何が埋まっているか分からないので、細心の注意を払って作業を進める。他の隊員たちも集まってきて、念のために結界を張り、龍支脈と周囲を切り離した。
堆積した腐葉土を取り去り、絡まった木の根を切りながら土を掘ること十分。真っ黒な木箱が埋まっているのを見つけた。
「出た。間違いない、これだ!」
穴を掘っていた隊員が声を上げた。
土を拭い去るとそれはどこにでも売っているような市販の道具箱であることが分かった。水を吸い黒ずんだ道具箱に呪符を貼り付け、霊的なコーティングを行う。蓋を開けても、中から呪詛が出ないようにする措置である。
必要な措置を終えてから、呪符で裏打ちした防護服に身を包んだ隊員が蓋を開ける。
「蠱術の本体で間違いありません」
「しっかり記録残せ。終わったら空菜ちゃんにバシッと決めてもらうからな。後から記録取ってないって言っても遅いからな」
信二が矢継ぎ早に指示を飛ばす。
蠱毒は数ある呪詛の中でも重罪だ。古代の日本でも名指しで禁止されるほど忌み嫌われた邪悪な呪詛である。
猫を利用した蠱毒だが、これはどちらかというと犬神に近い術のように思う。
「空菜ちゃん、記録取ったから、この辺刺してもらっていい?」
「了解しました」
信二に頼まれた空菜が頷いて、白銀の小太刀を抜く。魔力を無効化する電撃が四方に弾け、怨念に塗れた土ごと猫鬼の呪詛を消失させる。
その呪詛が抱く思いも成立過程も関係なく、空菜の電撃が打ち消していく。魔力を無効化する
「終わりましたね」
と、凪が信二に言った。
両肩にかかっていた重圧が消えた。空菜の一閃は、過たず猫鬼の根幹を斬り裂き、完全に消してしまったのだ。
土地を浄化する必要がないほど完膚なきまでの完全消滅だ。掘り起こされた箱はただの箱でしかなく、土もまたただの土でしかなくなった。呪詛の痕跡はなくなり、もう二度と猫鬼が現れることはない。
凪は木箱を覗き込んだ。そこにはミイラ化した黒い猫の頭部が置いてあった。呪詛など関係なく、見るだけで気分を害するものだ。このミイラが猫鬼の核となった怨念の持ち主だ。黒猫のミイラは一枚の写真を咥えていた。密封された道具箱の中にあったからか、色褪せてはいたが写りは悪くない。
「坂木さんじゃないな」
写真に写っているのは長い髪の少女だ。セーラー服を着ていて、あどけない顔立ちからすると中学生くらいだろうか。
「ずいぶんと年季の入った写真だな」
と、同じく覗き込んだ信二が言う。
「土は深いところにあって根っこが絡んでましたし、穴を掘ったのは一年、二年のことじゃなさそうですね」
「てことは、これはあれだな。所謂人違いってヤツだ」
「本当に呪われていたのは、この写真に写っている人ですね」
とすると、恵美は完全なとばっちりだ。
凪が猫鬼をおびき寄せたとき、恵美の霊力を写しとった呪符を使って凪を恵美と誤認させたが、それと同じようなことが恵美に対しても起こっていたのだ。猫鬼は恵美を本来の呪詛する相手と誤認して攻撃を仕掛けていたのである。
恵美が身に覚えがないというのも当然だ。そもそも、恵美は最初から無関係だったのだから。
「とりあえず、この娘の身元を調べてみるか。別件で相談記録があるかもしれないしな」
信二は面倒そうに言った。
写真は相当古そうだ。この猫鬼を生み出した悲劇は、おそらく十年以上も前のものであろう。とすると被害者になるはずだった少女はすでに成人しているだろう。
蠱毒に狙わせられるほどに恨まれているというのなら、別の呪詛を受けたことがあるかもしれないし、現在も苦しんでいるかもしれない。そして、呪詛の犯人の特定のためにもこの「少女」の身元は重要な情報であった。
■
凪と空菜は事件に当初から関わる関係者だ。そのため、まっすぐに家に帰ることなく特区警備隊の隊舎に立ち寄り、資料作成に協力することが求められた。坂木家の戦闘を終えてから、明け方に日野坂地区公民館に行くまでに仮眠を取ったが、決して質のよい睡眠ではない。明らかな睡眠不足に苦しみながらも、睡魔に負けずに調書作成を終えたことは快挙ではないか。
気がつけばもう昼時だ。隊舎の食堂で昼食を取っているが、前に座る空菜の目にも、若干の疲労の色が浮かんでいる。このまま家に帰って寝る。それが使命だとばかりに、凪は自分に言い聞かせた。
