彩海学園は、暁の帝国を代表する名門校だ。国外からも留学生を積極的に受け入れており、通っている学生の中には第四真祖の娘や大企業の子女、有名芸術家の息子など上流階級の子どもたちが顔を揃えている。中高一貫の私立校で、進学にも力を入れている文武において高いレベルを維持している学園なのだが、もともと、そこまで突出した学園ではなかった。
彩海学園が急成長した背景には、第四真祖やその皇妃の多くがこの学園の出身者であるということが絡んでいる。
歴史を見れば、まったく浅い新興国家だ。第四真祖という伝説に謳われる世界最強の吸血鬼が統治する第四の夜の帝国は、科学でも軍事でも世界の超大国に比肩する力を持つが歴史や伝統というものは如何ともしがたい。さらに、近代国家としては珍しく騒乱とも縁が深い。絃神島の頃から、大きな争いの中心に置かれ、時には諸外国から袋だたきにされてきた歴史がある。暁の帝国の国民の中には、外国への嫌悪感を口にする者もいるし、歴史の浅い国の国民が自分たちのアイデンティティを、第四真祖に求めるのは自然な流れだった。
確かに歴史は浅い新興国家だ。しかし、自分たちの皇帝は伝説の第四真祖であるという点については、誰にも明らかなアピールポイントだ。
当然、第四真祖――――暁古城に縁のある地は、「神格化」されていくことになる。その代表例が彩海学園だった。
夏休みを目前に控えた七月の第三週月曜日。
机の上でパンの包みを広げるのは、暁の帝国第三皇女の暁零菜である。艶やかでしっとりとした射干玉の髪と空色の瞳が印象的な、人形のように整った顔の少女だ。口を開けばフレンドリーな普通の少女だが、立場と美しさのためか、初見では近づきがたいと思われることもしばしばあるらしい。ともあれ、中高一貫の彩海学園の高等部一年生。同級生の多くは零菜と中学三年間を共に過ごしてきた。彼女の人となりは、あまり関わったことのない人の間でも知られているし、零菜の周りには幸いなことに小学校からの長い付合いの友人も何人かいる。人付き合いでは、運に恵まれていると感じることは多々あった。
「助けて、姫えもん~~~~」
「人を青タヌキ扱いしないでよ」
零菜の眼前に座る友人は、水島千咲という。小学校からの同級生。驚くべきことに、彩海学園に入学してからも、ずっと同じクラスでここまでやってきたので、腐れ縁はついに七年目に突入した。
セミロングの黒髪を二つ結びにした千咲は、今、その頭を机に押しつけて呻いている。
「千咲ちゃん、ご飯は?」
「もう食った」
「早くない?」
昼休みが始まってから、まだ十分と経っていない。零菜は混み合う学食を避けて、学校が提携するパン屋の訪問販売を利用したので、今から昼食だ。零菜が席を外している十分の間に、千咲は自分の昼食をさっさと終えてしまったのだ。
「ちゃんと食べてるの?」
「もちろん。焼きそばパン二つ。綺麗に平らげましたとも。これ以上食べると、後が怖いんじゃー」
「炭水化物ばっか」
「そっちも似たようなもんじゃない?」
「わたしのはほら、ちゃんと野菜入ってるから」
零菜が食べているのはキャベツましましのサンドイッチだ。純国産の小麦粉と純国産のキャベツを使ったサンドイッチは、女子たちが選ぶ人気メニューの一つだ。
「それだったらわたしのにも、野菜入ってるよ。紅ショウガとタマネギ」
「微々たるもんでしょ」
零菜はサンドイッチをぱくぱくと食べて空腹を満たし、包装紙を丸めて紙袋に詰めた。包装紙から紙袋まで、リサイクルできる素材でできている。これは、彩海学園の科学部とパン屋の店長が共同開発した素材なのだとか。
「零菜、に千咲? どうしたの?」
零菜の背後からやって来たのは、麻夜だ。通常、姉妹は別のクラスに配するものだが、零菜と麻夜は立場が立場なので、一カ所に纏めてしまおうという学校側の思惑があり、今年度は同じクラスになっていた。
あいうえお順だと名字が同じなので、必ず前後の席になる。入り口から入って一番手が、大抵零菜と麻夜の席になる。今は席替えの結果、離ればなれになったものの、昼休みにはちょくちょくまとまって駄弁っている。
麻夜は零菜の隣の席の椅子を引くと、少し離れたところで雑談をしている男子に声をかけた。
「吉崎君、ちょっと椅子借りるね?」
「ウス!」
吉崎と呼ばれた男子は、二つ返事で答えた。席替えの結果、零菜の隣の席を手にした男子だ。せっかく隣になったものの、ほとんど会話らしいものはない。未だに零菜は吉崎について、バスケ部員だということ以外の情報は持っていない。
吉崎の許可を得た麻夜は、彼の席に座った。
「助けて麻夜様」
「わたしと麻夜ちゃんの扱いの差は何?」
いつもの調子で千咲はおどけてみせる。零菜にとっての幼馴染である千咲は、当然麻夜にとっても幼馴染だ。
「助けるって、何?」