そんな凪の隣に、大柄の男が腰掛ける。吉岡信二だ。
「隊長さん、どうかしましたか?」
と、空菜が尋ねる。
「ああ、実はな。君らが調書を作ってる間に、あの娘の身元を調べてたんだが」
「何か分かったんですか?」
「大方の予想通りだったからな。結構簡単に分かったぞ。これから確認に行く。凪はどうする?」
「むしろ、俺がついて行っていいんですか?」
「関係者だからな。それにクラスメイトだろう?」
「公私混同になるんじゃないですか?」
「龍支脈関係はお前が見つけたんだから、何か質問されたらお前が答えろよ」
「それが目的ですか。分かりましたよ。行きますよ」
信二は呪術の知識があるが多分に感覚的な能力の使い方をする。細かい理論を詰めていくタイプではなく、呪術の系統だった説明を苦手とする大雑把な性格だ。
技術的な質問が出たときに、凪に投げようという算段だ。
「凪さん、わたしも行きます」
「空菜、疲れてるだろ?」
「大丈夫です。行き先は、坂木さんのところなんですよね?」
空菜の問いに信二は首肯して答える。
この一ヶ月ほどの間に、空菜と恵美の仲はかなり近づいた。空菜にとっても、この事件の解決は重要案件だ。検査のために病院に搬送された恵美に会う最短ルートは、凪についてくることだ。
一人が二人になっても大して変わらないという判断の下、信二は空菜の同席を認めた。空菜が事件解決に大きな貢献をしており、恵美の友人という立場でもあるからだった。
恵美が搬送されたのは、中央行政区の東部にある帝国立大学付属病院である。一般の病気の他、呪詛を専門に扱う霊障病棟を有している。
凪も物心ついたときから両手の指では数え切れないくらいお世話になっている病院だ。
恵美は霊障病棟の三階に検査入院することになった。
入院中の恵美を訪ねると、恵美は嬉しそうに笑った。
「空菜さん、昏月君も。あれ、面会はダメじゃなかったっけ?」
部屋の中にはベッドの上で身体を起こしている恵美とその傍らに座る母の雪子の二人だけだ。
恵美の疑問に答えたのは、遅れて入ってきた信二だ。
「ああ、それについては、特別に許可を取りました。検査入院中で大変なところすみません」
「あなたは?」
「特区警備隊の吉岡信二です。坂木恵美さんの関わる呪詛事件を担当しております。どうぞ、よろしくお願いします」
信二とは初対面である恵美は、空返事で答えた。特区警備隊関係の聴取は、すでに終えている。改めて別の調査官がやってくることに疑問とは行かないまでも違和感は持ったのだろう。
「あの、特区警備隊さんの聞き取りは午前中にもしましたが、まだ何か?」
雪子が信二に尋ねる。
雪子からすれば自分が仕事で不在にしている間に娘が自宅で襲われていたのだ。特区警備隊には以前から相談していただけに、事件を防げなかったことに憤りを覚えているくらいだ。もっとも、襲ってきた猫鬼に身体を張って戦ったのも特区警備隊の隊員なので、それを露わにすることはないが、もっと早く対応できなかったのかという思いは当然持つだろう。
「はい、まずは連絡が一つと確認が一つ。それぞれありまして、無理を言ってお伺いした次第です」
「連絡と確認ですか?」
「はい。まず、連絡ですが、昨夜恵美さんを襲撃した怪異、猫鬼といいますが、これの本体を今朝処理しました」
「本体を処理? それは、もう解決したということですか?」
「呪詛としての猫鬼は、もう恵美さんを襲うことはありません。有り体に言うと退治できました」
「本当ですか? また、どこかから出てきたりはしないのですか?」
「その心配はないでしょう。呪詛を形成する本体を、そちらの空菜さんの眷獣で処理しました。彼女の眷獣は呪詛の類の天敵とも言える能力です。二度と復活することはありません」
信二は空菜に視線を向けつつ、そう断言した。
「じゃあ、わたしは学校に行っても大丈夫なんですか?」
と、恵美が身を乗り出して尋ねる。
信二は鷹揚に頷いて、大丈夫だと答えた。
「……そうですか。よかった」
恵美はほっとしたように吐息を漏らすと、そう呟く。いつどこから襲われるか分からない状況は恐怖しかない。自宅すら安全ではなくなったのだから、どこに行けばいいのかすら分からなかったのだ。それが解決したのだから、これは大きな前進だ。
「空菜さん、昏月君、本当にありがとう。わたし、なんてお礼を言ったらいいか」
「別にお礼とかいらないよ。乗りかかった船だし、攻魔師なのに学校で霊障が起こされたら堪ったもんじゃないしな」
「そうですね。とりあえず、無事でよかったです」
呪詛の大本が消滅したことが確認されたので、検査入院が長引くということはない。空菜の魔力無効化能力を受けた恵美には万に一つも霊障が残ることはありえないのだ。恵美が検査入院しているのは、国の規定に則ったものであって、無事を裏付けるための作業でしかない。
「と、それが連絡でもう一つ確認が。お母さんの方なんですけどね」
「わたしですか?」
信二が鞄から取り出したタブレットの電源を入れる。手慣れた様子で画面を操作してから、雪子に画面を見せる。
「この写真に写っているのは、あなたですね?」
「え? ……あ、はい。確かに、わたしです」
信二が雪子に見せたのは、黒猫のミイラが咥えていた写真だった。色あせた写真をスキャンして電子化した画像だ。
「中学の時のわたしです。もう、三十年は前のものですけど。どうして、この写真が?」
「実は、呪詛の本体と一緒に埋められていたんです」
「……どういうこと、でしょうか?」
今一意味が分からないという風に雪子が尋ねる。自分の写真が呪詛に利用されていたと聞いてもピンとこないのだ。その問いに答えたのは、凪だった。
「人を呪うときに、呪詛する相手に関わるモノを使うというのはよくある手なんです。有名な丑の刻参りでも藁人形に相手の髪を入れたり、名前を書いた紙を貼り付けたりして釘を打ちます。写真を使うのは珍しいですけど、意味合いは同じですね」
「え……ちょっと待ってね、昏月君。その、それってつまり、呪われていたのは恵美じゃなくて……」
「……呪詛の対象は、坂木さんのお母さんです」
雪子は何を言われているのか分からないといった表情を浮かべた。
今まで雪子は一度も被害を受けていないのだ。恵美ばかりが傷ついていく中で、無力感すら覚えていた。その根本的な原因が自分にあるなどと、一度として考えなかった。
「呪われていたのは、わたし?」
「はい。その写真が出たところに、俺も一緒にいました。場所は日野坂地区公民館の裏手、旧中央高校のプール脇の土の中からです。小さな木箱に入っていた猫の頭のミイラが、その写真を咥えていたんです」
「ね、猫のミイラ? あの、ごめんなさい。よく分からなくて」
「そうですね。すみません。まず、一から整理します」
呪詛のことを言われても、一般人はまったく分からない。漫画やアニメから漠然とした知識を得る人もいるが、雪子はそういったオカルトやサブカルチャーからは遠いところにいる人間だ。
凪はまず今回の呪詛がなんなのかというところから説明することにした。
「坂木さんを襲った呪詛の正体ですが、猫鬼と呼ぶ怪異です」
「猫鬼?」
「猫を使った呪詛です。犬を使えば犬神と言ったりします。動物や虫を使う呪詛の一つで蠱毒の仲間ですね。蠱毒は聞いたこと、ありますか?」
「ごめんなさい。その手のことには疎くて」
「いえ、それが普通ですから」
凪はまず蠱毒について掻い摘まんだ説明をした後で、猫鬼の作り方を伝えた。猫のミイラが頭部だけだったところから、犬神と同じ方法で作ったものと思われる。
猫を首まで土に埋め、極度の飢餓状態まで追い込む。餌を目の前に置き、最後の力を振り絞って伸ばした首を切断し、その怨念の詰まった頭部を使って憎い相手を呪詛するというものだ。
「酷い……」
と、呟いたのは恵美だ。
「その人は、猫をそんな風にして殺したの? お母さんを呪うために?」
「そういうことだと思う。偶然、猫の首が落ちることはないだろうからね」
恵美の瞳に怒りの色が滲む。
猫又を家族同然に愛する恵美は、当然、普通の猫も大事に思うし、もちろん、常識として、猫をそのように粗雑に扱うことなど許されないことだ。
「でも、だったらどうしてわたしが襲われたの?」
と、恵美は尋ねる。もっともな質問だ。呪詛されているのが雪子ならば、恵美は本当に関係がない。
こればかりは想像の域を出ないが、状況証拠から考えると、