「それを今聞くところ」
やっと会話の始めに戻ってきた。
唐突な「姫えもん」のせいで話が逸れていたのだった。
「で、結局どうしたの?」
と、零菜が聞き直す。
千咲は、待ってましたとスマホを取り出した。
「うちでやってるお化け屋敷のことなんだけどね」
「お化け屋敷?」
「千咲のとこのお化け屋敷っていうと、ブルエリかな?」
「そうそう」
ブルーエリジウム。通称、ブルエリは暁の帝国の
施設の規模は二十年の間に五割増しになり、多彩なプールや屋外の運動場だけでなく屋内施設も充実した暁の帝国屈指のレジャーランドになっている。
このブルエリだが、実は何度か経営危機に陥っている。
特に第二西地区に取り込まれ、海の孤島から内陸の商業施設に環境が激変した時の混乱はかなりのものだった。大株主の矢瀬財閥を中心に資金が投入され、リニューアルに成功したから今の姿がある。そして、そのときにブルエリに資金を投入した大会社の中に、千咲の両親が経営する会社も含まれていた。
「ぶっちゃけ、お化け屋敷は母さんの趣味みたいなもんで、そんなに力を入れてる事業じゃないんだけどね」
「そんなもんなの?」
「うちは観光業やってるけど、イベント会社じゃないし。ブルエリに出資してる関係でスペースもらったから、何かやってみるかってだけだったんだけどね。お化け屋敷なんて安直じゃん? 正直、上手くいくとは思ってなかったんだけど」
「去年、かなり好評だったよね? テレビで見たよ」
麻夜は一年前の記憶を掘り起こす。ブルエリに誕生した夏限定のお化け屋敷は、夏らしさを求める若者たちで賑わっていた。
「今年もやるんじゃないの?」
「やるよ。今はプレオープンで、八月から正式スタート。まだスタッフと抽選で当たったお客さんしか来てないんだけど……」
と、千咲は言葉を切った。何やら深刻そうな顔をしている。それから、スマホの画面を零菜と麻夜に見せた。
大手口コミサイトだ。このサイトでの評価が客足にも影響するとして、良くも悪くも話題に上がるサイトの一つである。
「これ見て」
「んー?」
零菜と麻夜はスマホの画面を覗き込む。
「二十代女性」の書き込みだ。
『ブルエリのお化け屋敷彼氏と行った後、彼が寝込んじゃいました。これって呪い!?』
と、書かれている。
「よくある話じゃない?」
と、零菜は言う。
心霊スポットやお化け屋敷といった土地を訪れたに災いが降りかかるというのは、よくある話だ。
「むしろ、千咲側がこういうのを書き込んでるんじゃないかと思ってたよ」
「今時、そんなことするわけないじゃん。リスクしかない」
千咲は麻夜の意見を憤慨だとばかりに否定する。
「それに、これだけじゃないの。ほら」
画面をスクロールすると、ブルエリのお化け屋敷を体験したという人の体験談が綴られている。好意的な意見がある一方で、異様な寒気を感じたとか呻き声が聞こえたとか、中には具体的に「許さない」と言われたといった書き込みがある。その上、体調不良を訴える書き込みもある。
「事実に基づかない書き込みが営業に影響するんなら、削除申請するしかないんじゃない?」
零菜が冷静な意見をする。
それに、お化け屋敷に行くというのは、目に見えない驚異を楽しむのが第一目標だ。その後に体調を崩せば、呪いかもしれないと結びつけて考える。あるいは、そういうネタとして楽しむのもアリだ。だとすれば、こういった書き込みは話題性を引き上げるものであって、必ずしもマイナスになるものではないと捉えることもできるのではないか。
「噂話程度なら全然いいよ。でもね、本物だったら本格的に不味いじゃん?」
「本物って。ブルエリに? 地鎮祭しなかったの?」
「したはずだけどさぁ」
暁の帝国でも地鎮祭の文化はある。呪術や魔獣、霊的存在の影響を抑えるためという明確な目的に基づいたもので、日本で伝統的に行われている地鎮祭よりも現実的な魔族特区としての都合による。とくによくない者を集めやすいとされる土地や催しでは必須だ。地鎮祭をしなかったせいで、霊障を負ったとなれば、裁判で負けることもある。
しかし、ブルエリでそのような不手際があるはずがない。
「てか、本物なの?」
と、麻夜が千咲に聞く。
「さあ?」
「さあって」
「だって、わたしはあんたらみたいに不思議パワー持ってないもん」
「自分で入ったりはしたの?」
「もちろん。でも、なんもなかった」
「じゃあ、何もないんじゃない?」
「いや、それがさあ……スタッフの中にも、いるんだよね、実は」
「幽霊見たって?」
「そう。こう、黒い靄みたいなのが出てきて、『許さない、許さない』ってずっとしゃべってたって。バイトのスタッフさん、怖がってその日から来なくなっちゃったよ」
「ほんとなの?」