「たまたまだったんだと思う」
という結論になる。
「たまたま?」
「霊的な特徴は親子で似るんだよ。だから、たまたま坂木さんを見つけた猫鬼がお母さんだと誤認して、襲っていたっていうのが真相だと思う」
親から子へ霊力は引き継がれる。親の霊力が強ければ、霊力の強い子どもが生まれやすいし、その能力までも引き継ぐことは珍しくない。他ならぬ凪が、母から霊的才能を受け継いでいる。まともに呪術を使うことのできない脆弱な霊力でも、それは同じだ。
「お母さんとわたしを間違って襲ってたなんて、そんなこと……」
「あり得なくはないよ。それに猫鬼自体が、まともな呪詛じゃなかったみたいだし」
「どういうこと?」
「猫鬼を作ったのは素人だと思う。実際のところ、呪術として成り立ってすらいなかった。形だけ真似ただけだから、本当は猫のミイラができるだけだったはずなんだ」
猫のミイラと聞いて恵美は顔を歪める。
「でも、結果的に猫鬼は成功した。偶然の産物だよ。たまたま龍支脈上に埋められて、星辰とかの影響を受けて「それらしいモノ」が生まれてしまったわけだ。ただ、場所が悪かった」
「場所?」
「学校は結界で守られていて、霊的存在は出入りできない。つまり、外からの侵入だけじゃなくて、中から出ていくこともできないってことになる。不完全で脆弱な猫鬼は、怨念を晴らすことができないままずっと結界の中に閉じ込められていたんだろう。お母さんは中央高校じゃないんですよね?」
凪に話を振られた雪子が頷いた。
「わたしは城南出身。中央高校とは恵美が入学するまで縁がないわ。公民館になってからも一度も行ってないの」
「猫鬼がいつ成立したかは正確には分かりませんけど、ミイラの年代測定結果によると三十年から二十五年前だそうです」
「わたしが、高校生か大学生か、それくらい。でも、それくらい前なら、どうして今になって出てきたのかしら? それに、恵美が襲われていたのは中央高校の中で、公民館じゃないのよね?」
雪子の疑問ももっともだ。
猫鬼は結界の外に出られなかったから雪子を長年襲えなかった。それは旧校舎が公民館に変わってからも同じだ。結界はそのまま引き継がれて、今も継続して運用されている。猫鬼は、日野坂地区公民館の敷地から出られないはずだ。
「わたし、日野坂には行った覚えないよ」
と、恵美も言う。
日野坂は、恵美の行動圏外だ。立ち寄る用事すらない地域で、そもそも日野坂地区公民館が旧中央高校だということすら今まで知らず、どこにあるのかも分からないくらいだ。
「俺たちも旧校舎のことなんてまったく頭になかったし、学校の結界はそれぞれ独立してるものだから、他の結界との関係なんて考えもしなかったよ。それでも、猫鬼は中央高校の校舎内に侵入できた。要は抜け穴があったんだ」
「抜け穴?」
「そう。昔のデータをいろいろと調べてみたけど、十年前に中央高校が移転したときに、結界をどうするかって話があった。結界は土地に紐付くから、移設ってわけにはいかない。けど、一から新築するのはかなり大変だ。だから、新校舎の仮設した結界に旧校舎の情報を転写するって方法を採った」
「転写?」
「コピーしたってこと」
「ああ」
恵美が頭に「?」を浮かべているので、簡潔に説明した。
結界の形だけ作り、詳細な設定は別の結界から写し取る。大規模な結界を簡単に早く設置することができるという利点があり、学校同士なら権利関係や結界に必要な諸条件は容易にクリアできる。とりあえず、それまで通りの結界を用意して、そこから移転先に合わせて随時アップデートするというのは、施設を移転するときにはよく採られる手法である。問題は、その転写方法だ。一般的に結界を転写するとき、転写元と転写先を霊的に接続して、情報をダウンロードし、転写が終了すると接続を解除する。つまり、一時的ではあるが旧校舎と新校舎は霊的に繋がっていた時期があるのだ。
「調べてみたら、大体三ヶ月くらいは転写に時間がかかってるみたい」
「でも、終わったら繋がってるところは切るんだよね?」
「そうだね。この工事でも、接続箇所の封鎖はしてる。ただ、それが甘かったみたいだ」
「甘い?」
「普通、こういう工事をするときは、新校舎と旧校舎の両方で切断作業をするんだ。切り離された道は、そのまま自然に消えていって、二つの結界は独立するものなんだけど、どうも新校舎側だけ塞いで旧校舎側は処置してないみたいなんだ」
「え? まだ、繋がってるってこと?」
「そういうこと。ただ、新校舎側は塞いでるから、そのままなら問題はなかったんだけど、今はその蓋っていうのかな、新校舎と旧校舎を繋ぐ道の出入り口のところに小さな穴が開いてたよ。意識しないと気づかないくらいのものだけど、猫鬼が出入りするくらいなら十分みたいだ」
「そんな手抜き工事みたいなこと」
恵美も雪子も絶句している。
呪詛のことも結界のこともよく分からないが、本来終えているはずの工事が未着工のまま放置されていたことで、被害を受けることになったのだ。怒りよりも呆れのほうが大きいくらいだし、通常の工事と違って目に見えないので実感がどうしても湧かない。
「猫鬼に呪われていたのは、坂木さんのお母さんで呪詛の本体は旧校舎にあった。ただ、お母さんは猫鬼の活動範囲に入らずに生活していたから、その影響を受けずに三十年もの時間が過ぎてしまった。おそらく、この間猫鬼は休眠状態だったはずだ。そんな中で、中央高校に坂木さんが入学してきた。お母さんによく似た気配を感じて目覚めた猫鬼は、手抜き工事で残っていた霊道を通って坂木さんを攻撃した、というのがこの事件のあらましです」
「……二つだけ聞いていいかしら」
と、雪子が口を開いた。
「学校の外に出られないのなら、どうして昨日、うちに猫鬼は出たのかしら? それに、恵美の傷は最初の頃は、今ほど酷くはなかったと聞いているのだけど、それはどうして?」
「そうですね。猫鬼が坂木さんの家に出たのは、龍支脈を通って移動したからです。学校の結界は、龍支脈から引き上げる霊力で維持しているんです。猫鬼はこれを利用して、移動経路に使ったと思われます。昨日の夜、龍支脈の流れが変わって坂木さんの家と学校が同一の流れの中に入ったのが原因ですね」
もちろん、それは簡単なことではない。
龍支脈の流れに乗って移動するのは、ほぼ不可能な難事である。それを実現できたのは、猫鬼が実体を持たない霊体であるということや、あくまでも移動していたのは本体ではなく呪詛だったということが大きい。失敗しても問題なく次の呪詛を飛ばせばいい。そうしてトライアンドエラーを繰り返して坂木家を襲撃したのだ。
「坂木さんにつけられる傷が少しずつ深いものになっていったのは、猫鬼が時間とともに強くなっていったからでしょう。おそらく、三月時点ではそこまで強力な呪詛ではなかったのでしょう。もともと不完全な呪詛ですし、三十年近く眠ったままだったので、嫌がらせ程度しかできなかったんです。ただ、この猫鬼は怨念を糧にして時間経過とともに力を増した。最後には龍支脈に呪詛を通せるくらいに進化したんです。これが、もしも完璧な猫鬼だったら、こうはならなかったんですけどね」
皮肉なことに、不完全な猫鬼だからこそ、常識外れの進化を実現できたのだろう。従来の術式に則った正式な猫鬼ならば、進化の余地はない。そこで完結してしまっている。恵美を襲った猫鬼は術者に唯々諾々と従う式神から独自の進化を遂げた魔獣に変化しつつあったのではないだろうか。
「それに四月までの猫鬼は、坂木さんにほぼ手出しできなかったと思いますよ」
「わたしに? どうして?」
「坂木さんはずっと守られていたから」
「守られて……?」
空菜が、その後を引き継いだ。
「虎吉ですよ」
「虎吉が?」
「はい。虎吉は、恵美さんにもお母さんにも、自分の霊力の一部をつけているみたいです。近づいてくる悪い者を追い払うための護衛みたいなものですね」
「そんなことしてたの?」
ここにいない虎吉は、今は魔獣の専門病院に預けられている。猫鬼との戦闘でかなり消耗しているからだが、命に別状はないと聞いている。
「この前、坂木さんと柳場先生に相談されたときに俺をひっかいたヤツだよ。あれで、猫鬼の呪詛も最初のうちは凌いでたんだ」
以前、凪の手をひっかいた白い猫の手。恵美には見えなかったが、凪はそれを虎吉の手だと見抜いていた。
「猫鬼は進化を重ねて少しずつ強くなっていくし、虎吉は消耗していく一方になる。力関係が逆転したのは、ゴールデンウィーク頃じゃないかな」