「幽霊のことはほんとかどうか確認できてないけど、その人のことはほんと。正直、このままだとオープンできないよ。変な噂が広まったままオープンして万が一があったら、それこそ大問題だよ」
幽霊の話が本当かどうか、今はまだ確定していない。
お化け屋敷にしろ心霊スポットにしろ、そういったところが娯楽の対象になるのは、大前提として安全であるという了解があるからだ。本物が出るような場所に好き好んで行く者は、皆無とは言わないまでも限りなく少ないだろう。
お化け屋敷は本物はいないが、いるかもしれないというスリルを楽しむ場であって、本物の心霊現象を味わう場ではないのだ。
「攻魔師事務所に頼んでみたら?」
という零菜の意見を千咲は、今は無理と断言する。
「なんで?」
「公に除霊しちゃったら、「本物はいない」って内外にアピールすることになるじゃん。お化け屋敷的に、それもちょっとできないのよ」
攻魔師に依頼をすれば、「本物はいないのは常識だが、もしかしたらいるかもしれない」という前提を崩すことになってしまう。「本物がいたので除霊した。もう本物はいない」となれば、お化け屋敷のスリルは半減してしまう。
「姫えもん、何かいい知恵ない?」
「その呼び方止めてよ」
「姫様、お助けください」
「そう言われてもなあ……」
何かと言われて零菜にできることは、正直ほとんどない。本物の幽霊がいるのであれば、
「ああ、わたしが見に行けばいいのか」
「え?」
「いや、攻魔師に依頼できないんなら、わたしが見てみようか?」
「御自ら、ご出馬を?」
「千咲ちゃんのお願いだし?」
「いやいや、わたしなんかが姫様に来てくれなんて言えるはずもなく。ただ、こう、上手いこと内々で処理できそうな攻魔師さんに渡りを付けてもらえればなんて思っただけ。ほら、いるじゃん?」
「いるじゃんって」
確かにいる。
頼みやすい上に実績があるし、内輪で処理できる攻魔師に心当たりはある。千咲とも面識があるので、事情を説明しやすい。
最近は、バイトで忙しくしているようだし、その延長なのか分からないが、危ないことに首を突っ込んだらしい。クラスメイトの女子を助けるために、猫鬼と対峙したのだとか。あまり、面白くはない。
「頼むって言っても、あっちはあっちで一応プロだし。まあ、友達の頼みは断らないと思うけど」
「ただでとは言わないよ。きちんと報酬を用意しないと後で、何言われるか分からないからね。ただ、表向きはお客さんとして入ったら、たまたま幽霊と遭遇したので、善意で除霊しましたって体にしてほしいだけ」
「それはそれでどうなの……?」
そもそも幽霊がいるかどうかも定かではないのだ。お化け屋敷に入ったとして、何も出てこないという確率のほうがむしろ高い。
実際、千咲はまだ幽霊の存在を自分で掴んではいないのだ。
「それに、今ブルエリ入れないじゃん。今月末までリニューアル休業中じゃないの?」
と、麻夜が指摘する。
ブルエリは夏休みの行楽シーズンを目がけて、昨年の十二月から休業していた。クリスマスのテロもあって、作業が遅れ、六月のオープンが八月にずれ込んでいた。
「プレオープンのチケットだって、抽選なわけだし」
「それくらい、わたしで何とかするよ。お化け屋敷のスタッフってことにすれば、関係者扱いにできるもん」
「そういう抜け道か」
確かに、客として行こうとすればハードルが高いが、スタッフならば問題はないわけだ。
「じゃあ、零菜ともう一人と、枠は二人分……」
「ちょっと待って、一人忘れてない?」
麻夜が話に割り込む。
「この流れでわたしを置いてけぼりにする?」
「いや、お姫様二人を動員するのは、さすがに話が大きくなりすぎるかと」
「いやいや、適材適所だよ。わたしは、零菜よりも呪い系には詳しいよ? 後始末まで考えたら、そういう要員は必要じゃない? ほんとに幽霊がいるんならさ」
「そういうものなの?」
呪術関係の専門知識がない千咲は、首を捻る。この手の話は専門性だけでなく生まれついての才能も関わる話で、関係ない者にとってはまったく理解できないブラックボックスだ。
「呪い系なら、確かにそうだね。本当なら、麻夜ちゃんがいてくれたほうが心強いけど」
「本当じゃなかったら、御の字なんだよ。遊んで帰ってくれればいいから。ほんとだったら、ほんとに困るの」
好き好んで、幽霊と一緒に仕事をしたい物好きなスタッフはそうそういない。客もまた然りだ。本物の幽霊がいないのなら、それに越したことはないというのが経営側の判断で、それを客観的に証明して欲しい。客側に示すかどうかは、広報の腕の見せ所ではあるが、状況を正しく把握するというのは大前提なのだ。
「分かった。そっちの要望はできるだけ通るようにするから、軽く見るだけでいいからよろしくお願い」
拝むように手を擦り合わせる千咲に零菜と麻夜は苦笑するしかなかった。