「虎吉が体調を崩してたのって、もしかしてそういうことなの?」
「多分ね。猫鬼が一気に進化したのもこの時期。蠱毒は怨念を糧に成長するタイプの呪詛だ。せっかく見つけた坂木さんが十日も自分の活動圏に入ってこないっていうのは、猫鬼からしたら相当フラストレーションが溜まったと思う。ただでさえ、学校の敷地の中でしか動けないんだからね。それが、猫鬼を今までにないくらい強力な怪物に進化させたきっかけだろう」
一ヶ月以上攻防を繰り返し、虎吉は疲れていた。その反面、十日もの間、ご馳走をお預けされた猫鬼はそのストレスすらも糧にして進化を遂げた。虎吉は猫鬼の呪詛に敗れて、体調を崩してしまい、虎吉の加護が弱まったこともあって、恵美の霊障はより深刻になっていったのだ。
「虎吉、そんなにまでして」
「まあ、虎吉が恵美さんの家に来たのって、お母さんが高校生の頃なんですよね? 虎吉からしたら、恵美さんは娘とか妹とかそんな感じの認識みたいですよ」
「そっかー」
恵美はどことなく嬉しそうに相好を崩した。
虎吉は猫又の力を使い、家族を守っていた。三十年間ずっと雪子が家庭を持ち、娘を産んでからはその娘のことも見守り、時に身体を張って守っていたのだ。
猫鬼は特に家族に明確に危害を加える意図を持った害悪で、しかも猫の怪異だ。虎吉からすれば、自分の縄張りを荒らす不届き者以外の何物でもなかっただろう。
一通り、この事件の詳細を説明し終えたころに、信二が改めて口を開いた。
「それではお母さん。最後の確認ですが。三十年程前に黒猫と縁があったことはありますか?」
雪子は信二にそう聞かれ、瞳を揺らした。
それから、ゆっくりと深呼吸をしてから口を開いた。
「昔、実家で猫を飼っていたことがあります。虎吉がうちに来る前です」
「それが黒猫?」
「はい。名前はそのままクロでした」
雪子は頷いた。
「その子は、その後どうしましたか?」
「……うちがペット不可の物件に引っ越すことになってしまって、友達に引き取ってもらったんです。中学、二年生の頃だったかと」
「そのお友達について教えてもらってもいいですか?」
「……その、あまりお話できることはないんです。その娘、もう亡くなっているので」
「それは、すみません……」
「いいえ。高校二年生の頃です。お風呂で溺れてそのまま。詳しいことは、本当に何も知らないんです。別の高校に進学して、それからは疎遠になってしまったので」
「そのご友人の進学先は中央高校ですね?」
「はい」
雪子は頷いてから、ハッと目を見開く。
「あの、その娘がわたしを呪ったっていうことですか? さっき仰っていた黒猫の首って、まさか」
「詳細はまだ分かりません。調べてみないことには何とも。ですが、可能性は否定できません」
信二の言葉はあまりにも重い現実を突きつけてきた。
友人に呪詛されるというだけでもショックなのに、まさかその触媒に自分が可愛がっていた猫を使われるとは。しかも、それはその友人を信じて引き取ってもらった子なのだ。あまりのことに雪子は愕然と言葉を失い立ち尽くした。
その後の話。
恵美は検査に異常が見られなかったので、月曜日から登校を始めた。一ヶ月あまりの療養だったこともあって、クラスメイトは大きく驚いて喜び快気祝いに向けて有志がいろいろと動いているらしい。
虎吉も無事に坂木家に戻り、今まで以上にのびのびと過ごしている。学校帰りに空菜が虎吉に会いに来るという新しい日常にご満悦のようだ。
そして、一連の騒動を引き起こした呪詛については、触媒にされたのが昔雪子の実家で飼っていたクロであることが正式に確認された。飼い主の少女は、浴槽で亡くなる前に睡眠薬を大量に服薬したことが分かっており、自殺として結論づけられていた。その両親は娘の自殺は学校での虐めが原因だとし訴訟を起こしており、三年後に和解が成立、その後は日本に帰国している。まだ絃神島だった頃の出来事だ。今更日本にいる両親に話を聞くこともできず、呪詛は被疑者死亡で処理されることになった。
友人の死は知っていたものの、クロはその後も幸せに生きたものと信じていた雪子はショックを受けていたし、結局呪詛の理由までははっきりとしなかったので、後味の悪い幕引きとなった。